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第8話 空白の14日間
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違和感の正体が少しずつ見えてきた。
栞の語る「理想の過去」と、俺の証拠が示す「残念な現実」。
そのズレが、俺の記憶喪失のトリガーなんじゃないか?
そう思い始めた矢先だった。
俺は放課後、一人で心療内科を訪れた。
自分がなぜ記憶を失ったのか、医学的な見地から知りたかったからだ。
受付で保険証を出し、問診票に記入する。
診察室に呼ばれる。
「……解離性健忘、の可能性が高いですね」
初老の医師は、淡々と言った。
「強いストレスや、精神的な葛藤から逃れるために、脳が一時的に記憶をシャットダウンすることがあります」
「ストレス……ですか?」
「ええ。例えば、理想の自分を演じ続けることに疲れたり、現実とのギャップに耐えられなくなったり……心当たりはありませんか?」
ありすぎる。
俺はこの一ヶ月、栞という「高嶺の花」の彼氏として、必死に背伸びをし続けてきた。
身長を盛り、味覚を偽り、カッコつけて失敗し、怪我を隠し……。
その蓄積(ストレス)が、俺の脳のキャパシティを超えた。
パンクしたんだ。
「理想の彼氏」という重圧に潰されて。
「……なるほど。腑に落ちました」
俺は乾いた笑い声を漏らした。
ダサい。ダサすぎる。
彼女を守れなかったショックとか、悲劇的な事故とかじゃない。
ただの「彼氏失格」の自己防衛本能だなんて。
病院を出て、カレンダーを見る。
今日は九月一日。
俺の記憶が戻っているのは、今日の「屋上」のシーンからだ。
そして、記憶がないのは八月後半から今日までの約二週間。
いや、正確には「付き合い始めてからの一ヶ月すべて」が曖昧だが、特にこの「最後の14日間」は、栞の話にも出てきていない。
栞の話は、第10話(不良事件・八月中旬)までで止まっている。
第11話と、第12話。
そして、今日の「最終回」に至るまでの空白。
この14日間に、何があった?
俺が記憶を消したくなるほどの「決定的な何か」が。
俺はスマホを取り出し、栞に電話をかけた。
プルルル、という呼び出し音が長く感じる。
「……もしもし、夏月くん?」
栞の声。少し驚いているようだ。
「雪野さん。……今から会えないか?」
「えっ、今から? もう遅いよ?」
「大事な話があるんだ。……俺たちの『第11話』の話を」
電話の向こうで、息を呑む気配がした。
沈黙。
そして、消え入りそうな声で返事があった。
「……わかった。いつもの屋上で」
✎ܚ
夜の屋上。
街の明かりが遠くに見える。
栞はフェンスに寄りかかって待っていた。
いつもの笑顔はない。
どこか覚悟を決めたような、張り詰めた表情だった。
「ごめんね、呼び出して」
「ううん。……いつか、聞かれると思ってた」
栞は力なく笑う。
「俺、病院に行ってきたよ。診断名は『解離性健忘』。ストレスで記憶が飛んだらしい」
「ストレス……」
「ああ。『理想の彼氏』を演じるのに疲れて、逃げ出したんだ。俺は」
俺は自嘲する。
「情けないよな。雪野さんは俺のこと、あんなに素敵に語ってくれてるのに。現実は、嘘と見栄で塗り固められたハリボテだったんだ」
「そんなことない!」
栞が叫ぶ。
「夏月くんは頑張ってた! 私のために、無理してでもカッコよくあろうとしてくれてた! それが嬉しかったの!」
「でも、それは『本当の俺』じゃないだろ!」
俺も声を荒げる。
「俺は、お前が思うようなヒーローじゃない。卵焼きは甘いよりしょっぱいのが好きだし、ジェットコースターは怖いし、不良には勝てないし、……お前に釣り合うような男じゃないんだよ!」
言ってしまった。
ずっと胸につかえていた本音。
これを言えば、俺たちの関係は終わるかもしれない。
「理想」が崩れれば、恋も冷めるかもしれない。
でも、もう嘘のまま進むのは限界だった。
栞は静かに涙を流していた。
そして、震える声で言った。
「……知ってるよ」
「え?」
「知ってたよ。夏月くんが無理してること。卵焼きもしょっぱいのが好きなこと……全部、知ってた」
俺は呆然とした。
知っていた?
じゃあ、なんで? なんであんな「理想の物語」を語り聞かせたんだ?
「……どうして」
「怖かったから」
ポツリと、彼女が呟く。
「夏月くんが『自分がダメだ』って思い詰めて、私の前から消えちゃうのが怖かったから。だから、夏月くんが自信を持てるように、私たちの思い出を『成功した物語』に書き換えたの。……そうすれば、夏月くんも自分のことを好きになってくれると思ったから」
それは、あまりにも不器用で、歪んだ愛だった。
俺のために嘘をつき、俺のために事実を捻じ曲げ。
結果として、それが俺を追い詰め、記憶喪失にまで追い込んでしまった。
「……バカだな、お互いに」
俺は空を見上げた。
星が見えない。東京の空は明るすぎる。
文化祭。
井上が言っていた「大事件」。
そして、この空白の14日間。
そこに、俺たちが決裂し、そして記憶を失うに至った「真相」があるはずだ。
「雪野さん。教えてくれ」
俺は彼女に向き直った。
「文化祭で、何があった? 第11話と第12話。……『本当の物語』を聞かせてくれ」
栞は涙を拭い、深く息を吸い込んだ。
「……うん。話すね。美化しない、ありのままの私たちの話を」
こうして、リプレイモードは終了した。
ここからは、修正の効かない、生々しいドキュメンタリーが始まる。
(つづく)
栞の語る「理想の過去」と、俺の証拠が示す「残念な現実」。
そのズレが、俺の記憶喪失のトリガーなんじゃないか?
