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第五章 女将は優しく
第三節
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いつまでもここにいるわけにはいかないらしい遠州は、ケータイをちらちらかざしては、その通知を気にしていた。ムムにはほぼ無限の時間があるらしく、その店の前で座って大きなあくびを一つした。
「そんなにすぐ連絡なんて来ないでしょ」
「分かってるが……女将の身に何かあったら嫌なんでな」
「そんなに心配?」
ムムの茶化す気持ちを見透かしたように、遠州は笑った。
「お前よりは、心配だな」
「あれれ、遠州さんじゃないの。なぁにしてんの? こんなとこで」
声をかけられた遠州が振り向くと、そこにはまともな顔をした羽津が立っていた。まともな顔をしていない羽津しか見ていない遠州は最初、誰なのか分からなかったが、しかしそれが羽津だと分かると、途端にクシャッと髪を掻いた。
「羽津さんこそ、どうしたんです? 今は貴方の時間ではないでしょう?」
「いやだねぇ、いつでも俺の時間だろ? 頑張って仕事してる羽津さんをしっかり、眺めておいてほしいね」
「仕事? 羽津さんって仕事できたんですね」
「お酒が回ってない遠州さんもうざったいねぇ、ま、それが遠州さんの良いところなのかもしれないけど、ねぇ。……ん? そっちにいる方は? 遠州さんのコレかい?」
「違います、知り合いです」
ムムは立ち上がると、羽津と呼ばれた男性の目の前に立った。「くれぐれも間違えないでください」
羽津はムムのその強い意志に、少したじろいだ。「そ、そりゃすまないね」
ムムは羽津を観察する。歳は五十から六十手前だろうか? その頭は歳に逆らえなかったようで、薄い。それを隠しもせずにいるところは、羽津の良いところだろう。彼はその眼差しを、目一杯遠州に向けた。
「女将にでも用があったのかい?」
「まぁ。昨日のツケを払いたくて、それで会いに来たんですよ」
遠州の言葉に、羽津は驚いたように目を見開いた。「え? 遠州さんも?」
「……羽津さんも?」
「俺だけじゃない、昨日店に寄った皆そうらしくてね、女将は”ツケでいい”って、強情に押すもんだから、皆のツケの分も俺が持ってきたってわけ。仕事さぼってね」
「やっぱり仕事できないんじゃないですか」
そう言いながらも、遠州は嫌な予感が抜けなかった。
「女将さんは、そういうことをよくしますか?」ムムが聞いた。「ツケとか、そういうことを」
「女将の店に通い続けてもう何年にもなるが、そんなこと一回もなかったよ。女将はそういうこと厳しいんだ。……おかしいよな、まるで身辺整理みたいで」
羽津の言葉に遠州は頭が割れるような気分になった。もうたくさんだ。しかし、ムムはやめようとはしない。その羽津が持っている知識を、聞こうと必死だ。「女将の様子はどうでした?」
「どうってそりゃいつも通りよ、何か変な感じもなかったし、かといって俺らの愚痴を聞いてくれる感じもいつも通りだったし。……あぁ、でも一つだけ変なことがあったな」
「変なこと?」
「いやね、いつも店じまいは一時ぐらいだったんだが、昨日、いや今日か? まぁいいか、何故か二時ぐらいまで店を開けていたんだよねぇ、いつもならそんなことしないのに……不思議なもんだと思って聞いてみたんだ。そうしたら、”今日は店じまいをしたくない気分なの”だと。分かんねぇもんだよねぇ。何年も一緒にいるのに」
「確かに変だ……オレが店に来た時も早くから店を開けていたと、気になっていた……」
遠州の言葉に、羽津は困ったように笑った。「そう見えてしまうっていうとこもあるけどねぇ」
「不思議なこともありますね」
ムムは頷いた。遠州が考えていることが手に取るように分かっていたからだ。そしてそれに対する羽津の慰めも、全て分かっていた。だからこそ、遠州の焦りが、今は必要なのだと感じた。
「まぁ、店は開いてないし、また来るよぉ。遠州さんも、お勤め頑張って」
そう言って手をひらひらさせて、羽津は背を向けた。羽津に対し、遠州はお辞儀をする。ムムは嫌な雰囲気のまま、しかしどうすることもできない遠州と自分の力のなさを恨んだ。「遠州さん」
「……思えば思うほど、昨日の女将が違和感しかない」
「それは、果たして何の役になる?」
「役に立たなくても、それは持っておくべきものだろ? お前だってそんなこと分かってるはずだ。悲しみを忘れてしまったら、もうこの世に存在しているとは言えない」
「……そうかもしれない。でも、だからって……」
ムムの言葉を遮るようにして、遠州のケータイが光った。遠州はすぐさまそのケータイを手にした。メッセージはひどくシンプルで、それがどれほど急いでいたのかとい、送信者の優しさを垣間見せる。メッセージは女将の住所のみだ。場所は江ノ西区。コスモスⅡの二〇三号室。
「住所が分かった。江ノ西区コスモスⅡの二〇三号室。向かうぞ」
その瞬間、遠州のケータイが鳴った。
「もしもし、遠州だ。……は? ……そうか、分かった。すぐそっちに行く」
