悠久の城

蓬屋 月餅

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【後悔】


 真祐さねまさ穏矢しずなおのことを心から愛していた。
 心の底から愛していた。
 あんな風にして自らの元を去っていってからも、どれだけの時が経とうとも。

 よく『こんなに好きになるのは後にも先にもこの人だけだ』というような表現がなされることもあるが、真祐にとっての穏矢はまさにそういう存在だったのである。
 10年以上もの間付き合っていたからだとか、体の相性がいいからだとか、もはやそういう次元ではなく。そばにいること自体が精神的な安らぎをもたらすという特別な存在だった。
 彼は1人きりで目覚めたあの日の朝以降、何度穏矢と連絡を取り合いたいと思ったことだろうか。
 しかし顔を合わせることはおろか、メッセージの一通を送ることすらもできなかった。
 穏矢を深く悲しませ、傷つけ、不安にさせた自分にはもうそばにいる資格がないのだと本気で思っていたからだ。
 だからこそ【つき】での偶然の再会は、まさに彼にとって青天の霹靂だった。


ーーー


 料理屋【月の兎】での1件の後、彼らはそれまでの連絡を取り合っていなかった年月がまるで嘘だったかのようにまったく普通にメッセージを交わすようになっていった。
 といってもその内容はほとんどが真祐さねまさからの食事の誘いだ。

《明日、魚食べに行かない?》

《鳥の水炊き食べに行こう》

《ここの予約取るよ、何時からなら来れる?》

 彼はあまり日を空けることなく穏矢しずなおを食事に誘った。
 それは穏矢が昔から食事などをおろそかにしがちだということを知っていたからということもあるが、なにより『穏矢と連絡を途切れさせないようにしたい』という思いがあったからだというのが一番だ。
 世間話や近況をメッセージするよりも食事を誘う方が何かと都合がよかったのだ。
 穏矢もよほど仕事が忙しくない限りは多少強引な真祐からのメッセージに《分かった》と返信し、一緒の食事に応じていた。
 穏矢は長いこと仕事が終わればそのままコンビニに寄って帰宅、そして買ってきたものを食べてはひたすら仕事のための資料集めを行う…という生活を続けてきていたのだが、きちんとした食事をよく口にするようになったおかげで、次第に目に見えて健康的な雰囲気を身に纏うようになっていった。
 バランスの取れた食事を取るようになった(というよりも真祐に『食べさせられている』という表現が正しい)ため、そこはかとなく漂っていた『仕事に疲れている感』というものが減ってきたのだ。
 穏矢はこの6年半という年月をまったく感じさせないほど若々しさにより一層の磨きをかけ、真祐はこれまでもそうだったように、いやそれよりもさらに穏矢へと想いを寄せた。

 しかし、そうして何度も食事をして顔を合わせてもそれ以上のことは一切なかった。

 真祐が話題にするのはほとんどが料理の味や店の雰囲気についてばかりで、たとえば『この6年間、どうしてた?』などといった他の話は一つもしなかったのだ。
 真祐は「あっ、これも美味しいぞ」「これも食べてみないか?」と料理を勧めてばかり。
 そしてその後はどうするでもなく、会計を済ませると「じゃ、また」とそつなく解散して終わりなのだった。


ーー


「…ん、ここの料理美味しいな」

 注文して運ばれてきた小鉢などを少しずつ口にした穏矢しずなおが言うと、真祐さねまさも「うん、美味しいよな」と明るく笑ってさらに他のものも勧めようとする。

「なぁ、このお刺身も美味しいな」
「うん」
「そうだ、今度は寿司を食べに行くか。焼肉でもいいけど…でもどっちかっていうと魚がいいよな」
「今はお腹いっぱいでそんなの考えられないけど」
「あはは、それもそうか、うん」
「……」

