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第一章 失くした鍵
第三節
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マミは持っていたフライパンをコンロに置くと、火を止める。
目の前に広がった贅沢品を駆使して作られた料理に、マミは満足げに微笑んだ。お世辞にも、金持ちとは言えない家庭ではあったが、特別な日にくらい贅沢しても罰は当たらないだろう。ルミは、久しぶりの贅沢な料理の香ばしい香りに顔を緩める。ルミが施した飾りは、色とりどりの折り紙でできており、父が帰ってきたときの反応が楽しみなほどだ。マミは出来立ての料理を更にきれいに並べると、帰ってくる父を楽しみに待った。
しかし帰ってくるはずの時刻になっても父親の姿は見えない。何度か玄関と外を行き来していたルミは、その行動すら諦めて、リビングで突っ伏したまま動かなくなった。
「……遅いね、お父さん」「うん」
「遅くなりそうだし、先に食べてる?」
「……いい」
ルミは椅子から下りると顔を背け、蹲った。慰める言葉も見つからず、マミも困ったように時計を見る。料理ができてから優に一時間は超えており、あれほど完璧に作ったはずの料理からは、そのクオリティをうかがえる匂いが消えている。
「どうしちゃったんだろう」
このまま待っているわけにもいかず、ルミに食事を促す。
「ルミ、食べよ?」
「……わかった」
ルミは、マミの心情を組んだのか、マミが思ったよりも素直に言うことを聞き、箸を手に持った。
「いただきます」「いただきます」
マミの想像以上にうまく出来上がったソレは、冷めたままだというのにとても満足のいくものだった。小麦粉アレルギーであるマミは、自分以外の二人のためだけに作った料理が、ルミのウケがいいと分かると、今日という日で一番の喜びを感じた。マミは食べ終わると準備していた風呂にお湯を入れ、ルミに先に入るように促し、自分は椅子に寝そべって父の帰りを待った。
*
ルミがお風呂から上がると、マミは椅子で器用に体を丸めて寝ていた。ルミは少し考えたのち、布団をかける。春から秋へ移り変わる季節のため少し肌寒くなった夜に、こんな状態では風邪をひくと、マミを気遣っての行動だった。
ルミは、ふっと息を吐いた。静かな夜になると思い出す。昔の記憶を。ルミは自身が人とのコミュニケーションが下手だとは思っていなかった。むしろそれらは姉であるマミより自身の方が優れているとそう思うほどだ。
しかしルミの中にある理想の妹像はそんな姿をしていない。姉にべったりで、わがままを言って、そして純粋で。ルミは自分が思っているより純粋であるのだが、しかし当の本人には、それが歪んでいるようにしか思えないのも事実であった。姉であるマミは、そんなルミの中にある理想の妹像にのっとったルミのことを本気で気遣い、無理をしないようにと、自分が苦手であるにもかかわらず、苦手なコミュニケーションを自ら進んでやってのけている。それがどれだけ大変で、窮屈であるか。
ルミは、マミの手を少し触った。数々の家事を一人でこなしているマミの手は、かさついており、ルミは顔をしかめる。きっと彼女は家事すらも得意ではないのだ。姉として支える行為も、責任感ある行動も。
何もかも押し殺した彼女は、ルミにとって憧れであり、目標だった。
「おやすみ、マミ」
ルミは、そっと電気を消す。いつか自身が願った願いが幸せへと向かっているようにと、祈りながら。
*
藍沢モミジは、帰路に就くために、何日間もため込んでいた着替え類を鞄に詰めていた。今日家に帰ると娘二人に連絡していたにもかかわらず、家に帰るのは明日になってしまいそうだ。これほど予定が狂ったことには訳があった。モミジの元に、ユズからの手紙が来たのだ。
ユズとはモミジの妻の名前であり、マミとルミの母親に当たる。ユズは、五年前、モミジが仕事で何日か家を空けている間に、モミジとまだ小さかった娘二人を置いて、失踪した。江ノから出て行ったとは考えられず、最初の一年はユズを待っていたモミジだったが、戻ってこない彼女を待つうちに捨てられたのだと悟り、消失感と絶望で、ユズが残した荷物をすべて処分してしまうほどだった。
