熊の魚〜オメガバース編〜

蓬屋 月餅

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番外編

4「はじめまして」

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 工芸地域にある食堂の2階。
 晩夏の夜風がさぁっと窓から吹き込む中、彼と『熊』は静かでゆったりとしたひと時を過ごす。
 『熊』は寝台で横になった彼の足を丹念に揉みほぐし、彼はその心地よさに目を閉じて微笑んでいた。

「熊…もういいよ、ありがとう。毎晩毎晩ずっとなんて、大変だろ」
「ううん、全然」
「そうか?そのわりには手が痛そうだけど?」

 捲っていた彼の下衣の裾を下ろした『熊』は彼の足に塗っていた油の小瓶にきちんと封をして戸棚へ戻すと、窓も少しだけ風が入るくらいに閉めて彼の待つ寝台へと帰ってくる。

「熊…ほら、手。今度は俺がやってあげる」
「いいよ、僕は」
「よくない。ずっとやってもらってばかりじゃ気が済まないんだよ、俺」

 ほら、と強引に手を取られた『熊』は大人しくまだ薄く油の残っている手を彼に揉まれることにした。
 時々吹く風がいくらか涼しいとはいえ、ベタベタとくっついていては流石に暑苦しく感じる夜だ。
 向き合って横になり、こうして手だけで触れ合っているのもなかなかいいものだと思える。
 彼は『熊』がにこにこと嬉しそうにしながら手を揉まれているのを見て「ほらな、俺に手を寄こして良かっただろ」と得意げに言った。

「まったく、素直に手を出せばいいのに」
「でも君はゆっくり休まないと…」
「もう…それは熊もだろ?俺より色々大変だと思うよ、毎日毎日さ。食堂の仕事だけじゃなくて俺の食事のこともあれこれ細かく考えたりしてるし…その上 毎晩俺の足を揉んだり、医者からもらった軟膏だかを腹に塗ったりして」
「それはそうだけど」
「別に毎日じゃなくてもいいよ」

 そう言う彼に、『熊』は「そうはいかないよ」とムッとして答える。

「君は浮腫みやすいみたいだって先生も言ってたでしょ。食事に気を遣うのは当然だし、足を揉むのも当然のこと」
「じゃ、腹の軟膏は?」
「それも先生が言ってた。これを塗ったら痕になりにくいからって」

 真剣な顔になっている『熊』に彼が「…ちょっとやっぱり過保護だと思うけど?」と苦笑いを浮かべると、『熊』は「もう…君は不安になったり大雑把になったり、分からない人だな」とため息をついた。
 彼は『熊』のもう片方の手を取って同じように揉みながらしばらくの間じっと何か考え込むと「そっか…腹に痕が残ってたら嫌だよな」と『熊』の意図を理解したように肩をすくめる。
 しかし、『熊』はそれを「ううん、そうじゃない」ときっぱり否定した。

「別に痕があったって君は君だから構わないよ。だけど…痕になるのって、皮膚が裂けるからなんだって。皮膚が裂けるから、なんだって」
「うん…いや、何で今2回言ったんだ?」
「だから、皮膚が裂けるってことなんだよ?」
「うん」
「そんなの、すごく痛そう」
「え?」
「痛そう。軟膏を塗って防げるなら、いくらでもそうする」

 大真面目にそう言う『熊』。
 彼が思わず吹き出してクスクス笑うと、「どうして笑うの」と言いながら『熊』はムッとした表情になった。
 その様子が可愛く思えてならない彼は「そう?へぇ、痛そうだから、か」と笑う。

「そっかそっか、じゃあ俺が今なんともないのは熊のおかげなんだな?うん…うん、ありがとう、ありがとう熊…ははっ!」
「ううん、僕にできるのはこれぐらいしか……ちょっと、いつまで笑ってるの!僕は本気だよ、だって皮膚が裂けるなんて……ねぇ、聞いてる?」
「き、聞いてる聞いてる……っはは!」

 彼のそのあまりの笑いように手を引こうとする『熊』。
 すると彼は「悪かった、悪かったよ熊!」と言いながらその手を引き留めてちゅっと指先へ口づけた。

「分かってるよ、熊がすごく沢山俺と赤ちゃんのことを思って色々してくれてるんだって…本当にありがとうって思ってるんだ。俺は幸せ者だよな、こんなに素敵なアルファが番なんだから」
「…本当にそう思ってる?」
「思ってるよ、もちろん。嘘なわけ…無いだろ」