 真祐が選ぶ店の席はいつも半個室で、完全な個室よりも適度な雑音がする居心地がいい場所ばかりだ。
 堅苦しくもない雰囲気のため、落ち着いた話をするのにもちょうどいい。
 この日彼らが訪れた店の席もまさにそのような場所で、ゆったりと食事をすることができる。
 しかし…それでもいつも通り、真祐は何の話をするでもなく食事が終われば解散の運びに持っていくであろうということは明白だった。
 真祐が何か話をしたくて食事に誘っているというわけではないということを、穏矢も知っている。
 だが、もう何度もこうして食事をしてきたにもかかわらず何も言い出してこない真祐に、ついに穏矢はしびれを切らして「…あのさ」と話を切り出した。

「なんでこんなに、僕にかまえるの」
「うん?」
「気まずくないの」

 単刀直入に切り出された真祐は思わず一口含んだところだった茶を『うぐっ』と音を立てて飲み込んだ。
 それまで微塵も触れてこなかった話題に唐突に踏み込まれたことで、まさに今この瞬間気まずさが溢れたことは間違いない。
 だがそれと同時に、いずれこの話題は避けては通れないことであろうということも分かっていたのだ。
 真祐は「うん…そうかもしれないな」と困ったように眉をひそめると、慎重に言葉を探しながら話し出した。

「たしかにそうかもしれない、けど俺はただ…またこうやって一緒に色々食べたりする時間があったらいいなと思ってるっていうか…昔のこと どうこうじゃなくて、ただ一緒にご飯食べれるだけでも…それでもいいっていうかさ…」

「あ…やっぱり気まずいか、そうか、そうだよな、あはは…」

 けっして彼は穏矢がこうして食事についてきてくれている ということに胡坐をかいていたわけではないのだが、やはり穏矢は誘いを断りきれずにいるだけで実際は困っていたのかもしれない。
 苦々しく思いながら肩をすくめる真祐。
 すると穏矢は手元にある結露したグラスの側面を指先で拭いながら言った。

「…いつから【月の兎】に?」

 それも、真祐には少々気まずい話だ。
 だが彼は素直に「紹人…いや、店主に招待されてからだよ」と白状した。

「ぜひ店に来てくれって、言われてそれで…」
「その前から紹人とは連絡を取り合ってたわけだ」
「それは…」
「分かってる、どうせ紹人がしつこくしたんでしょ。当時から君によく懐いてたからね」
「…あぁ」

 さすが兄弟と言うべきか、穏矢はそれから弟の行動をほとんどぴたりと言い当てる。
 実は穏矢と連絡を取らなくなってから1ヵ月ほどが経ったとき、真祐はまだ手伝いをしていたバーに出勤する途中で待ち伏せていた紹人に捕まり、半ば強引に連絡先の交換を迫られていたのだ。
 自身の兄となにかあったらしいと察しつつも「でも真祐兄ちゃんに沢山試食してほしいのがあるんだよ」と言って引き下がらない紹人に根負けした真祐は結局連絡先を交換し、時々料理の試食をしたりしながらひそかに友情を保っていた。
 やがて紹人は独立して自分の店である【月の兎】を開くことになったのだが…もしそのとき紹人がこれからも連絡を取り合おうと言ってこなかったとしたら、きっと真祐が穏矢と再会することはなかっただろう。
 さしずめ彼らの縁は紹人のおかげでかろうじて再びつながったものなのである。
 弟のことを知り尽くしている穏矢は「どうせそんなことだろうと思ったよ」と言いながら少し瞳を伏せて続けた。

「紹人は僕にあれこれ聞いてきたりはしなかったけど、でも実際は…すごく寂しかったんだろうな、そんなことをするなんて。それもこれも僕がきちんと話もせずにあぁやって出て行ったりしたのが悪かったんだ」
「それは…」
「いいや、僕が悪いんだよ」

 珍しく穏矢が気弱そうに言う。

「全部僕が、悪いんだ」

 全て自分が悪いのだと繰り返し口にする穏矢。
 だが真祐は穏矢にそんなことを言ってほしくはなかった。
 穏矢にそういった行動を取らせたのは他でもない自分であって、穏矢が悪いということは本当に一切なかったからだ。
 あの夜、不安になっている穏矢に対してその不安を和らげようとすることもなくただ宥めることしかできなかった真祐。
 もしあの時きちんと自分の考えを話して、少しでも穏矢に安心してもらおうとしていたとすれば…きっと何もかもが違っていたことだろう。
 今それを話したとしても過去に戻れるというわけではないのだが、それでも穏矢が感じているものを少しでも軽くすることができるならば 今こそきちんと話をするべきなのかもしれない。
 真祐は深く呼吸をすると「俺がこの仕事をしようと思ったのは…さ」と話し出した。