そう思い始めた矢先だった。
俺は放課後、一人で心療内科を訪れた。
自分がなぜ記憶を失ったのか、医学的な見地から知りたかったからだ。
受付で保険証を出し、問診票に記入する。
診察室に呼ばれる。
「……解離性健忘、の可能性が高いですね」
初老の医師は、淡々と言った。
「強いストレスや、精神的な葛藤から逃れるために、脳が一時的に記憶をシャットダウンすることがあります」
「ストレス……ですか?」
「ええ。例えば、理想の自分を演じ続けることに疲れたり、現実とのギャップに耐えられなくなったり……心当たりはありませんか?」
ありすぎる。
俺はこの一ヶ月、栞という「高嶺の花」の彼氏として、必死に背伸びをし続けてきた。
身長を盛り、味覚を偽り、カッコつけて失敗し、怪我を隠し……。
その蓄積(ストレス)が、俺の脳のキャパシティを超えた。
パンクしたんだ。
「理想の彼氏」という重圧に潰されて。
「……なるほど。腑に落ちました」
俺は乾いた笑い声を漏らした。
ダサい。ダサすぎる。
彼女を守れなかったショックとか、悲劇的な事故とかじゃない。
ただの「彼氏失格」の自己防衛本能だなんて。
病院を出て、カレンダーを見る。
今日は九月一日。
俺の記憶が戻っているのは、今日の「屋上」のシーンからだ。
そして、記憶がないのは八月後半から今日までの約二週間。
いや、正確には「付き合い始めてからの一ヶ月すべて」が曖昧だが、特にこの「最後の14日間」は、栞の話にも出てきていない。
栞の話は、第10話(不良事件・八月中旬)までで止まっている。
第11話と、第12話。
そして、今日の「最終回」に至るまでの空白。
この14日間に、何があった?
俺が記憶を消したくなるほどの「決定的な何か」が。
俺はスマホを取り出し、栞に電話をかけた。
プルルル、という呼び出し音が長く感じる。
「……もしもし、夏月くん?」
栞の声。少し驚いているようだ。
「雪野さん。……今から会えないか?」
「えっ、今から? もう遅いよ?」
「大事な話があるんだ。……俺たちの『第11話』の話を」
電話の向こうで、息を呑む気配がした。
沈黙。
そして、消え入りそうな声で返事があった。
「……わかった。いつもの屋上で」
✎ܚ
夜の屋上。
街の明かりが遠くに見える。
栞はフェンスに寄りかかって待っていた。
いつもの笑顔はない。
どこか覚悟を決めたような、張り詰めた表情だった。
「ごめんね、呼び出して」
「ううん。……いつか、聞かれると思ってた」
栞は力なく笑う。
「俺、病院に行ってきたよ。診断名は『解離性健忘』。ストレスで記憶が飛んだらしい」
「ストレス……」
「ああ。『理想の彼氏』を演じるのに疲れて、逃げ出したんだ。俺は」
俺は自嘲する。
「情けないよな。雪野さんは俺のこと、あんなに素敵に語ってくれてるのに。現実は、嘘と見栄で塗り固められたハリボテだったんだ」
「そんなことない!」
栞が叫ぶ。
「夏月くんは頑張ってた! 私のために、無理してでもカッコよくあろうとしてくれてた! それが嬉しかったの!」
「でも、それは『本当の俺』じゃないだろ!」
俺も声を荒げる。
「俺は、お前が思うようなヒーローじゃない。卵焼きは甘いよりしょっぱいのが好きだし、ジェットコースターは怖いし、不良には勝てないし、……お前に釣り合うような男じゃないんだよ!」
言ってしまった。
ずっと胸につかえていた本音。
これを言えば、俺たちの関係は終わるかもしれない。
「理想」が崩れれば、恋も冷めるかもしれない。
でも、もう嘘のまま進むのは限界だった。
栞は静かに涙を流していた。
そして、震える声で言った。
「……知ってるよ」
「え?」
「知ってたよ。夏月くんが無理してること。卵焼きもしょっぱいのが好きなこと……全部、知ってた」
俺は呆然とした。
知っていた?
じゃあ、なんで? なんであんな「理想の物語」を語り聞かせたんだ?
「……どうして」
「怖かったから」
ポツリと、彼女が呟く。
「夏月くんが『自分がダメだ』って思い詰めて、私の前から消えちゃうのが怖かったから。だから、夏月くんが自信を持てるように、私たちの思い出を『成功した物語』に書き換えたの。……そうすれば、夏月くんも自分のことを好きになってくれると思ったから」
それは、あまりにも不器用で、歪んだ愛だった。
俺のために嘘をつき、俺のために事実を捻じ曲げ。
結果として、それが俺を追い詰め、記憶喪失にまで追い込んでしまった。
「……バカだな、お互いに」
俺は空を見上げた。
星が見えない。東京の空は明るすぎる。
文化祭。
井上が言っていた「大事件」。
そして、この空白の14日間。
そこに、俺たちが決裂し、そして記憶を失うに至った「真相」があるはずだ。
「雪野さん。教えてくれ」
俺は彼女に向き直った。
「文化祭で、何があった? 第11話と第12話。……『本当の物語』を聞かせてくれ」
栞は涙を拭い、深く息を吸い込んだ。
「……うん。話すね。美化しない、ありのままの私たちの話を」
こうして、リプレイモードは終了した。
ここからは、修正の効かない、生々しいドキュメンタリーが始まる。
(つづく)
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