 溢れるほどの愛おしい気持ちを込めて見つめると、『熊』は機嫌を直したらしく口の端に笑みを浮かべる。
 彼が少し身を寄せて『熊』の口元へと口づけると、すぐさまお返しとばかりに口づけが返ってきた。
 何度かそうして軽く口づけ合った後、じっと見つめ合った2人は少し熱っぽく唇を食み合う。
 重ね合わせた手と唇で互いの存在を感じる時間は心地よく、離れがたい。
 (ずっとこうしていたい)という思いの彼が唇を離すきっかけになったのは、腹にいる子からの主張だった。
 ぐいっと体の内側から繰り出される力強い蹴りに、彼は思わず「うわっ」と声をあげる。

「すごい蹴りだな…熊、今の分かった?」
「え、今蹴ったの?」
「うん、力いっぱい蹴られた…」

 『熊』はすぐさま彼の腹に手をあててじっと待つ。

「もう…赤ちゃん、君、小さいはずだろ?どうしてそんなに…俺がびっくりするほど力強く蹴れるんだ?」
「………」

 『熊』はキラキラとした表情で再び彼の腹が動くのを待った。
 しかし…

「……」
「……………」
「…………………」

 …やがて『熊』の表情が次第に沈んだものへ変わっていく。
 その落胆ぶりは、なんだか彼まで申し訳なくなるほどだ。

「あ……まぁ、これは赤ちゃんの気分だから、な、うん」
「どうして……」
「そんな…落ち込むなよ、熊……」

 がっくりと項垂れる『熊』を彼は優しく腕を回して抱きしめた。

 実は、彼が胎動を感じ始めてからというもの『熊』は一度もそれを手で触れて感じられたことがなかった。
 目で見たことはある。
 しかし いざ手を触れてみると、胎動はピタリと止まってしまうのだ。
 彼の腹に軟膏を塗っている時もそうだった。
 彼の腹をあちこち手や足でグイグイと押すような、とんでもなく激しい胎動の時でさえも『熊』が手を触れると水を打ったようにシンとしてしまう。
 その度に落ち込む『熊』を慰めるのは彼の重要な役目なのだった。

「きっと恥ずかしがり屋なんだ、な?こればっかりは…」
「僕、嫌われてる」
「な、何言ってるんだ、そんなわけないだろ?恥ずかしがり屋なんだってば、好きだから恥ずかしくなって静かになっちゃうんだよ」
「……」
「なぁ、熊……」

 こればかりは彼にも どうすることもできない。
 彼は『熊』の頭を撫でながら「なんにせよ もうちょっとで直接顔を見れるんだからさ、いいだろ?」と語りかける。

「産まれたら いくらでも動くのが見れるよ、だから、な?」
「………ん」
「そんなにしょげないでよ、熊…」

 彼は流石に『熊』が可哀想になり、腹の子に向かって「ちょっとくらい…動いてあげてほしいな」と声をかけた。
 すっかり落ち込んでしまった『熊』のために彼はわざとらしく元気な声で話す。

「でもさ!ほら、予定まであと3週間だろ?どうだ熊、来月にはもう本当に赤ちゃんを抱っこしてお父さんになってるんだぞ」
「…そうだね、なんだかあっという間だった気がする」
「だよな?俺もさ、こう…つわりが酷すぎて1日の感覚が狂ったりしてたから、すごくあっという間に臨月になったって気がするんだよ」

 急にしみじみとした気分になりながら「なんか不思議だな」と彼は言う。

「もうじき産まれるってことは、この子の誕生日ももうじきってことだろ。いつになるのかな?」
「うん…それはこの子が自分で決めるんだろうね。『今日だ』っていう日に、きっと産まれようとするはずだよ」
「そうだな、この子が自分で決めて……ははっ、いつがいいんだ?この恥ずかしがり屋さんめ、いつを誕生日にしたい?」

 そう腹に話しかける彼。
 彼と『熊』は2人してクスクス笑った。


ーーーーーー


「うん…ん……」

 部屋の灯りを落として眠りについてから一体どれだけの時間が経っただろうか。
 不意に深い眠りから引きずり出されてしまった彼は、再び眠ろうと寝具の中でモゾモゾと足を動かす。
 わずかに涼しい風が薄い窓掛けを揺らしていく音がするが、その他には何もない静かな夜半だ。
 眠りを妨げるものもないため、やすやすと再び眠れるだろうと思っていたのだが…彼はちっとも寝付けない。
 むしろ目は覚めていくようだ。

(…?なんで目が覚めちゃったのかな、もうちょっと寝てたいんだけど……)

 彼はこのままではどうしても眠れそうにない、と寝台から身を起こしてそばの水差しから1杯の水を汲む。

「ん……どしたの……」
「悪い、起こした?ちょっと目が覚めてさ……寝てていいよ」
「ん……」

 隣で動いたことで『熊』の目を覚まさせてしまったらしく、彼は音を立てないよう慎重に水を飲む。
 ふぅっと息をついたところで 彼はかすかに腹の痛みを感じた。

(あ…れ?痛い………気がする、か?)

