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三年目の秋の話
九 家族会議
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フェリーの船首にある広いラウンジに、レンは南に連れられて案内された。
ラウンジに入ると、ウォルターが迎えにくる。連れられて、ラウンジの奥のテーブルに案内される。空いている席を促されて、一礼して腰掛けた。
席は端だ。誕生日席。短辺の一席。
二十人掛けの長方形のテーブルの向こう、対面の短辺の一席に、六十代の男性が掛けている。まだ若い。気難しそうな顔立ちに、ルイスが仕事をしているときの表情を見る。意外なことに、髪はブラウンで、瞳も同じ色だった。金髪碧眼は母方の血らしい。
船はドレスコードがあるので、と、レンはここに来る際に南にブラックスーツを着せられている。明日着るために用意していたものだ。
ブラックスーツのスリーピースに、サテン地の水色のネクタイをしている。ルイスが用意した、二日目用のスーツのセットだ。レンはひとりではネクタイを結べず、南に色々手伝ってもらった。
ルイスがよく身に着けているブルートパーズのカフスボタンをつけている。同じくブルートパーズの入った銀色のネクタイピンでネクタイをとめている。明日つけてあげると言われていたものだ。それを言ったら、南は複雑そうな表情でこれらをレンにつけた。
長辺側のすぐ右隣にエマ、左隣にウォルターがいる。顔見知りなので、二人がいるのは、少しだけ心強い。ただ、確実にレンの味方になってくれるクリスティナがいない。
自分を含めて、二十人。全員大人で、自分以外は外国人だ。エマ、ウォルター、キャシー、ジュリア、アンソニー。そこまでしかわからない。
「レンくん、ホットコーヒーでいい?」
と、エマが空いているカップにポットのコーヒーを遠慮なく注ぐ。
「あ、ありがとうございます」
レンは受け取って、自分の前に置いた。
「初めまして、清水廉といいます」
レンは深く頭を下げた。
「和食のお店をしています。料理人です」
エマが通訳を買って出て、レンの言葉を英語にして伝える。父からの質問を、エマが日本語に訳する。
「いくつ?」
「二十七歳です」
「He is twenty seven。あ、まだ二十代なんだ。初めて見たときから若い子だとは思ってたけど」
「あ、お店にいらしたとき……」
「ううん。ほら、ルイスと駅で買い物していたでしょ。フライパン買ってたの。見かけたの」
「え、あのときですか」
エマがクリスに連れられてよぞらに来るよりも以前の出来事だ。
レンは少し納得した。エマは、レンとルイスとの関係に対して、レンがはっきりしないうちから、妙に推進派なのである。
ウォルターが咳払いをする。エマは社交性が高いものの話が脱線しやすい。
『ルイスは最近どうなんだ』
という父の問いに、エマは肩を竦めた。
『人が変わったみたいに優しくなって怖いくらい』
『あまり会社にいないそうだが』
『コンビニみたいな仕事の仕方はしてないけれど、一日一回は見ますよ。役員だから、最低でも、取締役会さえ出ていれば』
『結婚したいそうだな。頭が痛い』
エマはレンに対して、言った。
「結婚するのよね?」
「あ、はい。できれば、どうするのかは、わかりませんが、将来は」
エマが父からの質問を、嫌そうにしつつ訳する。
「『君といることで、ルイスに何の得があるのかを教えてほしい』」
レン自身もよくわからない。
ルイスにとって、自分という存在は、何なんだろう。自分はいったい、彼に何を与えることができるのだろう。何を与えているのだろう。代わりがいないといわれるのだから、何かあるのだろうが、自分ではよくわからない。
ルイスが何を感じ取っているのかは、本人しかわからない。自分にできることを伝えるしかない。
