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第参話/三方一両損・起章
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一
「おっかあ、ただいま。大丈夫だったかい?」
「ちょっと、痰が絡んだだけだよ。それよりも仙太、お腹すいてないかい? 納豆売も大変だったろう」
ここは丸源長屋。
伏せっている母・お|楽《ルビ》の傍らに座り、息子の仙太が看病していた。
「それなら大丈夫だよ。親切な唐茄子屋さんが、握り飯くれたんだい。ひとつはおっかあのために、取っておいたんだ。それに……ほら!」
仙太と呼ばれた少年は、大きな唐茄子を母の目の前に取り出し、
「あまったからって、唐茄子もふたつ、くれたんだ。お楽さんに食べさせてあげなって。今これを煮てあげるから、待っててね」
手慣れた様子で、大きな南瓜を菜切り包丁で割ると、中の種を取り出して笊に分ける仙太だった。
「種も大きいや。陰干しして塩で炒ったら、美味しいね」
煮えた唐茄子を、母親に食べさせてあげる仙太。
病気の母が食べやすいようにと、大きさを小さめにしてある。
「蔓屋のおじさんが、凧の絵を描かないかって、言ってくれたんだ。前に描いた団扇の絵が、評判が良かったんだってさ。仙太は絵がうまいから、駄賃ははずむよって。今やってる納豆売りより、稼ぎになると思うんだ」
「死んだおとっつぁんに似て、おまえは絵が上手いからねぇ…」
仙太は、凧の絵によく使われる、武者絵を起用に描く。
子どもの絵とは思えぬほど、その筆は力強く、滑らかである。
当人も、絵を描くのが好きなのだろう、顔がほころぶ。
二
楽しげに絵を描く仙太を見て、お楽は何かを決心したように、布団の中から手を出し、一角を指さした。
「仙太、箪笥の二番目の引き出しを、開けてごらん」
「二番目の引き出し? 大切なものが入ってるから開けちゃ駄目だって、いつも言ってるのに?」
不思議そうに開けた箪笥には、平べったい桐箱に収められた、肉筆画が収められていた。
二十歳前の町娘を描いた、美人画である。
まるで鈴木春信が描いた笠森お仙か、渓斎英泉の描いた遊女・花扇のような美女である。
その華やかさに仙太、思わず驚きの声が漏れる。
「へぇ…きれいだなぁ。この絵はいったい?」
「それはね、若い時分のおっかさんだよ」
「おっかあ? まるで歌麿や英泉の美人画みてぇだ」
病でやつれたとはいえ、お楽は美人である。絵にもその面影がある。
画中で着ている服も、町人にしては丹後縮緬の上物で、母の美しさをさらに際立たせていた。
母にも、こんな時期があったのかと、仙太は不思議な心持ちだった。
「これはね、おとっつぁんがね、昔、描いてくれたんだ」
「おっとおが…おっとおは絵描きだったのかい? そんな話、今の今までしてくれなかったのに」
「それを売れば、いくらかのお金になるはずだよ」
「でもこれ、おっとおの形見だろ? そんな大事な物、売れないよぉ」
渋る仙太にお楽は、思い詰めた顔をし、意を決したような顔をして切り出すのだった。
「実はね仙太………おとっつぁんは、生きてるんだよ」
「え! おいらが小さい頃に死んだんじゃなかったの?」
「ちゃんと生きてるんだよ」
「じゃあ、どこに住んでいるか、教えておくれよぉ。江戸府内ならおいら、今から呼んでくるよ。どこにいるんだい?」
だがお楽は、ゆっくりと首をふり「それは無理だよ」と諭す。
「なんでだよ! おっかあが病気なんだから、きっと来てくれるよ。溜まった薬代だってはらってくれるよね? 温かい飯だって、食わしてくれるよね?」
「とてもこんな貧乏長屋に来れるような、お方じゃないんだ。おまえのおとっつぁんはね、さる藩のお殿様なんだ」
お楽の思わぬ告白に、目を丸くする仙太であった。
「ええ! おいら、侍の家の子だったのかい?」
「今はつぶれちまったけど、おっかさんの実家は大きなお店を営んでいてね。その縁でお殿様と───」
だが、ここで何かを察した仙太は、急に険しい声色になった。
「……つまり、おっとおは、おっかあを、捨てたんだな?」
「違う! 違うよ仙太…そうじゃないんだよ」
絞り出すように語るとお楽は、悲しげな表情で俯くのだった。