小悪魔のような彼女のことだ、もう自分のことなど忘れてしまったのだろう。そんな絶望にも近い感情のまま、気が付けば五年も時間経過していた。彼女のことを忘れたことは一度もなかった。それほどモミジにとってユズという存在が大きかったのだ。
そんな彼女から手紙が来た。あれから何度か引っ越したからか、仕事場に送られてきた手紙は、今の今まで感じていた悲しみをすべて忘れるほど、嬉しいものだった。しかし、書いてある内容は、訳のわからないもので、モミジにはその意図を読み解くことができなかった。
そこで、江ノ唯一の探偵に依頼しに行ったのだ。赤下ムムの元に。
*
「久しぶりですね、モミジさん」
ムムは笑顔で、モミジを向かい入れた。昔と少しも変わらないその笑顔で対応するムムに、胸が痛みながらも、モミジは届いた手紙を手渡した。当たり前のように手袋にはめたムムは、手紙を受け取る。
「なるほど、変な手紙ですね」
――――――――――――――
急にいなくなってごめん。頼みがあり、手紙を書いた。もう会うことはないし、私の持ち物をすべて処分してもいいから。
これで最後、私のことはもう忘れて。
さようなら。
これからも、今までも変わらず
――――――――――――――
筆跡を誤魔化すためだろうか、いろいろな書類から切り取って作られた手紙を、ムムは興味深げに見つめた。手紙事態も妙だが、内容もかなり妙だ。これからも、と書きながら、これで最後だから忘れてくれと願っている。
「文脈も少し妙ですね、これ」
ムムの後ろで男の声がした。モミジはびっくりして、声のする方を見ると、仕事柄よく顔を見合わせている、江ノ唯一の医師が立っていた。
「ご無沙汰しています、藍沢さん」
「これは……松葉先生じゃないですか。どうしてここに?」
「ムムとは顔馴染みでしてね」
ムムは空気を壊すかのように、松葉に手紙を手渡した。どう思う? と言いたげな顔に松葉は手を広げる。
「俺は医者だ。そっちはお前の領分だろ」
冷たい言葉だと思う気もしなかった。事実だ。一つの無駄すら含まれていない言葉にムムは頷いた。そして改めて手紙を見る。
「モミジさんは今でも奥様の持ち物を持っていらっしゃるんですか?」
「いえ。ほとんど処分してしまっていますし、残っているかもよく分かっていません。職業柄、家にはあまり帰れないことが多いですし」
「消防士としてご多忙が続いているらしいですね」
「最近はめっきり減りましたが、以前は愉快犯、というと正確ではないですが、まぁ、若者たちの間で花火とかその手のことが流行っていましたから。あの頃が一番忙しかったように感じます」
「確かその人たちは捕まりましたよね」事件が起きて早々に、とムムは付け足した。
「はい。それに何年も前のことです」
なるほど。手紙から読み取れるのは、ユズは持ち物を処分してほしかったということと、わずかながらの愛情だ。ムムは手紙を鼻に近づける。何かの痕跡を願ったのだが、悲しいことに何の匂いもしない。いろいろな書類から切り取ったという事実からは、証拠にならないようにしたという魂胆がよく見える。ムムはふと気になって、モミジに尋ねた。
「この手紙が奥様からの手紙ではない可能性はありますか?」
「いえ、ありません。手紙の最後の言葉……“これからも、今までも変わらず”というのは、ユズさんの口癖みたいなものでした。あまり手紙を書かない人だったので、手紙を最初に見たとき別人からの悪質な嫌がらせだと思ったのですが、その言葉はユズさんそのものです。真似できるものではない」
モミジの言葉からは憎しみは一切感じられなかった。そういえば、モミジは奥さんの名を呼ぶときにさん付けしていたな。ムムにはその意図がいまだにわからない。
ムムは頷きながら手紙を見る。この手紙から憎しみは見えてこない。探偵として、江ノでの人間関係を知る機会が多いムムでも、モミジとユズの関係性には疑問を抱くことが多かった。夫婦円満だったはずなのだ、少なくともムムとモミジが初めて会ったときは、そうだった。しかし、いつしかユズが夜逃げしたのだと聞いたときは耳を疑った。信じもしなかった。
あの二人が? ありえない。それがムムの率直な意見だった。
「奥様と知り合いになられたのはいつ?」「結婚する前のことなので今から十五年ほど前ですか、ね」
「知り合いになられた経緯は?」
