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第参話/三方一両損・承章
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一
「ちょうどこれから、お葉姉ちゃんのところに行こうと思ってたんだ」
「あら仙ちゃん、なんか用だったの?」
お葉の問いかけに仙太、新八を気にしてか言いにくそうである。
そのことに気付いたお葉は、助け船を出す。
「あ、この人は大丈夫。ただの売れない噺家だから」
「売れないだけ余計だっての」
「ひょっとして、お葉姉ちゃんのいい人?」
お葉、とたんに嬉しそうに照れて首をフリフリ。
「いい人だなんてぇ~仙ちゃん。ただの幼馴染みよぉ。ねえ、新八さん?」
「おう正真正銘、混じりっけなしの、ただの幼馴染みだ」
新八の言葉にお葉、「この莫迦ッ!」と、左頬をおもいっきり張った。
思いの外強烈な一撃に、再び新八の鼻血がツツー。
「今日はこんなんばっか……もうイヤッ」
二人のじゃれ合いに呆れたのか、仙太は用件を切り出した。
「実はお葉姉ちゃんに、手紙を書いてもらいてぇんだ」
「手紙? どんな?」
「──秘密は知ってる。ばらされたくなかったら、妙見神社の狛犬のところに一両おいておけ───ってやつ」
意外な内容に戸惑いながら、お葉はチラリと新八を見ながら、仙太の真意を確認した。
「手紙っていうより、なんだか脅迫の文みたいねぇ……」
「捕物ごっこで使うから、それでいいんだよ」
「あ、そうなんだ。男の子って捕物とか御白州の御奉行様とか、大好きだものねぇ。講談や落語にも、大岡政談の演目あったわよねぇ」
「そうそう、それだよ」
「なんなら俺が、書いたやろうか…仙太よ?」
横から急に口を挟んだ新八に、仙太は怪訝な表情である。
「兄ちゃんが? そりゃ男の字の方が都合がいいけど…」
「この人、こうみえて達筆よぉ~。なにしろ勘亭流を嗜むんだから」
「おうよ。お陰で、近頃は寄席のビラも頼まれてよ。おかげで寄席の上がりより、そっちの稼ぎが良いぐれぇだよ」
寄席では、独自の書体の文字が使われる。現代では寄席文字と呼ばれる、その一種独特の文字は、神田豊島町藁店に住まう紺屋の職人・栄次郎が、それまで歌舞伎で用いられていた勘亭流の書体に、提灯や半纏などに使われてきた字体とを折衷して、編み出したとされる。
このため、江戸ではビラ字と呼んでいた。
「ほんと、剣術も書も三味線も、いろいろと器用なのにねぇ。なぁんで一番苦手な落語を、商売に選んじゃったのやら」
「うるせぇうるせぇ、うるせぇっての! 俺ぁ蛾蝶師匠の落語に惚れたんだよ」
「それじゃあ、お願いします。おいら、おっかあが心配だから」
ペコリと頭を下げて、去っていく仙太。
その仙太を見送りながら新八は、お葉に尋ねた。
「ところであいつ、どこの子だい? えらく利発だな」
「丸源長屋の、お楽さんの一人息子。母一人子一人でね。お楽さんの方はもう、ずいぶん長いこと臥せってるんだけど、あの子が看病に稼ぎにって、頑張ってるのよ。ほんと、あんな息子を持ちたいって、評判よ」
「そんなに忙しいのに、捕物ごっこ……ねぇ」
歩き去る仙太の後ろ姿を、じっと見つめる新八であった。
「男の字の方が都合がいい…か」
「ん? 何か言った?」
その言葉は、お葉には届かなかった。
二
ここは鉢須賀家の江戸屋敷。
静かに書物を読んでいる、藩主蜂須賀主水である。
文人大名として知られ、貧乏藩の殖産興業に余念がない。
家督を継いで八年、まだ四十少しである。
そこへ江戸家老の酒田又右衛門が、うろたえて入ってきた。
「殿、かようなものが、庭に投げ込まれておりました」
石をくるんでクシャクシャになった紙を、酒田は主水へ渡す。
その紙を受け取り、読む鉢須賀公。
そこには『秘密は知っている。ばらされたくなかったら、妙見神社の狛犬のところに一両おいておけ』と墨痕淋漓。
