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四章 甘く包まれる
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一緒に飲もうと約束した珈琲豆は自宅に置いたままで、工房に残る豆は必死にかき集めても一人分がせいぜいだった。
散々互いをむさぼった後、精で汚れた体をタオルで拭きあい、ビーシュとレオンハルトは明日、珈琲を飲もうと約束をして別れた。
天井近くの窓を見やれば、もうだいぶ暗くなっていた。
随分と長い時間を、繋がっていたようだ。
体の疲労は激しいが、いつものような焦燥感はないのが不思議だ。
なにげなく交わした約束すら不安にならず、ただ、楽しみに明日が来るのをまっていられるような気がする。
「もういちど、ここでするなんてねぇ。しかも、床で」
工房の奥は、ほぼビーシュの私的な空間になっているとはいえ、職場にかわりはない。
ビーシュは自家製のブレンド珈琲をちびちびと啜りながら、あちこち、軋むように傷む体をさすった。
「……恋、か」
何十年と、縁の無かった言葉だ。
いまさら、恋を問うようになるとは思ってもみなかった。
汚れた床を見るとレオンハルトとの情事を思い出すので、ビーシュは工房へと戻り、作業台へカップを置いた。
長年使い込んだ椅子に座ろうとして、つま先に何かがあたった。サファイアの義眼だ。
義眼をいじっていたレオンハルトの指を思い出し、ぎゅっと下腹が引きつる。
「ぼくも、レオくんに恋をしているのかな?」
射貫くように見据えてくる視線が、たまらなく好きだった。
ここにいると袖を引っ張らなくとも、視界の中に閉じ込めてくれる。
抱きしめられるよりも、キスをされるよりも。
体を深く繋ぐよりもずっと心地いい。
ずっと、閉じ込められていたい。
ビーシュは義眼を拾い上げ、白衣の袖で綺麗に汚れをぬぐった。
宝石で義眼を作るのは、思い出を残すためだったが、このサファイアは少し違うように思える。
くちづけをし、そっと両手で握りしめ、そのまま胸に押しつけると、今まで感じたことのないじんわりとした熱さが体に広がってゆくのを感じた。
鼻がしらがじんと熱くなり、零れた涙が眼鏡を濡らす。
気持ちの良い涙だった。
レオンハルトを思うと、体が熱くなる。性欲とは少し違った、緩やかな熱だった。
言葉には表せない強い感情が、涙となってあふれでているのかもしれない。
「こんな、涙もあるんだね」
ビーシュが最後に泣いたのは、父が焼かれて煙になった時だっただろうか。
かなしくてかなしくて、声がかれるほど泣いて。
泣き続けても、失ったものは元に戻らないのだと知った日。その時に、涸れて無くなったとばかり思っていた。
男を知っても、祖父が亡くなり本当の天涯孤独となっても、ビーシュは泣けなかった。
泣けば悲しくなるから、泣けなかった。
悲しくなくとも泣くのだと、初めて知った。
この感情を、人は愛おしいと呼ぶのかもしれない。
サファイアの義眼をポケットにしまって、ビーシュは少し苦い珈琲をいっきに煽る。
様々な豆が混ざり合った珈琲は複雑な味がしたが、けっして悪いものではなかった。
ビーシュは祖父が残してくれた道具があちこちに散らばる工房を眺める。
父がいて、母がいて。
すこしは家族らしかった日々を思い出そうとしてやめた。三十年以上経っているので、記憶は驚くほどに曖昧で、なんとなくしかでてこない。
幸せだったのか、辛かったのだろうか。それすらも、曖昧だ。
(でも、今はどうしてだろう。悲しくないんだ)
すべては過ぎ去った現実として、受け入れられている自分がいる。
今更ながら、生きてきた年数の長さを感じていた。
「ぼくは、ずっと立ち止まっていたんだね。春が来て夏が来て、秋が来て冬が来て。季節が巡るように、ぼくは上手く生きてこれなかったんだ」
窓から覗く、冬空の下。
レオンハルトは、婚約破棄の尻ぬぐいをしなくちゃいけないと、今は自宅に向かっている。
もしも、気が変わって。婚約する気になったらどうしようか。
空になったカップを手の中で遊びつつ、ビーシュは、それはそれで良いのかもしれないと口元を緩めた。
