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2・白虎への反抗
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環はあの日の庭に、再び彼の姿を見つけた。
環の父の遠縁にあたる親族が管理する古美術品の商談。
それが、悠人がこの屋敷を訪れるための表向きの理由。
しかし、その実、環と話すためだけの方便であることは明らかだった。
祖母にも、他の誰にも知られてはならない秘密の逢瀬。
白虎を思わせる、しなやかでいて力強い気配。悠人がどれほど人の目を惹きつける存在か、環は知っている。
そんな彼が自分のような者に会いに来ていると知れたら、親族たちの嫉妬の刃がどちらに向くかなど、考えるまでもない。
それでも彼は来る。全てを承知の上で狩人のような、それでいて飼い主に愛玩をねだる犬のように微笑む男の底知れなさに、環は思わず訝しむような目を向けてしまう。
「……来る必要など、なかったでしょうに」
夕刻の湿った空気の中、環は今日も雨の気配をまとって現れた悠人に、冷たい声を絞り出した。心臓だけが、主の意思に反して激しく脈打っている。
彼から目を逸らすのは、この想いを悟られまいとする、最後の抵抗だった。
「君と約束したはずだ。僕は逃げないと」
悠人はどこまでも穏やかな声で言った。その声には上位者の絶対的な自信が滲んでいた。
「君が僕を遠ざけるのは、『庶子』という事に負い目を感じ囚われているからだろう? でも僕はそんなことどうでもいい。その君が気にしているくだらない呪いごと、君を僕のものにするんだ。 そのために、僕はここにいる」
環は驚愕に顔を上げた。
この人は、自分のどうしようもなく卑しい出自も、それによって歪んでしまった心さえも、全て受け止めると言うのだろうか。
問い質したい衝動を、環は寸でのところで飲み込んだ。
「あなたは……本当に恐ろしい方です」
環の声は震えていた。彼の愛の深さが、環が必死に築き上げた理性の壁を、いとも容易く崩してしまいそうだったから。
「恐ろしいのは、美しい君を蕾のままこの場所で枯らそうとしている、この家の方だ」
悠人は静かに、しかしきっぱりと断言した。
「君を縛るものが、その身分だというのなら、それは君自身が作り出した幻想に過ぎない。僕は何度でも言うよ。そんな幻を理由に、君を諦めはしない」
身分さえも幻想だと断言できる悠人の強さに、一瞬、魂が救われるような安堵を覚えた。
だが同時に、自分がこれまで耐え忍んできた苦しみを、血を流し続けてきた痛みを、「幻想」の一言で片付けられた気がして、心の底から冷たいものがせり上がってくる。
「……幻想、ですって?」
環は、自分でも驚くほど棘のある声で、彼を見据えた。
「あなたにはそう見えるのでしょうね。欲しいものは何でも手に入れてこられた、あなたのような方には。ですが、これは私の現実です。この足枷は、私の人生そのものなのです。それを……それを幻想だと、あなたにだけは言われたくなかった」
その言葉は、環の心の最も深い場所――彼女の自己否定が作り上げた壁を、容赦なく抉った。
痛みが走る。
ただそれと同時にその痛みの奥に、何故か温かいものが湧き上がる。
そんな涙が滲む視界の中で、悠人がわずかに目を見開くのが見えた。
環の涙と、初めて剥き出しになった反発の色を見て、悠人は一瞬驚いた後、すぐに恍惚とした表情で微笑んだ。
その瞳には、彼女の苦痛が自身の愛を証明したことへの、病的な歓びが浮かんでいる。
「……そうか。君は、そんなに傷ついていたんだね」
彼はそう囁くと、静かに手を伸ばし、環の頬を伝う一筋の涙を、優しく、慈しむように指でそっとすくい取った。
「っ……!」
環は反射的に身を引こうとするが、それを予想していたかのように、空いたもう片方の腕を掴まれ、逃れられない。
彼の手に捕らえられた皮膚が、焼けるように熱い。
悠人は、環の目の前で、涙がついた自らの指先をゆっくりと口元に運び、舌の先で舐めとった。
その動作は、あまりにも優雅で、あまりにも背徳的だった。
「……しょっぱい」
彼は、まるで極上のワインを味わうように、甘く目を細めた。
「君の苦しみは、甘いだけじゃないんだね。でも、それもまた、たまらなく愛おしい」
環は、自分の心の最も暗い部分、これまで誰にも見せなかった苦しみの結晶を、彼に「味わわれた」ことに、言葉にできない恐怖と気持ち悪さ、それでいてこれまで感じたことのない背徳的な羞恥を覚えた。
(この人は、私の痛みを……味わってる)
そう気づいた瞬間、羞恥に顔が熱くなる。
環はまるで心を丸裸にされ、見られているような気分だった。
彼にとっては、私の拒絶も、涙も、苦痛も、全てが愛という名の供物なのだと悟った。
「君の現実、その足枷。全てを受け入れて、僕が溶かしてあげる」
悠人はそう言うと、涙の塩気が残る指で、今度は環の唇をそっと撫でた。
そのまま彼の顔が近づき、抵抗する間もなく唇が塞がれる。
こじ開けられるようにして侵入してきた舌が、唾液と共に支配的な愛を注ぎ込みながらくちゅりと、生々しい音が立つ。
