その杯に葡萄酒を~オメガバ―ス編~

蓬屋 月餅

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第2章

21「夢」

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 夾とつがいとなり、そして今や一児の父となった璇。
 彼の毎日は大体いつも息子の“いなみ”が起きた気配を察知することから始まる。
 空が白み始めるかどうかという頃になんとなく寝台の中で微睡んでいると、寝室の中に置いてある赤子用の寝台の方からもぞもぞと動いているような気配がして、否が応でも起床を促されるのだ。

(あぁ…起きないと……)

 まだ横になっていたいと思いながらも隣で眠っている夾を起こしてしまわないように静かに伸びをした彼は、まず我が子がいる赤子用の寝台を覗き込んで《おはよう、いなみ。今日も元気か?よく寝れたみたいだな》と声をかけながらいつもと変わっているところがないかをたしかめる。
 元気そうにしているのを確認した後は必要ならば軽く身の回りの世話をして、本格的にぐずりだす前に洗面などをして自分の身支度を整えるのだが、それがすべて終わるかどうかというところでいよいよいなみは朝の授乳を強請る声を上げるのだ。
 それで目を覚ました夾が授乳のための支度を始めるので、璇がいなみを夾のもとへと連れていき、いなみがお乳を飲んでいる間に璇は今度は自分達の朝食の準備をする。
 …時間を一切無駄にすることなく手や足を動かして諸々のなすべきことをする璇。
 うまいこと時間を有効活用するためにと試行錯誤した結果、こうした一連の流れが出来上がっているのである。
 もし仮にいなみが熱を出すなどして体調を崩すことがあれば『いつも通りに』とはいかなくなるだろうが、アルファとオメガのつがいは子育てにも【香り】を利用することで子供の健康を保つという特徴があり、璇達の子供であるいなみもそれによって熱を出したりすることなく毎日健康に過ごせているので、今のところその生活が大きく乱れたことはない。
 とにかくそうして朝の時間を過ごす璇。
 彼はその後に赤子用の衣や布巾などといった簡単に手洗いできるもの以外の洗濯物を地域の洗濯場(水車で樽を回すことにより半自動で洗濯をする場)まで持っていったり、家で細々としたものを洗って昼食の支度をしたり、再び洗濯場へ行って脱水まで済んでいる洗濯物を取ってきて家の2階に干したり…とやはり忙しなく動き続ける。
 そして昼食が終わって一息つくと、今度は【觜宿の杯】へ仕事をしに行くために息子を連れて自宅を出て、夕方過ぎには夕食用の料理や明日の朝と昼に使う食材を持ちながらまた息子と帰宅して就寝するまでテキパキと動きながら過ごすのだ。
 彼の1日とはだいたいこんなものである。
 はっきりいって“彼のための時間”というのはない。
 だが彼はそれでも十分満足しているのだった。


ーーーーーーーー


 夾といなみが眠った後の、すっかり静かになった夜半。
 璇は胸元にいる夾の寝顔を見つめながら1人で1日の労を労う。
 1日のすべきことをすべて終え、あとはもう寝るだけとなっているこの時間をただ寝台に横になって過ごすひとときは…彼にとって何ものにも代えがたい癒しをもたらすものである。
 本を読んだりすることもなく、ただ夾の寝顔を見つめながら過ごすのが癒しなのだ。 

(本当に…いくらか元気になってよかった。少しも食べられない時を見てるとどうしても心配だったからな…)

 ここのところ匂いづわりの程度が和らいできたおかげで食事も通常と同じように食べられるようになっている夾は一時期よりもずっと健康的な寝顔をみせていて、璇も嬉しく、安堵している。
 自分が作った料理を『美味しい』といって食べていた夾のその表情を思い浮かべるだけで口元が緩んでしまう璇。
 『自分が韶を笑顔にさせた』という満足感が胸の内から溢れてくるのが堪らないのだろう。
 だがそういった笑顔だけではなく、今のこのなんということのない寝顔だって彼にしてみれば特別なものだった。
 つがいである自分だけが見ることのできるその無防備な姿を眺めていればどんな疲れだって吹っ飛んでしまうのだから。

