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2 ある七月の暑い夜
二 こうなった理由①
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『本当にごめん』
『体、大丈夫?』
『心配してる』
俺は会社の机のノートパソコンをシャットダウンしながら携帯電話を眺め、届いているメッセージを開けずに、鞄に携帯電話を仕舞いこむ。
カズ先輩から、毎日、何かしらのメッセージが朝晩届く。
あれから一ヶ月が経った。
俺は届くメッセージを既読にならないように読む。
返事をしないのはわざとだけど、返事を考える時間すらもない。考える時間がないと、なんと返事をすればいいのかわからない。
あれから、休日が一日もない。
三十日連勤なので、働くので精一杯。今夜だって、もう午前様。
俺は立ち上がった。スタッフの予定を書くホワイトボードのカレンダーに、休みの磁石をつけておく。
「あがりまーす」
「相田くん、明日明後日休み?」
デスクのシマの主任から問われる。二十歳年上のナチュラルパワハラ上司。
「はいっす。なんとか」
「三十連勤か。やるね。でもまだまだだな。俺の若い頃は、もっとひどかったよ」
「大変っすね。お先です」
「お疲れ様ー」
俺は、まだ最後ではない。社内にはまだ人が残っている。主任はどうでもいいけど。人というか、ゾンビみたいな精神状態してそうな、死んだ魚の目をしている楽しい仲間たち。男女入り乱れて死んでいる。
会社の入っている雑居ビルを出る。
この時間になると、さすがのオフィス街も、人通りは落ち着いている。
会社から出ると、ほっとする。
それも束の間のことである。
街灯の下、ビルの前の道路のガードパイプに腰掛けているビジネスマンが顔を上げる。こっちを見る。
げ。
「タキくん」
「カズ先輩……」
長袖のワイシャツに紺のスラックス。クールビズでネクタイはしていない。ビジネス用リュックを背負った、背の高い、一見柔和で優しそうな、ちょっと気弱そうなイケメン、それがカズ先輩である。
だが俺は、この人の本性を知っている。
この人が、俺に何をしたのかは、俺と、この人だけが知っている。
それはさておき。いや、さておけないけど、とりあえず置いておく。
俺、カズ先輩に、会社の場所も会社名も、言ったことないんだけど。
あまりにブラックすぎて恥ずかしくて言えなかったっていう記憶があるんだから間違いないよ。ブラック企業のあれこれを面白おかしく話すことはできても、会社名はなんか言えなかったんだよ。
なのに、なんで現れるわけ……?
俺はカズ先輩を無視して歩き出す。見なかったふりをする。
カズ先輩は追いかけてくる。
「タキくん、ごめん、本当に」
「あのー、嫌です」
「うん。許してもらおうと思ってない。ただ、タキくんの体に無理させて、心配で……ごめんね、本当に、ごめん」
往来でなんてこというんだよ。
俺は立ち止まって、振り返った。
「そういうこと言わないでください」
ごめんと言いながら泣いていたらしい。振り返ったら、カズ先輩は涙をこぼしながら、その場に膝をついた。
通りがかった人がぎょっとする。周囲の人も驚いている。
俺もびっくりする。
カズ先輩はその場に蹲るようにして土下座する。
生土下座……。見たことないわけじゃないけど、見ると嫌な気持ちになる。
唖然としていた俺は、周囲のざわめきに気づく。
慌てて膝をついてカズ先輩の肩を押す。
「ちょっと先輩! やめてください……!」
「こんなのじゃ足りないってわかってる。なんでもする。なんでもさせて」
だったら置いて帰りたいよ。
泣きたいのはマジでこっちだから。
「先輩、やめてください。悪目立ちしてキツイです」
俺は言った。
すると、カズ先輩はやっと顔を上げてくれる。
相変わらずイケメンだな、なんて思う。こんな外見で、世の中のすべてを自分中心に回せそうな男が、なんであんなことしたの? なんで俺だったの?
俺は、疲れながら言う。
「あの俺、いま仕事忙しくて。疲れたし、腹減ってて」
今夜は終電がなくなって帰れないから、近くにあるいつものネカフェに泊まる予定だ。
明日と明後日は、久しぶりの休みだ。
よく考えたら、カズ先輩との関係が壊れるくらいだったら、あのときもネカフェに泊まればよかった。ネカフェは探せばあったと思う。
ただ、ネカフェ代は会社に経費で落としてもらえない。
出張で来てるのに自腹で泊まらせられるなんてあまりに癪なんで、考えもしなかった。
ホテルってアタマだったからそこで思考がストップして、固執してしまって、他の選択肢があるってことに気づかなかった。
今から思うと、なんであんなに絶望的な気分だったんだろ。そういえば雨が降ってたな。だからかな。
ネカフェでもよかったし、一時間半くらい足を伸ばせば安いホテルのある市に電車で行けたし、自腹で高いホテルに泊まってもよかったし、なんなら通勤でもよかった。頑張れば帰れる。始発でギリ来れる。
とにかく、早くここを立ち去りたいよ、俺は。
明日明後日は、物件探しのために不動産屋を回る必要がある。
大宮にある借り上げアパートからわけあって追い出されそうなのだ。次は、もう少し会社の近くに住みたい。
十二時を過ぎても帰れるところがいいな。
「お、おなかすいてるんだったら、何か食べよう。もちろんおごるから。なんでも食べて」
俺が言いたいのはそうじゃない。
「いえ、帰りたいだけです」
帰れないけどさ。ネカフェだけどさ。
「お願い、話させて、なんでもいい」