「ひょっとして、あのことが漏れたのでは……」
「あのことを知っての強請りならば、一両とは少々額が低すぎぬか? 我が藩の貧乏は、そこまで知られておるのかのう」
自虐的につぶやく藩主である。
「しかしこのまま、放置しておくわけにも……」
「良きに計らえ。……ただし、手荒なマネはせぬようにな」
「はっ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
月明りに浮かびあがる、妙見神社を守るように両脇に立つ狛犬。
正確には、神社に向かって右に配置され、口を開いているのが阿行の獅子であり、向かって左に配置され、口を閉じている吽行が狛犬である。
狛犬には時に、角が生えている。獅子が実在のライオンを描いてるのに対し、狛犬は一種の神獣である。
また、インドの古代サンスクリット語では、阿が最初の文字で吽が最後である。
物事の始まりと終わりを意味する。
東大寺南大門の金剛力士像もまた、阿と吽で一対である。
その狛犬の足下にスッと伸びてくる子どもの手。
それををパッと掴み、ねじ上げる大人の手。
「痛ッ」と声を上げる仙太。
「なんと。子供であったか」と驚く手下の侍。
「はなせー、はなしやがれ」と叫ぶ仙太に、酒田又右衛門が問いただした。
「小僧、おまえだな、あの書き付けを投げ入れたのは?」
ぷいと、ソッポをむく仙太。
「我が藩の秘密とはなんだ?」
「…………ふん」
「正直に言わぬと子供といえども容赦せんぞ!」
手下の侍が仙太の腕を背中にまわし、ギリギリと締めあげる。
「イテテテッ」
「申せ、申さぬか!」
仙太の香を見ていた侍の一人が、急に声を上げた。
「この者は先日、門番にくってかかっていた小僧です。殿様に会わせろと騒いで、門番にうるさいぞ小僧、いきなり現れた町人ごときが殿会わせろなどと図々しいわと、突き飛ばされておりました」
仙太。
「ちっくしょう~、覚えていやがったか!」
三
……と突如、酒田の背後からスーッと現れた煙管が、鼻先に突き付けられて。
「む?」
そのまま鼻っ柱をペシッと打つ。
「うぎゃん!」
「ご、御家老! 何やつ!?」
「餓鬼を相手に侍が、ちと大人気ねぇぞ?」
スッと浮かび上がるは着流し姿の新八。
「不覚。仲間がいたか。いや、お主が黒幕か?」
「こいつは真鍮流しの喧嘩煙管でな。加えて俺ぁ直心影流じゃあ、ちっとは知られた者だ。喉元くれぇ、軽く突き破るぜ」
それは煙管と呼ぶには、あまりに無骨すぎた。
大きく、太く、長く、さらに角張りすぎた。
まさにに鉄の棒であった。
親指よりも太い六角形の羅宇部分は、真鍮流し。
殴ったとき、六角形のほうが力が集中して破壊力が増す。
吸口と雁首の根本には、霰棒のようなイボまでついている。
「その子を放しな! でねぇと御家老様が喉からじかに煙草吸うことになるぜ」
ほとんど寝かせるような、直心影流独特の八相の構えで、新八は部下の侍たちが動くより先に、家老に一撃を喰らわせる姿勢である。
「い…言うとおりにしろ」
新八の並外れた太い声と気迫に、渋々と仙太を放す手下たちであった。
素早く新八の背後に隠れる仙太。安全な場所を知ってるのだ。
「おら、御家老様のお帰りだ…よっと!」
ドンと酒田の尻を蹴り上げ、手下の元に押しやる新八。
押されてフラフラと二三歩よろけ、転がる酒田。
「町人風情が御家老を足蹴に? ゆ、許せん!」
怒りに燃えて、刀を抜く手下の侍たち。
藩の手練れを揃えたのか、眼光鋭く構えには力みがない。
「上等だぁ、お江戸名物の尺半の喧嘩煙管をドタマに受けて、田舎で自慢しな浅葱裏めい!」
浅黄裏とは、地方武士が愛用した、丈夫な木綿のことである。
江戸では流行遅れとなり、田舎者を蔑むときに使われた。
新八が喧嘩煙管を一振りすると、一尺ほどだった全長はシュルリと伸びて、一尺半を超えるほどに。
