【短編集】バレンタイン・ノワール ~ハッピーエンドは売り切れました~

月下花音

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第1章:大人の苦味(働く女性のリアル)

#3:チョコレートは溶けても、想いは残る Ep.02

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「おー、悪い悪い。待った?」
 19時10分。
 先輩はいつものように、少し遅れてやってきた。
「ううん、全然」
 15分前から待ってましたけどね。
 そんなことは口が裂けても言わない。私の「安い女」っぷりが露呈するから。

 店は、いつもの居酒屋だった。
 おしゃれなイタリアンでも、夜景の見えるバーでもない。
 赤提灯が揺れる、焼き鳥の煙が充満した店。
 私たちの関係には、ここがお似合いってことか。
 コートに匂いがつくのを気にしながら、丸椅子に座る。

「とりあえず生2つ」
 先輩が慣れた様子で注文する。
 スーツの袖を捲る仕草。
 血管が浮き出た腕。
 悔しいけど、かっこいいと思ってしまう。
 10年見続けても飽きない顔。
 私のこの執着心、何かに利用できないかな。仕事とか。

「でさ、こないだのプロジェクトがさー」
 乾杯もそこそこに、先輩の話が始まる。
 仕事の愚痴。上司の悪口。
 私は「へー」「すごいですね」「大変ですね」と相槌を打つマシーンになる。
 これだ。
 この、なんでも受け止めてくれるサンドバッグ的なポジション。
 これが私の今の立ち位置。

 カバンの中のチョコが、熱を帯びている気がする。
 いつ渡そう。
 タイミングがない。
 焼き鳥を食べ、ビールをおかわりし、話が途切れた瞬間を狙う。
 今だ。

「……あの、これ」

 私は紙袋をテーブルの上に置いた。
 焼き鳥のタレがつかないように、慎重に。
「ん? なにこれ」
「バレンタイン、なので」
 声が上ずった。
 可愛くない声。

 先輩は「おー!」と目を丸くした。
「マジで? ありがとう! 義理チョコでも嬉しいわー」

 ……義理。
 その言葉が棘のように刺さる。
「いや、あの……義理っていうか」
 3800円だぞ。
 私の残業代だぞ。
 そして何より、私の10年分の魂だぞ。

 思い切って、言った。
「本命、です」

 店内がうるさくて助かった。
 もし静かな店だったら、自分の心音で鼓膜が破れてたかもしれない。
 先輩の動きが止まる。
 ジョッキを持つ手が空中で静止する。

「え?」
「だから、本命。……好きなんです、ずっと前から」

 言った。
 言ってしまった。
 もう後戻りできない。
 10年の片想いが、今、テーブルの上にさらけ出された。
 焼き鳥の串と一緒に。

 沈黙。
 永遠にも思える数秒間。
 店員の「ハイボール一丁!」という元気な声が、場違いに響く。

 先輩は、困ったように眉を下げた。
 そして、ゆっくりと口を開いた。
 その表情を見た瞬間、答えがわかってしまった。
 ああ、聞きたくない。
 耳を塞ぎたい。

「……ありがとう。すげー嬉しい」
 前置きの優しさ。
 これが一番残酷だ。
「でもさ、俺、お前のこと……妹みたいに思ってるから」

 出た。
 妹。
 世界で一番、恋愛対象から遠い言葉。
 友達ならまだいい。性別の壁を超えられる可能性があるから。
 でも、妹は無理だ。
 近親相姦になっちゃうもんね。
 血は繋がってないけど、心理的な近親相姦。

「ずっと後輩っていうか、可愛がってる妹分っていうか……そういう対象としてしか見れないんだわ。ごめんな」

 先輩が申し訳なさそうに頭を下げる。
 やめてよ。
 謝らないでよ。
 私が勝手に好きになって、勝手に告白して、勝手に振られただけなんだから。
 先輩は何も悪くない。
 悪いのは、30過ぎて「妹」なんてポジションに甘んじていた、私の幼さだ。

「……そっか。ですよねー! あはは!」

 笑った。
 反射的に笑っていた。
 私の顔の筋肉、優秀すぎる。
 心と完全に切り離されて動いてる。

「いやー、言ってみただけです! 最近恋してないなーと思って! リハビリリハビリ!」
 嘘が出るわ出るわ。
 自分でも引くくらいの早口で、傷口を隠蔽していく。

「なんだよそれー! ビビらせんなよお前」
 先輩がホッとしたように笑う。
 その安堵の表情を見て、私は完全に死んだ。
 ああ、この人は本当に、私のことを失いたくないんだ。
「都合のいい妹」として。

(つづく)
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