レオンハルトがほかの誰かを好きになっても、その視線の中にいられるだけでいい。好きと言われなくなっても、構わない。
愛おしいと思う気持ちさえ失わなければ、ビーシュは満たされていられる。馬鹿な男だと笑われるかもしれないが、ほんのささやかな望みだけで、今はじゅうぶんだった。
「でも、できれば……一緒にいられたら、いいけどね」
珈琲を飲んでひと息ついた。
星空が見えるが、時刻としてはまだ早い。いまから自宅に戻り、部屋を片付けよう。
明日、ビーシュの自宅で珈琲を飲む約束をした。
まさか、誰かを招く機会ができるなんて思っていなかったから、夜通しの作業になるかもしれない。
体はひどく疲れていたが、心はとても浮かれていた。
ビーシュは作業台を手早く片付け、工房を出て鍵を掛けた。
病院は受付をとっくに終了していて、夜勤の職員と入院患者しかおらずとても静かだ。
帰り際、軽く食べられるものを買おう。そう、頭の中で算段しながら階段を上りきった先で、ビーシュは見慣れない人影に首をかしげた。
「お帰りですか、スフォンフィール先生」
灰色の髪を短く切った男は、患者でも、患者の家族でもなさそうだ。もちろん、医師や看護師でもない。
さすがにビーシュも警戒しながら、男をじいっと見つめる。
「ぼく、あなたとお会いしたことがありますか?」
「いいえ、はじめてですよ。ただ、妹のほうは多少ならず面識があるかもしれません。ロナード様の身の回りの世話をしていますので」
ビーシュのわずかばかりの警戒心をほどくよう、ゆっくりとしゃべる男に、合点がいったと頷きかえした。
「サティさんの、お兄さんですか」
「ええ、双子の兄です。よく似ているでしょう? オレはレスティです。よろしくお見知りおきを」
全くの他人でないとわかって、ビーシュはほっと息をついた。
「あの、エヴァン様は、お怒りになられていませんか? その、ぼくはたぶん、失礼な帰りかたをしてしまったようなきがして」
「いいえ、お気になさらず。たまには振られるのも一興でありましょう」
くるっと背を向け、職員用の出口に向かって歩き出すレスティを慌てて追いかける。
「ロナード様より伝言を申しつかり、お邪魔させていただきました。いや、なかなかお声を掛けられず、結果として盗み聞きのようなことをしてしまい、申し訳無く思っております」
「……えっ?」
「エヴァン様も、ご自分が思っている以上にあなたにご執心なのかもしれませんねぇ」
にたにたと笑うレスティに、ビーシュは両手で顔を覆った。まさか、レオンハルトとの情事を覗かれていたのだろうか。
確かめたいが、恥ずかしすぎて問えない。表情だけでは、確かなことはわからない。
「先生、あなたそうやって何人もの男を落としてきたんですか? 四十二のおじさんって思っていたんですけどね、こりゃあロナード様もふらつくわけだ」
振り返ったレスティが、するっとビーシュの懐に入り込んで、片手で顎を強く押さえてくる。
あっという間の接近に、ビーシュは圧迫される苦しさよりも、驚いて目を瞬かせた。
「かわいらしいですね」
「……んっ!」
尖った舌に、唇を舐められる。ぞわっと背中に広がる嫌悪感に、ビーシュは体をこわばらせた。
「ふふ、いやいや。すみません、悪ふざけが過ぎました。先生、オレと一緒にロナード様のところまで来ていただきたい。大事な商談があるようで、先生にどうしても出席してもらいたいと」
ビーシュはレスティを突き飛ばし、服の袖でごしごしと唇をぬぐった。
どうしてだろう、レスティには申し訳ないが、とても気持ちが悪かった。
「メルビスの宝飾品の商談です。先生も、多少の興味はあるんじゃあないですかね?」
無いとは、言えなかった。
本物よりもずっと精巧で、美しい贋作。その手癖を、ビーシュは知っているきがした。知りたいと、おもう気持ちはないわけではない。
「でも、今……ですか?」
「ええ、今です」
即答で返してくるレスティに、ビーシュはたじろぎながら、どうするべきかうつむいた。
「……まあ、先生には選択権なんて無いんですけどね」
ぬっと伸びてきた腕に拘束され、もがくまもなくビーシュは口元を分厚い布で覆われた。
「オレの一族に伝わる秘薬です。良い夢が、みられるといいですね」