「バーでちょっと…いろんな話を聞いたからだったんだ。あのバーには色んな人が来てただろ?その中には、まぁ、夜の仕事してる子とかそういう店のスタッフとか、ビデオ業界の人とかもいてさ。ただの軽い愚痴みたいな感じでそんなに詳しく話してたわけじゃないんだけど、でも色々とそういう人達の話を聞く機会があったんだ。俺は一応話を聞くのも仕事のうちだし、初めは単なる仕事の苦労話って思ってたんだけど…でも聞いてるとすごくひどい扱いを受けてる子達もいるんだってことを知った。行き場もお金もないからって仕方なくそういう店で働いたり撮られたりするんだけど、中には客にひどい扱いをされたり無理な撮影で体調を崩すとかもあるって…そんなのはあるあるなんだって。なんか…そういうの聞いてたら俺にも何かできることはないかって思うようになったんだよ」

「でも実際そういう子達は生活に困ってて他に道がないからそうしてるんであって、ただ一時的にお金を出したってその場しのぎにしかならないし、なにより焼け石に水って感じだから。だから俺が雇ってきちんと生活を保障してあげられたら少しは力になれるんじゃないかと思ったんだ。仕事の内容は…あんまり変わらないかもしれないけど、でもきちんと健康を保てるようにサポートして少なくともそれまでの環境よりは負担がないようにしようって。バーは飲食関係だから安定させるまでにどうしても時間がかかるだろ、それに比べてこういう会社なら常に一定の需要があるし、なによりバーの常連にその手のカメラマンとかがいたから知り合いに声を掛け合って人員を確保しさえすれば比較的始めやすかった。本人が引退したいってことなら販売を差し止めることだって…いや、こういう話はいいか…とにかく、その子達が自分の身を守りながら賃金を受け取ってその後の生活をも立て直していけるようにって、俺は考えてたんだよ」

「だけど本当に…いきなりそんなことを聞かされたら誰だって不安になるし、混乱もするよな。当時の俺はただ突っ走っててそういうところへの配慮ってものが欠けてたんだ。…悪かったと思ってる、本当に…ごめん」

 ようやくそうした業界に足を踏み入れようと思ったきっかけを話すことが出来た真祐。
 改めて思えばいきなり彼氏が『ゲイ向けAV事業を始める』などと言い出したのをすんなりと受け入れられるはずもないのだが、当時の真祐は穏矢と過ごした年月や自分への思いから『肯定してくれるに違いない』と思い込んでいたのだ。
 そうではなかったことに気付いたとしても、もうすでに遅かった。
 当時の自分のどうしようもないほどの愚かさに真祐は項垂れる。
 すると今度は穏矢が静かに話し出した。

「…やっぱり君はすごい人だな。誰かのためにそうやって色々とできることはないかって考えて、会社まで興しちゃうんだから。本当にたいした男だよ」

「そんな君のことをよく分かってたはずなのに、僕は…僕は一体なにをしてたんだろう」

 真祐が顔を上げてみると、穏矢は卓の上の1点を見つめたまま寂しげに言葉を紡いでいた。

「…話を聞いたとき、僕は自分がすごく混乱したことを憶えてる。一緒にバーを造るんじゃなかったのかとかも思ったし、同じ方向を向いてきたと思ってたのに君はいつの間にかまったく違うことを考えてたんだって思って…なんかすごくショックだったんだ。事業の内容に関してもそうだった。君は…とにかく周りの人に慕われるような男だから。だからそうして慕ってくる子達をいいように扱って体を売らせて、それで金儲けをしようとしてるんじゃないかって。今はそんなつもりは微塵もなくたって、いずれそんな風になっちゃうんじゃないかって。すごく、なんていうか…怖かったっていうか、とにかく不安になった。君はそんな男じゃないと分かってたけど、でもまさにそのとき君がそういうことを前から考えてたって事に僕は気付けてなかったわけだし、そういう風にして君がこれからどんどんと変わっていっちゃうんじゃないかって、本当に不安になった。そんな君の姿はどうしても見たくなくて…なんとしてもやめさせなきゃいけないって思った」

