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第五章 女将は優しく
第四節
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ムムと遠州はすぐに死体が発見されたアパートへと向かった。
女将、改めレモンは南区寄りの西区にある小さなアパートで暮らしていたようだ。女将の笑顔を思い出し、遠州は痛みを感じた。二度と見ることができないその笑顔に、遠州は、何度救われたかわからない。
「ここだな」
コスモスⅡと名前が彫ってあるアパートを前に遠州は頷いた。警官が何人か経っているアパートの入り口を抜け、そして二階へ続く階段を上る。綺麗でも、汚くもない。こじんまりという言い方が非常に似合うアパートだ。女将みたいだと、遠州は思った。
アパートの周りにはカメラを持った人間と、警官がもめている。小さな江ノで起きた大きな殺人事件など、記者が放っておいてはくれないだろう。遠州は、その様子を見て明日の新聞を見る気が失せた。もっとも、あまり新聞を読む習慣が遠州にはないが。
*
遺体が発見されたのはコスモスⅡの二〇三号室。扉の前に立ったムムは手袋をはめた。ここからは決して汚してはならない。事件現場なのだ。呼び鈴は壊れているらしく、押しても反応がない。元々訪ねてくる人もいなかったのかもしれない。遠州はそのドアノブに手をかけ、そして大きく息を吸った。ほぼ確定しているその遺体の人物に、女将ではない可能性を一パーセントでも願ったのだ。
「遅かったな」
扉を開けると、そこには呼ばれたのであろう松葉がいた。傍らには遺体には布が被せてある。
松葉に何も答えることはなく遠州はそっと布をめくった。いつもはまとめている髪が、ほどかれ、綺麗な黒髪が額縁のように彼女の美しさを助長しているようだ。死体となっても尚、彼女は美しいのか。遠州は心が奪われる感覚に陥った。そもそも彼女の顔を、酒がない状態でしっかりとみる機会がなかったというのもあるが、しかし女将と呼ばれる所以だった服も髪形も全てを失くした姿であっても、見間違えることなどない。
間違いなく、そこには死体となった女将がいた。
遠州は、涙などは出ないが、しかし昨日まで一緒に愚痴を聞いてもらっていた存在が消えたことに、身体のどこかが消えてしまったような感覚がした。
松葉によると、死亡推定時刻は今日の深夜二時から四時にかけてで、死因は頭部外傷による脳出血。ほぼ間違いなく他殺。部屋には少し争った跡があり、常連客である遠州の情報で女将が今日の深夜一時で閉店していたことから、その後何者かに殺されたとされている。
「そんな時間に家に来るなんて、男か?」
「よく見なよ、遠州さん。この家は誰かと住んでいる形跡なんて一つもない。一人暮らしだよ」
そう言いながらムムは冷蔵庫、食器、家具、その他レモンを示すような痕跡を見渡した。棚や机などの家具はどれも木製のもので揃えられている。たまにある派手な柄ものは常連客からの貰い物だろうか? どれもばらばらで、それらだけが部屋の中で浮いている。食器類はほぼなく、一人分の食器すら怪しいほど数が少ない。ムムは冷蔵庫を開けた。そこには片手で食べられる、食事にはならなそうなゼリーや携帯食料がぎっしりと並べられていた。彼女は食事に興味はなさそうだ。寝室にはベッドと加湿器がそれぞれ一つずつ。何かクッションがあるわけでも、ましてや天蓋があるわけでもない。ここには飾り気が一切ないのだ。
シーツの色は黒。カーテンの色は白。それよりも、とムムは部屋のあちこちにある写真に目を移した。どれもこれもきらびやかな衣装に身を包んだアイドル・ミカンの写真。レモンの興味はそこにしかないようだ。
「嫌でも結びつけたくなるよね、こんなの」
ユズの失踪事件を調査し始めた矢先のこの事件。ムムは唇を舐めた。
「しっかりしてよ、遠州さん」
「言われなくてもそうしたいんだけどな」
知り合いが、しかも昨日まで一緒にいたはずの、あの女将が殺された? 遠州の頭の中にどす黒い何かが渦巻くのを感じた。この感情は憎悪だ。そして、この感情が口から出てしまえば、それは復讐に代わってしまうだろう。「願うだけなら、罪じゃない」