いくつかの薬草をしみこませた、複雑な香り。吸い込みたくなくとも、呼吸と一緒に肺に潜り込んできて、ビーシュはとろんと表情を溶かし、くずおれた。
婚約破棄の一報をうけて、オスカー家の対応はひどく淡々としたものだった。
レオンハルトの結婚騒動は、今に始まったものではなく、おまけに今回の相手は移民の軍人と駆け落ち未遂のあげく、持ち込まれる縁談をことごとく断っている曰く付きの女性、エリス・アーカムだ。
オスカー家の三人の男子の中で、上二人はすでに結婚して子供もいる。跡継ぎに困らない状況とあっては、上手く成立すれば上々といったくらいの、軽い気持ちだったのだろう。
アーカム家としては、災難だったのかもしれないが。
オスカー家の客間で、レオンハルトは不機嫌を隠そうともしないニルフと対面した。
婚約の破棄を言い出したのは、レオンハルトではなくエリスだった。
ニルフはアーカム家の代表として婚約破棄の詫びをいれにオスカー家に来ていた。
「随分と、遅いお帰りですね」
レオンハルトがビーシュの工房を出て家に戻る頃には、とっくに話し合いは終わり、夕食も済んだ後だった。
「僕の代わりに夕飯を食べてくれて、感謝するよ。うちの料理長は、少しばかり気むずかしくてね。料理が残るととたんに不機嫌になって、しばらく不味くなってしまうんだ」
「それ、遠回しの嫌みだったりしますか?」
「いいや、素直な感謝の気持ちだけれど。どうして?」
なにか、気分を害することでも言っただろうか。首をかしげると、ニルフは髪をかきむしって大きく、わざとらしいため息をついてみせた。
「そうですね、昔からレオンさんは悪い意味で表裏のない人でした。でも、好きでしたよ。貴族軍人らしく強くて賢くて……あなたと話しているときの姉さんはとても楽しそうだったから、上手くいくかもしれないと思っていたんです」
ニルフの心境を理解してやれるほど察しの良くないレオンハルトでも、深く失望させてしまったのはわかった。
「ごめんね、僕もエリスも、君の期待にはこたえられそうにない」
「姉さんよりも、あの、眼鏡の冴えない男のほうがいいんですか?」
わずかに滲むニルフの嫌悪感に、誰のことをいているのかと小首をかしげる。
「ビーシュのことかな? ひどいな、あんなに可愛いのに」
きっと、エリスも気に入るだろう。
――と言うよりも先に、ニルフがいらだたしげに立ち上がった。
「やっぱり、理解できませんよ。レオンさん、あなたはもっと素晴らしい未来があるはずなんだ」
互いの家が了承している以上、婚約破棄は成立している。ニルフが何を言おうと元には戻らないし、レオンハルトもエリスも友人以上の関係を築く気は毛頭無かった。ある意味、落ち着くべき場所に落ち着いたとも言える。
「もっと、素晴らしい未来か。それって、どんな未来なのかい?」
「家の安寧、妻を娶ること、子をなすこと、地位を確立すること、たくさんあるでしょう?」
即答してくるニルフに、レオンハルトはすごいなと返しつつも、頭を振る。
すべて、自分にはなんら興味のわかない物事だった。
「僕は、君よりもずっと、守りたいと思うものが少ない。そのせいかな、一緒にいたいと思う人と一緒にいることしか考えきれないんだ」
「一緒にいたいともう人に、姉は含まれていないと?」
ぎりっと拳を握るニルフに臆さず、レオンハルトは頷きかえした。
「エリスは、たまに会いたい大事な友人だよ。とても大事な人だ」
ニルフの表情がゆがむ。今にも泣き出しそうな顔だった。
悪いなと思う気持ちはあるが、嘘は言えない。取り繕う言葉すら、多くを知らない。
「なら、どうして婚約を受けたんですか」
「エリスなりの好意だったからね、断る理由も、その時にはなかったんだ」
ビーシュに出会っていなければ、淡々と流れるままに生きていただろう。それも、けっして悪い人生ではない。
流されず、立ち止まることを覚えた。川の流れから飛び出すほどに素敵なものを、レオンハルトは見つけてしまった。
「僕は、彼のことが好きなんだ」
体に染みつく、珈琲の香り。
つかんだら離さない、本人はおそらく気付いていないであろうアメジストの強い視線。
思い出すと、体の芯がじんわりと熱くなる。いてもたってもいられない。できるなら、今すぐにでも会いに行きたい。
ついさっきまで激しく求め合ったのに、足らないと思うなんて初めてだった。
