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I'll love again
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私の生活は1週間そんなに変わらない。新米厩務員の私は父から任されている馬も1頭だけだ。1頭だけともなれば、出走頻度だって決して高くない。毎日担当馬、リエノヘリオス。私はヘリと呼んでいるが、ヘリを世話することくらいだ。乗馬は習ったことがなかったが、父の厩舎の馬と一緒に育ったから、見よう見まねで乗ることが出来た。コネのような気もするけど、高校を卒業して厩務員試験も一発合格だったし、厩務員課程だって難なくこなした。卒業してすぐに父の厩舎に就職して、初めて任されたのがヘリ。ブルーファルクスは私が小学生の時に鼻先に触れて遊んだりもした子だ。向こうも私の顔を覚えてくれたみたいで、厩舎に遊びに行けば顔を出して遊び相手になってくれた。その縁もあって任されたのがその子どものヘリだ。ヘリは強くはなかったけど、いい子だった。思い出もたくさんある。大きい音にびっくりして振り落とされたこと。初勝利のときに舞い上がってちょっといい飼料を自腹で買ってあげたこと。オープン特別の競争を勝ってとても嬉しかったこと。啓明杯の最後の直線で、夢を見せてもらったこと。その直後で地獄を見たこと。マーストリヒトが外に出て、内の進路が空き、フロストリヴァーに並びかけた時は天国みたいな気分だった。毎日世話した、自分の子どもみたいなもんだ。そんな子どもがあと一歩でGI馬を負かせるような末脚を見せたのだ。それは一瞬の光だった。競走馬の比喩として、「光」なんてのは使い古された言葉だったが、まさしく一瞬の光。その光を見せた直後に、ぷつっ、と消えてしまった。現地で見てた。転んだ瞬間は、絶望的な気持ちと、まだ助かるかも、という希望観測的の感情が入り交じった。
「左第2指関節脱臼」。ブルーシートに囲まれた中で疲れきったように座っていたヘリのケガの名前だ。予後不良。はじめての馬だ。はじめて世話した馬だった。はじめてレースで一喜一憂した馬だった。厩務員をやる以上、逃げることは出来ない事実だったけど、注射器を突き立てる獣医を最後まで見ることは出来なかった。霞トレセンは都会とは離れていて、星を拝むこともできる。流れ星は都合よく流れなかったけど、空を見上げて星に祈る。もう一度。もう一度でいいんだ。ヘリの真っ黒な馬体に、もういちど抱きつきたい。私を包み込むのは、暗い夜闇じゃなくてヘリの暖かい体がいい。ああ、だめだ。治まったはずの涙がまた流れ出る。馬場に穴を作ったのはマーストリヒトかどうかわからないが、進路を開けた外国人騎手に、「お前のせいだ」と罵りたくもなる。わかってる。あの外国人騎手だって、石神だって、ベストを尽くしたのだ。そのうえでこの結果なのだ。やり場のない怒りというか。やるせない思いを胸に秘めて、厩舎の灯りへと戻っていった。休憩室に戻ると、石神が椅子の一角に座っていた。
「大丈夫か?」
大丈夫なはずないだろう。ヘリは大切な息子みたいなもんなんだ。大丈夫なはずない。
「……大丈夫だよ。」
強がって答える。だめだ、声がちゃんと出ない。
「声が震えてる。大丈夫じゃ……ないじゃん。ごめん、本当にごめん。俺がもっと上手く乗ってれば……あの進路を取らなければ……ヘリオスは死ななかった。俺のせいだ。」
「ちがうよ、石神は悪くない。誰も悪くないんだよ……ヘリだってきっと石神のことを恨んだりなんかしてない。そんな子じゃないよ……」
「……本当にごめん。あと、これ……うららに渡しとこうと思って……」
そう言って彼が取り出したのは、ヘリの使っていたメンコ。えんじ色でのこぎり模様の入った、リエノ一族のメンコ。顔の横に当たる部分には、筆記体で「Helios」とプリントされている。
「オーナーさんに言って、貰ったんだ。でも俺が持ってても仕方ないから……お前が持っておいてくれよ。」
「……あ、ありがとう」
両手に広げたメンコ。酸いも甘いも、思い出の詰まったメンコ。ああダメだ……また泣いてしまう。
「うう……うう……ヘリ……」
