悠久の城

蓬屋 月餅

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【月の兎にて】

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 丁寧に引かれた出汁というのは少々の塩を加えるだけでも立派なお吸い物にもなれるほど良い味を持っているものであり、そんな出汁で炊かれた雑炊はこれまた大げさな味付けをしなくても充分な美味しさを誇る一品に仕上がるものだ。
『良い料理や美味しい料理というものは けっして複雑に調味料を組み合わせたものがすべてではない』ということが、こういったものを口にすればよく分かることだろう。
 【真心が隠し味】とはよく言ったものだ。
 兄の穏矢しずなおのためにと紹人つぎとが作った雑炊はふんわりとした卵や香りのいい三つ葉、干し椎茸などを使って仕立てられていて、『ありあわせのもので作っただけだけど』と言う割には充分な仕上がりだった。
 一度ひとたび口にすれば体全体にしみこんでいくような、優しく疲れを癒していくその味わい。
 雑炊と共に供された一口大のサバのみぞれ煮やあつものも、それぞれ程よい温かさで体の中からじんわりと染み渡っていく。
 それまで特に疲れを顕著に感じていなかった穏矢も、やはり雑炊を食べ終えてふぅっと一息ついたときになると自分の体が随分と疲れていたらしいと気付いたのだった。

 すっかり落ち着いて食事を終えた穏矢。
 空腹は満たされ、体の疲れも少し癒えた。
 飲み頃になった湯呑を傾ける静かな一時…

「………」

 しかし彼のその胸中はけっして穏やかにはなっていなかった。
 少し前に聞いたあの声が、彼の心を激しくかき乱していたのだ。

(いや…違う、そんなはずない、ありえない)

(でも、どう考えてもあれは……あの声は………)

 似ている。似すぎている。
 しかし、ありえない。
 1人で何度も声の主の正体について考えをめぐらせた穏矢だったが、結局彼はその声の主が例の人にせよなんにせよ 早々にこの店を後にすることにしようと決定付けたのだった。
 食事は終わった。そのため、あとはあらかじめ弟が包んでくれていたものを受け取って帰ればいい。
 お手洗いに寄ってから帰ればいいだけだ。
 そうして穏矢は席を立ち、よく知る通路を通って店の奥の方にあるお手洗いへと向かったのだが…彼が自ら手掛けた壁や通路の出来をたしかめるように見渡しつつカウンター横の通路突き当りを曲がったところで、不意に目の前に男が現れたのだった。

「あっ、すみません」
「いえ、こちらこそ」

 穏矢が少し後ろに下がって詫びると、ちょうどお手洗いから出てきたらしいその男も同じように詫びを言ってそのまますれ違おうとする。
 しかし一歩過ぎたその時にその男が「…あの、もしかして佐々田さん、ですか」と話しかけてきたので、穏矢はさらに驚いた。

「はい、佐々田…ですけど」

 穏矢が応えると、その男は「やっぱり!」となぜか嬉しそうに言う。

「すれ違いざまにすみません、すごく店主の佐々田さんに似ていらっしゃったのでつい声をかけてしまいました」
「あぁ…はい、店主の佐々田は僕の弟なんです。でもそんなに似てますか?自分ではそんな気はしないんですが」
「えっ、似てますよ!なんというか、雰囲気がすごく似てるんです」

 朗らかな様子の男。
 その男は『月ヶ瀬玖一です』と名乗ってからさらに「佐々田さんにはとてもお世話になっていて…」と話したのだった。
 その左手薬指には控えめに光る指輪がある。
 その指輪が加賀谷と呼ばれたあの男のものとお揃いであることを見抜いた穏矢が申し訳無さそうに「すみません、せっかく貸し切ってのお2人のお祝いなのに」とさらに詫びると、彼は「いえいえ!お気になさらないでください」とこれまた人の良い笑みを浮かべて言った。
 月ヶ瀬のその話しぶりは恭しくも親しげで、知り合ったばかりだとはいえついつい話し込んでしまいたくなるような魅力がある。
 あきらかに年下であると見えることも関係しているのかもしれない。
 そうして月ヶ瀬と2、3言 話した穏矢は、ふと思い立ち、唐突ながらも1つ訊ねてみることにした。