「……帰ります」
ニルフは怒りではなく、寂しさを肩に乗せ、早足にドアへと歩いて行った。
レオンハルトに、ニルフを引き留める言葉はない。何を言っても、満足のゆく答えをあげられる気がしなかった。
散々互いをむさぼった後、精で汚れた体をタオルで拭きあい、ビーシュとレオンハルトは明日、珈琲を飲もうと約束をして別れた。
天井近くの窓を見やれば、もうだいぶ暗くなっていた。
随分と長い時間を、繋がっていたようだ。
体の疲労は激しいが、いつものような焦燥感はないのが不思議だ。
なにげなく交わした約束すら不安にならず、ただ、楽しみに明日が来るのをまっていられるような気がする。
「もういちど、ここでするなんてねぇ。しかも、床で」
工房の奥は、ほぼビーシュの私的な空間になっているとはいえ、職場にかわりはない。
ビーシュは自家製のブレンド珈琲をちびちびと啜りながら、あちこち、軋むように傷む体をさすった。
「……恋、か」
何十年と、縁の無かった言葉だ。
いまさら、恋を問うようになるとは思ってもみなかった。
汚れた床を見るとレオンハルトとの情事を思い出すので、ビーシュは工房へと戻り、作業台へカップを置いた。
長年使い込んだ椅子に座ろうとして、つま先に何かがあたった。サファイアの義眼だ。
義眼をいじっていたレオンハルトの指を思い出し、ぎゅっと下腹が引きつる。
「ぼくも、レオくんに恋をしているのかな?」
射貫くように見据えてくる視線が、たまらなく好きだった。
ここにいると袖を引っ張らなくとも、視界の中に閉じ込めてくれる。
抱きしめられるよりも、キスをされるよりも。
体を深く繋ぐよりもずっと心地いい。
ずっと、閉じ込められていたい。
ビーシュは義眼を拾い上げ、白衣の袖で綺麗に汚れをぬぐった。
宝石で義眼を作るのは、思い出を残すためだったが、このサファイアは少し違うように思える。
くちづけをし、そっと両手で握りしめ、そのまま胸に押しつけると、今まで感じたことのないじんわりとした熱さが体に広がってゆくのを感じた。
鼻がしらがじんと熱くなり、零れた涙が眼鏡を濡らす。
気持ちの良い涙だった。
レオンハルトを思うと、体が熱くなる。性欲とは少し違った、緩やかな熱だった。
言葉には表せない強い感情が、涙となってあふれでているのかもしれない。
「こんな、涙もあるんだね」
ビーシュが最後に泣いたのは、父が焼かれて煙になった時だっただろうか。
かなしくてかなしくて、声がかれるほど泣いて。
泣き続けても、失ったものは元に戻らないのだと知った日。その時に、涸れて無くなったとばかり思っていた。
男を知っても、祖父が亡くなり本当の天涯孤独となっても、ビーシュは泣けなかった。
泣けば悲しくなるから、泣けなかった。
悲しくなくとも泣くのだと、初めて知った。
この感情を、人は愛おしいと呼ぶのかもしれない。
サファイアの義眼をポケットにしまって、ビーシュは少し苦い珈琲をいっきに煽る。
様々な豆が混ざり合った珈琲は複雑な味がしたが、けっして悪いものではなかった。
ビーシュは祖父が残してくれた道具があちこちに散らばる工房を眺める。
父がいて、母がいて。
すこしは家族らしかった日々を思い出そうとしてやめた。三十年以上経っているので、記憶は驚くほどに曖昧で、なんとなくしかでてこない。
幸せだったのか、辛かったのだろうか。それすらも、曖昧だ。
(でも、今はどうしてだろう。悲しくないんだ)
すべては過ぎ去った現実として、受け入れられている自分がいる。
今更ながら、生きてきた年数の長さを感じていた。
「ぼくは、ずっと立ち止まっていたんだね。春が来て夏が来て、秋が来て冬が来て。季節が巡るように、ぼくは上手く生きてこれなかったんだ」
窓から覗く、冬空の下。
レオンハルトは、婚約破棄の尻ぬぐいをしなくちゃいけないと、今は自宅に向かっている。
もしも、気が変わって。婚約する気になったらどうしようか。
空になったカップを手の中で遊びつつ、ビーシュは、それはそれで良いのかもしれないと口元を緩めた。
レオンハルトがほかの誰かを好きになっても、その視線の中にいられるだけでいい。好きと言われなくなっても、構わない。