「…真夜中に目が醒めてさ、僕のすぐそばにいる君のことを見てずっと考えたんだ。『どうしたらやめるって言ってくれるんだろう』って、『考えを改めてくれるんだろう』って。僕の頭の中には君のやろうとしてることを肯定しようって考えが全然なくて、ただひたすらどうしたら考えを改めさせることが出来るかって、そればっかりだった。1度決めたらなんとしてもそれをやり通す男だって知ってる。でも『僕が何とかそれを正してやらないといけないと』と思って。…もしかしたら正義感じみたものだったのかもね。『この優しい人を変えちゃいけない、守らないと』って本気でそう思ってた。しかも、自分ならこのまっすぐに突き進む人を止めることができる、とも思ってた。僕が全力で止めさえすれば君も考え直すはずだって。そうして考えがまとまった頃にはもう空が明るくなりそうになってたよ。ベッドから抜け出して一つ一つ荷物をまとめた。ひとつ残らず全部。そうやって去れば君は僕に戻ってきてほしくて考え直すに違いないって。でも…」

「僕も馬鹿だよね。僕自身にはそんな力はなかったのに、それに気付いてなかったんだから。いつまで経っても君からの連絡はなくて、それで気付いたんだよ。『あぁ、もうとっくに君は僕の知らない人になってたんだ』って。何も言わずに離れて行った僕に出来ることなんてもう何もなくて、それっきりになった。でも…君は今もやっぱり変わらずお人好しなままで、スタッフの子達にもすごく慕われてる。結局僕が心配してたようにはなってなかった。それが全部の答えだよ。きちんとした理由と深い考えがあってそういう仕事をするって言ったに違いなかったのに、僕はそれを何一つ聞かず勝手に決め付けて、分かった気になって変な正義感から君に考えを改めさせようとしたんだ。ほんと…なに考えてたんだろうね。こんなこと思う資格なんかちっともないって分かってるのに、それでも僕は、すごく…」

「…あの日のことを、後悔してるんだ」

 穏矢の双眸は潤み、きらりと光ったようにも見える。
 たまらず真祐も「俺も…後悔してるんだよ」と口を開いた。

「あの時、俺はどうすればいいのか分からなくなって、きちんと向き合うこともできなくてさ…そんな風に追い詰めることになるなんて思ってもなかったんだ。すごくひどく傷つけたんだって気付いたらもうこれ以上俺がそばにいちゃいけないだろうと、そう思って…でも…」

「…あんなに寂しい朝は、初めてだったな…」

 2人はどちらも同じように項垂れて、刺身が乗っていた皿の真ん中に残る白いツマを意味もなく眺めた。


ーーーーー


「外、すごい雨になってますよ。電車も遅延したり止まったりしてるみたいなんですけど、お客様のお帰りは大丈夫ですか?」

 食事を終えて会計をしていると、レジを担当していた店員が真祐達に店の一角にあるテレビを見るように促しながらそう訊ねてきた。
 テレビではどこかの駅の中継映像と共にニュースが放送されているが、映っているのはむしろ傘は差さない方が良いだろうというくらいの暴風雨の様子だ。
 今夜は雨になるだろうという予報ではあったものの、ここまでのものになるとは…携帯端末で確認してみると、たしかに主要な電車がいくつか止まったり遅延していたりしている。

「え、うわっ本当ですね」
「線路内に飛来物があったとかでちょっと前からこんな感じなんですよ。ちょうど帰宅時間なんでバスとかタクシーも混んでて結構並んでるみたいですね、お帰りの際はお気をつけてください」
「そうですね…ありがとうございます」

 ごちそうさまでした、と店員と店に声をかけてから外へ出た2人。
 店内にいた時にはそこまで強くないように感じていた雨足はかなりのものになっていて、2人共傘を持ったまましばし ぼうっとしてしまう。