打ち明けるべきではなかったと、後悔の念が浮かぶ。
「だったらなんで今まで黙ってたのさ」
「名乗り出られない訳が、あるんだよ。……ああ、やはり言わずに墓場まで持って行った方が、よかったかねぇ」
お楽の嘆きも耳に入らず、仙太の顔には怒りの炎がチラチラと燃え上がりつつあった。
(ちっくしょう、薬を買う金があったら…おっかあだって少しは……)
三
「この本屋に、主楽がいるの?」
「いんや。だが主楽の役者絵はこの蔓屋から出てるし、春画本の版元はお取り潰しになってるから、とりあえず当たってみるのさ」
話している内に『本・蔓屋』と看板を掲げた、店構えの前に立っている新八とお葉だった。
元は、吉原の大門の前で、吉原細見を売っていた。
吉原細見とは、現在の性風俗ガイドブックである。
吉原に来る客のために、見世ごとの遊女の名を記した案内書を販売していた。
やがて、遊女たちのために草双紙を販売し、評判を得て、浮世絵や黄表紙本まで幅広く手掛けるようになり、浅草並木町に店を移した。
そこが、今二人が立っている見世である。
新八とお葉が店の中に入っていくと、店主の蔓屋九郎平が応対に出てくる。
髪に白い物が混じる、初老の男である。やや肥満体である。
一代でここまで身代を大きくした人物だが、腰は低い。
「いらっしゃいまし、本日は何をお求めでしょうか? 貸本もございますよ」
「主楽の新しい役者絵は出たかい? 前のが出てからもう、だいぶ経つじゃねぇか」
「手前どもも一刻も早くとは思ってるんですが……なかなか」
「これだけ評判なのに、新作を出さねぇのは変じゃねぇか? 絵師に描けねぇ訳でもあんのか?」
新八の言葉に蔓屋、表情が一瞬曇り、すぐに愛想笑いに戻った。
「い、いえ、ただ単に、手が遅い絵師なものですから、へい」
「それはそうと、貸本の方は何かおもしれぇ新作が……」
「あ~、もうじれったい!」と脇で見ていたお葉がイライラを募らせ、単刀直入に蔓屋へ尋ねた。
「ちょっとお聞きしますけど、主楽っていったい誰ですか?」
「ば、莫迦っ! 何を口走る」
蔓屋、とたんに豹変して声を張る。
「さてはおまえさん、主楽の正体を暴きにきた瓦版屋だね。帰ってくれ! おまえさんに売る本も浮世絵も、ここにはないよ!」
蔓屋、凄い剣幕で二人を追い立てる。
そのまま、店の外に追い出された新八とお葉であった。
丁寧に、塩まで撒かれた。
四
「なぁんでおまえ、あんなこと言うんだよ」
「だってぇ新八さんがぁ、要領の得ないことばかり聞いてるからぁ……」
「このせっかち娘が。そのものずばり聞いたって、教えてくれるわけねぇだろ? だから俺は少しずつ聞いていって、蔓屋の反応を見ていたんだよぉ」
「ごめん…」
しおらしく謝るお葉に、新八はニンマリと口角を上げていた。
「収穫がなかったわけじゃねぇから、いいさ」
「と言うと?」
「蔓屋は主楽の正体暴きに相当、ピリピリしてやがる。逆に言えばそれだけ気をつかわなきゃいけねぇ身分の相手だってことだ。ただの町人なら、ああはならねぇよ。俺が睨んだところ、武家だな」
「なるほど、なるほど。『偐紫田舎源氏』の柳亭種彦も正体がばれて、大変なことになったって聞いたわ」
思案ありげに含み笑いを浮かべる新八に、お葉もホッとしていた。
途端に、しおらしさは消えて、おきゃんな本性が鎌首をもたげる。
「ねぇねぇ、察しがついてるなら教えてよ」
「うるせぇな。まだだよ。わかってても、教えてやるかよ。さっきみたいに、ぶち壊しにされちゃ、かなわねぇからよ」
「さては四両を独り占めにしようって魂胆ね」
狸顔のお葉の目が、狐のように細く尖る。
金が絡むと、頭に血が上るようである。
「独り占めって、おまえが無理矢理に割り込んだだけだろうが。欲の皮突っ張らせて、丸顔が余計にパンパンになっぞ」
「あら、そんなこと言っていいのかな~。お姉ちゃんに…」
「あ~、わかったわかった。……ったく、とんだ疫病神だよ」
「なんか言った!?」
「おまえは弁天様みたいだって言ったんだよ」
「ヤッだ~もう新八さんってば。照れるじゃないの、この正直者!」
興奮のあまり新八の背中をバンバン張るお葉である。
「なぁ~んでいちいち、ぶつんだよッ! 俺は大太鼓じゃねぇんだぞ」
新八の抗議にお葉、だが誰かに気付いた様子で、通りの向こうに手を振る。