「……食いはぐれることはないと思います」
何人かが失笑する。
大事なことだとレンは思う。
レンは料理人なので、食事に関しては自信がある。生計を立てていけなくなることもないし、時機を逸して食べられないこともない。
いつだって食材があるし、調理ができるし、なんでも美味しいものを食べさせることができる。それによって働ける。経済的にも問題はない。
食事は、一日に何度も必要になる。自分はその一端を担うことができる。毎日のこととなると、よぞらは決して安くはない。それでもたくさんの常連客がいて、選んでもらえる。美味しいと言ってくれる。
厳しかったり、固い表情で入ってきた人が、ほっとした顔で帰っていく。そしてまた来てくれる。迎え入れて、見送って、また迎え入れる。その歓びは何物にも代えがたい。自然と背筋が伸びる。
レンはそんな思いで、毎日、店を開けている。
「あと――おもちゃの飛行機を買ってほしいみたいなので、今度買ってあげようと思っています」
昔ねだられて断ったことを思い出して、父は鼻白む。教育費は惜しみなく注いだが、翻って、玩具などの娯楽費は徹底的に絞ったのである。
レンによるちょっとした意趣返しである。
『君はルイスといて、何の得がある?』
問われて、レンは少し考える。
そうか、損得ではないのだと、やっとわかる。ルイスがいいという気持ちには、別に理由がない。ただ傍で笑っていてほしい。その笑顔を見ていたら、幸せになれる。
たぶん、ルイスも同じだ。愛し合っているということは、そういうことなのだ。
考えて、答えた。
「……子守歌を、うたってくれるんです」
エマの通訳に、全員が戦慄した。
レンは指を折って、数えてみる。だが途中で数えるのを諦める。
ゆっくりと言った。
「一番辛かったとき、傍にいてくれました。彼がしてくれることを数えたら、きりがありません。愛情深くて、何でも言葉にしてくれて、髪を乾かしてくれるし、生涯、世界で一番大切にするといってくれて、大切にしてもらっています」
通訳をしているエマの声が震える。
嘆きのようなため息が漏れる。聞かされている者の中から、すごくショックを受けた時に思わず口にする、神に祈る言葉が出る。
レンはさらに言う。
通訳しやすいように、丁寧に、言葉を一つ一つ区切る。
「出会って三年で、二年近く、お付き合いをしています。一年ほど、一緒に暮らしています。寂しがりで、甘えん坊で、すぐに不安がって、どうしようもない、意外と泣き虫で、情に厚い人です。ずっと傍にいてほしいといわれています。俺も一緒にいたいです。俺はもう、たくさんの幸せと温かさをもらっているので、あとは、彼が望むことをしてあげたいです」
エマは、なんとか通訳しきった。これ以上は無理かもしれないと思う。日本語のできるウォルターに引き受けてもらいたい。
だがウォルターも難しい。限界を迎えつつある。これ以上、レンに、自分の目で見た兄のことを話されたら困る。
父は椅子にもたれかかって天井を仰ぎつつ、ため息を吐き、顔を片手で覆って呟いた。
とても辛そうだ。
『誰の、何の話をしているのか……、わからなくなってきた……』
家族全員が、とうとう吹き出した。
笑い声があがって、レンだけが取り残される。
こらえていたエマも、ウォルターも、爆笑している。
レンだけが蚊帳の外だ。
「え? え?」
「いえ、おかしくて……『誰の何の話?』」
「俺、おかしいんでしょうか?」
「ルイスがおかしいのよ。私たちに見せる顔とまったく違うんだから。もうやだ、レンくん。のろけすぎよ」
ひとしきり笑っても、まだ笑い足りない。
笑い疲れるまで、時間がかかった。
父は嘆息する。
『あれは長男として多くの教育費をかけて、つまり多額の投資をしてきた。現時点で、私の後継者として、そして我が家の次期当主として相応しい者は、ルイス以外にいない』
父の言葉に、全員が黙った。
『偏屈で評判は悪いが、私にとっては、出来がいい息子なんだ。あまりイメージを崩壊させないでくれ』