ムムが言った。遠州は驚いたようにムムを見た。
「願えばいいよ。遠州さんが願っても、犯人は見つからないけどね」
ムムなりの慰めだと、その場にいた松葉は思った。長年一緒にいるからこそ分かるのだ。ムムの気持ちが。そして、ムムに慰められた遠州の気持ちも。
「うっせ。早くするぞ」
「うん。そうこなくちゃ」
遠州は目を閉じた。この家に住んでいたのであろう女将を想像する。彼女は俺に何をしてほしいだろうか? 死んで何を望むだろう? その疑問はすぐに答えが出た。最愛の姉を殺害した犯人を捕まえてほしいはずだ。そして、あの彼女なら墓を望むだろう。姉妹で入るための墓を。そこにツケを払うことも含めて。
「この家で分かることでもあるのか?」
「私は少なくともあると思っているよ。そしてそれができればこの事件は解決するだろう」
ムムはそう言うと、遠州に聞いた。「彼女の性格。なるべく簡潔に」
「居酒屋を経営していたが、酒は好きじゃなさそうだった。あと、出す料理も全て出来合いだったことから料理も好んでする太刀ではないだろう。常連客はほとんど男。女将とどうこうなりたい奴も多かっただろうが、女将はそういうところはしっかりしていたな。俺という警察の知り合いがいることを周囲にちらつかせていたよ。話、というか愚痴を聞くのはプロだった」
「遠州さんも彼女狙いで常連に?」「馬鹿言え。たまたまだ、たまたま」
「へぇ」
遠州は話題を変えずにぼやいた。
「勿論人としては気に入っていた部分はあったが……隙を一切見せない女だったからな。プライベートなところまで興味がそそられることはなかった」
隙を見せなかったのか、それとも見せないようにせざるを得なかったのか。ムムは彼女の心境を考える。ユズという最愛の姉がいなくなってしまい、悪行をするようになったレモン。それから養護施設を飛び出し、どんな努力を重ねたのだろうか? 死んでしまいたいと思うことはあったのだろうか? しかし彼女は今日殺されるまでその生を全うした。愛される居酒屋の女将として。
「彼女、相当な姉思いだったんだろうね」
ムムの言葉に、遠州は頷いた。部屋に写真を飾るぐらいだ。もしかしたら毎日の生きる糧にしていたかもしれない。
「これまで見てきたアイドル・ミカンのファンたちとは全然違う。自分のために応援していた奴らとは違うのは、まぁ、当たり前か」
「大事な家族を思う気持ちってやつだね」
遠州はムムと同じように、女将の住んでいた部屋を見渡した。柔らかな木の素材の家具たちは彼女を表すようだった。部屋に充満する匂いは芳香剤ではなく、彼女が纏っていた香水の香りだ。使われた形跡などほとんどない台所で遠州は考える。
どれだけ客が来ても笑顔を絶やすことのなかった彼女。しかしその裏では、ゆっくりとした食事も満足にできないほどに忙しかったのだ。贅沢をしていたようには見えない。趣味があったようにも。それでも毎日仕事をしていた。モチベーションは? それを探るために辺りを見渡す遠州の目に違和感が写った。写真のミカンだ。動かないはずの彼女が遠州に向かってほほ笑んだ気がした。彼女のモチベーションはこれだったのかもしれない。遠州は胸のどこかが痛むような気がした。
ムムは用心深く一度見渡した部屋内をもう一度見た。最初は無機質で、寝るためだけの家に見えた。しかし遠州のその眼差しを向けた姿を映しながら見たこの家はまた一段と違うように見える。
そう、孤独でいっぱいの部屋。誰かに縋りたかったのかもしれない。唯一二つ揃えられたマグカップを見てそんなことさえ思った。
女将の人柄を知るには何かを見落としている。ムムは直感した。色がないこの部屋。女将は無機質と常に向き合っていたのだろうか? 住居に興味はなかった? 心の支えは姉であるユズ。たった一人の肉親。飾られたアイドル・ミカンの写真はどれもこれも輝かしいもの。自身で集めたのだろうか? いやまて、もしかして会いに行った? ムムは瞬間的にミカンの写真の額縁を外して、写真を見た。アイドル活動を始めて一周年記念として作られたもの。手に入りづらいと桔梗が言っていたはずなのに、どうしてこれをレモンが?