 寝台に腰掛けたまま、ゆっくりと腹を擦ってみる彼。
 (…まさかな)と思ううちに、その痛みはおさまった。

(あ、やっぱり気のせいかな。…まぁいいや、今日の昼になったらちょっと先生に言っとこう。予定日のこともあるし)

 彼は再び寝台ヘ横になる。
 しかしなんだか胸がザワザワとして落ち着かず、眠れそうにない。
 どうしたんだろうか と思っていると、なんとまた同じように腹が痛みだした。

(あ……痛い、気がする。…え?これ、もしかして…きてる、のかな?)

 彼はなんとなく腹を擦りながらじっと考え込む。
 まだ予定日までは3週間あるというのに。
 もうこんな風に腹が痛み始めているなんて…大丈夫なんだろうか。
 もしこれが『本当』なら、もう産まれるということなのだろうか。
 彼がそう考えているうちにまた痛みはどこかへ消え去ってしまった。

(いや…どうなんだろう、これは。すぐ先生のところへ行くべき?でもまだ夜明け前…だもんな、どうしよう?と、とりあえず熊には言うべき…かな?分からないけど、まだよく分からないけど、とりあえず……)

 のそりと起きあがった彼はすぐ隣で眠る『熊』の肩をそっと揺すって《熊…なぁ、熊…?》と呼びかける。

「うん、ん……?」
「なぁ、熊……」
「ん…どしたの……」
「あ…いや、あの…なんか、ちょっと……腹…っていうか、腰……痛い、みたいなんだけど………」
「えっ」

 『熊』はすぐに飛び起きて彼に向き合う。

「え、いた、痛いって?お腹が?」
「うん…多分」
「じ、じゃあ先生に言いに行かないと…!!」

 彼はすぐに寝台から飛び出していこうとする『熊』を「ま、待って熊!」と引き留めた。

「まだ分からないから、ちょっと……もうちょっと待ってみよう?」
「いや、でも何かあったら…予定日がまだ…」
「うん、そうなんだよな…でもこれ…もしこれが陣痛ってやつなら、規則的にくる…んだよな?ちょっと時間を測ってみて…様子をみよう、まだこんな時間だし」
「そんなこと言ってる場合じゃ……!」
「今は何ともないんだ、本当に。ただ、なんかちょっと痛かった気がするってだけで……一応もう始まってもおかしくない時期ではあるからさ、うん…」

 彼はどういうわけか不安よりも(本当に陣痛だろうか…)という信じられない気持ちのほうが大きくなってきて、むしろ冷静になってしまう。
 寝台の上で端の方に寄りかかりながら、彼は心配そうな『熊』と共にじっとひたすら待った。

「………あ、痛い、かも」
「えっ」
「今の時間…ちょっと書いといてよ、熊」

 『熊』が慌ただしく手近な紙へ時刻を記録する。
 彼の体感的に、起きてから今までの痛みはほんの少しずつ増しているようだ。
 痛みがおさまった時刻も記録し、また痛み始めた時刻を記録するということを繰り返していると、やはりそれは規則的で、その間隔も本当に少しずつだが短くなっているようだということが分かる。
 彼は(どうやらこれが本当に陣痛というものらしい)と悟った。

「熊…これ、たぶんそうだよ、陣痛ってやつみたいだ」
「じ、じゃあ先生…先生を呼ばなきゃ」
「そうだな……待って、それじゃそのまま産屋に行くことになるかもしれないから荷物を…ほら、着替えとかまとめといたやつをとりあえず下に持っていこう。下の食堂にいた方がその後動きやすいし、階段を降りるなら今のうちの方がいいかもしれないから」
「わ、分かった、とりあえず…とりあえず、じゃあ……」
「落ち着きなよ、熊。寝間着から着替えて、荷物を持って下に行って、それから先生を呼ぼう。な?慌てないで、怪我したりしたら良くない……ぅ」

 戸棚の方で荷物を取り出していた『熊』は、彼の痛みがまた始まったとみるやいなやすぐとんできて、寝台に腰掛ける彼の足元へ跪くようにして手を握る。

「熊…う、ん……大丈夫、大丈夫だ……それよりさ、俺の着替えをとってきてくれる?早く着替えといた方が良さそうだから」
「わ、分かった、今すぐ……」
「慌てるなって、熊……怪我でもしたらどうするんだよ」

 『熊』は彼と自分の分の着替えを戸棚から引っ掴んできて、早々に着替えた。
 彼も痛みがおさまったところを見計らって着替え、腹を抱えながら部屋の下の食堂へ降りていく。
 彼を支えていた『熊』は彼が階段を降り終わるとすぐに荷物を取りに戻り、慌ただしく階段を昇り降りしていた。

「そんな…じっとしてなきゃいけないんじゃないの?歩き回っちゃ……」
「え?いや、先生達がなるべく歩いた方がいいって言ってたから。まだ余裕があるんだし、歩いとくよ。…あ、でも先生を呼びに行くのは熊に頼むからさ」
「うん、それは任せて。ちょっと、すぐ戻ってくるから…!」

 彼の返事も待たずに食堂を飛び出していった『熊』。

(あんなに慌てて…大丈夫かな?)