「…あの、古平こひらは最近どうしてますか」

「古平は元気にしていますかね」

 それは完全なブラフだった。
 『古平』という名前に月ヶ瀬が反応したとすれば、先ほど聞いたあのよく似た声の主はほぼ間違いなくその人のものであろうと決定づけることができるはずだと彼は考えたのだ。
 もちろん『古平という名の人物は知らない』と言われる可能性もあるだろう。
 だが、どうしても気になって仕方がなかった穏矢は(知らないと言われればそれでいいんだし…)と半ば自分に言い訳でもするかのように思っていた。
 妙な緊張感に包まれながら月ヶ瀬からの応えを待つ穏矢。
 すると月ヶ瀬は「古平…」と呟くように言ってからさらに続けたのだった。

「古平って…あぁ、代表のことですよね?すみません、いつも俺達は『代表』って呼んでいるので、名前だとつい反応が遅れちゃって」

「佐々田さんはうちの代表ともお知り合いなんですか?」

 月ヶ瀬の屈託のないその言葉に穏矢は「あ…えぇ、まぁ……」と苦笑いで応える。
 古平のことを『代表と呼んでいる』という月ヶ瀬の話が彼の胸に刺さった。

「お元気ですよ、古平さん」
「…そうですか」
「実は俺とパートナーを結びつけてくれたのが古平さんなんです。俺にとっては会社の代表ってだけじゃなくて本当に公私共にお世話になってる恩人で、今日の俺達の食事会も元々は代表が提案してくれてそれで…あっ、今日代表も来ているんですよ!佐々田さんがいることをお知らせしましょうか?お知り合いなら直接お会いになって…」
「えっ!?い、いえ、大丈夫です、お気遣いなく、そんな…古平とはそんな仲じゃないというか、そういうアレじゃないので」
「…?そうですか」
「えぇ、そうです、あはは…」
「?」

 善意から言ったであろう月ヶ瀬に慌てて断りを入れた穏矢は変に緊張して「あはは…」という誤魔化すような笑いをしながらなんとか自分の想いを取り繕おうとした。
 顔を合わせるわけにはいかないと思っている。
 だが…『同じ店にあの人がいる』と。『今のあの人を知る人が目の前にいる』と。そう思うとあれこれと聞きたいことが彼の胸の内に湧き上がってきて抑えきれなくなっているのも事実だった。

 最近はどうしているのか、相変わらず…お人好しなのか。
 そんなことを聞く資格はないと自分にも言い聞かせる穏矢だが、もう1つくらいあの人について訊いてみてもいいだろうと、彼は月ヶ瀬に目を伏せながら訊ねた。

「古平は…代表として、上手くやっていますか?」

 バーでの仕事を辞めて『代表』となったあの人の仕事ぶりを訊ねた穏矢。
 すると月ヶ瀬は「はい、とても」と笑みと共に答えた。

「代表は本当に良い方です。その…まぁ、うちのスタッフは皆なんというか…昔仕事に困っていた、というか路頭に迷っていた、というか…とにかく大変な境遇に遭ったりした人達なんですけど、でもそんな皆の世話を引き受けてくれたのが代表なんですよ。代表の元でそれぞれできる仕事をして生活を立て直して、それで独立していったスタッフも1人や2人ではありません。代表の元を離れてからも時々挨拶に来るくらい皆代表のことを慕っているんです。俺も…まぁ、そんな感じでしたし、なにより俺のパートナーも仕事で悩んでいた時に代表からフリーランスになる後押しをしてもらったそうで」
「そ…うでしたか」
「はい」

 その人が『代表』となったのは穏矢が彼の元を離れてからのことだ。
 元々人望を集めるような人柄だったが、今もその力を十分に発揮しているらしい。
 嬉しいようなホッとしたような、ほんの少し寂しいような…なんとも言えない思いが穏矢の胸中に渦巻く。
 それは彼がよく知っているその人の姿であり、そしてそれと同時にまったく知らない姿でもあるのだ。
 「…それならよかった」と小さくこぼした穏矢。
 するとそんな穏矢の姿を見た月ヶ瀬は「…でも、きっと代表はすごく無理をしているところがあると思うんです」と静かに言った。
 えっ?というように穏矢が顔を上げると、月ヶ瀬は困ったように眉をひそめて続ける。