ムムの頭の中に一つの仮説が浮かんだ。しかしその仮説を証明するためには、もう一つの結論に答えを出さなければいけない。ムムがこの事件に関わり始めた原点である手紙。あれを誰が出したのか分からない限り事件は解けない。
そもそも、とムムは疑問を並べた。手紙を出したのは誰か。ユズが失踪したのは何故か。レモンを殺したのは誰か。ムムにとって一番気がかりなのは手紙の差出人だった。というか、そこからしか候補を絞ることはできない。ユズの捜索から始まったこの事件は、関わった人が皆、隠し事をしている。悩みと言った方がいい。とにかく、人には言えないような、やましいことがあるのだ。そんなもの、ない人を探す方が難しいのかもしれない。
「女将がここに住んでいたことは間違いないだろうな」
ムムが頭を悩ましているとき、遠州がふとそんなことを言った。「どうして?」
「彼女の香水の匂いが、そこかしこからする」
「香水?」
「あぁ。彼女、一応飲食店を経営している身だからな。自身に香水は降らないとも、家具やそこらへんに貼ってあった絵には存分に吹きかけていた。今思えばセンスはなかったな。女将が選ぶ絵はどれも子供が書いたようなそんなよく分からない絵ばかりだった。オレのセンスがないわけじゃないぞ。あっちのセンスがなかった。他の常連客からも馬鹿にされていたから、これは間違いない。」
女将と名乗るレモンに会ったことがないムムには、その香りすら彼女という人物を想像する材料だった。爽やかで、果実っぽいような、しかし最後に甘い何かが残る。それがなぜか心地よい。ムムにふとある案が浮かんだ。仮説を実証する方法ではないが、しかしこれが一番手っ取り早いのかもしれない。そしてそのためにはいくつかの越えなければならないハードルが存在することも知っていた。
「あぁ、これ。香水だったの。てっきり芳香剤化と」
「俺もそう感じた。違うのか?」
「彼女は嫌われない努力をしていたのさ。おそらく全人類から嫌われないように」
ムムにはそれが無謀なことに感じなかった。「嫌われたことがある人間じゃないとそうは思わない」
「客から暴言吐かれるようなことはなかったと思うが……そもそも彼女はオレの肩書を利用して酔っぱらいと接していたからな。たくましかったぞ」
「確かに、誰からも好かれるような、そんな匂いだ」
ムムはふと、レモンの寝室に置かれたノートを見つけた。迷わず中を覗くと、なるほど。その日に来た客の個人情報をまとめたものだった。個人情報というより、レモンがどういう印象を受けたかが書いてある。接客業とは大変だとムムは素直に思った。見知った名前もある。驚くことに、根岸も、生成も、それから桔梗も、レモンの店に来ていたらしい。レモンの字だろうか、少し乱雑な字でそれぞれ記載がある。
――――――――――――――
七月十三日。桔梗さん。入ってくるなりいきなり写真を撮ろうとしてきた常識のない人。お酒も頼まず、食事もせずの何しに来たか分からない。写真が撮りたいしか言わないから、面倒くさくなって追い返しちゃった。ホントこういう人困る。久しぶりの新規さん。
七月十五日。根岸さん。とっても酔っぱらっていたから、お酒に弱いのかも。ずっと愚痴っていたのは、別れた奥さんのこと。大変そうだなって思った。別れた奥さんが。
七月二十日。生成さん。私の顔を見て嫌そうな顔をしていたおデブちゃん。もしかして容姿コンプレックスがあるのかも? 最近新規のお客さんが多いなぁ。生成さんもそのうちの一人。
――――――――――――――
決定的なものを見たような気になった。彼らはレモン、つまりミカンの妹が居酒屋にいることを知っていたのだ。どうやって知ったのか。ムムは自身の考えに、決断をした。その勇気こそがムムを探偵としてここまで成長させてくれたのだ。
「見てよ、遠州さん。事情聴取した三人の名前がある」
「……あいつらも店に来てたのかよ。一週間以内に三人が来たという点は妙だが、女将の感想に意見するところはないな。オレについてなんて書いているか気になるぐらいか」