愛おしいと思う気持ちさえ失わなければ、ビーシュは満たされていられる。馬鹿な男だと笑われるかもしれないが、ほんのささやかな望みだけで、今はじゅうぶんだった。
「でも、できれば……一緒にいられたら、いいけどね」
珈琲を飲んでひと息ついた。
星空が見えるが、時刻としてはまだ早い。いまから自宅に戻り、部屋を片付けよう。
明日、ビーシュの自宅で珈琲を飲む約束をした。
まさか、誰かを招く機会ができるなんて思っていなかったから、夜通しの作業になるかもしれない。
体はひどく疲れていたが、心はとても浮かれていた。
ビーシュは作業台を手早く片付け、工房を出て鍵を掛けた。
病院は受付をとっくに終了していて、夜勤の職員と入院患者しかおらずとても静かだ。
帰り際、軽く食べられるものを買おう。そう、頭の中で算段しながら階段を上りきった先で、ビーシュは見慣れない人影に首をかしげた。
「お帰りですか、スフォンフィール先生」
灰色の髪を短く切った男は、患者でも、患者の家族でもなさそうだ。もちろん、医師や看護師でもない。
さすがにビーシュも警戒しながら、男をじいっと見つめる。
「ぼく、あなたとお会いしたことがありますか?」
「いいえ、はじめてですよ。ただ、妹のほうは多少ならず面識があるかもしれません。ロナード様の身の回りの世話をしていますので」
ビーシュのわずかばかりの警戒心をほどくよう、ゆっくりとしゃべる男に、合点がいったと頷きかえした。
「サティさんの、お兄さんですか」
「ええ、双子の兄です。よく似ているでしょう? オレはレスティです。よろしくお見知りおきを」
全くの他人でないとわかって、ビーシュはほっと息をついた。
「あの、エヴァン様は、お怒りになられていませんか? その、ぼくはたぶん、失礼な帰りかたをしてしまったようなきがして」
「いいえ、お気になさらず。たまには振られるのも一興でありましょう」
くるっと背を向け、職員用の出口に向かって歩き出すレスティを慌てて追いかける。
「ロナード様より伝言を申しつかり、お邪魔させていただきました。いや、なかなかお声を掛けられず、結果として盗み聞きのようなことをしてしまい、申し訳無く思っております」
「……えっ?」
「エヴァン様も、ご自分が思っている以上にあなたにご執心なのかもしれませんねぇ」
にたにたと笑うレスティに、ビーシュは両手で顔を覆った。まさか、レオンハルトとの情事を覗かれていたのだろうか。
確かめたいが、恥ずかしすぎて問えない。表情だけでは、確かなことはわからない。
「先生、あなたそうやって何人もの男を落としてきたんですか? 四十二のおじさんって思っていたんですけどね、こりゃあロナード様もふらつくわけだ」
振り返ったレスティが、するっとビーシュの懐に入り込んで、片手で顎を強く押さえてくる。
あっという間の接近に、ビーシュは圧迫される苦しさよりも、驚いて目を瞬かせた。
「かわいらしいですね」
「……んっ!」
尖った舌に、唇を舐められる。ぞわっと背中に広がる嫌悪感に、ビーシュは体をこわばらせた。
「ふふ、いやいや。すみません、悪ふざけが過ぎました。先生、オレと一緒にロナード様のところまで来ていただきたい。大事な商談があるようで、先生にどうしても出席してもらいたいと」
ビーシュはレスティを突き飛ばし、服の袖でごしごしと唇をぬぐった。
どうしてだろう、レスティには申し訳ないが、とても気持ちが悪かった。
「メルビスの宝飾品の商談です。先生も、多少の興味はあるんじゃあないですかね?」
無いとは、言えなかった。
本物よりもずっと精巧で、美しい贋作。その手癖を、ビーシュは知っているきがした。知りたいと、おもう気持ちはないわけではない。
「でも、今……ですか?」
「ええ、今です」
即答で返してくるレスティに、ビーシュはたじろぎながら、どうするべきかうつむいた。
「……まあ、先生には選択権なんて無いんですけどね」
ぬっと伸びてきた腕に拘束され、もがくまもなくビーシュは口元を分厚い布で覆われた。
「オレの一族に伝わる秘薬です。良い夢が、みられるといいですね」
いくつかの薬草をしみこませた、複雑な香り。吸い込みたくなくとも、呼吸と一緒に肺に潜り込んできて、ビーシュはとろんと表情を溶かし、くずおれた。
婚約破棄の一報をうけて、オスカー家の対応はひどく淡々としたものだった。