こうなると、十手とそう変わらない。
いや、十手より遥かに太く、実戦用である。
先頭の侍が斬りかかると、新八は右前足の拇指球を軸にクルリと身をかわし、相手の刀身の鍔元を、峰側からガツンと一撃。
それだけで、ポッキリと折れてしまった。
「そこは刀の急所だ、業物でも当たりどころが悪いと、ポッキリと逝く。次に折られたいのは、どいつだ?」
「ぬぬ、舐めおって」
「やめろ!」
「しかし…御家老」
「この者の腕、並みではない。勝てぬわけではないが、長引いて人が来てはまずい、一先ずは引くのだ」
舌打ちしつつも刀をおさめ、家老の酒田とともに逃げていく。
四
伏兵がいないことを確認し、新八は中段に構えた喧嘩煙管を収め、ふぅと息をつく。
「助かったぜ」
いくら新八が使い手とはいえ、三人掛かりで来られれば、無傷ではすまない。
半分ハッタリで脅しての駆け引き、なんとか切り抜けて、安堵の溜息であった。
「おい坊主、なんだってこんな、危ない橋を渡った? 母親の薬湯代欲しさか?」
「──違わい」
「侍相手に強請りをかけちゃ、殺されても文句は言えねぇんだぞ? 俺が案じて跡をつけてなきゃ、おまえは今頃……」
「関係ないだろ!」と、言い捨て駆けだしていく仙太。
「ちょっと待てって……ああ、逃げ足だけは素早いな」と嘆く新八だったが。
最初から、追いかける気はなさそうであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「仙ちゃんが強請りを!」
「莫迦ッ、声がでかいぜ、お葉」
「あ、ごめ~ん」
新八にたしなめられて、あっさり謝るお葉である。
こういうところは、さっぱりしている。
ここは茶屋。
萬葉亭蛾蝶師の高座を控え、先に前座として楽屋入りする新八が、お葉を呼び出したのである。
「仙太の様子か怪しいんで、妙見神社ではってたら案の定だ」
「でもなんで? 仙ちゃんってば悪戯でそんなことをする子じゃないし」
「おおかた母親の薬代ほしさだろうよ。親孝行じゃねぇか、泣かせるじゃねぇか」
真八の母もまた、長く患っていた。
そのため、兄の新七郎にはなかなか、嫁のきてがなかった。
もっとも、新七郎の方も、病の両親の面倒を見させるために、嫁を取る気もなかったのだが。そういうところは、無骨で不器用な兄であった。
「感心してる場合じゃないわよ。仙ちゃんと新八さんの面が割れちゃってるんでしょ? 大丈夫なの?」
「大丈夫じゃねぇが、むこうはわざわざ家老が出ばってきてたんだ。相当の根多で強請られてるに違ぇねぇ。下手に騒げねぇから、夜道だけ気をつけるさ」
新八は茶をすすると、ぽそぽそと語った。
どこの藩かは解らぬが、手練の技量もわかっている。
昼の日中に多人数で、襲うようなマネはすまいと、見切っている感じである。
こういうところは、肚が座っているというか、豪胆である。
「いったい何の根多で脅したのかな?」
「そいつは解らねぇ。たぶん仙太はもう一度、おまえに書き付けを頼みにくるだろうから。そん時ぁ応じる振りをして、すぐに知らせてくれ。今日はさらくちだが、いつもみたいに穴が開くだろうから」
『さらくち』とは、寄席で一番最初に上がる芸人を指す。大概が前座である。
その日、トリを取る師匠の弟子のことが多い。
ちなみに、休憩の仲入りのすぐ後に、高座に上がる芸人を『くいつき』と呼ぶ。
客が休憩時間に弁当やお菓子を召す時に 上がるので、食いつき。客席が落ち着かないのでやりにくく、腕の良い若手噺家が勤める。
トリのすぐ前に出る芸人を『膝替り』と呼ぶ。
目立ってはいけないが、かと言って場を冷やしてもいけない。
時間を見ながら話を調整できる、腕のあるベテランが務めることが多い。
立て前座として、新八はずっと楽屋仕事である。
「へい、合点承知!」
「真似するんじゃねえや」
おどけるお葉に、仏頂面の新八であった。
「ちょうどこれから、お葉姉ちゃんのところに行こうと思ってたんだ」