「あら……仙太ちゃん、うつむいてどうしたのよぉ?」
「おっかあ、ただいま。大丈夫だったかい?」
「ちょっと、痰が絡んだだけだよ。それよりも仙太、お腹すいてないかい? 納豆売も大変だったろう」
ここは丸源長屋。
伏せっている母・お|楽《ルビ》の傍らに座り、息子の仙太が看病していた。
「それなら大丈夫だよ。親切な唐茄子屋さんが、握り飯くれたんだい。ひとつはおっかあのために、取っておいたんだ。それに……ほら!」
仙太と呼ばれた少年は、大きな唐茄子を母の目の前に取り出し、
「あまったからって、唐茄子もふたつ、くれたんだ。お楽さんに食べさせてあげなって。今これを煮てあげるから、待っててね」
手慣れた様子で、大きな南瓜を菜切り包丁で割ると、中の種を取り出して笊に分ける仙太だった。
「種も大きいや。陰干しして塩で炒ったら、美味しいね」
煮えた唐茄子を、母親に食べさせてあげる仙太。
病気の母が食べやすいようにと、大きさを小さめにしてある。
「蔓屋のおじさんが、凧の絵を描かないかって、言ってくれたんだ。前に描いた団扇の絵が、評判が良かったんだってさ。仙太は絵がうまいから、駄賃ははずむよって。今やってる納豆売りより、稼ぎになると思うんだ」
「死んだおとっつぁんに似て、おまえは絵が上手いからねぇ…」
仙太は、凧の絵によく使われる、武者絵を起用に描く。
子どもの絵とは思えぬほど、その筆は力強く、滑らかである。
当人も、絵を描くのが好きなのだろう、顔がほころぶ。
二
楽しげに絵を描く仙太を見て、お楽は何かを決心したように、布団の中から手を出し、一角を指さした。
「仙太、箪笥の二番目の引き出しを、開けてごらん」
「二番目の引き出し? 大切なものが入ってるから開けちゃ駄目だって、いつも言ってるのに?」
不思議そうに開けた箪笥には、平べったい桐箱に収められた、肉筆画が収められていた。
二十歳前の町娘を描いた、美人画である。
まるで鈴木春信が描いた笠森お仙か、渓斎英泉の描いた遊女・花扇のような美女である。
その華やかさに仙太、思わず驚きの声が漏れる。
「へぇ…きれいだなぁ。この絵はいったい?」
「それはね、若い時分のおっかさんだよ」
「おっかあ? まるで歌麿や英泉の美人画みてぇだ」
病でやつれたとはいえ、お楽は美人である。絵にもその面影がある。
画中で着ている服も、町人にしては丹後縮緬の上物で、母の美しさをさらに際立たせていた。
母にも、こんな時期があったのかと、仙太は不思議な心持ちだった。
「これはね、おとっつぁんがね、昔、描いてくれたんだ」
「おっとおが…おっとおは絵描きだったのかい? そんな話、今の今までしてくれなかったのに」
「それを売れば、いくらかのお金になるはずだよ」
「でもこれ、おっとおの形見だろ? そんな大事な物、売れないよぉ」
渋る仙太にお楽は、思い詰めた顔をし、意を決したような顔をして切り出すのだった。
「実はね仙太………おとっつぁんは、生きてるんだよ」
「え! おいらが小さい頃に死んだんじゃなかったの?」
「ちゃんと生きてるんだよ」
「じゃあ、どこに住んでいるか、教えておくれよぉ。江戸府内ならおいら、今から呼んでくるよ。どこにいるんだい?」
だがお楽は、ゆっくりと首をふり「それは無理だよ」と諭す。
「なんでだよ! おっかあが病気なんだから、きっと来てくれるよ。溜まった薬代だってはらってくれるよね? 温かい飯だって、食わしてくれるよね?」
「とてもこんな貧乏長屋に来れるような、お方じゃないんだ。おまえのおとっつぁんはね、さる藩のお殿様なんだ」
お楽の思わぬ告白に、目を丸くする仙太であった。
「ええ! おいら、侍の家の子だったのかい?」
「今はつぶれちまったけど、おっかさんの実家は大きなお店を営んでいてね。その縁でお殿様と───」
だが、ここで何かを察した仙太は、急に険しい声色になった。
「……つまり、おっとおは、おっかあを、捨てたんだな?」
「違う! 違うよ仙太…そうじゃないんだよ」
絞り出すように語るとお楽は、悲しげな表情で俯くのだった。
打ち明けるべきではなかったと、後悔の念が浮かぶ。
「だったらなんで今まで黙ってたのさ」
「名乗り出られない訳が、あるんだよ。……ああ、やはり言わずに墓場まで持って行った方が、よかったかねぇ」
