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6・白虎との婚約
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翌朝、環は部屋から一歩も出なかった。
昨夜、悠人に刻まれた痕が、胸元にも太ももにも赤く疼いている。布団の中で身動きするたび、その痛みが甘く脳髄を刺激し、彼女は自分がもう戻れないことを思い知らされる。どうしようもない高揚感の中で、彼がくるのを待っていた。
正午過ぎ――。
「伯爵家の悠人様がご訪問され、環様もとのことです」
使用人の報告に、叔父の顔が見る間に輝く。金銭の匂いに敏感な男は、すぐさま座敷の支度を命じた。
応接間に悠人が入ってくると、叔父は一層の笑みを浮かべて迎える。
「これはこれは、お足労をおかけして申し訳ございません。環の縁談が流れたばかりだというのに、貴方様から求められるなど運がいい」
丁寧な言葉遣いだが、その眼差しには値踏みの色がある。爵位は高いが成り上がり。それも次男坊。叔父の内心には、「どれだけ結納金を吹っ掛けよう」という打算しかない。
悠人は深く一礼した後、その場に腰を落ち着けた。その所作の端々は、悠人の高貴さをちらつかせる。
「ご丁寧に。実は今日、孝之様にお話しさせていただきたいことがあり参りました」
「ほう、どのようなご用件でしょう」
叔父は茶を啜る手を止めない。
「環さんとの婚姻について、正式にお申し込みさせていただきたいのです」
一瞬、応接間の空気が張る。隅で正座していた祖母の背筋がより一層伸びた。
叔父は「本気で庶子と?」という含みのある値踏みの視線を向けた。
「…婚姻ですか。いや、ご熱心なことで。ですが悠人様、環は所詮、庶子ですぞ。貴方様ほどのお家柄に嫁がせるには、こちらとしても相応の覚悟が必要です。ましてや前回の縁談が流れた後のこと。世間体も懸かっている」
否定の色を見せることで条件を釣り上げてやろうという考えがあからさまに感じられる。
悠人はその意図を一瞥し、柔らかく、だが一切の容赦なく、刃を返した。
「前回の縁談が流れたのは、相手方の『諸事情』によるものですね」
叔父の顔が瞬時に固くなった。その『諸事情』とは――公金横領のスキャンダル。叔父も一応貴族家の当主である為に知っているが、それを成金貴族の次男坊が知っていることに恐ろしさを感じ、脅されているような気分になった。
「…ええ、まあ」
叔父は言葉を濁す。
「当家とご縁を結ぶことで、貴家の縁は、何にも代えがたい確固たるものになります。勿論それで便宜が図られることもあるでしょう」
悠人は続ける。声は穏やかだが、その瞳には一瞬、前夜環に見せた狂気の熱がかすかに灯った。
「環さんは、僕がこの世で唯一愛する人だ。彼女のことは守って見せますし、勿論不自由もさせません。もし彼女を騙すようなことをする者がいれば、僕は容赦しません」
その言葉は――もし環を手放さなかったら、どうなっていたか――を、静かに思い知らせる脅しだった。
叔父の交渉の意欲は、この一瞬で完全に砕かれた。
「は…はい。ご熱情、よく分かりました。異論は、ございません」
叔父の声は上ずっている。
その時、隅で黙していた祖母が、静かに身を乗り出した。
「悠人様」
祖母の声は、叔父とは全く異なる重みを持つ。真っ直ぐに悠人を見据える。
「私は、金銭や家格だけを見て孫を預けません。この子は両親を早くに失って、私が十の頃から育ててきました。ですから、もし婚姻が叶うのなら――」
祖母は言葉を一度切る。
「貴方様が、環を心から大切にしてくださることだけが、唯一の願いです。婚姻前に、くれぐれも不埒な行いを強要したりはしないでくださいね」
それは、環の純潔を守ることと、祖母の最後の抵抗だった。
悠人は、祖母の真摯な瞳を受け止めると、恭しく頭を下げた。
「ご安心ください、お祖母様」
その声は、先ほどの冷酷さから一転、環への深すぎる愛に満ちていた。
「環さんは、僕の大切な花嫁だ。婚姻が成立するその日まで、僕が彼女を汚すことは決してありません。むしろ、彼女の清さを守ることが、僕の愛の誓いなのです」
悠人の言葉は、環の肉体的純潔を守ると約束する一方「環は僕の物であり、婚姻をもって完全に自分のものになる」という宣言の様に環には感じた。
それを祖母はかすかに感じ取りゾッとしたが、同時に――それは誰よりも強固で、確実な愛の保証でもあることを、直感で悟った。
「……承知いたしました。環の幸せを、何卒、お願いいたします」
祖母は深く頭を下げた。涙がそっと頬を伝う。
叔父はただ、青い顔で、小さく頷くばかり。
悠人は、その応接間を静かに見回した。虚飾と打算と愛情と後悔に満ちた、複雑な空間。その全てを掌握した悠人は、静かに微笑んだ。
こうして、婚姻は決定した。
環は、あっけなく決まった結婚に、ただ彼の熱を待つばかり。そして彼女の祖母は、孫を手放してしまったことの喪失感と、それでも彼女を好いた男と結婚させられたという安堵との間で揺れている。