「遠州さんの名前は……あぁ、これか」
――――――――――――――
一月三日。遠州さん。何故か店の前で蹲っていたので、お水をあげたらすごく悲しそうな顔でお店に入店。あんまり話したがらないからお酒を飲んでもらった。私の話を聞いてもらって、そうしたら満足そうに帰っちゃった。エスさん、と呼ぶのはなんだか気を引けるし、年下らしいから、エースちゃんって呼ぼう。何だか分からないけど、彼とは長い付き合いになりそうだ。勿論勘だけど。
――――――――――――――
「エースちゃん? 変なあだ名だな」
「女将にはこう写ってたんだな。オレの姿」「悲しそうだったらしい」
「うっせ。仕事がきつくて、路上で寝ちまっただけだ」
遠州はひどく焦るような口調で、ムムと松葉の冷やかしをたしなめた。遠州は砕けた表情をすぐに元に戻した。くだらない話をすればするほど、女将がこの世界から消えたことを再認識してしまうのだ。そんな遠州を見て、ムムは覚悟した。
もう十分だ。
「死亡推定時刻は深夜二時ぐらいだったか? 凶器は見つかったのか?」
「今辺りを捜索中だ。見つかるかどうかは分からん」
「見つかるさ。必ず」ムムは笑った。「しかしまぁ、証拠にはならないと思うけど」
ムムの言葉に、遠州は目を見開いた。松葉はふぅと息を吐く。二人してムムの顔を確認した。彼女、ムムは笑っていた。とても楽しそうに。そしてそれを見て松葉はムムにとって探偵が天職だと再認識した。彼女には探偵という職が一番輝くのだ。事件というおぞましい人間の感情、それが良くも悪くもムムを輝かせる。
「ユズさんと、レモンさん。この二つの殺人。これは同一犯によるものだ。そして、彼女たちを殺した犯人を、私は突き止めた。事件は解決させる。必ずね」
女将、改めレモンは南区寄りの西区にある小さなアパートで暮らしていたようだ。女将の笑顔を思い出し、遠州は痛みを感じた。二度と見ることができないその笑顔に、遠州は、何度救われたかわからない。
「ここだな」
コスモスⅡと名前が彫ってあるアパートを前に遠州は頷いた。警官が何人か経っているアパートの入り口を抜け、そして二階へ続く階段を上る。綺麗でも、汚くもない。こじんまりという言い方が非常に似合うアパートだ。女将みたいだと、遠州は思った。
アパートの周りにはカメラを持った人間と、警官がもめている。小さな江ノで起きた大きな殺人事件など、記者が放っておいてはくれないだろう。遠州は、その様子を見て明日の新聞を見る気が失せた。もっとも、あまり新聞を読む習慣が遠州にはないが。
*
遺体が発見されたのはコスモスⅡの二〇三号室。扉の前に立ったムムは手袋をはめた。ここからは決して汚してはならない。事件現場なのだ。呼び鈴は壊れているらしく、押しても反応がない。元々訪ねてくる人もいなかったのかもしれない。遠州はそのドアノブに手をかけ、そして大きく息を吸った。ほぼ確定しているその遺体の人物に、女将ではない可能性を一パーセントでも願ったのだ。
「遅かったな」
扉を開けると、そこには呼ばれたのであろう松葉がいた。傍らには遺体には布が被せてある。
松葉に何も答えることはなく遠州はそっと布をめくった。いつもはまとめている髪が、ほどかれ、綺麗な黒髪が額縁のように彼女の美しさを助長しているようだ。死体となっても尚、彼女は美しいのか。遠州は心が奪われる感覚に陥った。そもそも彼女の顔を、酒がない状態でしっかりとみる機会がなかったというのもあるが、しかし女将と呼ばれる所以だった服も髪形も全てを失くした姿であっても、見間違えることなどない。
間違いなく、そこには死体となった女将がいた。
遠州は、涙などは出ないが、しかし昨日まで一緒に愚痴を聞いてもらっていた存在が消えたことに、身体のどこかが消えてしまったような感覚がした。