「………」

 いくらか伸びてきている前髪が夾自身の目元にかかっているのを見て、璇はそっと指先でそれを除けてやる。
 寝顔を見ているだけでも癒されている自分に苦笑した彼は、ふと『夾と出会っていなかったら自分はどうなっていただろうか』と考え始めた。
 きっと以前と同じように夜中まで【觜宿の杯】で働いていたのだろうが…しかし不思議なことに彼は自分が当時どのような生活を送っていたのかがよく思い出すことができなくなっている。
 夜遅くまで【觜宿の杯】で働いていたのは確かだ。しかしどうやって朝起きて身支度をし、食事などをして、毎日過ごしていたのかがさっぱり分からないのである。
 そばの机の上にある時計を見てみると、まだまだ【觜宿の杯】は賑わっているという時刻だ。

(韶と会うまでの俺は…どんな生活を送ってたんだ?たしか起きるのは昼になる頃だったよな?それで朝食代わりに適当に昼ご飯を食べて、【觜宿の杯】で料理の仕込みをしたりして…それから日付が変わるくらいまではあれこれ仕事をしてて、全部片付けが終わったら2階にある自分の部屋に戻ってた。なにをするでもなくぼーっとして…それで一日が終わってた…んだよな…?)

(…信じられないな、まさかそんな生活を送ってただなんて。当時はそれが当たり前だったからなんとも思ってなかったけど、今考えてみるとものすごく寂しい生活って感じだ。そりゃあ兄さんとかあの双子の兄弟もいたから孤独ってわけじゃなかっただろう。でも韶と一緒じゃない生活なんて今となってはありえないもんな。韶に出会う前の毎日なんて、もう何十年も昔のことのようにすら思えるくらいだ。それくらい俺は今の生活が好きでたまらないってこと…なんだよな…)

 璇にしてみれば1人で暮らしているときの方が自由に使える時間は山ほどあったわけだ。
 しかし元々彼は空恐ろしいほどまでに面倒くさがりで、特にこれといった趣味もなく、料理をするのも『仕事だからやる』というくらいだったのである。
 それこそやろうと思えば午前中から起きてどこかへ出かける事だってできたし、好きに休みを取れば何かしらの趣味に没頭する事だってできたのにもかかわらず。
 それすらもせず寝て食べて仕事をして、また寝て…というだけの暮らしをしていた当時というのは今の彼からしてみると考えられないほど怠惰な生活だ。
 将来自分が誰かとつがいになるだなんてこともまったく考えられなかったことだろう。
 自由に使える時間が十分にあるとはいえども『あの頃に戻りたい』とは思えない生活だった。

(あのときの自分が今の俺を見たら…相当びっくりするだろうな。朝から起きて料理をしたり洗濯をしたり、子供を連れて歩いたり仕事をしたり…『よくそんな面倒なことができるよな』とかって言いそうだ。でも俺はこの生活を知らなかったあの頃にはもう戻れない。韶がそばにいない生活なんてありえない、子供を…いなみを抱っこしたときの甘い匂いとか表情とか笑い声とかそういうのを知らなかった頃には…もう戻れない。今のこのすべてがない毎日なんて、そんなのは寂しすぎる)

 どんなに忙しくとも疲れようとも、なによりも心が満ち足りている今の暮らし。
 それもすべてあの夜の夾との出逢いがもたらしてくれたからこそのものだと思うと、彼はよりいっそう目の前で眠っている夾への愛おしさが胸いっぱいに溢れてきて堪らず、その髪を撫でてからそっと額へと口づける。

(昔の俺はかなり嫌なやつだったのに。それなのにそんな俺のことを好きになって愛してくれて、そしてつがいになってくれて…ありがとうな、韶)

 璇は寝台の端に灯してあった油灯の明かりを消して寝室を暗くすると、夾の手を握りながら目を閉じた。

 その夜、彼は不思議な夢を見た。

 夢を見ている時というのは一般的にどのような経緯でそういう状況になったのかが分からないのに、当人はそれを不思議とも思わずにいるものである。
 璇もどういうわけか気がついたときには星空の下に立っていたのだった。
 夜空にしては明るい空色をしているにもかかわらずよく見える星達。その光景からしても現実ではないことはたしかだが、ふと隣から『ほら、あれが  っていう星だよ』という声がしても彼はその声の主が誰かを気にすることはない。