「……よくあるような感じです。私から声をかけて、最初は普通の友達として親しくしていました。でも彼女を誰かに取られたくない、と不意に彼女に対する執着心に気付いたのです。彼女は小悪魔的と言いましょうか、まぁ人を魅了しやすい人でしたので、すぐに行動を起こさないと、と焦燥感にかられました。でもそれからは、すぐでした。彼女の方も、どうやら私のことを気にしてくれていたようで。それから結婚、という形に至りました」
「で? 依頼はどのような?」
依頼。モミジはその言葉に少し戸惑う。そんなことなど知らないようにムムはつらつらと言葉を並べた。
「奥様の行方・奥様の都合の悪いものを見つける……探し物は得意ですよ、私。……あぁ、それか奥様の素行調査でもいいですね。今頃違う男性と仲良く、なんてことは万が一にもないとは思いますが」
ムムの言葉がモミジの頭をぐるぐると回った。ユズさんが浮気? 確かにあり得なくはない。モミジはやけに冷静にそう思った。彼女の魅力とはそういうものだったと思い出したのだ。そしてモミジはここに来たことを少し後悔した。赤下ムムが昔と変わらず笑顔だったことで騙されてしまったのだ。
どうして想像できる? 純粋無垢なその笑顔の裏に機械のような冷たい心が隠れているなど。
モミジは続けて考えた。自分は今、妻であるユズに何を求めているのだろうか。ユズが自分の妻となった時の嬉しさは未だに忘れることはない。しかし、感情が思い出を置いてきぼりにしてしまうことは間違いなかった。
一度捨てられたはずのモミジは、父親としては欠陥なほどに、彼女に執着していた。狂信的だと言われれば、その通りだと、自分で認めるだろう。彼女の魅力とはそれほど底知れず、そして甘美なのだ。彼女の魅力に当てられた男が、彼女と共にいたとしても、何らおかしくない。娘がいようといまいと、小悪魔はいつだって心の隙を狙ってくるからだ。
今ユズさんの捜索をして、果たして何が得られるだろうか。もしくは何を得たいだろうか。モミジは色々悩ませ、ずいぶん前に出した結論と同じそれをムムに伝えた。
「……私は、ユズさんの拠り所になりたい。彼女がどう思ってくれていても、それは構いません。どうか彼女を見つけてください。私は彼女のことを知りたい」
どんな些細なことでもいい。知りたい。ユズさんのことを、全て。
「承りました」
ムムは笑った。冷たく、人の心がないような笑みだ。そしてさも当たり前のようにモミジに警告をする。
「報酬はいつも通りお願いしますね。まぁ変更するときもあるかもしれませんけど」
こうなると分かっていたはずなのに。彼女は報酬とかこつけてその人の立場を利用する。ある種の“貸し”のようなものだ。それが消防士として、してはいけないような情報漏洩だとしても、ムムと約束した報酬は、叶えなければならない。彼女もまた、何かに執着しているのだろう。
「分かっています」
ムムの言葉にモミジは頷く。その様子を見ていた松葉はため息をついた。モミジもモミジだが、ムムもムムだ。二人とも過去にとらわれた悲しい人間。松葉は改めてモミジに言う。
「今日はもうお帰りください。娘さんたちが心配していますよ」
「……あ、あぁ。そうですね」
「それから明日時間があれば健康診断をしたいので、当院に寄ってください。出来れば早い目に」
「もうそんな時期ですか」
「一か月に一回というのが、決まりです。もっとも、僕の目の前にその決まりを守らない愚か者がいますけどね」
「私のこと? 毎日顔を見合わせているし、その必要はないでしょ?」
「そう考えるのは、おそらく、いや、間違いなくお前だけだ」
これ以上この話を続けていても自分が不利になるだけだとムムは気づいた。話を変える必要がある。しかも、早急に。そういえば。ムムは思い出したようにモミジに聞いた。
「娘さんたちって、マミちゃんとルミちゃんだったりします?」
「え、えぇ。そうですが、何故知っているのです?」
「今日お会いしましたよ。いい娘さんたちですね」
「……ありがとうございます」
モミジはそう言うと、慌てたように神社を後にした。ムムの含みのある言い方に焦り、娘たちの安否を心配しての行動だが、ムムはさっぱり見当もつかない。その奇妙ともいえる行動に首を傾げ、そしてククッと笑った。
「モミジさんはなんであんなに急いでるんだ? 不思議だな」