「あら仙ちゃん、なんか用だったの?」
お葉の問いかけに仙太、新八を気にしてか言いにくそうである。
そのことに気付いたお葉は、助け船を出す。
「あ、この人は大丈夫。ただの売れない噺家だから」
「売れないだけ余計だっての」
「ひょっとして、お葉姉ちゃんのいい人?」
お葉、とたんに嬉しそうに照れて首をフリフリ。
「いい人だなんてぇ~仙ちゃん。ただの幼馴染みよぉ。ねえ、新八さん?」
「おう正真正銘、混じりっけなしの、ただの幼馴染みだ」
新八の言葉にお葉、「この莫迦ッ!」と、左頬をおもいっきり張った。
思いの外強烈な一撃に、再び新八の鼻血がツツー。
「今日はこんなんばっか……もうイヤッ」
二人のじゃれ合いに呆れたのか、仙太は用件を切り出した。
「実はお葉姉ちゃんに、手紙を書いてもらいてぇんだ」
「手紙? どんな?」
「──秘密は知ってる。ばらされたくなかったら、妙見神社の狛犬のところに一両おいておけ───ってやつ」
意外な内容に戸惑いながら、お葉はチラリと新八を見ながら、仙太の真意を確認した。
「手紙っていうより、なんだか脅迫の文みたいねぇ……」
「捕物ごっこで使うから、それでいいんだよ」
「あ、そうなんだ。男の子って捕物とか御白州の御奉行様とか、大好きだものねぇ。講談や落語にも、大岡政談の演目あったわよねぇ」
「そうそう、それだよ」
「なんなら俺が、書いたやろうか…仙太よ?」
横から急に口を挟んだ新八に、仙太は怪訝な表情である。
「兄ちゃんが? そりゃ男の字の方が都合がいいけど…」
「この人、こうみえて達筆よぉ~。なにしろ勘亭流を嗜むんだから」
「おうよ。お陰で、近頃は寄席のビラも頼まれてよ。おかげで寄席の上がりより、そっちの稼ぎが良いぐれぇだよ」
寄席では、独自の書体の文字が使われる。現代では寄席文字と呼ばれる、その一種独特の文字は、神田豊島町藁店に住まう紺屋の職人・栄次郎が、それまで歌舞伎で用いられていた勘亭流の書体に、提灯や半纏などに使われてきた字体とを折衷して、編み出したとされる。
このため、江戸ではビラ字と呼んでいた。
「ほんと、剣術も書も三味線も、いろいろと器用なのにねぇ。なぁんで一番苦手な落語を、商売に選んじゃったのやら」
「うるせぇうるせぇ、うるせぇっての! 俺ぁ蛾蝶師匠の落語に惚れたんだよ」
「それじゃあ、お願いします。おいら、おっかあが心配だから」
ペコリと頭を下げて、去っていく仙太。
その仙太を見送りながら新八は、お葉に尋ねた。
「ところであいつ、どこの子だい? えらく利発だな」
「丸源長屋の、お楽さんの一人息子。母一人子一人でね。お楽さんの方はもう、ずいぶん長いこと臥せってるんだけど、あの子が看病に稼ぎにって、頑張ってるのよ。ほんと、あんな息子を持ちたいって、評判よ」
「そんなに忙しいのに、捕物ごっこ……ねぇ」
歩き去る仙太の後ろ姿を、じっと見つめる新八であった。
「男の字の方が都合がいい…か」
「ん? 何か言った?」
その言葉は、お葉には届かなかった。
二
ここは鉢須賀家の江戸屋敷。
静かに書物を読んでいる、藩主蜂須賀主水である。
文人大名として知られ、貧乏藩の殖産興業に余念がない。
家督を継いで八年、まだ四十少しである。
そこへ江戸家老の酒田又右衛門が、うろたえて入ってきた。
「殿、かようなものが、庭に投げ込まれておりました」
石をくるんでクシャクシャになった紙を、酒田は主水へ渡す。
その紙を受け取り、読む鉢須賀公。
そこには『秘密は知っている。ばらされたくなかったら、妙見神社の狛犬のところに一両おいておけ』と墨痕淋漓。
「ひょっとして、あのことが漏れたのでは……」
「あのことを知っての強請りならば、一両とは少々額が低すぎぬか? 我が藩の貧乏は、そこまで知られておるのかのう」
自虐的につぶやく藩主である。
「しかしこのまま、放置しておくわけにも……」