「え、なんだって?なんていう星だって?」
『だからぁ  だよ。で、あっちにあるのが  で、それで…』
「うーん…?」

 自分が一体誰と話しているのかという疑問を持つこともないまま話している璇だが、なぜか星の名前の部分だけが空白になっているかのようにまったく聞き取ることができない。
 だがそれすらも不思議に思わない彼は、なぜか次の瞬間には家の中の椅子に座って、胸に1人の赤子を抱いていたのだった。
 どうやって移動したのかすらも謎ではあるが、璇は漠然と胸に抱いている赤子を見て(あぁ、もう2人目が産まれたんだったっけ)と思う。
 さらになぜかその子が男の子であるとも理解して「いなみの弟かぁ、可愛いなぁ」と笑みを浮かべていた。

『ほんと、お父さんって子煩悩だよね~』
「あはは、そりゃあそうだろ?こんなに可愛いんだから。それに父さん達の子だぞ、韶が産んだんだから可愛いに決まってるんだ」
『またそうやって父ちゃんのことばっかり~!父ちゃんのこと大好きなんだね』

 自らのことを『お父さん』と呼んだその声。
 そこでようやくその声の主が誰なのかが気になった彼は顔を上げて声がする方を見た。

「…お前達は誰だ?」

 そこに立っていたのは4人の男女だった。
 一番背の高い男、その隣に少し背が低い女、そしてさらに隣に同じくらいの背丈の2人の男である。
 よく見かけるようなごく一般的な作りの衣を着たその4人はその衣や髪型、装身具で男女を見分けることができるのだが、しかしどんな面立ちをしているのかは分からない。顔を隠しているわけではないのに全員どんな面立ちをしているのかがどうしても分からないのだ。なんというか…“見ているはずなのに認識することができない”といった感じだ。
 今さっきまで聞こえてきていた声も、ともすれば男のものだったか女のものだったかがあいまいでよく分からなくなってしまう。
 4人で話していたのか、誰か1人が話していたのか、そもそもこの4人だったのかどうか…

「だ、誰なんだ?」

 もう一度訊ねてみるも、4人は微笑んだまま何も答えない。
 すると突然璇は自分の膝の上に1人の幼児が乗っていることに気がついた。
 ついさっきまで赤子を抱いていたはずだというのに、もぞもぞと動いた感覚すらなくいつの間にかそこに座っている子供。
 さすがにこの状況の摩訶不思議さに(これは夢…なんだな?)と認識した璇は、膝の上にいるその子供が抱えているかごに目を向ける。
 そこには6つの桃が入っていた。
 濃い黄色に熟した桃が5つと、赤く熟した桃が1つだ。
 こちらを見上げているわけではないのに、かごを抱えている子供がにっこりと微笑んでいることが璇には分かる。
 彼は思わずその子を大切に抱きしめたくなって胸元に引き寄せようとした。
 だが…結局そこで彼は目を覚ましたのだった。


ーーーーーー


「…っていう夢を見たんだ、昨日。やけに鮮明だったし不思議だったから印象に残ってて…今でもはっきりと思い出すことができるよ」

 翌日の夜、夾の脚を揉み解していた璇は前夜に見た不思議な夢のことを話した。
 妙に明るかった星空のこと、赤子を胸に抱いていたこと、4人の不思議な男女と、そして…いつの間にか赤子ではなく6つの桃が入ったかごを抱えた幼児を膝の上に乗せていたことを。
 夾は「それって、もしかして胎夢ってやつですかね?」と小首をかしげる。

「子供が産まれる前に見たりする夢のことを胎夢っていうんですよね。たしか産まれる子の性別とか将来どんな子になるかが分かったりするって」
「俺が見た夢はそれなのか?」
「さぁ…分かりませんけど。でもやけに鮮明だったんならなにかしらの意味がありそうですよね。それこそ星空を見ていたのとかも関係があったりして」

 まだ目立っていない腹部をそっと一撫でする夾を見て、もう一度夢で見た光景を詳細に思い出す璇。
 そうして何度も思い出しているうちに、彼は夢に出てきた人物が全員なにか似たような装身具を付けていたような気がしてきたのだった。その装身具ははっきりと見たわけではないが、房飾りのついた銀の鈴…だったように思える。
 しかし夢に限らず記憶を何度も反芻しているとやがて無意識に頭の中で都合の良いように改変を行ってしまっている場合もあるので、何とも言えない。