苦笑しながら、ふう、と息を吐くのを皮切りに、場がなごんだ。
ラウンジに入ると、ウォルターが迎えにくる。連れられて、ラウンジの奥のテーブルに案内される。空いている席を促されて、一礼して腰掛けた。
席は端だ。誕生日席。短辺の一席。
二十人掛けの長方形のテーブルの向こう、対面の短辺の一席に、六十代の男性が掛けている。まだ若い。気難しそうな顔立ちに、ルイスが仕事をしているときの表情を見る。意外なことに、髪はブラウンで、瞳も同じ色だった。金髪碧眼は母方の血らしい。
船はドレスコードがあるので、と、レンはここに来る際に南にブラックスーツを着せられている。明日着るために用意していたものだ。
ブラックスーツのスリーピースに、サテン地の水色のネクタイをしている。ルイスが用意した、二日目用のスーツのセットだ。レンはひとりではネクタイを結べず、南に色々手伝ってもらった。
ルイスがよく身に着けているブルートパーズのカフスボタンをつけている。同じくブルートパーズの入った銀色のネクタイピンでネクタイをとめている。明日つけてあげると言われていたものだ。それを言ったら、南は複雑そうな表情でこれらをレンにつけた。
長辺側のすぐ右隣にエマ、左隣にウォルターがいる。顔見知りなので、二人がいるのは、少しだけ心強い。ただ、確実にレンの味方になってくれるクリスティナがいない。
自分を含めて、二十人。全員大人で、自分以外は外国人だ。エマ、ウォルター、キャシー、ジュリア、アンソニー。そこまでしかわからない。
「レンくん、ホットコーヒーでいい?」
と、エマが空いているカップにポットのコーヒーを遠慮なく注ぐ。
「あ、ありがとうございます」
レンは受け取って、自分の前に置いた。
「初めまして、清水廉といいます」
レンは深く頭を下げた。
「和食のお店をしています。料理人です」
エマが通訳を買って出て、レンの言葉を英語にして伝える。父からの質問を、エマが日本語に訳する。
「いくつ?」
「二十七歳です」
「He is twenty seven。あ、まだ二十代なんだ。初めて見たときから若い子だとは思ってたけど」
「あ、お店にいらしたとき……」
「ううん。ほら、ルイスと駅で買い物していたでしょ。フライパン買ってたの。見かけたの」
「え、あのときですか」
エマがクリスに連れられてよぞらに来るよりも以前の出来事だ。
レンは少し納得した。エマは、レンとルイスとの関係に対して、レンがはっきりしないうちから、妙に推進派なのである。
ウォルターが咳払いをする。エマは社交性が高いものの話が脱線しやすい。
『ルイスは最近どうなんだ』
という父の問いに、エマは肩を竦めた。
『人が変わったみたいに優しくなって怖いくらい』
『あまり会社にいないそうだが』
『コンビニみたいな仕事の仕方はしてないけれど、一日一回は見ますよ。役員だから、最低でも、取締役会さえ出ていれば』
『結婚したいそうだな。頭が痛い』
エマはレンに対して、言った。
「結婚するのよね?」
「あ、はい。できれば、どうするのかは、わかりませんが、将来は」
エマが父からの質問を、嫌そうにしつつ訳する。
「『君といることで、ルイスに何の得があるのかを教えてほしい』」
レン自身もよくわからない。
ルイスにとって、自分という存在は、何なんだろう。自分はいったい、彼に何を与えることができるのだろう。何を与えているのだろう。代わりがいないといわれるのだから、何かあるのだろうが、自分ではよくわからない。
ルイスが何を感じ取っているのかは、本人しかわからない。自分にできることを伝えるしかない。
「……食いはぐれることはないと思います」
何人かが失笑する。
大事なことだとレンは思う。
レンは料理人なので、食事に関しては自信がある。生計を立てていけなくなることもないし、時機を逸して食べられないこともない。