松葉によると、死亡推定時刻は今日の深夜二時から四時にかけてで、死因は頭部外傷による脳出血。ほぼ間違いなく他殺。部屋には少し争った跡があり、常連客である遠州の情報で女将が今日の深夜一時で閉店していたことから、その後何者かに殺されたとされている。
「そんな時間に家に来るなんて、男か?」
「よく見なよ、遠州さん。この家は誰かと住んでいる形跡なんて一つもない。一人暮らしだよ」
そう言いながらムムは冷蔵庫、食器、家具、その他レモンを示すような痕跡を見渡した。棚や机などの家具はどれも木製のもので揃えられている。たまにある派手な柄ものは常連客からの貰い物だろうか? どれもばらばらで、それらだけが部屋の中で浮いている。食器類はほぼなく、一人分の食器すら怪しいほど数が少ない。ムムは冷蔵庫を開けた。そこには片手で食べられる、食事にはならなそうなゼリーや携帯食料がぎっしりと並べられていた。彼女は食事に興味はなさそうだ。寝室にはベッドと加湿器がそれぞれ一つずつ。何かクッションがあるわけでも、ましてや天蓋があるわけでもない。ここには飾り気が一切ないのだ。
シーツの色は黒。カーテンの色は白。それよりも、とムムは部屋のあちこちにある写真に目を移した。どれもこれもきらびやかな衣装に身を包んだアイドル・ミカンの写真。レモンの興味はそこにしかないようだ。
「嫌でも結びつけたくなるよね、こんなの」
ユズの失踪事件を調査し始めた矢先のこの事件。ムムは唇を舐めた。
「しっかりしてよ、遠州さん」
「言われなくてもそうしたいんだけどな」
知り合いが、しかも昨日まで一緒にいたはずの、あの女将が殺された? 遠州の頭の中にどす黒い何かが渦巻くのを感じた。この感情は憎悪だ。そして、この感情が口から出てしまえば、それは復讐に代わってしまうだろう。「願うだけなら、罪じゃない」
ムムが言った。遠州は驚いたようにムムを見た。
「願えばいいよ。遠州さんが願っても、犯人は見つからないけどね」
ムムなりの慰めだと、その場にいた松葉は思った。長年一緒にいるからこそ分かるのだ。ムムの気持ちが。そして、ムムに慰められた遠州の気持ちも。
「うっせ。早くするぞ」
「うん。そうこなくちゃ」
遠州は目を閉じた。この家に住んでいたのであろう女将を想像する。彼女は俺に何をしてほしいだろうか? 死んで何を望むだろう? その疑問はすぐに答えが出た。最愛の姉を殺害した犯人を捕まえてほしいはずだ。そして、あの彼女なら墓を望むだろう。姉妹で入るための墓を。そこにツケを払うことも含めて。
「この家で分かることでもあるのか?」
「私は少なくともあると思っているよ。そしてそれができればこの事件は解決するだろう」
ムムはそう言うと、遠州に聞いた。「彼女の性格。なるべく簡潔に」
「居酒屋を経営していたが、酒は好きじゃなさそうだった。あと、出す料理も全て出来合いだったことから料理も好んでする太刀ではないだろう。常連客はほとんど男。女将とどうこうなりたい奴も多かっただろうが、女将はそういうところはしっかりしていたな。俺という警察の知り合いがいることを周囲にちらつかせていたよ。話、というか愚痴を聞くのはプロだった」
「遠州さんも彼女狙いで常連に?」「馬鹿言え。たまたまだ、たまたま」
「へぇ」
遠州は話題を変えずにぼやいた。
「勿論人としては気に入っていた部分はあったが……隙を一切見せない女だったからな。プライベートなところまで興味がそそられることはなかった」
隙を見せなかったのか、それとも見せないようにせざるを得なかったのか。ムムは彼女の心境を考える。ユズという最愛の姉がいなくなってしまい、悪行をするようになったレモン。それから養護施設を飛び出し、どんな努力を重ねたのだろうか? 死んでしまいたいと思うことはあったのだろうか? しかし彼女は今日殺されるまでその生を全うした。愛される居酒屋の女将として。
「彼女、相当な姉思いだったんだろうね」
ムムの言葉に、遠州は頷いた。部屋に写真を飾るぐらいだ。もしかしたら毎日の生きる糧にしていたかもしれない。