カズ先輩は土下座こそやめたものの、今度は俺のスネに縋りついてくる。
もう、なんなの……。
『体、大丈夫?』
『心配してる』
俺は会社の机のノートパソコンをシャットダウンしながら携帯電話を眺め、届いているメッセージを開けずに、鞄に携帯電話を仕舞いこむ。
カズ先輩から、毎日、何かしらのメッセージが朝晩届く。
あれから一ヶ月が経った。
俺は届くメッセージを既読にならないように読む。
返事をしないのはわざとだけど、返事を考える時間すらもない。考える時間がないと、なんと返事をすればいいのかわからない。
あれから、休日が一日もない。
三十日連勤なので、働くので精一杯。今夜だって、もう午前様。
俺は立ち上がった。スタッフの予定を書くホワイトボードのカレンダーに、休みの磁石をつけておく。
「あがりまーす」
「相田くん、明日明後日休み?」
デスクのシマの主任から問われる。二十歳年上のナチュラルパワハラ上司。
「はいっす。なんとか」
「三十連勤か。やるね。でもまだまだだな。俺の若い頃は、もっとひどかったよ」
「大変っすね。お先です」
「お疲れ様ー」
俺は、まだ最後ではない。社内にはまだ人が残っている。主任はどうでもいいけど。人というか、ゾンビみたいな精神状態してそうな、死んだ魚の目をしている楽しい仲間たち。男女入り乱れて死んでいる。
会社の入っている雑居ビルを出る。
この時間になると、さすがのオフィス街も、人通りは落ち着いている。
会社から出ると、ほっとする。
それも束の間のことである。
街灯の下、ビルの前の道路のガードパイプに腰掛けているビジネスマンが顔を上げる。こっちを見る。
げ。
「タキくん」
「カズ先輩……」
長袖のワイシャツに紺のスラックス。クールビズでネクタイはしていない。ビジネス用リュックを背負った、背の高い、一見柔和で優しそうな、ちょっと気弱そうなイケメン、それがカズ先輩である。
だが俺は、この人の本性を知っている。
この人が、俺に何をしたのかは、俺と、この人だけが知っている。
それはさておき。いや、さておけないけど、とりあえず置いておく。
俺、カズ先輩に、会社の場所も会社名も、言ったことないんだけど。
あまりにブラックすぎて恥ずかしくて言えなかったっていう記憶があるんだから間違いないよ。ブラック企業のあれこれを面白おかしく話すことはできても、会社名はなんか言えなかったんだよ。
なのに、なんで現れるわけ……?
俺はカズ先輩を無視して歩き出す。見なかったふりをする。
カズ先輩は追いかけてくる。
「タキくん、ごめん、本当に」
「あのー、嫌です」
「うん。許してもらおうと思ってない。ただ、タキくんの体に無理させて、心配で……ごめんね、本当に、ごめん」
往来でなんてこというんだよ。
俺は立ち止まって、振り返った。
「そういうこと言わないでください」
ごめんと言いながら泣いていたらしい。振り返ったら、カズ先輩は涙をこぼしながら、その場に膝をついた。
通りがかった人がぎょっとする。周囲の人も驚いている。
俺もびっくりする。
カズ先輩はその場に蹲るようにして土下座する。
生土下座……。見たことないわけじゃないけど、見ると嫌な気持ちになる。
唖然としていた俺は、周囲のざわめきに気づく。
慌てて膝をついてカズ先輩の肩を押す。
「ちょっと先輩! やめてください……!」
「こんなのじゃ足りないってわかってる。なんでもする。なんでもさせて」
だったら置いて帰りたいよ。
泣きたいのはマジでこっちだから。
「先輩、やめてください。悪目立ちしてキツイです」
俺は言った。
すると、カズ先輩はやっと顔を上げてくれる。
相変わらずイケメンだな、なんて思う。こんな外見で、世の中のすべてを自分中心に回せそうな男が、なんであんなことしたの? なんで俺だったの?
俺は、疲れながら言う。
「あの俺、いま仕事忙しくて。疲れたし、腹減ってて」
今夜は終電がなくなって帰れないから、近くにあるいつものネカフェに泊まる予定だ。
明日と明後日は、久しぶりの休みだ。
よく考えたら、カズ先輩との関係が壊れるくらいだったら、あのときもネカフェに泊まればよかった。ネカフェは探せばあったと思う。
ただ、ネカフェ代は会社に経費で落としてもらえない。
出張で来てるのに自腹で泊まらせられるなんてあまりに癪なんで、考えもしなかった。
ホテルってアタマだったからそこで思考がストップして、固執してしまって、他の選択肢があるってことに気づかなかった。
今から思うと、なんであんなに絶望的な気分だったんだろ。そういえば雨が降ってたな。だからかな。
ネカフェでもよかったし、一時間半くらい足を伸ばせば安いホテルのある市に電車で行けたし、自腹で高いホテルに泊まってもよかったし、なんなら通勤でもよかった。頑張れば帰れる。始発でギリ来れる。
とにかく、早くここを立ち去りたいよ、俺は。
明日明後日は、物件探しのために不動産屋を回る必要がある。
大宮にある借り上げアパートからわけあって追い出されそうなのだ。次は、もう少し会社の近くに住みたい。
十二時を過ぎても帰れるところがいいな。
「お、おなかすいてるんだったら、何か食べよう。もちろんおごるから。なんでも食べて」
俺が言いたいのはそうじゃない。
「いえ、帰りたいだけです」
帰れないけどさ。ネカフェだけどさ。
「お願い、話させて、なんでもいい」
カズ先輩は土下座こそやめたものの、今度は俺のスネに縋りついてくる。
もう、なんなの……。
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