「良きに計らえ。……ただし、手荒なマネはせぬようにな」
「はっ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
月明りに浮かびあがる、妙見神社を守るように両脇に立つ狛犬。
正確には、神社に向かって右に配置され、口を開いているのが阿行の獅子であり、向かって左に配置され、口を閉じている吽行が狛犬である。
狛犬には時に、角が生えている。獅子が実在のライオンを描いてるのに対し、狛犬は一種の神獣である。
また、インドの古代サンスクリット語では、阿が最初の文字で吽が最後である。
物事の始まりと終わりを意味する。
東大寺南大門の金剛力士像もまた、阿と吽で一対である。
その狛犬の足下にスッと伸びてくる子どもの手。
それををパッと掴み、ねじ上げる大人の手。
「痛ッ」と声を上げる仙太。
「なんと。子供であったか」と驚く手下の侍。
「はなせー、はなしやがれ」と叫ぶ仙太に、酒田又右衛門が問いただした。
「小僧、おまえだな、あの書き付けを投げ入れたのは?」
ぷいと、ソッポをむく仙太。
「我が藩の秘密とはなんだ?」
「…………ふん」
「正直に言わぬと子供といえども容赦せんぞ!」
手下の侍が仙太の腕を背中にまわし、ギリギリと締めあげる。
「イテテテッ」
「申せ、申さぬか!」
仙太の香を見ていた侍の一人が、急に声を上げた。
「この者は先日、門番にくってかかっていた小僧です。殿様に会わせろと騒いで、門番にうるさいぞ小僧、いきなり現れた町人ごときが殿会わせろなどと図々しいわと、突き飛ばされておりました」
仙太。
「ちっくしょう~、覚えていやがったか!」
三
……と突如、酒田の背後からスーッと現れた煙管が、鼻先に突き付けられて。
「む?」
そのまま鼻っ柱をペシッと打つ。
「うぎゃん!」
「ご、御家老! 何やつ!?」
「餓鬼を相手に侍が、ちと大人気ねぇぞ?」
スッと浮かび上がるは着流し姿の新八。
「不覚。仲間がいたか。いや、お主が黒幕か?」
「こいつは真鍮流しの喧嘩煙管でな。加えて俺ぁ直心影流じゃあ、ちっとは知られた者だ。喉元くれぇ、軽く突き破るぜ」
それは煙管と呼ぶには、あまりに無骨すぎた。
大きく、太く、長く、さらに角張りすぎた。
まさにに鉄の棒であった。
親指よりも太い六角形の羅宇部分は、真鍮流し。
殴ったとき、六角形のほうが力が集中して破壊力が増す。
吸口と雁首の根本には、霰棒のようなイボまでついている。
「その子を放しな! でねぇと御家老様が喉からじかに煙草吸うことになるぜ」
ほとんど寝かせるような、直心影流独特の八相の構えで、新八は部下の侍たちが動くより先に、家老に一撃を喰らわせる姿勢である。
「い…言うとおりにしろ」
新八の並外れた太い声と気迫に、渋々と仙太を放す手下たちであった。
素早く新八の背後に隠れる仙太。安全な場所を知ってるのだ。
「おら、御家老様のお帰りだ…よっと!」
ドンと酒田の尻を蹴り上げ、手下の元に押しやる新八。
押されてフラフラと二三歩よろけ、転がる酒田。
「町人風情が御家老を足蹴に? ゆ、許せん!」
怒りに燃えて、刀を抜く手下の侍たち。
藩の手練れを揃えたのか、眼光鋭く構えには力みがない。
「上等だぁ、お江戸名物の尺半の喧嘩煙管をドタマに受けて、田舎で自慢しな浅葱裏めい!」
浅黄裏とは、地方武士が愛用した、丈夫な木綿のことである。
江戸では流行遅れとなり、田舎者を蔑むときに使われた。
新八が喧嘩煙管を一振りすると、一尺ほどだった全長はシュルリと伸びて、一尺半を超えるほどに。
こうなると、十手とそう変わらない。
いや、十手より遥かに太く、実戦用である。
先頭の侍が斬りかかると、新八は右前足の拇指球を軸にクルリと身をかわし、相手の刀身の鍔元を、峰側からガツンと一撃。
それだけで、ポッキリと折れてしまった。
「そこは刀の急所だ、業物でも当たりどころが悪いと、ポッキリと逝く。次に折られたいのは、どいつだ?」