 彼はウロウロと歩き回りながら『熊』の慌てぶりがあらためて心配になった。

ーーーーーー

 『熊』に呼ばれてすぐ駆けつけてきた医者は彼の様子や痛みの波がきた時刻の記録からすぐに産屋へ移るべきだと判断して指示を出す。

「前に案内した産屋、分かりますよね?そこへ行きましょう。助産の人もすぐに来るので、心配しないでください」
「あ、はい」
「じゃ荷物を持って……」

 この食堂から工芸地域内の産屋までは少し距離がある。
 彼は痛みのない時は歩き、痛み始めたら『熊』が引く荷車に乗って産屋まで移動した。
 そろそろ空が白み始める頃だ。
 夜明け前に始まった痛みは、少しずつはっきりとしてきている。

「歩くとお産の促進になるんです。よく歩けていますね、無理のない範囲で続けましょう」

 産屋に到着してからも彼は部屋の中をただただ歩き続け、『熊』もそれに付き添って歩いた。

 この産屋はお産のための寝台や赤子を寝かせる台などがあって、それなりの広さがある。
 さらに隣には浴室も設けられていて、医者が彼の様子を時々伺いつつその浴室に張るための湯を沸かしていると、空が明るくなり始めたところでようやく助産をする女性がやってきた。

「おはようございます…あっ!陣痛おめでとうございます、いよいよね」
「あ…はい」
「間隔はどうかしら、縮まってきてる?」

 女性は医者と情報交換をしながら手際よく自らと部屋の準備を整えていく。
 医者とこの女性は夫婦だ。
 陸国においてこうした夫婦の組み合わせは全く珍しくないといえる。
 それは医療に関係する仕事をしている者の、陸国における事情が関係しているところもあるだろう。
 この2人も話している様子などをパッと見たところでは夫婦に思えないようだが、それでもどこか強い関係性が生み出す雰囲気などがひしひしと伝わってきて、歳の若さなど全く感じさせない安定感がある。

「どう?痛みの方は」
「まぁ…それなり、に」
「そう…浴室の支度ができたの、少し湯を浴びに行けないかしら」
「はい……まぁ、まだ少し余裕がありそう…です」
「うん、それじゃ行きましょうか、無理はしないで…体が温まるとね、もっとお産が進みやすくなるの。体を流すだけでも違うから、ゆっくり行きましょう」

 浴室での浴び方を説明しに、女性は彼と共に浴室ヘ向かった。
 そうして部屋に医者と2人きりになった『熊』は小声ながらもはっきりと尋ねる。

「先生、本当に大丈夫なんですか」
「はい?お産が、ですか?」
「……だって予定日よりもすごく早いじゃないですか、何かあったら………」

 不安そうな『熊』に「そうですよね」と答える医者。

「たしかに予定よりは早いですが…診察したところ、特に心配な所見はありませんでした。最近転倒したとか、どこかへ強くぶつけたとか、何かひどく気に病むようなことがあったとか、そういうことではないんですよね?だとしたらこれは自然にきた陣痛で、通常のお産だと考えて構わないと思います。女性のお産でも予定より早くなることはありますから、大丈夫ですよ」
「だけど……」
「今回はもう産まれてもおかしくない時期に入っていますし、早産というわけでもありません。そもそも男性オメガの場合は予定日を過ぎて赤ちゃんが大きくなりすぎる方がずっと危険なんですよ」

 それでも『熊』は不安を拭いきれないようだ。
 浴室から出てきた女性は、立ち尽くしている『熊』に「大丈夫だって言われても心配よね?」と声をかける。

「仕方がないわよ それは。初産だもの、なおさらね。でも彼も体力があるし、今のところとても順調に進んでいるからね」

 『熊』を気遣った女性は「……あっ、そうだわ、あなた達、ご飯は食べた?」と尋ねた。

「なにか軽くでも食べたりした?」
「え…いえ、夜明け前に起きてそのままずっとこうしてたので……」
「あぁ、やっぱりそうよね?うーん……何か少しお腹に入れた方がお産の力になっていいんだけど…」
「!じゃあ、軽くなにか用意を…」
「そうね、その方がいいわ」