ムムの言葉に、だいたいを把握している松葉は何も言わない。ただ心底呆れたように目を細めるばかりだ。
「やっと、楽しくなってきた」
ムムは笑った。先ほどまでの冷たい笑みではない。心底おかしそうに口角を上げ、目を目一杯開いて、唇を舐めた。
「……無理をするなよ」
「もちろん。……まっつー、いつもありがとう」
ムムの言葉に松葉は目を閉じた。初めてムムと会ったときのことを思い出したのだ。
思えば初めて会ったときからムムはその笑顔が変わったことはなかったように思う。はしゃぎ、わめき、松葉の周りにいた子供の誰よりも輝いていたムムは松葉を見て笑い、言ったのだ。
「松葉? じゃあ今日からお前は“まっつー”だ! よろしく!」
その中途半端な名付け方も、センスのなさも、全部全部ムムの純粋無垢なところから来ていたのだと、今になってわかる。そして、その名で呼ばれると思い出す、ムムの純粋だった頃。純粋というのは少し違うかもしれないかもしれない。真っ直ぐだった頃とでもいいのか。
誰かに貸しを作って、それでどうにか生きながらえている今のムムは、さしずめ大人になってしまっただけなのだろうが、しかしそれだけではないことは確かだ。人探しなどやりたくないと駄々をこねていたムムはどこへ行ってしまったのだろう。
子供の、もっと正確に言えば高校生までのムムは、自分をしっかり持って、やりたくないことをやることなどしなかった。心を置いてきぼりにしてそのまま成長してしまったと言ってもいい。当然人付き合いは良くなかったが、それでもムムのその純粋さを慕って何人かのかけがえのない友人たちに囲まれていた。
果たして今のムムは純粋と言えるのだろうか? 松葉はふっと息を吐いた。たとえ何時間考えようが、きっと答えは出ないのだ。ムムの考え方が昔と変わってしまっただけに過ぎないのに、惜しいと思えてならない。きっと今、ムムが生まれ変わってしまえば見つけることができないのだろう。昔までのムムにはそんなこと思うこともなかった。きっとすぐに見つけられる。そう自信があった。
松葉は目を細めて思い出す。彼女が変わる前の、あの輝かしい日々を。
目の前に広がった贅沢品を駆使して作られた料理に、マミは満足げに微笑んだ。お世辞にも、金持ちとは言えない家庭ではあったが、特別な日にくらい贅沢しても罰は当たらないだろう。ルミは、久しぶりの贅沢な料理の香ばしい香りに顔を緩める。ルミが施した飾りは、色とりどりの折り紙でできており、父が帰ってきたときの反応が楽しみなほどだ。マミは出来立ての料理を更にきれいに並べると、帰ってくる父を楽しみに待った。
しかし帰ってくるはずの時刻になっても父親の姿は見えない。何度か玄関と外を行き来していたルミは、その行動すら諦めて、リビングで突っ伏したまま動かなくなった。
「……遅いね、お父さん」「うん」
「遅くなりそうだし、先に食べてる?」
「……いい」
ルミは椅子から下りると顔を背け、蹲った。慰める言葉も見つからず、マミも困ったように時計を見る。料理ができてから優に一時間は超えており、あれほど完璧に作ったはずの料理からは、そのクオリティをうかがえる匂いが消えている。
「どうしちゃったんだろう」
このまま待っているわけにもいかず、ルミに食事を促す。
「ルミ、食べよ?」
「……わかった」
ルミは、マミの心情を組んだのか、マミが思ったよりも素直に言うことを聞き、箸を手に持った。
「いただきます」「いただきます」
マミの想像以上にうまく出来上がったソレは、冷めたままだというのにとても満足のいくものだった。小麦粉アレルギーであるマミは、自分以外の二人のためだけに作った料理が、ルミのウケがいいと分かると、今日という日で一番の喜びを感じた。マミは食べ終わると準備していた風呂にお湯を入れ、ルミに先に入るように促し、自分は椅子に寝そべって父の帰りを待った。
*
ルミがお風呂から上がると、マミは椅子で器用に体を丸めて寝ていた。ルミは少し考えたのち、布団をかける。春から秋へ移り変わる季節のため少し肌寒くなった夜に、こんな状態では風邪をひくと、マミを気遣っての行動だった。
ルミは、ふっと息を吐いた。静かな夜になると思い出す。昔の記憶を。ルミは自身が人とのコミュニケーションが下手だとは思っていなかった。むしろそれらは姉であるマミより自身の方が優れているとそう思うほどだ。