「ぬぬ、舐めおって」
「やめろ!」
「しかし…御家老」
「この者の腕、並みではない。勝てぬわけではないが、長引いて人が来てはまずい、一先ずは引くのだ」
舌打ちしつつも刀をおさめ、家老の酒田とともに逃げていく。
四
伏兵がいないことを確認し、新八は中段に構えた喧嘩煙管を収め、ふぅと息をつく。
「助かったぜ」
いくら新八が使い手とはいえ、三人掛かりで来られれば、無傷ではすまない。
半分ハッタリで脅しての駆け引き、なんとか切り抜けて、安堵の溜息であった。
「おい坊主、なんだってこんな、危ない橋を渡った? 母親の薬湯代欲しさか?」
「──違わい」
「侍相手に強請りをかけちゃ、殺されても文句は言えねぇんだぞ? 俺が案じて跡をつけてなきゃ、おまえは今頃……」
「関係ないだろ!」と、言い捨て駆けだしていく仙太。
「ちょっと待てって……ああ、逃げ足だけは素早いな」と嘆く新八だったが。
最初から、追いかける気はなさそうであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「仙ちゃんが強請りを!」
「莫迦ッ、声がでかいぜ、お葉」
「あ、ごめ~ん」
新八にたしなめられて、あっさり謝るお葉である。
こういうところは、さっぱりしている。
ここは茶屋。
萬葉亭蛾蝶師の高座を控え、先に前座として楽屋入りする新八が、お葉を呼び出したのである。
「仙太の様子か怪しいんで、妙見神社ではってたら案の定だ」
「でもなんで? 仙ちゃんってば悪戯でそんなことをする子じゃないし」
「おおかた母親の薬代ほしさだろうよ。親孝行じゃねぇか、泣かせるじゃねぇか」
真八の母もまた、長く患っていた。
そのため、兄の新七郎にはなかなか、嫁のきてがなかった。
もっとも、新七郎の方も、病の両親の面倒を見させるために、嫁を取る気もなかったのだが。そういうところは、無骨で不器用な兄であった。
「感心してる場合じゃないわよ。仙ちゃんと新八さんの面が割れちゃってるんでしょ? 大丈夫なの?」
「大丈夫じゃねぇが、むこうはわざわざ家老が出ばってきてたんだ。相当の根多で強請られてるに違ぇねぇ。下手に騒げねぇから、夜道だけ気をつけるさ」
新八は茶をすすると、ぽそぽそと語った。
どこの藩かは解らぬが、手練の技量もわかっている。
昼の日中に多人数で、襲うようなマネはすまいと、見切っている感じである。
こういうところは、肚が座っているというか、豪胆である。
「いったい何の根多で脅したのかな?」
「そいつは解らねぇ。たぶん仙太はもう一度、おまえに書き付けを頼みにくるだろうから。そん時ぁ応じる振りをして、すぐに知らせてくれ。今日はさらくちだが、いつもみたいに穴が開くだろうから」
『さらくち』とは、寄席で一番最初に上がる芸人を指す。大概が前座である。
その日、トリを取る師匠の弟子のことが多い。
ちなみに、休憩の仲入りのすぐ後に、高座に上がる芸人を『くいつき』と呼ぶ。
客が休憩時間に弁当やお菓子を召す時に 上がるので、食いつき。客席が落ち着かないのでやりにくく、腕の良い若手噺家が勤める。
トリのすぐ前に出る芸人を『膝替り』と呼ぶ。
目立ってはいけないが、かと言って場を冷やしてもいけない。
時間を見ながら話を調整できる、腕のあるベテランが務めることが多い。
立て前座として、新八はずっと楽屋仕事である。
「へい、合点承知!」
「真似するんじゃねえや」
おどけるお葉に、仏頂面の新八であった。
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克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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