 女性は少し考えて言う。

「いつもだと、『食べられれば軽食を』って勧めるんだけど…男性オメガのお産は早く進むから、きっと軽食も食べてる暇はないわね。なにか果物とか、本当に簡単に、一口で食べられるものがいいと思うわ、用意できる?」
「は、はい、すぐに…!!」

 すぐに産屋を飛び出していった『熊』の背に、女性は「気をつけるのよ!?」と大きく声をかけた。

ーーーーーーー

 食堂へ戻った『熊』は、もうまもなく仕込みにやってくるであろう食堂の女性達へ向けて短く書き置きを残し、手際よく片手間に食べられるものを用意してすぐさま産屋へと戻ってきた。
 産屋の中では湯浴みを終えた彼が随分と苦しげな表情を浮かべながら腰を擦っていて、『熊』は息つく間もなくそこへ駆け寄ろうとする。

「待って!手を洗ってからにして!」

 女性に止められた『熊』は持ってきたものを机へ置くと、ちらちらと彼の様子を窺いながら熱心に手を洗う。
 女性は彼の腰を擦りながら『熊』に軽食を持ってきてもらったことを知らせた。

「少し食べられれば力がつくわよ、でも無理はしないで…食べられそうだったらで構わないから。水だけは飲むようにしてね」
「う……は、い……」

 丹念に手を洗った『熊』は彼のそばへ行き、いくつかの食事へ手を伸ばす彼の髪を浴布で拭い始める。
 頭から湯を被ったわけではないようで、髪はうなじなどの部分が少し湿っている程度だ。
 それでもその湿りをすべて取り去ろうとする『熊』。
 うなじあてを外している彼のうなじに くっきり残っている咬み痕が、赤みをおびているように見える。

「くま…これ、俺の好きなやつ……」
「うん、食べられそうなものをって」
「うん……食べれるよ、食べれる……あんまり食欲なかったけど…これなら………」

 一口大の軽食をなんとか2つほど飲み込んだところで、彼はキツく眉根を寄せて項垂れた。
 彼の背と腰を擦る『熊』には彼の体の熱さや小刻みな震えがつぶさに伝わり、彼のその尋常ではない様子に『熊』は狼狽えてしまう。

「ど、どうしたらいいの、僕はどうしたら……ど、どうしよう、僕……」
「なぁ…おちつけよ……くま……」
「お、落ち着いてなんていられないよ、どうしたらいいの、何をしたら…どうして君はこんなに落ち着いていられるの」

 あまりの『熊』の狼狽えぶりに、彼は軽く「はは…」と笑みをもらした。
 実際、彼は出産に関して不安に思うことだらけだったのだが、知り合った先輩オメガとの手紙のやり取りや『本当にあともう少しで腹の子に会える』という気持ちによってすっかり恐れることなく、この痛みに向き合うことができていた。
 なにより 自分よりも狼狽えている『熊』の様子に冷静さを取り戻さざるを得なかったということもある。
 妊娠が分かったあの時と、同じような感じだろう。

 彼は少しだけ和らいだ痛みの間に腹へ語りかけた。

「赤ちゃん……お父さんがね、すごく心配してるんだって………早く…早く元気な声を聴かせてあげなきゃね……頑張ろう……ね、一緒に…頑張ろ、う……っ!!!」

 更に痛みが増したらしい彼は呼吸までもを震わせながらそれに耐える。
 麦藁を使って水を飲んだ彼は、そのまま寝台へ横になって苦しげに呼吸を続けた。

「うぅ……はっ、はぁっ………」

 産屋の中で様々な支度を進めていた女性は彼のその様子に「うん…随分辛そうね」と手を拭ってそばへ来る。

「やっぱりお産の進みがすごく早いみたいだわ、もう いきみ始めても良いくらいに……少し確認させてね」

 彼の体勢を整えさせてお産の進み具合を改めて確認した女性は「うん…そうね、もう いきんでみましょうか」と声をかけた。

「前に話をしたわよね、お腹の方を見て息を長く吐くようにって……自然といきみたくなる波があるから、それに合わせてやってみましょう。ゆっくり、焦らなくていいからね。呼吸を整えておいて、深く息を吸ったら………そう、そうそうそう!上手、とっても上手よ、その調子!」

 『熊』と固く握りしめ合った彼の左手にぐっと強く力が加わる。
 額に汗をにじませ、大きく声を上げることもなく、静かに戦う彼。
 そんな彼の気が散らないよう『熊』は握った手に祈りを込め、彼のいきみに合わせて背を支えた。
 2度いきんだところで彼は何かが破裂したような感覚を感じて思わず身を怯ませる。
 女性は「破水したわね!おめでとう」と声をかけた。