「あー…帰りの電車は?動いてるって?」

 真祐が訊ねると穏矢は静かに首を振る。

「動いてない」
「…とりあえず駅の方に行ってみるか?店の人はあぁ言ってたけど、もしかしたらここはバスとかタクシーもそんなに混んではないかも…」
「……」

 駅前の広場の方を遠目から確認してみることにした2人だったが、揃って大通りの方に出ると…まぁ、おおむね想像していた通りの光景が広がっていた。

 バスロータリーにずらっと並ぶ帰宅中のサラリーマン達。
 混み合った駅前にいくつも灯るタクシーなどの車列が織りなすテールランプの灯り。
 横殴りに降る雨。

 歩道からそれらを眺めつつ真祐が「…どうやって帰るつもりだ?」と訊ねると、穏矢はやや間をおいてから言った。

「…歩く」
「あ、歩く!?無茶だろ、何言ってんだ」
「1駅か2駅分くらい歩けばタクシーもつかまると思うし。歩いてたらそのうち雨も止むかも」
「当分止まないだろこんな大雨!それにタクシーがつかまらなかったらどうするんだ?風邪ひくだろ」
「明日休みだし、しばらくは差し迫った仕事もないから大丈夫。じゃ、僕はこっち方面だから」
「お、おい、待てって…!」

 踵を返そうとする穏矢の腕を取って引き止めた真祐。
 傘を叩く雨や風の音は強く大きくなっていくばかり。
 その音に負けないよう、真祐は声を張り上げた。

「俺、今日車で来てるからさ!家まで送るよ!」

 だが真祐の勇気を出した提案に、穏矢は「いや…いい」と首を横に振る。

「帰る、このまま1人で」
「なんで!」
「送ってもらわなくったって別に僕は…」
「いいから!乗れって!」
「でも……」

 降りしきる雨の中、先導するように「ほら!」と真祐が示すと、穏矢はかなり躊躇ったようだったのだが、結局すごすごとそのあとについて歩き出した。

 駐車場で車に乗り込む頃には雨足はいっそう強くなっていて、ナビを入れようと画面を操作しているとラジオの放送があちこちの道路状況を伝えてくる。

≪…方面の道路は現在片側規制がかけられており、大変混雑している模様です。帰宅途中の方は十分にご注意ください。また、都内各線、電車の運行状況については…≫

「なぁ、今ラジオで言ってたのって、このナビの場所の近くじゃないか?」
「…うん。そうかも」
「結構混んでるみたいだな」
「……」
「………」

「「……………」」

 ラジオにじっと耳を傾けて状況を探るも、どうやら主要な道路はどこも大雨のせいで身動きが取れなくなっているようだ。
 混んでいなさそうなルートを検索しようと画面に指先を滑らせる真祐。
 すると穏矢は「やっぱり僕、今日はどっか駅前のホテルにでも泊まるからいいよ」と口を開いた。

「ビジネスホテルなんかそこら辺にいくらでもあるでしょ。そこに泊まる」
「あ…そうか?それじゃせめてその前まででも行こうか」
「うん。ありがとう」

 そうして駐車場から出た真祐の車は、雨の中、駅付近にいくつか立ち並ぶビジネスホテルの前を通り過ぎながら空いていそうなところを探し始めた。
 そこもここも、あっちの方も。
 だが、たんなる雨宿りなのかどうなのか…どのホテルの入り口にも沢山の人がいて とても空室があるようには見えない。
 一通り見回ってみたところで『ここだ』という一軒を見出すことができなかった穏矢は「あっちの通りの方にもあるらしいから、ここで降りて探してみる」と傍らに置いていた傘に手を伸ばし、なんと車から降りようとした。

「ありがとう。そこで降ろしてもらえればいいから」

 しかし相変わらずの雨風の強さは道路脇に並んで植えられている街路樹の枝葉が信じられないほど右に左にと揺さぶられていることからも明らかだ。
 それでも構わず車を降りようとする穏矢を、真祐はぎょっとしつつ「こんな中出て行くのか?」と再び引き留め、車から降ろすまいとしながら、やがて意を決したように言った。