堪えようとした涙は、えんじ色をいっそう濃くした。今夜は眠れそうもない。いつの間にか石神はいなくなっていて、別にそれを見たわけじゃないけどメンコに顔を埋める。嗚咽を抑えるため、という言い訳だ。もういちど、会って撫でてやりたい。お疲れ様、さよならの一言が言いたい。それだけで良かったのに。現実は非情だ。ステイゴールドのように出来すぎたドラマもあれば、ライスシャワーのような絵に書いた悲劇もある。私のこれは、きっとそのどれでもない。最期の言葉すら送ることの出来ない、物語の体をなしていないなにかなんだ。
石神とは中学が同じだった。というか、幼なじみ。同い年で、石神のお父さんがブルーファルクスの主戦騎手だった。石神家は加藤厩舎のほど近くにあって、そのゆかりもあり小さい頃は馬を通して一緒に遊んだ仲だ。トレセンにいたポニーのササメユキくんと石神と私は、気心の知れた友達……もっと言うなら兄弟みたいなもんだ。ササメユキくんは私たちが12歳の時に疝痛で亡くなった。その時は悲しいことには悲しかったけれど、あんまり実感が湧かなかった。だって最期を見なかったから。自分の大切ななにかが目の前で息絶えるのを見届けたのはヘリがはじめて。その最期すら、私はろくに見守ってあげることが出来なかった。今夜は酒を飲もう。飲まれて眠ろう。ああ、ヘリに会いたいな。こんな悲しみに溺れる酒じゃなくて、勝利の美酒が飲みたかったな。アルコールの力を借りて、私は夜に溶けていった。
「左第2指関節脱臼」。ブルーシートに囲まれた中で疲れきったように座っていたヘリのケガの名前だ。予後不良。はじめての馬だ。はじめて世話した馬だった。はじめてレースで一喜一憂した馬だった。厩務員をやる以上、逃げることは出来ない事実だったけど、注射器を突き立てる獣医を最後まで見ることは出来なかった。霞トレセンは都会とは離れていて、星を拝むこともできる。流れ星は都合よく流れなかったけど、空を見上げて星に祈る。もう一度。もう一度でいいんだ。ヘリの真っ黒な馬体に、もういちど抱きつきたい。私を包み込むのは、暗い夜闇じゃなくてヘリの暖かい体がいい。ああ、だめだ。治まったはずの涙がまた流れ出る。馬場に穴を作ったのはマーストリヒトかどうかわからないが、進路を開けた外国人騎手に、「お前のせいだ」と罵りたくもなる。わかってる。あの外国人騎手だって、石神だって、ベストを尽くしたのだ。そのうえでこの結果なのだ。やり場のない怒りというか。やるせない思いを胸に秘めて、厩舎の灯りへと戻っていった。休憩室に戻ると、石神が椅子の一角に座っていた。
「大丈夫か?」
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「……大丈夫だよ。」
強がって答える。だめだ、声がちゃんと出ない。
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「ちがうよ、石神は悪くない。誰も悪くないんだよ……ヘリだってきっと石神のことを恨んだりなんかしてない。そんな子じゃないよ……」
「……本当にごめん。あと、これ……うららに渡しとこうと思って……」
そう言って彼が取り出したのは、ヘリの使っていたメンコ。えんじ色でのこぎり模様の入った、リエノ一族のメンコ。顔の横に当たる部分には、筆記体で「Helios」とプリントされている。
「オーナーさんに言って、貰ったんだ。でも俺が持ってても仕方ないから……お前が持っておいてくれよ。」
「……あ、ありがとう」
両手に広げたメンコ。酸いも甘いも、思い出の詰まったメンコ。ああダメだ……また泣いてしまう。
「うう……うう……ヘリ……」
堪えようとした涙は、えんじ色をいっそう濃くした。今夜は眠れそうもない。いつの間にか石神はいなくなっていて、別にそれを見たわけじゃないけどメンコに顔を埋める。嗚咽を抑えるため、という言い訳だ。もういちど、会って撫でてやりたい。お疲れ様、さよならの一言が言いたい。それだけで良かったのに。現実は非情だ。ステイゴールドのように出来すぎたドラマもあれば、ライスシャワーのような絵に書いた悲劇もある。私のこれは、きっとそのどれでもない。最期の言葉すら送ることの出来ない、物語の体をなしていないなにかなんだ。
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