「破水したから、これからもっとお産が進んでいくはずよ」

 彼は増していく痛みの中、女性の声がけに何度も頷いて応える。
 そんな彼の様子に、女性は「あら…本当に初産なの?」と驚いて言った。

「とても初産とは思えないくらい いきみも上手だし、落ち着いてるし…この分だとお産がすぐに終わりそうよ」

 女性は引き続きあれこれと支度をしている医者にそう話しかけた。

ーーーーーーー

 工芸地域の外れにある産屋の周囲はとても静かで、穏やかな時間が流れている。
 昼になり、陣痛が始まってから数時間。
 太陽が真上から照らす中、彼はもう何度目かのいきみをしていた。

「そうそう!もうね、頭も見えてる、あと少しよ」

 じっとりと汗ばみながら荒く呼吸を繰り返す彼の手は変わらず『熊』の手を固く握っている。
 ずっとそうしているために指や手のひらのあちこちが赤くなってしまっているのだが、それは二の次、三の次だ。
 ありとあらゆる支度が整った産屋の中、女性は「…うん、いいわね」と彼に声をかける。

「それじゃ、次、沢山息を吸って目一杯いきんでみましょうか。焦らなくていいからね、赤ちゃんに合わせて『これが最後』っていう気持ちでいきんでみて…うん、ゆっくりでいいから………そう、沢山息を吸って、力一杯に、そう!そうそう!上手よ、もう少しだからね!」

 彼の背と手を支える『熊』にも思わず力が入った。
 今までのどれよりも長く、力一杯にいきんだ彼は疲れ果てて寝台に倒れ込み、激しく胸を上下させて全身のありとあらゆる場所で不足している酸素を補給しようとする。

「…うん、もうね、体から力を抜いていいわよ、呼吸も楽にして、『はぁーっはぁーっ』て軽く、浅くしてみて。力はいれなくて大丈夫、もういいからね」

 自らの鼓動の音が耳にうるさく、彼は女性の言葉を聞き取ることも理解することも難しいほどだったが、なんとか聞き取った『体から力を抜いて』『もういいから』という言葉の意味をぼうっと考える。

 何が『もういい』のだろうか。
 知らないうちに、産まれたのだろうか?

 状況が飲み込めず戸惑っていると、女性と目配せをした医者が「こっちの方、見れますか?」と彼と『熊』へ声をかけた。

「この、下の方を…上体を起こすのは難しいでしょう?さっきまでと同じように、背を支えて少し起こしてあげてください」
「は、はい…?」

 医者に言われ、『熊』は彼の背をそっと支え起こした。
 彼は訳も分からないままに自らの両膝とその間を隠すように覆っている布を見る。

「それじゃ、いいかな…?」

 女性がそう言って医者と目配せをした後すぐ。
 彼はとても不思議な感覚に襲われた。 
 膨らんでいた腹から、何かがさぁっと流れ出ていくような感覚。
 そこにあった何かが、ふと滑り落ちていったような感覚。
 それまであった耐え難いほどの痛みが、突如として消え失せていく感覚…。

 彼の目の前になにやらぬらぬらとしたものが掲げられ、耳には痛いほどの音が鳴り響いた。

「う、ぁ……っ」
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます」

 女性と医者にそう声をかけられ、彼は呆然としながら「あ…ありがとう、ございます……」とそれに応えた。
 『熊』も同じように呆然として、言葉が出てこないらしい。

 彼と『熊』の間に、新たな命が誕生した瞬間だった。

 大きく産声をあげる、小さな赤子。
 女性は「ちょっと待っててね、今すぐに身支度を整えてここへ戻ってくるからね」と彼に言い、掲げていたその子へ医者と共に触れる。
 大きな大きな産声を聴いても、彼はまだ本当に腹の子が産まれたということが信じられない気持ちだ。
 医者が自らの下の方で何か処理をしているようだが、彼はそれよりもそばの小さな台へ移った女性の後姿が気になって仕方がない。

「右手の指5本、左手の指5本、右足の指5本、左足の指の5本……うん、うん、早くお父さん達のところへ行きたいのね?うん、待っててね、すぐにお父さん達のところへ行こうね」

 喉が張り裂けんばかりに泣き続けている赤子にそう声をかけながら女性は手際よく支度を整えていく。
 医者も赤子の全身をくまなく診察し、「うん、大丈夫」と頷いた。

「よし、それじゃお父さん達のところへ行きましょうか……よいしょ」

 白の清潔な布に包まれた赤子を抱えて振り返った女性はゆっくりと彼の待つ寝台のそばまでやってきて、「この、腕のところに赤ちゃんを降ろすわね?」と微笑みかける。
 ゆっくりと、慎重に。
 『熊』と固く握りあった左手の、腕の中へ赤子が寝かされた。

