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第40話:君の老いた親を、見守った
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妻・美咲が、そっと僕に言った。
「両親が、もう、ダメかもしれません」
その言葉に、僕は何も言えなかった。その時点で、もう全てが決まっているような、そんな静寂が訪れた。
美咲の両親は、北陸にいた。
金沢の、山並みを背に した、古い町家。その中で、義父と義母は、ずっと二人で暮らしていた。
義父は、八十五歳。義母は、八十二歳。
つい一年前まで、義父は近所の公園を毎日散歩していたと聞いた。だが、最近、その散歩は途絶えた。
義父の足が、弱まったのだ。
毎週末、美咲は両親に会いに行くようになった。
金沢へは、新幹線で三時間。往復六時間の移動。それでも、彼女は毎週、そこへ向かった。
最初、僕は同行を躊躇していた。嫁ぎ先の両親との関係は、微妙なものだからだ。だが、何度か一緒に行くうちに、その躊躇は消えた。
義母の家。
廊下には、古い風格が漂っていた。框の段差。薄い畳。そこに、時間の厚みが感じられた。
最初の訪問の時、義父は寝室で横になっていた。医者の指示で、ほぼ寝たきりに近い状態だという。
「いらっしゃった」
義父が、か細い声で言った。
僕は、その声に、戸惑った。かつて、神社の宮司をしていたという義父。何度か会ったことはあるが、その時の義父は、背筋の伸びた、厳格な人物だった。
今の義父は、その面影を、かすかに留めているだけだった。
義母は、毎回、同じことを言った。
「いつも、美咲をありがとうございます」
「いえ。当たり前です」
その会話を、何度も、何度も繰り返した。
だが、何度目かの訪問の時、义母が、違うことを言った。
「あなたも、疲れて いるんでしょう?」
その言葉に、僕の心が、揺れた。
「いえ。大丈夫です」
「でも、毎週、こんなに遠い所まで。来てくれてるんでしょう」
その時、初めて、義母が、僕を「人間」として見たような気がした。
季節が、秋から冬へ向かった。
義父の容体は、急速に悪くなっていった。
ある週末、僕たちが金沢に着いた時、義父はもう、返事をしなくなっていた。
寝室に入ると、義父は、静かに呼吸をしているだけだった。
美咲は、父の手を握った。涙は出ていない。ただ、愛する者の最後の時間を、静かに見つめていた。
僕は、妻の背中に手を置いた。言葉は不要だった。
そこから、一週間。
毎日、僕と美咲は金沢にいた。
仕事は休んだ。子どもたちは、両親に預けた。
義父の最後の時間に、ずっと付き添った。
義母は、毎日、夫の手を握り、何も言わないで、ただそこにいた。その姿を見ていると、愛とは、言葉ではなく、一緒にいることなんだな、と痛感した。
死は、静かに訪れた。
朝の五時。義父は、その時間に、静かに目を閉じた。
医者は、「苦しまなかった。良かった」と言った。
だが、僕たちにとって、その言葉は、何の慰めにもならなかった。
葬儀の後。
義母は、僕たちに言った。
「あなたたちが、毎週来てくれたおかげで、主人は、最後の時間を安心して過ごせたと思います」
その言葉に、僕は、初めて、自分たちが何をしていたのか、理解した。
毎週の訪問。毎週の時間。その小さな積み重ねが、義父にとって、何にも代えがたい、人生最後の支えになっていたのだ。
その後、義母は、僕たちと一緒に暮らすことにした。
京都の家の一角に、義母の部屋を作った。
今でも、毎晩、義母は、僕と美咲の隣で、静かに過ごしている。
時々、彼女は窓を見つめて、つぶやく。
「金沢が、恋しい」
その時、僕は、妻の手を握る。
彼女も、父をなくした悲しみを感じている。だが、その悲しみの中にも、一緒にいてくれる人がいるという安心感が、彼女を支えているのだと思う。
人生は、相手を見守ることから、始まる。