それは幼い頃の触れるだけの口づけとは違う、すべてを奪い尽くし、彼の色に染め変えようとする、熱に浮かされたような接吻だった。
環の父の遠縁にあたる親族が管理する古美術品の商談。
それが、悠人がこの屋敷を訪れるための表向きの理由。
しかし、その実、環と話すためだけの方便であることは明らかだった。
祖母にも、他の誰にも知られてはならない秘密の逢瀬。
白虎を思わせる、しなやかでいて力強い気配。悠人がどれほど人の目を惹きつける存在か、環は知っている。
そんな彼が自分のような者に会いに来ていると知れたら、親族たちの嫉妬の刃がどちらに向くかなど、考えるまでもない。
それでも彼は来る。全てを承知の上で狩人のような、それでいて飼い主に愛玩をねだる犬のように微笑む男の底知れなさに、環は思わず訝しむような目を向けてしまう。
「……来る必要など、なかったでしょうに」
夕刻の湿った空気の中、環は今日も雨の気配をまとって現れた悠人に、冷たい声を絞り出した。心臓だけが、主の意思に反して激しく脈打っている。
彼から目を逸らすのは、この想いを悟られまいとする、最後の抵抗だった。
「君と約束したはずだ。僕は逃げないと」
悠人はどこまでも穏やかな声で言った。その声には上位者の絶対的な自信が滲んでいた。
「君が僕を遠ざけるのは、『庶子』という事に負い目を感じ囚われているからだろう? でも僕はそんなことどうでもいい。その君が気にしているくだらない呪いごと、君を僕のものにするんだ。 そのために、僕はここにいる」
環は驚愕に顔を上げた。
この人は、自分のどうしようもなく卑しい出自も、それによって歪んでしまった心さえも、全て受け止めると言うのだろうか。
問い質したい衝動を、環は寸でのところで飲み込んだ。
「あなたは……本当に恐ろしい方です」
環の声は震えていた。彼の愛の深さが、環が必死に築き上げた理性の壁を、いとも容易く崩してしまいそうだったから。
「恐ろしいのは、美しい君を蕾のままこの場所で枯らそうとしている、この家の方だ」
悠人は静かに、しかしきっぱりと断言した。
「君を縛るものが、その身分だというのなら、それは君自身が作り出した幻想に過ぎない。僕は何度でも言うよ。そんな幻を理由に、君を諦めはしない」
身分さえも幻想だと断言できる悠人の強さに、一瞬、魂が救われるような安堵を覚えた。
だが同時に、自分がこれまで耐え忍んできた苦しみを、血を流し続けてきた痛みを、「幻想」の一言で片付けられた気がして、心の底から冷たいものがせり上がってくる。
「……幻想、ですって?」
環は、自分でも驚くほど棘のある声で、彼を見据えた。
「あなたにはそう見えるのでしょうね。欲しいものは何でも手に入れてこられた、あなたのような方には。ですが、これは私の現実です。この足枷は、私の人生そのものなのです。それを……それを幻想だと、あなたにだけは言われたくなかった」
その言葉は、環の心の最も深い場所――彼女の自己否定が作り上げた壁を、容赦なく抉った。
痛みが走る。
ただそれと同時にその痛みの奥に、何故か温かいものが湧き上がる。
そんな涙が滲む視界の中で、悠人がわずかに目を見開くのが見えた。
環の涙と、初めて剥き出しになった反発の色を見て、悠人は一瞬驚いた後、すぐに恍惚とした表情で微笑んだ。
その瞳には、彼女の苦痛が自身の愛を証明したことへの、病的な歓びが浮かんでいる。
「……そうか。君は、そんなに傷ついていたんだね」
彼はそう囁くと、静かに手を伸ばし、環の頬を伝う一筋の涙を、優しく、慈しむように指でそっとすくい取った。
「っ……!」
環は反射的に身を引こうとするが、それを予想していたかのように、空いたもう片方の腕を掴まれ、逃れられない。
彼の手に捕らえられた皮膚が、焼けるように熱い。
悠人は、環の目の前で、涙がついた自らの指先をゆっくりと口元に運び、舌の先で舐めとった。
その動作は、あまりにも優雅で、あまりにも背徳的だった。
「……しょっぱい」
彼は、まるで極上のワインを味わうように、甘く目を細めた。
「君の苦しみは、甘いだけじゃないんだね。でも、それもまた、たまらなく愛おしい」
環は、自分の心の最も暗い部分、これまで誰にも見せなかった苦しみの結晶を、彼に「味わわれた」ことに、言葉にできない恐怖と気持ち悪さ、それでいてこれまで感じたことのない背徳的な羞恥を覚えた。
(この人は、私の痛みを……味わってる)
そう気づいた瞬間、羞恥に顔が熱くなる。
環はまるで心を丸裸にされ、見られているような気分だった。
彼にとっては、私の拒絶も、涙も、苦痛も、全てが愛という名の供物なのだと悟った。
「君の現実、その足枷。全てを受け入れて、僕が溶かしてあげる」
悠人はそう言うと、涙の塩気が残る指で、今度は環の唇をそっと撫でた。
そのまま彼の顔が近づき、抵抗する間もなく唇が塞がれる。
こじ開けられるようにして侵入してきた舌が、唾液と共に支配的な愛を注ぎ込みながらくちゅりと、生々しい音が立つ。
それは幼い頃の触れるだけの口づけとは違う、すべてを奪い尽くし、彼の色に染め変えようとする、熱に浮かされたような接吻だった。
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