しかしルミの中にある理想の妹像はそんな姿をしていない。姉にべったりで、わがままを言って、そして純粋で。ルミは自分が思っているより純粋であるのだが、しかし当の本人には、それが歪んでいるようにしか思えないのも事実であった。姉であるマミは、そんなルミの中にある理想の妹像にのっとったルミのことを本気で気遣い、無理をしないようにと、自分が苦手であるにもかかわらず、苦手なコミュニケーションを自ら進んでやってのけている。それがどれだけ大変で、窮屈であるか。
ルミは、マミの手を少し触った。数々の家事を一人でこなしているマミの手は、かさついており、ルミは顔をしかめる。きっと彼女は家事すらも得意ではないのだ。姉として支える行為も、責任感ある行動も。
何もかも押し殺した彼女は、ルミにとって憧れであり、目標だった。
「おやすみ、マミ」
ルミは、そっと電気を消す。いつか自身が願った願いが幸せへと向かっているようにと、祈りながら。
*
藍沢モミジは、帰路に就くために、何日間もため込んでいた着替え類を鞄に詰めていた。今日家に帰ると娘二人に連絡していたにもかかわらず、家に帰るのは明日になってしまいそうだ。これほど予定が狂ったことには訳があった。モミジの元に、ユズからの手紙が来たのだ。
ユズとはモミジの妻の名前であり、マミとルミの母親に当たる。ユズは、五年前、モミジが仕事で何日か家を空けている間に、モミジとまだ小さかった娘二人を置いて、失踪した。江ノから出て行ったとは考えられず、最初の一年はユズを待っていたモミジだったが、戻ってこない彼女を待つうちに捨てられたのだと悟り、消失感と絶望で、ユズが残した荷物をすべて処分してしまうほどだった。
小悪魔のような彼女のことだ、もう自分のことなど忘れてしまったのだろう。そんな絶望にも近い感情のまま、気が付けば五年も時間経過していた。彼女のことを忘れたことは一度もなかった。それほどモミジにとってユズという存在が大きかったのだ。
そんな彼女から手紙が来た。あれから何度か引っ越したからか、仕事場に送られてきた手紙は、今の今まで感じていた悲しみをすべて忘れるほど、嬉しいものだった。しかし、書いてある内容は、訳のわからないもので、モミジにはその意図を読み解くことができなかった。
そこで、江ノ唯一の探偵に依頼しに行ったのだ。赤下ムムの元に。
*
「久しぶりですね、モミジさん」
ムムは笑顔で、モミジを向かい入れた。昔と少しも変わらないその笑顔で対応するムムに、胸が痛みながらも、モミジは届いた手紙を手渡した。当たり前のように手袋にはめたムムは、手紙を受け取る。
「なるほど、変な手紙ですね」
――――――――――――――
急にいなくなってごめん。頼みがあり、手紙を書いた。もう会うことはないし、私の持ち物をすべて処分してもいいから。
これで最後、私のことはもう忘れて。
さようなら。
これからも、今までも変わらず
――――――――――――――
筆跡を誤魔化すためだろうか、いろいろな書類から切り取って作られた手紙を、ムムは興味深げに見つめた。手紙事態も妙だが、内容もかなり妙だ。これからも、と書きながら、これで最後だから忘れてくれと願っている。
「文脈も少し妙ですね、これ」
ムムの後ろで男の声がした。モミジはびっくりして、声のする方を見ると、仕事柄よく顔を見合わせている、江ノ唯一の医師が立っていた。
「ご無沙汰しています、藍沢さん」
「これは……松葉先生じゃないですか。どうしてここに?」
「ムムとは顔馴染みでしてね」
ムムは空気を壊すかのように、松葉に手紙を手渡した。どう思う? と言いたげな顔に松葉は手を広げる。
「俺は医者だ。そっちはお前の領分だろ」
冷たい言葉だと思う気もしなかった。事実だ。一つの無駄すら含まれていない言葉にムムは頷いた。そして改めて手紙を見る。
「モミジさんは今でも奥様の持ち物を持っていらっしゃるんですか?」
「いえ。ほとんど処分してしまっていますし、残っているかもよく分かっていません。職業柄、家にはあまり帰れないことが多いですし」
「消防士としてご多忙が続いているらしいですね」
「最近はめっきり減りましたが、以前は愉快犯、というと正確ではないですが、まぁ、若者たちの間で花火とかその手のことが流行っていましたから。あの頃が一番忙しかったように感じます」