「元気な男の子です、とっても健康ですよ」
「予定よりも少し早かったから体がいくらか小さめですけど、でも心配ありません。十分に育っていて、健康そのものだとしっかり確認しましたから」

 医者はさらに「まだ第2性別は分かりません」と付け加える。

「第2性別は生後5ヶ月頃から分かるようになりますから…それまでは赤ちゃんだけの秘密です」

 彼は脇にいる赤子を覗き込んだ。
 彼のそばに寝かされたことで安心したのか、ピタリと泣くのを止めた 小さなその体。
 包みから出ている指にはまさかと思うくらいに小さな爪がついている。

「こんな…小さな体で……頑張ってたの………?」

 彼が信じられない思いでそう呟くと、赤子はまた少し声をあげて泣き出した。
 居ても立ってもいられず、彼はそっと右手を伸ばして赤子へ触れる。

【赤ちゃんが産まれたらね、気をつけながら小指で赤ちゃんの手のひらに触ってみて!きっとすごく…いい経験になるから】

 先輩オメガとの手紙のやり取りの中でそんな一文があったことを思い出し、彼は恐る恐る赤子の小さな右手へ小指を近づけた。
 握りしめられていた赤子の手のひらは彼が触れたことで少し開かれ、彼はその隙に自らの小指をそっとそこへ滑り込ませる。

「っ…!!」

 次の瞬間、赤子は信じられないほどの強さで彼の小指をギュッと握った。
 5本の指が、しっかりと彼の小指を握る。
 腕や脇腹に伝わる温かさとその手の力強さに、彼は知らぬ間に幾筋もの涙を流していた。

「か…可愛い………」

 彼はその瞬間、初めて実感した。
 この子が、まさしく腹の中でずっと自らと共にこの幾月かを過ごした『熊』との子なのだと。

 この子のもつ力は強大だ。

 彼は赤子を見た瞬間、そのあまりの小ささに対して不安や戸惑いの気持ちを抱いていたのだが、なんとこの子はそれを小さな手1つで完全に取り去ってしまった。
 さらにそれだけでなく、彼の心までをも鷲掴みにしてしまったのだ。
 たった1人では何もできないという、みるからに頼りない小ささの存在でありながらも、彼を惹きつける力はこの世のどんなものよりも強い。

「…君も同じように してみませんか」

 医者に促され、『熊』も彼のように小指でそっと赤子の左手へ触れる。
 やはり赤子はその小指をギュッと強く握った。

「は、はじめまして……やっと……会えたね」

 涙ながらに言う『熊』のその表情を、彼は一生涯忘れることはないだろう。
 2人の溢れ出る涙はとどまるところを知らず、手を取り合って途切れたところのない3人だけの輪を感じる。
 顔を見合わせて頷き合った彼と『熊』。
 2人は赤子の顔を覗き込みながら、額をくっつけ合い、声を揃えて言った。

「「お誕生日、おめでとう」」


ーーーーーーー


 月の光もない闇夜の中、彼は眉根をキツく寄せながら目を覚ます。
 耳にはたとえ自らが泥のように眠っていたとしても瞬時に起こさせてしまうような『警報』とも言うべき音が聞こえてきていた。
 しばらく待っても止まないその警報に、彼は小声で《ん…まって……まっててね………》と言いながら眠い目をこすって寝台から身を起こす。
 すると、すぐ隣で眠っていた『熊』も《う、ん……お乳……?》と目を覚ました。

《あぁ…お腹がすいたんじゃ……ないかな………いいよ、熊は寝てて……》
《ううん、大丈夫…………僕が連れてくるから…………用意しといてあげて…………》
《ん………そっか………》

 のそりと起きあがった『熊』は頭を振ってから「ん、今行くからね」とそばの小さな寝台へ向かう。
 柵の付いた寝台の中では今にも大声で泣き出しそうな赤子が『熊』に抱き上げられるのを今か今かと待っていた。
 彼もそばの油灯をごく小さく灯し、はだけた胸をよく拭う。

《ほら、お腹がすいたんでしょ?お乳をもらおうね》
《うん…ほら、おいで『虎』》

 『熊』から赤子を受け取った彼は、自らの胸をしっかりと赤子に咥えさせ、小声で囁く。

《俺達の子熊ちゃん……うん?そっかそっか、お腹すいちゃったな》

 フスフスと鼻で息をしながら規則正しく音を立てて彼の胸に吸い付く赤子。
 『熊』は授乳している彼が寄りかかれるよう背の方へ移動しながら、《ちょっと…子熊って言うのをやめなってば》と言いつつ後ろから赤子の顔を覗き込んだ。