遠州の表情はかつてないほど険しく、ムムは胸がすくのを感じた。
”コスモスⅡで女性の死体が発見された”
それが女将でなければいいのにと思いながらも、遠州は諦めたような顔をして空を仰いだ。
「そんなにすぐ連絡なんて来ないでしょ」
「分かってるが……女将の身に何かあったら嫌なんでな」
「そんなに心配?」
ムムの茶化す気持ちを見透かしたように、遠州は笑った。
「お前よりは、心配だな」
「あれれ、遠州さんじゃないの。なぁにしてんの? こんなとこで」
声をかけられた遠州が振り向くと、そこにはまともな顔をした羽津が立っていた。まともな顔をしていない羽津しか見ていない遠州は最初、誰なのか分からなかったが、しかしそれが羽津だと分かると、途端にクシャッと髪を掻いた。
「羽津さんこそ、どうしたんです? 今は貴方の時間ではないでしょう?」
「いやだねぇ、いつでも俺の時間だろ? 頑張って仕事してる羽津さんをしっかり、眺めておいてほしいね」
「仕事? 羽津さんって仕事できたんですね」
「お酒が回ってない遠州さんもうざったいねぇ、ま、それが遠州さんの良いところなのかもしれないけど、ねぇ。……ん? そっちにいる方は? 遠州さんのコレかい?」
「違います、知り合いです」
ムムは立ち上がると、羽津と呼ばれた男性の目の前に立った。「くれぐれも間違えないでください」
羽津はムムのその強い意志に、少したじろいだ。「そ、そりゃすまないね」
ムムは羽津を観察する。歳は五十から六十手前だろうか? その頭は歳に逆らえなかったようで、薄い。それを隠しもせずにいるところは、羽津の良いところだろう。彼はその眼差しを、目一杯遠州に向けた。
「女将にでも用があったのかい?」
「まぁ。昨日のツケを払いたくて、それで会いに来たんですよ」
遠州の言葉に、羽津は驚いたように目を見開いた。「え? 遠州さんも?」
「……羽津さんも?」
「俺だけじゃない、昨日店に寄った皆そうらしくてね、女将は”ツケでいい”って、強情に押すもんだから、皆のツケの分も俺が持ってきたってわけ。仕事さぼってね」
「やっぱり仕事できないんじゃないですか」
そう言いながらも、遠州は嫌な予感が抜けなかった。
「女将さんは、そういうことをよくしますか?」ムムが聞いた。「ツケとか、そういうことを」
「女将の店に通い続けてもう何年にもなるが、そんなこと一回もなかったよ。女将はそういうこと厳しいんだ。……おかしいよな、まるで身辺整理みたいで」
羽津の言葉に遠州は頭が割れるような気分になった。もうたくさんだ。しかし、ムムはやめようとはしない。その羽津が持っている知識を、聞こうと必死だ。「女将の様子はどうでした?」
「どうってそりゃいつも通りよ、何か変な感じもなかったし、かといって俺らの愚痴を聞いてくれる感じもいつも通りだったし。……あぁ、でも一つだけ変なことがあったな」
「変なこと?」
「いやね、いつも店じまいは一時ぐらいだったんだが、昨日、いや今日か? まぁいいか、何故か二時ぐらいまで店を開けていたんだよねぇ、いつもならそんなことしないのに……不思議なもんだと思って聞いてみたんだ。そうしたら、”今日は店じまいをしたくない気分なの”だと。分かんねぇもんだよねぇ。何年も一緒にいるのに」
「確かに変だ……オレが店に来た時も早くから店を開けていたと、気になっていた……」
遠州の言葉に、羽津は困ったように笑った。「そう見えてしまうっていうとこもあるけどねぇ」
「不思議なこともありますね」
ムムは頷いた。遠州が考えていることが手に取るように分かっていたからだ。そしてそれに対する羽津の慰めも、全て分かっていた。だからこそ、遠州の焦りが、今は必要なのだと感じた。
「まぁ、店は開いてないし、また来るよぉ。遠州さんも、お勤め頑張って」
そう言って手をひらひらさせて、羽津は背を向けた。羽津に対し、遠州はお辞儀をする。ムムは嫌な雰囲気のまま、しかしどうすることもできない遠州と自分の力のなさを恨んだ。「遠州さん」
「……思えば思うほど、昨日の女将が違和感しかない」
「それは、果たして何の役になる?」
「役に立たなくても、それは持っておくべきものだろ? お前だってそんなこと分かってるはずだ。悲しみを忘れてしまったら、もうこの世に存在しているとは言えない」
「……そうかもしれない。でも、だからって……」
ムムの言葉を遮るようにして、遠州のケータイが光った。遠州はすぐさまそのケータイを手にした。メッセージはひどくシンプルで、それがどれほど急いでいたのかとい、送信者の優しさを垣間見せる。メッセージは女将の住所のみだ。場所は江ノ西区。コスモスⅡの二〇三号室。
「住所が分かった。江ノ西区コスモスⅡの二〇三号室。向かうぞ」
その瞬間、遠州のケータイが鳴った。
「もしもし、遠州だ。……は? ……そうか、分かった。すぐそっちに行く」
遠州の表情はかつてないほど険しく、ムムは胸がすくのを感じた。
”コスモスⅡで女性の死体が発見された”
それが女将でなければいいのにと思いながらも、遠州は諦めたような顔をして空を仰いだ。
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