「なぁ…もし良かったら今夜は俺の家に泊まらないか?」
「は……?」
「いや、ほら、俺の家の方が近いみたいだし、道も混まないところを選んでいけるし…それに確実に泊まれるからさ」
「………僕を家に泊めんの」
「なんだよ…何もしないって」
「そういうのは信用しちゃいけないってのがお決まりだから」
「なっ、何もしないって、本当に!」
「……………」
「とにかく、こんな雨じゃ他に泊まるところを探すのも大変だろ。だから今夜はうちに泊まれよ、な?」

 真祐の提案にしばらく眉をひそめて怪訝そうにした穏矢だったが、このまま車から降りて自力で宿を探そうとしてもどうにかなる見込みはないと悟ったらしく、結局小さく頭を下げて言ったのだった。

「…お世話になります」

 真祐の車は混雑した大通りから脇道の方へと方向を変えた。


ーーーーー


「体冷えてないか?とりあえず湯を張るからさ、先にシャワー浴びると良いよ、うん。着替えもちょうど買って洗濯しておいた新しいやつがあるからそれを出してくるし、あと寝具も近いうちに替えようと思って洗っておいた新品のに替えておくから…」

 到着する前は口数が少なかった真祐だが、穏矢が家に上がると一転して口数が多くなっている。
 バタバタ、ソワソワとして慌ただしく浴室の方などを行き来する真祐。
 だが、それとは対照的なのが穏矢だった。
 彼は部屋に上がってリビングを見るなり呟く。

「まだ…ここに住んでたんだ」

 そう。
 真祐が住んでいるというそのマンションの一室は、かつて穏矢もよく通った真祐の部屋とまったく同じマンションのまったく同じ部屋だったのだ。
 向かっている途中からまさかとは思っていたのだが、そのまさかだった。
 そんな穏矢の反応に真祐も「あぁ…まぁな」と言葉を選ぶようにしながら応える。

「実はちょっと前にこの部屋を買ったんだよ。元々賃貸だったんだけど分譲に切り替えるって話になっててさ。オーナーとも仲良くなってたし、話をつけてそのままこの部屋を買わせてもらった」
「まだ新しいのに?入居当時新築だったんじゃなかった?」
「うん。でも分譲にしてそれを足掛かりに資金を調達したかったらしくて。俺は…ここが好きだったから…ほら、色々とアクセスもいいしさ、うん。だから引っ越すつもりもなかったし、それなら買っちゃおうと思って」

「分譲に変更するのには手続きとかがすごく大変らしくてさ、そういう話を聞いてたらそれまで以上にオーナーと仲良くなったよ」
「…そうなんだ」
「うん」

 後姿からでは穏矢が何を思っているのかを察するのが難しく、真祐はそれ以上部屋のことに言及するのを避けるかのように「…とりあえず俺は今日こっちのソファで寝るからさ」とわざとらしく話題を変えた。

「ベッドで休むと良いよ、寝具はこれからすぐに全部そっくり新しいのにちゃんと変えておくし。他にも何か要るものがあれば何でも言って」
「いや、僕がソファでしょ。泊まらせてもらうのは僕なんだからそんな…」
「けど俺が強引に連れてきたのにソファで寝かすわけにはいかないよ。嫌じゃなければちゃんとベッドで休んでくれって。な?」

 外の大雨はまだ止む気配がなく、変わらずにざぁざぁと降りしきっている。
 結局真祐の提案通りに彼らはそれぞれ寝室とリビングとで休むことになり、もう時刻もだいぶ遅くなっていたということもあってそれ以上特に話をすることもなく彼らの寝支度は進んでいった。
 真祐によってきちんと整えられたベッドは、まるで高級ホテルのそれかのように穏矢を迎える。

「お風呂とか、ありがとう」
「あぁ。パジャマとか大きさは大丈夫か?」
「うん」

「じゃあ…寝室借りるよ、ごめん」
「いいってそんな、むしろ俺のほうこそ強引に決めてごめんな。おやすみ」
「…おやすみ」

 そんな挨拶を交わし合ったのも本当に久しぶりのことだ。
 そうして2人は別々の場所でとはいえ、少なくとも同じ屋根の下で共に夜を過ごしたのだった。
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