《本当に名前を勘違いしちゃうでしょ》
《はは……でもほら、まだ『虎』って感じじゃないからさ。熊の子供だもん、『子熊ちゃん』って言う方が…なんかしっくりくるんだよ》
《もう……》

 ため息をついた『熊』は赤子に向かって《いい?君の名前は『虎』だよ》と話しかける。

《『虎』、君の名前はね、工芸地域の言葉で『靭やかな虎』っていう意味なんだ。虎のように力強い腕と高く跳べる足をもつ、靭やかな人になってほしいってお父さん達が決めたんだよ》

 赤子はキョトンとした目で『熊』を見つめていて、彼は思わず笑ってしまう。

《見ろよ…『何だ…?何言ってるんだ??この人…』っていうような目をしてるぞ。可愛いね、まだよく分かんないよな、そりゃ》
《何度でもお父さん達が教えてあげるよ、『虎』》
《ははっ…必死だな、熊》

 愉快そうに笑った彼は、キョトンとし続ける赤子を見て感慨深い気分に浸る。

《あぁ、本当に…すぐ大きくなるんだな。見る度に、抱く度に大きくなってるのが分かるよ。あんなに小さかったのに……もう1ヶ月でこんなに大きくなってさ》
《そうだね、あっという間だよ》
《たくさんお乳を飲むから俺も大変だ、何もかも吸い尽くされてるような気がする》
《大丈夫?》
《まぁ…なんとか》

 産まれた当初は何かと心配になってしまうほど小さかった『虎』だが、今ではすっかり乳幼児のしっかりとした体つきになっている。
 生後1ヶ月でここまで大きく育つのは男性オメガの子供の最大の特徴だ。
 親である男性オメガが出産しやすいよう小さく産まれ、その後にぐんぐん育つ。
 その分睡眠や乳が多く必要になり、1日のうちに何度も細かくそれらを繰り返す男性オメガの赤子。
 男性オメガはそんな赤子を育てるために絶えず睡眠と食事とを繰り返し、体力を保てるよう努め、赤子の様子を見守り続けなければならない。
 ある程度の時期を過ぎれば通常の赤子と同じような生活を送れるようになるのだが、それまではまだこの昼夜もないような状況が続くだろう。

《熊は寝てていいよ、あとは俺がやっとくから》
《嫌だ》
《は…嫌?》

 『熊』はもう1度はっきりと《嫌だ》と言ってから続ける。

《君ばっかり起きてる時を見てる。僕だってこの子の起きた姿を見てたいのに》
《それは……仕方ないだろ、熊は食堂で料理もして…忙しいんだから。忙しい分たくさん休まないと……》
《嫌だ。僕だってお世話したい、あれこれしたい。君だけにお世話はさせないから、絶対に》

 頑として譲らない『熊』。
 彼はまた《はは…》と笑って言う。

《熊ってば、虎が俺にばっかり懐くようになるんじゃないかって心配なんだろ?あははっ…》
《笑わないでよ、本当にそうなったらどうするの》
《ないだろ、そんな……心配し過ぎだよ、熊》

 彼の抑えきれない笑いのせいで、胸に吸いついている赤子までもが小刻みに揺れている。
 彼は《なぁ熊、心配するなって》とふくれっ面の『熊』に笑いかけた。

《虎には俺の血が半分流れてるんだぞ?熊のことが好きでたまらない俺の血が、だ。な?虎だって熊のことを好きに決まってるよ、心配するな、『お父さん』》
《…でも、産まれる前から僕には全然………》
《ははっ…そうそう、そうだけどさ…だけどそれも、好きだから恥ずかしくなってただけだってば、な?》

 『熊』はため息をついて『虎』を見る。
 しばらくして『虎』はようやく腹が一杯になったらしく、彼の胸からパッと顔を離した。
 『熊』は彼から『虎』を受け取って縦抱きにすると、その背をトントンと軽く叩いてげっぷを出させようとし始める。
 胸を拭い、衣を整えた彼は『虎』と目線を合わせながら微笑んで言った。

《虎~、お腹いっぱいになった?うん?良かったなぁ。今、虎を抱っこしてるのは熊お父さんだぞ、分かるか?》

 しかし、彼はいたずらっぽく続ける。

《でも熊お父さんは気付いてないんだよな、こうすると虎は俺の顔ばっかり見ることになるって》
《あっ》
《お乳を飲んでるときも 今も、いつだって俺と目が合ってるんだよな、虎~》

 彼の言葉に軽く項垂れる『熊』。
 《代わろうか》と言う彼に、『熊』は《いや、いい》と首を振った。

《虎…僕の抱っこも、良いよね?居心地、いいでしょ?だからこっちのお父さんのことも、好きになって欲しいな……》

 《ね、虎……虎………?》という『熊』の祈るような声に、彼はまたクスクスと笑った。
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