義父を見守ったその時間が、僕たちの関係を、より深いものにしたのだ。
「両親が、もう、ダメかもしれません」
その言葉に、僕は何も言えなかった。その時点で、もう全てが決まっているような、そんな静寂が訪れた。
美咲の両親は、北陸にいた。
金沢の、山並みを背に した、古い町家。その中で、義父と義母は、ずっと二人で暮らしていた。
義父は、八十五歳。義母は、八十二歳。
つい一年前まで、義父は近所の公園を毎日散歩していたと聞いた。だが、最近、その散歩は途絶えた。
義父の足が、弱まったのだ。
毎週末、美咲は両親に会いに行くようになった。
金沢へは、新幹線で三時間。往復六時間の移動。それでも、彼女は毎週、そこへ向かった。
最初、僕は同行を躊躇していた。嫁ぎ先の両親との関係は、微妙なものだからだ。だが、何度か一緒に行くうちに、その躊躇は消えた。
義母の家。
廊下には、古い風格が漂っていた。框の段差。薄い畳。そこに、時間の厚みが感じられた。
最初の訪問の時、義父は寝室で横になっていた。医者の指示で、ほぼ寝たきりに近い状態だという。
「いらっしゃった」
義父が、か細い声で言った。
僕は、その声に、戸惑った。かつて、神社の宮司をしていたという義父。何度か会ったことはあるが、その時の義父は、背筋の伸びた、厳格な人物だった。
今の義父は、その面影を、かすかに留めているだけだった。
義母は、毎回、同じことを言った。
「いつも、美咲をありがとうございます」
「いえ。当たり前です」
その会話を、何度も、何度も繰り返した。
だが、何度目かの訪問の時、义母が、違うことを言った。
「あなたも、疲れて いるんでしょう?」
その言葉に、僕の心が、揺れた。
「いえ。大丈夫です」
「でも、毎週、こんなに遠い所まで。来てくれてるんでしょう」
その時、初めて、義母が、僕を「人間」として見たような気がした。
季節が、秋から冬へ向かった。
義父の容体は、急速に悪くなっていった。
ある週末、僕たちが金沢に着いた時、義父はもう、返事をしなくなっていた。
寝室に入ると、義父は、静かに呼吸をしているだけだった。
美咲は、父の手を握った。涙は出ていない。ただ、愛する者の最後の時間を、静かに見つめていた。
僕は、妻の背中に手を置いた。言葉は不要だった。
そこから、一週間。
毎日、僕と美咲は金沢にいた。
仕事は休んだ。子どもたちは、両親に預けた。
義父の最後の時間に、ずっと付き添った。
義母は、毎日、夫の手を握り、何も言わないで、ただそこにいた。その姿を見ていると、愛とは、言葉ではなく、一緒にいることなんだな、と痛感した。
死は、静かに訪れた。
朝の五時。義父は、その時間に、静かに目を閉じた。
医者は、「苦しまなかった。良かった」と言った。
だが、僕たちにとって、その言葉は、何の慰めにもならなかった。
葬儀の後。
義母は、僕たちに言った。
「あなたたちが、毎週来てくれたおかげで、主人は、最後の時間を安心して過ごせたと思います」
その言葉に、僕は、初めて、自分たちが何をしていたのか、理解した。
毎週の訪問。毎週の時間。その小さな積み重ねが、義父にとって、何にも代えがたい、人生最後の支えになっていたのだ。
その後、義母は、僕たちと一緒に暮らすことにした。
京都の家の一角に、義母の部屋を作った。
今でも、毎晩、義母は、僕と美咲の隣で、静かに過ごしている。
時々、彼女は窓を見つめて、つぶやく。
「金沢が、恋しい」
その時、僕は、妻の手を握る。
彼女も、父をなくした悲しみを感じている。だが、その悲しみの中にも、一緒にいてくれる人がいるという安心感が、彼女を支えているのだと思う。
人生は、相手を見守ることから、始まる。
義父を見守ったその時間が、僕たちの関係を、より深いものにしたのだ。
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