お楽の嘆きも耳に入らず、仙太の顔には怒りの炎がチラチラと燃え上がりつつあった。
(ちっくしょう、薬を買う金があったら…おっかあだって少しは……)
三
「この本屋に、主楽がいるの?」
「いんや。だが主楽の役者絵はこの蔓屋から出てるし、春画本の版元はお取り潰しになってるから、とりあえず当たってみるのさ」
話している内に『本・蔓屋』と看板を掲げた、店構えの前に立っている新八とお葉だった。
元は、吉原の大門の前で、吉原細見を売っていた。
吉原細見とは、現在の性風俗ガイドブックである。
吉原に来る客のために、見世ごとの遊女の名を記した案内書を販売していた。
やがて、遊女たちのために草双紙を販売し、評判を得て、浮世絵や黄表紙本まで幅広く手掛けるようになり、浅草並木町に店を移した。
そこが、今二人が立っている見世である。
新八とお葉が店の中に入っていくと、店主の蔓屋九郎平が応対に出てくる。
髪に白い物が混じる、初老の男である。やや肥満体である。
一代でここまで身代を大きくした人物だが、腰は低い。
「いらっしゃいまし、本日は何をお求めでしょうか? 貸本もございますよ」
「主楽の新しい役者絵は出たかい? 前のが出てからもう、だいぶ経つじゃねぇか」
「手前どもも一刻も早くとは思ってるんですが……なかなか」
「これだけ評判なのに、新作を出さねぇのは変じゃねぇか? 絵師に描けねぇ訳でもあんのか?」
新八の言葉に蔓屋、表情が一瞬曇り、すぐに愛想笑いに戻った。
「い、いえ、ただ単に、手が遅い絵師なものですから、へい」
「それはそうと、貸本の方は何かおもしれぇ新作が……」
「あ~、もうじれったい!」と脇で見ていたお葉がイライラを募らせ、単刀直入に蔓屋へ尋ねた。
「ちょっとお聞きしますけど、主楽っていったい誰ですか?」
「ば、莫迦っ! 何を口走る」
蔓屋、とたんに豹変して声を張る。
「さてはおまえさん、主楽の正体を暴きにきた瓦版屋だね。帰ってくれ! おまえさんに売る本も浮世絵も、ここにはないよ!」
蔓屋、凄い剣幕で二人を追い立てる。
そのまま、店の外に追い出された新八とお葉であった。
丁寧に、塩まで撒かれた。
四
「なぁんでおまえ、あんなこと言うんだよ」
「だってぇ新八さんがぁ、要領の得ないことばかり聞いてるからぁ……」
「このせっかち娘が。そのものずばり聞いたって、教えてくれるわけねぇだろ? だから俺は少しずつ聞いていって、蔓屋の反応を見ていたんだよぉ」
「ごめん…」
しおらしく謝るお葉に、新八はニンマリと口角を上げていた。
「収穫がなかったわけじゃねぇから、いいさ」
「と言うと?」
「蔓屋は主楽の正体暴きに相当、ピリピリしてやがる。逆に言えばそれだけ気をつかわなきゃいけねぇ身分の相手だってことだ。ただの町人なら、ああはならねぇよ。俺が睨んだところ、武家だな」
「なるほど、なるほど。『偐紫田舎源氏』の柳亭種彦も正体がばれて、大変なことになったって聞いたわ」
思案ありげに含み笑いを浮かべる新八に、お葉もホッとしていた。
途端に、しおらしさは消えて、おきゃんな本性が鎌首をもたげる。
「ねぇねぇ、察しがついてるなら教えてよ」
「うるせぇな。まだだよ。わかってても、教えてやるかよ。さっきみたいに、ぶち壊しにされちゃ、かなわねぇからよ」
「さては四両を独り占めにしようって魂胆ね」
狸顔のお葉の目が、狐のように細く尖る。
金が絡むと、頭に血が上るようである。
「独り占めって、おまえが無理矢理に割り込んだだけだろうが。欲の皮突っ張らせて、丸顔が余計にパンパンになっぞ」
「あら、そんなこと言っていいのかな~。お姉ちゃんに…」
「あ~、わかったわかった。……ったく、とんだ疫病神だよ」
「なんか言った!?」
「おまえは弁天様みたいだって言ったんだよ」
「ヤッだ~もう新八さんってば。照れるじゃないの、この正直者!」
興奮のあまり新八の背中をバンバン張るお葉である。
「なぁ~んでいちいち、ぶつんだよッ! 俺は大太鼓じゃねぇんだぞ」
新八の抗議にお葉、だが誰かに気付いた様子で、通りの向こうに手を振る。
「あら……仙太ちゃん、うつむいてどうしたのよぉ?」
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