レオンハルトの結婚騒動は、今に始まったものではなく、おまけに今回の相手は移民の軍人と駆け落ち未遂のあげく、持ち込まれる縁談をことごとく断っている曰く付きの女性、エリス・アーカムだ。
オスカー家の三人の男子の中で、上二人はすでに結婚して子供もいる。跡継ぎに困らない状況とあっては、上手く成立すれば上々といったくらいの、軽い気持ちだったのだろう。
アーカム家としては、災難だったのかもしれないが。
オスカー家の客間で、レオンハルトは不機嫌を隠そうともしないニルフと対面した。
婚約の破棄を言い出したのは、レオンハルトではなくエリスだった。
ニルフはアーカム家の代表として婚約破棄の詫びをいれにオスカー家に来ていた。
「随分と、遅いお帰りですね」
レオンハルトがビーシュの工房を出て家に戻る頃には、とっくに話し合いは終わり、夕食も済んだ後だった。
「僕の代わりに夕飯を食べてくれて、感謝するよ。うちの料理長は、少しばかり気むずかしくてね。料理が残るととたんに不機嫌になって、しばらく不味くなってしまうんだ」
「それ、遠回しの嫌みだったりしますか?」
「いいや、素直な感謝の気持ちだけれど。どうして?」
なにか、気分を害することでも言っただろうか。首をかしげると、ニルフは髪をかきむしって大きく、わざとらしいため息をついてみせた。
「そうですね、昔からレオンさんは悪い意味で表裏のない人でした。でも、好きでしたよ。貴族軍人らしく強くて賢くて……あなたと話しているときの姉さんはとても楽しそうだったから、上手くいくかもしれないと思っていたんです」
ニルフの心境を理解してやれるほど察しの良くないレオンハルトでも、深く失望させてしまったのはわかった。
「ごめんね、僕もエリスも、君の期待にはこたえられそうにない」
「姉さんよりも、あの、眼鏡の冴えない男のほうがいいんですか?」
わずかに滲むニルフの嫌悪感に、誰のことをいているのかと小首をかしげる。
「ビーシュのことかな? ひどいな、あんなに可愛いのに」
きっと、エリスも気に入るだろう。
――と言うよりも先に、ニルフがいらだたしげに立ち上がった。
「やっぱり、理解できませんよ。レオンさん、あなたはもっと素晴らしい未来があるはずなんだ」
互いの家が了承している以上、婚約破棄は成立している。ニルフが何を言おうと元には戻らないし、レオンハルトもエリスも友人以上の関係を築く気は毛頭無かった。ある意味、落ち着くべき場所に落ち着いたとも言える。
「もっと、素晴らしい未来か。それって、どんな未来なのかい?」
「家の安寧、妻を娶ること、子をなすこと、地位を確立すること、たくさんあるでしょう?」
即答してくるニルフに、レオンハルトはすごいなと返しつつも、頭を振る。
すべて、自分にはなんら興味のわかない物事だった。
「僕は、君よりもずっと、守りたいと思うものが少ない。そのせいかな、一緒にいたいと思う人と一緒にいることしか考えきれないんだ」
「一緒にいたいともう人に、姉は含まれていないと?」
ぎりっと拳を握るニルフに臆さず、レオンハルトは頷きかえした。
「エリスは、たまに会いたい大事な友人だよ。とても大事な人だ」
ニルフの表情がゆがむ。今にも泣き出しそうな顔だった。
悪いなと思う気持ちはあるが、嘘は言えない。取り繕う言葉すら、多くを知らない。
「なら、どうして婚約を受けたんですか」
「エリスなりの好意だったからね、断る理由も、その時にはなかったんだ」
ビーシュに出会っていなければ、淡々と流れるままに生きていただろう。それも、けっして悪い人生ではない。
流されず、立ち止まることを覚えた。川の流れから飛び出すほどに素敵なものを、レオンハルトは見つけてしまった。
「僕は、彼のことが好きなんだ」
体に染みつく、珈琲の香り。
つかんだら離さない、本人はおそらく気付いていないであろうアメジストの強い視線。
思い出すと、体の芯がじんわりと熱くなる。いてもたってもいられない。できるなら、今すぐにでも会いに行きたい。
ついさっきまで激しく求め合ったのに、足らないと思うなんて初めてだった。
「……帰ります」
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