【短編集】バレンタイン・ノワール ~ハッピーエンドは売り切れました~

月下花音

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第1章:大人の苦味(働く女性のリアル)

#3:チョコレートは溶けても、想いは残る Ep.04

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 翌朝。
 目は腫れてなかった。
 昨日の夜、結局泣かなかったからだ。
 偉いぞ、私。
 社会人としての防衛本能が、感情よりも優先された結果だ。

 いつものメイク、いつものオフィスカジュアル。
 満員電車に揺られて会社へ向かう。
 世界は昨日と何も変わっていない。
 ただ、私の中に巨大な空洞ができただけ。

 午前中、仕事に没頭した。
 エクセルのマス目を埋める作業は、無になれるから好きだ。
 思考停止万歳。

 昼休み。
 スマホを見ると、先輩からLINEが来ていた。
 心臓が跳ねる。
『昨日はサンキュな。チョコうまかったわ』

 ……食べたんだ。
 うまかった、か。
 よかったね。
 3800円の味がわかったかな。
「妹」からの貢物を食べて、精がつきましたか。

『よかったです! お返し期待してます笑』
 軽快な返信。
「笑」をつけるのがポイント。
 重くないですよ、引きずってないですよアピール。
 画面の向こうの私は、能面みたいな顔をしてるけどね。

 午後、トイレの鏡で自分の顔を見た。
 笑えてる。
 完璧な営業スマイルだ。
 口角の上がり具合も、目尻のシワの寄せ方も、マニュアル通り。
 誰も気づかない。
 私が昨日、10年の恋を失ったなんて。

「佐藤さーん、これお願いしていい?」
 上司に資料を渡される。
「はい、喜んで!」
 元気よく答える。

 私、女優になれるんじゃない?
 こんなに心が死んでるのに、体は生きてるふりをしてる。
 いっそ、「失恋して辛いんで早退します」って言えたら楽なのに。
 言えるわけない。
 大人の失恋は、あくまでプライベートな事故だ。
 業務に支障をきたしてはいけない。

 夕方、給湯室でコーヒーを入れていると、同期のマミが入ってきた。
「あれ、佐藤さんなんか元気ない?」
 ドキッとした。
「え、そう? 全然普通だけど」
「なんか背中が小さかったよ。疲れてる?」

 マミは鋭い。
 こういう時、変に優しい友人ほど厄介だ。
 ここで「実はさ……」って話したら、きっと楽になる。
 でも、話したら崩れる気がした。
 言葉にした瞬間、昨日の出来事が「現実」として確定してしまう。

「いやー、実は昨日飲みすぎちゃってさー。二日酔いかも」
「またー? ほどほどにしなよー」
 マミが笑う。
 私も笑う。

 二日酔い。
 便利な言葉だ。
 心の痛みを、体の不調にすり替える。
 本当は、アルコールなんてとっくに抜けてる。
 残っているのは、消化しきれない想いの残骸だけ。

 定時。
 会社を出る。
 昨日と同じ帰り道。
 でも、昨日のような期待感はもうない。
 あるのは、これから一人で家に帰り、一人でご飯を食べ、一人で寝るという、変わり映えのしない未来への絶望感だけ。

 スーパーに寄る。
 半額になったお惣菜のカキフライを買う。
 これが私の晩御飯。
 3800円のチョコをあげた男は、今頃どこで何をしてるんだろう。
 私のことなんて、もう1ミリも考えてないんだろうな。

「……バカみたい」

 レジ袋の重さが、腕に食い込む。
 カキフライの油の匂いが、空腹なのに食欲を削ぐ。
 早く帰ろう。
 帰って、泥のように眠ろう。
 今日という一日をやり過ごした自分を、誰にも褒められないから、自分で褒めてやるしかない。

(つづく)
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