いつだって食材があるし、調理ができるし、なんでも美味しいものを食べさせることができる。それによって働ける。経済的にも問題はない。
食事は、一日に何度も必要になる。自分はその一端を担うことができる。毎日のこととなると、よぞらは決して安くはない。それでもたくさんの常連客がいて、選んでもらえる。美味しいと言ってくれる。
厳しかったり、固い表情で入ってきた人が、ほっとした顔で帰っていく。そしてまた来てくれる。迎え入れて、見送って、また迎え入れる。その歓びは何物にも代えがたい。自然と背筋が伸びる。
レンはそんな思いで、毎日、店を開けている。
「あと――おもちゃの飛行機を買ってほしいみたいなので、今度買ってあげようと思っています」
昔ねだられて断ったことを思い出して、父は鼻白む。教育費は惜しみなく注いだが、翻って、玩具などの娯楽費は徹底的に絞ったのである。
レンによるちょっとした意趣返しである。
『君はルイスといて、何の得がある?』
問われて、レンは少し考える。
そうか、損得ではないのだと、やっとわかる。ルイスがいいという気持ちには、別に理由がない。ただ傍で笑っていてほしい。その笑顔を見ていたら、幸せになれる。
たぶん、ルイスも同じだ。愛し合っているということは、そういうことなのだ。
考えて、答えた。
「……子守歌を、うたってくれるんです」
エマの通訳に、全員が戦慄した。
レンは指を折って、数えてみる。だが途中で数えるのを諦める。
ゆっくりと言った。
「一番辛かったとき、傍にいてくれました。彼がしてくれることを数えたら、きりがありません。愛情深くて、何でも言葉にしてくれて、髪を乾かしてくれるし、生涯、世界で一番大切にするといってくれて、大切にしてもらっています」
通訳をしているエマの声が震える。
嘆きのようなため息が漏れる。聞かされている者の中から、すごくショックを受けた時に思わず口にする、神に祈る言葉が出る。
レンはさらに言う。
通訳しやすいように、丁寧に、言葉を一つ一つ区切る。
「出会って三年で、二年近く、お付き合いをしています。一年ほど、一緒に暮らしています。寂しがりで、甘えん坊で、すぐに不安がって、どうしようもない、意外と泣き虫で、情に厚い人です。ずっと傍にいてほしいといわれています。俺も一緒にいたいです。俺はもう、たくさんの幸せと温かさをもらっているので、あとは、彼が望むことをしてあげたいです」
エマは、なんとか通訳しきった。これ以上は無理かもしれないと思う。日本語のできるウォルターに引き受けてもらいたい。
だがウォルターも難しい。限界を迎えつつある。これ以上、レンに、自分の目で見た兄のことを話されたら困る。
父は椅子にもたれかかって天井を仰ぎつつ、ため息を吐き、顔を片手で覆って呟いた。
とても辛そうだ。
『誰の、何の話をしているのか……、わからなくなってきた……』
家族全員が、とうとう吹き出した。
笑い声があがって、レンだけが取り残される。
こらえていたエマも、ウォルターも、爆笑している。
レンだけが蚊帳の外だ。
「え? え?」
「いえ、おかしくて……『誰の何の話?』」
「俺、おかしいんでしょうか?」
「ルイスがおかしいのよ。私たちに見せる顔とまったく違うんだから。もうやだ、レンくん。のろけすぎよ」
ひとしきり笑っても、まだ笑い足りない。
笑い疲れるまで、時間がかかった。
父は嘆息する。
『あれは長男として多くの教育費をかけて、つまり多額の投資をしてきた。現時点で、私の後継者として、そして我が家の次期当主として相応しい者は、ルイス以外にいない』
父の言葉に、全員が黙った。
『偏屈で評判は悪いが、私にとっては、出来がいい息子なんだ。あまりイメージを崩壊させないでくれ』
苦笑しながら、ふう、と息を吐くのを皮切りに、場がなごんだ。
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