昨夜、悠人に刻まれた痕が、胸元にも太ももにも赤く疼いている。布団の中で身動きするたび、その痛みが甘く脳髄を刺激し、彼女は自分がもう戻れないことを思い知らされる。どうしようもない高揚感の中で、彼がくるのを待っていた。
正午過ぎ――。
「伯爵家の悠人様がご訪問され、環様もとのことです」
使用人の報告に、叔父の顔が見る間に輝く。金銭の匂いに敏感な男は、すぐさま座敷の支度を命じた。
応接間に悠人が入ってくると、叔父は一層の笑みを浮かべて迎える。
「これはこれは、お足労をおかけして申し訳ございません。環の縁談が流れたばかりだというのに、貴方様から求められるなど運がいい」
丁寧な言葉遣いだが、その眼差しには値踏みの色がある。爵位は高いが成り上がり。それも次男坊。叔父の内心には、「どれだけ結納金を吹っ掛けよう」という打算しかない。
悠人は深く一礼した後、その場に腰を落ち着けた。その所作の端々は、悠人の高貴さをちらつかせる。
「ご丁寧に。実は今日、孝之様にお話しさせていただきたいことがあり参りました」
「ほう、どのようなご用件でしょう」
叔父は茶を啜る手を止めない。
「環さんとの婚姻について、正式にお申し込みさせていただきたいのです」
一瞬、応接間の空気が張る。隅で正座していた祖母の背筋がより一層伸びた。
叔父は「本気で庶子と?」という含みのある値踏みの視線を向けた。
「…婚姻ですか。いや、ご熱心なことで。ですが悠人様、環は所詮、庶子ですぞ。貴方様ほどのお家柄に嫁がせるには、こちらとしても相応の覚悟が必要です。ましてや前回の縁談が流れた後のこと。世間体も懸かっている」
否定の色を見せることで条件を釣り上げてやろうという考えがあからさまに感じられる。
悠人はその意図を一瞥し、柔らかく、だが一切の容赦なく、刃を返した。
「前回の縁談が流れたのは、相手方の『諸事情』によるものですね」
叔父の顔が瞬時に固くなった。その『諸事情』とは――公金横領のスキャンダル。叔父も一応貴族家の当主である為に知っているが、それを成金貴族の次男坊が知っていることに恐ろしさを感じ、脅されているような気分になった。
「…ええ、まあ」
叔父は言葉を濁す。
「当家とご縁を結ぶことで、貴家の縁は、何にも代えがたい確固たるものになります。勿論それで便宜が図られることもあるでしょう」
悠人は続ける。声は穏やかだが、その瞳には一瞬、前夜環に見せた狂気の熱がかすかに灯った。
「環さんは、僕がこの世で唯一愛する人だ。彼女のことは守って見せますし、勿論不自由もさせません。もし彼女を騙すようなことをする者がいれば、僕は容赦しません」
その言葉は――もし環を手放さなかったら、どうなっていたか――を、静かに思い知らせる脅しだった。
叔父の交渉の意欲は、この一瞬で完全に砕かれた。
「は…はい。ご熱情、よく分かりました。異論は、ございません」
叔父の声は上ずっている。
その時、隅で黙していた祖母が、静かに身を乗り出した。
「悠人様」
祖母の声は、叔父とは全く異なる重みを持つ。真っ直ぐに悠人を見据える。
「私は、金銭や家格だけを見て孫を預けません。この子は両親を早くに失って、私が十の頃から育ててきました。ですから、もし婚姻が叶うのなら――」
祖母は言葉を一度切る。
「貴方様が、環を心から大切にしてくださることだけが、唯一の願いです。婚姻前に、くれぐれも不埒な行いを強要したりはしないでくださいね」
それは、環の純潔を守ることと、祖母の最後の抵抗だった。
悠人は、祖母の真摯な瞳を受け止めると、恭しく頭を下げた。
「ご安心ください、お祖母様」
その声は、先ほどの冷酷さから一転、環への深すぎる愛に満ちていた。
「環さんは、僕の大切な花嫁だ。婚姻が成立するその日まで、僕が彼女を汚すことは決してありません。むしろ、彼女の清さを守ることが、僕の愛の誓いなのです」
悠人の言葉は、環の肉体的純潔を守ると約束する一方「環は僕の物であり、婚姻をもって完全に自分のものになる」という宣言の様に環には感じた。
それを祖母はかすかに感じ取りゾッとしたが、同時に――それは誰よりも強固で、確実な愛の保証でもあることを、直感で悟った。
「……承知いたしました。環の幸せを、何卒、お願いいたします」
祖母は深く頭を下げた。涙がそっと頬を伝う。
叔父はただ、青い顔で、小さく頷くばかり。
悠人は、その応接間を静かに見回した。虚飾と打算と愛情と後悔に満ちた、複雑な空間。その全てを掌握した悠人は、静かに微笑んだ。
こうして、婚姻は決定した。
環は、あっけなく決まった結婚に、ただ彼の熱を待つばかり。そして彼女の祖母は、孫を手放してしまったことの喪失感と、それでも彼女を好いた男と結婚させられたという安堵との間で揺れている。
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