「もちろん俺達スタッフは代表の補佐としての仕事もします。というか、会社が傾かないようにそれぞれきちんと仕事をしています。でも…それじゃ本当に代表を支えていることにはなっていないんですよね」

「代表は会社の立ち上げから今に至るまでなにもかもずっと1人でやってきています。…俺のパートナーはフリーランスで仕事をしているので何となく分かるんですけど、自分で事業を興すと1人で仕切らなければならないことが山のようにあるんですよね。だから俺はパートナーのそばにいることでその疲れだとか気苦労が絶えない毎日の力になれればいいなと思ってるんです。でも、代表にはそういう存在がいないんです。会社のことを考えて、そしてスタッフ達のことも考えて。皆の父や兄のような存在であり続けて、って…そんな毎日疲れないはずがないじゃないですか?なんでもそうですけど、やっぱり1人でいるっていうのは大変なことですよ。苦労を分かち合ってくれる人が必要だと思うんです、誰にでも」

「こればっかりは俺達スタッフにもどうしようもないことですから」

 自分達には力の及ばないところだと肩をすくめた月ヶ瀬。

「1人?古平が…ずっと……?」

 思わずそう訊ねた穏矢に、月ヶ瀬は「代表は仕事一筋、会社のことだけっていう方ですよ」と苦笑いで応えた。

 《1人きりで》という言葉がさらに穏矢の胸に重くのしかかってきて彼はまた少し項垂れた。
 今までどんなに苦労してきたことだろうかと思うと、穏矢はどうしてもその人のことを気にせずにはいられないのだ。
 だが月ヶ瀬は「…あっ、すみません、余計なことまで長々と」と穏矢に詫びる。

「佐々田さん、お手洗いに行くところでしたよね?こんなに引き止めてまで話をしてしまってすみません」
「あぁ…いえ、大丈夫ですよ。どちらかというと僕の方が引き止めてしまっていましたよね、こちらこそすみません」
「いえいえ!お気になさらず!」

 それから互いに挨拶を交わし合い、穏矢は奥にある手洗い場へと向かったのだった。


 元々手洗いを済ませたらそのまますぐ店を出て帰途につくつもりでいた穏矢だったのだが、どうもちょうど同じタイミングでお祝いの食事会のほうもお開きということになったらしく、にわかに奥の間がガヤガヤとしだしたので、結局穏矢はその一行が帰ってから店を出ることにしようと考えを改めざるを得なくなった。
 この【月の兎】という店の間取りに関しては設計した本人である穏矢以上に詳しい者はいないだろう。
 そのため奥の間を出てからの動線において完全な死角となる部分がどの辺りになるかを完全に把握している彼は、一行の誰とも鉢合わせないような場所でしばし時が経つのを待ち、全員が店を出て行った後でまたカウンターの端の席に戻った。
 一行の見送りをしていた弟、紹人が例の人とも親しげに話しているのも聞いた穏矢。
 (紹人のやつ…あの感じだと偶然会ったってわけじゃないみたいだな。昔からやけに懐いてはいたけど、ったくいつの間に…)などと思いながら静かになった店内で1人最後に残った茶を飲んでいると、見送りを終えて戻ってきた紹人はカウンターにいる兄をみつけて「あっ…穏兄しずにい」とあきらかに動揺した様子を見せた。

「ど…どこにいたの?てっきりもう知らないうちに帰っちゃったんだと思ってたのに」
「帰ってないよ。まだ料理も受け取ってないのに」
「そ、そうそう、受け取らないで帰っちゃったのかと思ったんだ。よかった、うん」
「…なんでそんな動揺してんの」
「えっ!?いや、別に動揺なんかしてないよ、ただ帰っちゃったのかと思ってたから『まだいたんだ、良かった』ってそれだけだよ」
「……」

 弟の誤魔化し方のあまりの下手さに呆れながら「もう少ししたら僕も帰るよ。片付けで手伝えることがあればやるけど、なんかできることある?」と訊ねる穏矢。
 すると紹人は「え、いいよ、穏兄疲れてるんでしょ?早く家に帰ってゆっくり休んだほうがいいよ」と断ってから料理の包みを取りに厨房の中へと戻っていった。

(はぁ…まったく。偶然客としてここに来たんじゃないとしたら、多分紹人の方から連絡を…)