「確かその人たちは捕まりましたよね」事件が起きて早々に、とムムは付け足した。
「はい。それに何年も前のことです」
なるほど。手紙から読み取れるのは、ユズは持ち物を処分してほしかったということと、わずかながらの愛情だ。ムムは手紙を鼻に近づける。何かの痕跡を願ったのだが、悲しいことに何の匂いもしない。いろいろな書類から切り取ったという事実からは、証拠にならないようにしたという魂胆がよく見える。ムムはふと気になって、モミジに尋ねた。
「この手紙が奥様からの手紙ではない可能性はありますか?」
「いえ、ありません。手紙の最後の言葉……“これからも、今までも変わらず”というのは、ユズさんの口癖みたいなものでした。あまり手紙を書かない人だったので、手紙を最初に見たとき別人からの悪質な嫌がらせだと思ったのですが、その言葉はユズさんそのものです。真似できるものではない」
モミジの言葉からは憎しみは一切感じられなかった。そういえば、モミジは奥さんの名を呼ぶときにさん付けしていたな。ムムにはその意図がいまだにわからない。
ムムは頷きながら手紙を見る。この手紙から憎しみは見えてこない。探偵として、江ノでの人間関係を知る機会が多いムムでも、モミジとユズの関係性には疑問を抱くことが多かった。夫婦円満だったはずなのだ、少なくともムムとモミジが初めて会ったときは、そうだった。しかし、いつしかユズが夜逃げしたのだと聞いたときは耳を疑った。信じもしなかった。
あの二人が? ありえない。それがムムの率直な意見だった。
「奥様と知り合いになられたのはいつ?」「結婚する前のことなので今から十五年ほど前ですか、ね」
「知り合いになられた経緯は?」
「……よくあるような感じです。私から声をかけて、最初は普通の友達として親しくしていました。でも彼女を誰かに取られたくない、と不意に彼女に対する執着心に気付いたのです。彼女は小悪魔的と言いましょうか、まぁ人を魅了しやすい人でしたので、すぐに行動を起こさないと、と焦燥感にかられました。でもそれからは、すぐでした。彼女の方も、どうやら私のことを気にしてくれていたようで。それから結婚、という形に至りました」
「で? 依頼はどのような?」
依頼。モミジはその言葉に少し戸惑う。そんなことなど知らないようにムムはつらつらと言葉を並べた。
「奥様の行方・奥様の都合の悪いものを見つける……探し物は得意ですよ、私。……あぁ、それか奥様の素行調査でもいいですね。今頃違う男性と仲良く、なんてことは万が一にもないとは思いますが」
ムムの言葉がモミジの頭をぐるぐると回った。ユズさんが浮気? 確かにあり得なくはない。モミジはやけに冷静にそう思った。彼女の魅力とはそういうものだったと思い出したのだ。そしてモミジはここに来たことを少し後悔した。赤下ムムが昔と変わらず笑顔だったことで騙されてしまったのだ。
どうして想像できる? 純粋無垢なその笑顔の裏に機械のような冷たい心が隠れているなど。
モミジは続けて考えた。自分は今、妻であるユズに何を求めているのだろうか。ユズが自分の妻となった時の嬉しさは未だに忘れることはない。しかし、感情が思い出を置いてきぼりにしてしまうことは間違いなかった。
一度捨てられたはずのモミジは、父親としては欠陥なほどに、彼女に執着していた。狂信的だと言われれば、その通りだと、自分で認めるだろう。彼女の魅力とはそれほど底知れず、そして甘美なのだ。彼女の魅力に当てられた男が、彼女と共にいたとしても、何らおかしくない。娘がいようといまいと、小悪魔はいつだって心の隙を狙ってくるからだ。
今ユズさんの捜索をして、果たして何が得られるだろうか。もしくは何を得たいだろうか。モミジは色々悩ませ、ずいぶん前に出した結論と同じそれをムムに伝えた。
「……私は、ユズさんの拠り所になりたい。彼女がどう思ってくれていても、それは構いません。どうか彼女を見つけてください。私は彼女のことを知りたい」
どんな些細なことでもいい。知りたい。ユズさんのことを、全て。
「承りました」
ムムは笑った。冷たく、人の心がないような笑みだ。そしてさも当たり前のようにモミジに警告をする。
「報酬はいつも通りお願いしますね。まぁ変更するときもあるかもしれませんけど」