「これまで見てきたアイドル・ミカンのファンたちとは全然違う。自分のために応援していた奴らとは違うのは、まぁ、当たり前か」
「大事な家族を思う気持ちってやつだね」
遠州はムムと同じように、女将の住んでいた部屋を見渡した。柔らかな木の素材の家具たちは彼女を表すようだった。部屋に充満する匂いは芳香剤ではなく、彼女が纏っていた香水の香りだ。使われた形跡などほとんどない台所で遠州は考える。
どれだけ客が来ても笑顔を絶やすことのなかった彼女。しかしその裏では、ゆっくりとした食事も満足にできないほどに忙しかったのだ。贅沢をしていたようには見えない。趣味があったようにも。それでも毎日仕事をしていた。モチベーションは? それを探るために辺りを見渡す遠州の目に違和感が写った。写真のミカンだ。動かないはずの彼女が遠州に向かってほほ笑んだ気がした。彼女のモチベーションはこれだったのかもしれない。遠州は胸のどこかが痛むような気がした。
ムムは用心深く一度見渡した部屋内をもう一度見た。最初は無機質で、寝るためだけの家に見えた。しかし遠州のその眼差しを向けた姿を映しながら見たこの家はまた一段と違うように見える。
そう、孤独でいっぱいの部屋。誰かに縋りたかったのかもしれない。唯一二つ揃えられたマグカップを見てそんなことさえ思った。
女将の人柄を知るには何かを見落としている。ムムは直感した。色がないこの部屋。女将は無機質と常に向き合っていたのだろうか? 住居に興味はなかった? 心の支えは姉であるユズ。たった一人の肉親。飾られたアイドル・ミカンの写真はどれもこれも輝かしいもの。自身で集めたのだろうか? いやまて、もしかして会いに行った? ムムは瞬間的にミカンの写真の額縁を外して、写真を見た。アイドル活動を始めて一周年記念として作られたもの。手に入りづらいと桔梗が言っていたはずなのに、どうしてこれをレモンが?
ムムの頭の中に一つの仮説が浮かんだ。しかしその仮説を証明するためには、もう一つの結論に答えを出さなければいけない。ムムがこの事件に関わり始めた原点である手紙。あれを誰が出したのか分からない限り事件は解けない。
そもそも、とムムは疑問を並べた。手紙を出したのは誰か。ユズが失踪したのは何故か。レモンを殺したのは誰か。ムムにとって一番気がかりなのは手紙の差出人だった。というか、そこからしか候補を絞ることはできない。ユズの捜索から始まったこの事件は、関わった人が皆、隠し事をしている。悩みと言った方がいい。とにかく、人には言えないような、やましいことがあるのだ。そんなもの、ない人を探す方が難しいのかもしれない。
「女将がここに住んでいたことは間違いないだろうな」
ムムが頭を悩ましているとき、遠州がふとそんなことを言った。「どうして?」
「彼女の香水の匂いが、そこかしこからする」
「香水?」
「あぁ。彼女、一応飲食店を経営している身だからな。自身に香水は降らないとも、家具やそこらへんに貼ってあった絵には存分に吹きかけていた。今思えばセンスはなかったな。女将が選ぶ絵はどれも子供が書いたようなそんなよく分からない絵ばかりだった。オレのセンスがないわけじゃないぞ。あっちのセンスがなかった。他の常連客からも馬鹿にされていたから、これは間違いない。」
女将と名乗るレモンに会ったことがないムムには、その香りすら彼女という人物を想像する材料だった。爽やかで、果実っぽいような、しかし最後に甘い何かが残る。それがなぜか心地よい。ムムにふとある案が浮かんだ。仮説を実証する方法ではないが、しかしこれが一番手っ取り早いのかもしれない。そしてそのためにはいくつかの越えなければならないハードルが存在することも知っていた。
「あぁ、これ。香水だったの。てっきり芳香剤化と」
「俺もそう感じた。違うのか?」
「彼女は嫌われない努力をしていたのさ。おそらく全人類から嫌われないように」
ムムにはそれが無謀なことに感じなかった。「嫌われたことがある人間じゃないとそうは思わない」