(…いや、意味ないよな こんなこと考えても。別に紹人が誰と親しくしようが僕には関係ないんだから。2人共気まずく思ったっていいはずなのにってのが不思議だけど、気が合ってんならべつに…どうでもいいか)

 考えるだけ無駄だとかぶりを振って残っていた茶を勢いよく飲みほした穏矢。
 後はもう帰り支度をして、料理を受け取って帰るだけだ。
 そのはず…だったのだが…

「ごめん、忘れ物したってやつがいてその荷物を取りに…」

 突然ガラッと開いた戸。そして誰に向けるともなくそう言いながら店に戻ってきた男。
 穏矢は飲んでいた湯呑を下ろすことができず、固まったまま男が奥の間に向かうのを見送る。

 いや、どうしてこんなことが起こりうるのか。
 彼にはちっとも理解ができなかった。
 まじまじと見て確かめるまでもない、その男は間違いなく…

 もはや慌てて隠れるのも滑稽で無意味なことのように思えた穏矢は堂々とカウンター席に端座したまま、忘れ物を取りに行った男が再び店を出て行くために同じ通路を通るのを待つ。
 自分がどんな表情をしているのかも分からないほど、穏矢は緊張していた。
 もしかしたら今からでも姿を隠しておくべきだったのかもしれない。
 しかし……

 食器を片付けているであろうカチャカチャという音が奥の方から聞こえてくるのをじっと聴いていた穏矢の視界の端に、ちらりと何かが写った。
 通路を仕切る壁の陰からちらちらと見えるそれは…どうも服の裾のようだ。
 はっきりと姿を現すことなく隠れている(つもりらしい)その人物の正体にはもう充分すぎるほど見当がついている。
 こちらの様子を窺っているようでいい加減じれったくなった穏矢がしっかりと背筋を伸ばして顔がよく見えるようにして前を見据えると、はっと息を呑んだような音が聞こえてきた。

(おい、誰かの忘れ物を代わりに取りに来たんじゃなかったのか。いつまでそこでつっ立ってるつもりなんだよ)

 穏矢は調理場の方に声をかけて「紹人、ちょっといい?」と弟を呼び寄せると、手元の椀を差し出して言った。
 ぎょっとする紹人。

「紹人。悪いんだけど、もう一杯だけあつものをくれる?」
「あ…羹ね、分かった」
「……」

 それは《この一杯を飲み切るまではここにいる》という穏矢の意思表示だ。
 するとそれを聞いた男は慌てたように「お、俺すぐ戻ってくるから」と言って足早に店から出て行った。
 弟に椀を受け取らせる穏矢。
 弟、紹人の動揺がどれだけのものであったかは言い表すまでもないことだろう。

 良い料理人とはただ料理を美味しく作るだけでなく、その一品を一番美味しく味わえるタイミングで客に提供するものだ。
 その心得がある者が一流の料理人なのである。
 もちろん紹人もそうであるはず、なのだが。

「えっ、熱っ………」

 手渡されたその一杯の羹は椀越しでも分かるほどアツアツになっていた。
 羹には元から少しとろみがついているため、そもそも そうすぐには冷めない代物だというのに、このアツアツさである。
 鋭い視線を紹人に向けると、紹人は一切視線を合わせずに「あ…片付け、片付けしないと……」などとボソボソ言いながらそそくさと奥へ引っ込んでいった。


ーーーーー


「「……………」」


 熱い湯気が立ち昇る椀。
 静まり返った店内。
 押し黙った2人の男。

 忘れ物を届けて全員の見送りを済ませたらしい真祐さねまさは、店内に戻ってきた後、穏矢しずなおがいるカウンターの角を挟んだ一席に大人しく座っていた。
 真正面でも横でもないという、微妙な距離感の席だ。
 何を話すでもなくただじっとしたまま過ぎていく時間は必要なような無駄のような…なんともいえない雰囲気に満ちている。

「……」

 穏矢はそんな雰囲気にも臆せず羹をふぅふぅと吹いて冷ましていたのだが、ようやく少し飲めるくらいの温度にまで下がってきたので椀の縁に唇をつけて味わい始める。
 するとそのときになってようやく真祐が「あ、あのさ」と口を開いた。