「だけど星空に関しては夢に出てきてもおかしくはないですよね、だって星は常々俺達の名前の共通点だっていう話をしてるわけですし。幼児姿の子はきっと最近いなみがハイハイもできるようになって成長を感じたから想像したんでしょう。桃がでてきたのも…先日ちょうど桃の話をしたからじゃないですか?璇さんが言ってたじゃないですか『桃の季節が終わって手に入らなくなったけど氷室で貯蔵してる分を今度少し分けてもらえるかもしれない』って。そういう…いろんな話が組み合わさってその夢になったのかもしれませんよ」

 夾は夢の内容が璇の無意識によって作りだされていることを指摘する。
 すると腑に落ちる点がいくつもあって、璇は「たしかにそうかもしれないな」と頷いた。

「言われてみればそうだ、なんで突然そんな夢を見たのかと思ってたけどそのタネになりそうなことは最近話をしたことばかりだったな」
「でしょう?もちろん全部が全部説明づけられるってものではないですけど、でもそういうことかもしれません」
「うん、たしかに」

 すっかり夾の両足を揉み解し終えた璇は手に薄く残っている植物油を夾の腹にも薄く塗り広げてゆく。
 一足先に夢の中で会えたかもしれない2人目の我が子。
 その子に会える日が来るのはまだもう少し先のことだ。

「それにしても…もしその夢が胎夢なんだとしたら、この子も無事に産まれてきてくれるってことですよね?それなら安心です。きっと桃が大好物の子になるでしょうね」
「桃を持ってた子がこの子とは限らないぞ?」
「そうですけど…でもつわりでほとんど何も食べられないときに唯一食べられたのが桃だったじゃないですか。おかげで今年は俺も山ほど桃を食べましたよ。この子もお腹の中で俺と一緒に桃をたくさん食べたはずですから…きっと桃の味が好きな子になるはずです。なにせあんなに飽きもせず桃ばっかり食べたがってたんですからね」

 あはは、と笑った夾につられて微笑む璇。
 産まれてくる我が子に会える日が待ち遠しくてたまらない2人はそうして支え合いながら着実に一日一日を重ねている。
 それはもちろんこれからも続いていくことだろう。
 腹部を優しく撫でさする璇の手に自らの手を重ねた夾は、そっと璇の唇を奪った。
 少し驚きながらもそれに応える璇。

「…今日も大人しくそのまま眠るんじゃなかったのか?」

 夾の指先が手のひらから腕を辿るくすぐったさを感じながら璇が訊ねると、夾は一瞬口をつぐんでから「…ここのところシてないでしょう、こういうこと…それに…」とほとんど呟くようにして言った。

「それに…その…医者の先生も色々と気を付けながらだったらシてもいいって…むしろそういう気分を抑える方が体に良くないって言ってたじゃないですか…いなみを妊娠してる時だって、たまにはこうやってた…わけですし……」

 きっと彼は気恥ずかしくてたまらないのだろう。
 視線を伏せたままもごもごと話している。
 璇はそんな彼の腕を注意深く引き寄せると、その頬に手のひらを添えながらしっとりとした口づけをした。
 睫毛を触れ合わせて…そして2人してゆっくりと寝台に倒れ込みながらさらに口づけを交わす。

「俺…やっぱりおかしい、ですよね…こうやって璇さんに触れたくなるなんて…妊娠しててもが忘れられないだなんて……」

 眉をひそめる夾。
 璇はそんな彼の前髪を撫でつけると「でも体調が悪かったらそういう気分にもならないんだから、度を過ぎず、無理をしなければ良いことなんじゃないか?」と頬に触れた。

「しかも前にも言っただろ、俺としては『興味がなくなった』って言われるより嬉しいんだって」
「璇さん…」
「こんなことを言う俺は父親失格かな?」

 璇が肩をすくめて小さく笑うと、夾は首を横に振って再び口づけてくる。
 熱のこもった、情熱的なそれ。
 夾の体をいたわるように肩や背や腰を撫でた璇は囁くようにして言った。

「もし気分が悪くなったりどこかに痛みが出たりしたら…すぐに言うんだぞ、無理はするなよ」

 コクコクと頷いて応える夾。
 それから彼は下衣の中に入り込んできた璇の手が肝心なところをかすめるばかりで一向にきちんと触れようとしないのにじれったくなり、さらに深く口づけることで明確な意思表示をした。
 そうして始まった夢のような心地よさに包まれながら、2人はひそやかに夜を過ごしたのだった。
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