「客から暴言吐かれるようなことはなかったと思うが……そもそも彼女はオレの肩書を利用して酔っぱらいと接していたからな。たくましかったぞ」
「確かに、誰からも好かれるような、そんな匂いだ」
ムムはふと、レモンの寝室に置かれたノートを見つけた。迷わず中を覗くと、なるほど。その日に来た客の個人情報をまとめたものだった。個人情報というより、レモンがどういう印象を受けたかが書いてある。接客業とは大変だとムムは素直に思った。見知った名前もある。驚くことに、根岸も、生成も、それから桔梗も、レモンの店に来ていたらしい。レモンの字だろうか、少し乱雑な字でそれぞれ記載がある。
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七月十三日。桔梗さん。入ってくるなりいきなり写真を撮ろうとしてきた常識のない人。お酒も頼まず、食事もせずの何しに来たか分からない。写真が撮りたいしか言わないから、面倒くさくなって追い返しちゃった。ホントこういう人困る。久しぶりの新規さん。
七月十五日。根岸さん。とっても酔っぱらっていたから、お酒に弱いのかも。ずっと愚痴っていたのは、別れた奥さんのこと。大変そうだなって思った。別れた奥さんが。
七月二十日。生成さん。私の顔を見て嫌そうな顔をしていたおデブちゃん。もしかして容姿コンプレックスがあるのかも? 最近新規のお客さんが多いなぁ。生成さんもそのうちの一人。
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決定的なものを見たような気になった。彼らはレモン、つまりミカンの妹が居酒屋にいることを知っていたのだ。どうやって知ったのか。ムムは自身の考えに、決断をした。その勇気こそがムムを探偵としてここまで成長させてくれたのだ。
「見てよ、遠州さん。事情聴取した三人の名前がある」
「……あいつらも店に来てたのかよ。一週間以内に三人が来たという点は妙だが、女将の感想に意見するところはないな。オレについてなんて書いているか気になるぐらいか」
「遠州さんの名前は……あぁ、これか」
――――――――――――――
一月三日。遠州さん。何故か店の前で蹲っていたので、お水をあげたらすごく悲しそうな顔でお店に入店。あんまり話したがらないからお酒を飲んでもらった。私の話を聞いてもらって、そうしたら満足そうに帰っちゃった。エスさん、と呼ぶのはなんだか気を引けるし、年下らしいから、エースちゃんって呼ぼう。何だか分からないけど、彼とは長い付き合いになりそうだ。勿論勘だけど。
――――――――――――――
「エースちゃん? 変なあだ名だな」
「女将にはこう写ってたんだな。オレの姿」「悲しそうだったらしい」
「うっせ。仕事がきつくて、路上で寝ちまっただけだ」
遠州はひどく焦るような口調で、ムムと松葉の冷やかしをたしなめた。遠州は砕けた表情をすぐに元に戻した。くだらない話をすればするほど、女将がこの世界から消えたことを再認識してしまうのだ。そんな遠州を見て、ムムは覚悟した。
もう十分だ。
「死亡推定時刻は深夜二時ぐらいだったか? 凶器は見つかったのか?」
「今辺りを捜索中だ。見つかるかどうかは分からん」
「見つかるさ。必ず」ムムは笑った。「しかしまぁ、証拠にはならないと思うけど」
ムムの言葉に、遠州は目を見開いた。松葉はふぅと息を吐く。二人してムムの顔を確認した。彼女、ムムは笑っていた。とても楽しそうに。そしてそれを見て松葉はムムにとって探偵が天職だと再認識した。彼女には探偵という職が一番輝くのだ。事件というおぞましい人間の感情、それが良くも悪くもムムを輝かせる。
「ユズさんと、レモンさん。この二つの殺人。これは同一犯によるものだ。そして、彼女たちを殺した犯人を、私は突き止めた。事件は解決させる。必ずね」
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