こうなると分かっていたはずなのに。彼女は報酬とかこつけてその人の立場を利用する。ある種の“貸し”のようなものだ。それが消防士として、してはいけないような情報漏洩だとしても、ムムと約束した報酬は、叶えなければならない。彼女もまた、何かに執着しているのだろう。
「分かっています」
ムムの言葉にモミジは頷く。その様子を見ていた松葉はため息をついた。モミジもモミジだが、ムムもムムだ。二人とも過去にとらわれた悲しい人間。松葉は改めてモミジに言う。
「今日はもうお帰りください。娘さんたちが心配していますよ」
「……あ、あぁ。そうですね」
「それから明日時間があれば健康診断をしたいので、当院に寄ってください。出来れば早い目に」
「もうそんな時期ですか」
「一か月に一回というのが、決まりです。もっとも、僕の目の前にその決まりを守らない愚か者がいますけどね」
「私のこと? 毎日顔を見合わせているし、その必要はないでしょ?」
「そう考えるのは、おそらく、いや、間違いなくお前だけだ」
これ以上この話を続けていても自分が不利になるだけだとムムは気づいた。話を変える必要がある。しかも、早急に。そういえば。ムムは思い出したようにモミジに聞いた。
「娘さんたちって、マミちゃんとルミちゃんだったりします?」
「え、えぇ。そうですが、何故知っているのです?」
「今日お会いしましたよ。いい娘さんたちですね」
「……ありがとうございます」
モミジはそう言うと、慌てたように神社を後にした。ムムの含みのある言い方に焦り、娘たちの安否を心配しての行動だが、ムムはさっぱり見当もつかない。その奇妙ともいえる行動に首を傾げ、そしてククッと笑った。
「モミジさんはなんであんなに急いでるんだ? 不思議だな」
ムムの言葉に、だいたいを把握している松葉は何も言わない。ただ心底呆れたように目を細めるばかりだ。
「やっと、楽しくなってきた」
ムムは笑った。先ほどまでの冷たい笑みではない。心底おかしそうに口角を上げ、目を目一杯開いて、唇を舐めた。
「……無理をするなよ」
「もちろん。……まっつー、いつもありがとう」
ムムの言葉に松葉は目を閉じた。初めてムムと会ったときのことを思い出したのだ。
思えば初めて会ったときからムムはその笑顔が変わったことはなかったように思う。はしゃぎ、わめき、松葉の周りにいた子供の誰よりも輝いていたムムは松葉を見て笑い、言ったのだ。
「松葉? じゃあ今日からお前は“まっつー”だ! よろしく!」
その中途半端な名付け方も、センスのなさも、全部全部ムムの純粋無垢なところから来ていたのだと、今になってわかる。そして、その名で呼ばれると思い出す、ムムの純粋だった頃。純粋というのは少し違うかもしれないかもしれない。真っ直ぐだった頃とでもいいのか。
誰かに貸しを作って、それでどうにか生きながらえている今のムムは、さしずめ大人になってしまっただけなのだろうが、しかしそれだけではないことは確かだ。人探しなどやりたくないと駄々をこねていたムムはどこへ行ってしまったのだろう。
子供の、もっと正確に言えば高校生までのムムは、自分をしっかり持って、やりたくないことをやることなどしなかった。心を置いてきぼりにしてそのまま成長してしまったと言ってもいい。当然人付き合いは良くなかったが、それでもムムのその純粋さを慕って何人かのかけがえのない友人たちに囲まれていた。
果たして今のムムは純粋と言えるのだろうか? 松葉はふっと息を吐いた。たとえ何時間考えようが、きっと答えは出ないのだ。ムムの考え方が昔と変わってしまっただけに過ぎないのに、惜しいと思えてならない。きっと今、ムムが生まれ変わってしまえば見つけることができないのだろう。昔までのムムにはそんなこと思うこともなかった。きっとすぐに見つけられる。そう自信があった。
松葉は目を細めて思い出す。彼女が変わる前の、あの輝かしい日々を。
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この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
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