「すごく久しぶり…だな」

 そのぎこちない笑みを含ませたような声を受けて、椀を手元に置いた穏矢が「うん」と一言で応えると、真祐は少しほっとしたような明るい表情になってさらに話し出した。

「はは、ちっとも変わってないな、見かけてびっくりしたよ」
「そうか」
「…!あぁ、本当にびっくりしたよ」
「君は…」
「うん、なんだ?」
「…老けたな」
「えっ」

 穏矢の言葉を受けて固まる真祐。

「ふ、老けた……一応色々と気をつけてるん、だけどな……まぁそうか、仕方ないよな、どうしたって歳は取るもんだし…うん……」

 目に見えて落ち込んだような素振りを見せる真祐の頭にはしょげた犬の耳が見えそうでもある。
 あからさまなその姿をちらりと横目で見た穏矢は「…まぁ、老けたっていうか」と何気なく続けた。

「昔の…ちょっとチャラチャラしたような、人ったらしな雰囲気が少しは落ち着いたかな」

 穏矢のその指摘に「えっ、なんだそれ、俺ってそんな感じだったのか?」という真祐の困惑した声がとんできて、穏矢は思わずふっと笑みをこぼしながら「まぁね」と頷く。

「俺、そんなだったかな…いや、『人が良さそうだ』とは言われたことがあったけどチャラチャラしてるなんて一度も言われたことないぞ」
「そう?」
「…あ、わざとそう言って俺をからかってるんだろ、そうだよな?」
「さぁね」
「お、おいっ…!まったく、本当にちっとも変わってないな」

 小気味良いやり取りが続いているところを見ると、まさかこの2人の会話が6年ぶりのものだとは誰も思わないだろう。
 それどころか顔を合わせたのすらついさっきが6年ぶりのことだということも信じられないはずだ。
 それほど和やかな、良い掛け合いの会話が交わされている。
 穏矢からの返答はそこまで言葉数が多いものではなかったが、それでも真祐は嬉しさをにじませたような明るい声で一つ一つのやり取りを大切にしながら言葉を紡いでいた。
 不思議で、穏やかな雰囲気だ。
 
 だがそれもいつまでも続くわけではない。
 いよいよ穏矢の椀の中の羹が最後の一口になり、それを一息に飲み干した穏矢は「…じゃ、そろそろ帰るから」と席を立った。
 見かねたように調理場から出てきた紹人が「穏兄しずにい、お茶も飲んでってよ」と冷茶を出すと、穏矢はスッと目を細めて「そうだね、羹が火傷しそうなほど熱かったから助かるよ」と一口飲み、あらためて料理の詰まった包みを受け取ってから 戸の方へと向かう。
 カラカラと音を立てて開く店の戸。

「な…なぁ」

「また連絡しても、いいか?」

 遠慮がちに真祐が訊ねると、穏矢はわずかに顔を振り向かせて言った。

「…連絡するなって言った覚えはないけど」

 長年の付き合いがあれば分かる、その一言が真に意味するもの。
 席から立ち上がらんばかりに「あっ、じゃあまた…!」と言いかけた真祐をよそに穏矢は「ご馳走さま。紹人」と【月の兎】を出て行った。

 再びシン…と静まり返った店内。
 紹人が心配そうに様子を窺うと、真祐は必死に頬がほころぶのを抑えているような、そんな嬉しそうな表情を浮かべていたのだった。


ーーーーーー


《詰められてる料理の中にある牛のしぐれ煮
 あれはけっこう辛めだから気をつけて食べてって言ってた》

 その夜、真祐は6年ぶりにそのメッセージ画面を開き、そして送信ボタンをタップした。
 何年も更新されることがなかったその画面に新しい日付が表示される。
 
(…これじゃ誰が気をつけてって言ったのか分からないか)
(紹人が言ってたって書き加えた方がよかったかも)
(…いや、『店主が』って言うべきか)

 などと真面目に逡巡していると、唐突に送ったメッセージが既読になった。
 それからすぐに返ってきた返信。

《分かった》

《ありがとう》

 たったそれだけの返信。
 だが真祐にはそれでも充分だった。
 返信が返ってきただけでも嬉しかったのだ。
 彼はまた何か返信をするかどうかを散々迷った挙句、あれこれと文面を考えたりもしたのだが、結局穏矢からのメッセージに笑顔のマークをつけたのみで画面を閉じた。
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