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-第1章:冷徹公爵との結婚
しおりを挟む1-1:契約としての結婚式
ヴィヴィアン・ウィンザーの人生において、今日という日ほど息苦しい日はなかった。広大な庭園を望むブラックモア公爵家の大広間。天井の高い空間には荘厳な装飾が施され、豪華なシャンデリアが光を放つ。完璧に整えられた花々と、彼女を飾り立てる純白のドレス。しかし、その美しい光景のどれ一つとして、彼女の心を癒すものはなかった。
「おめでとうございます、ヴィヴィアン様。」
周囲からの祝福の声が聞こえる。しかし、その言葉の一つ一つが空虚に響いた。
「これが、私の役目。」
ヴィヴィアンは胸の内で繰り返す。父親が莫大な借金を抱え、没落寸前だったウィンザー伯爵家。冷徹で知られるブラックモア公爵アレクサンダーがその返済を肩代わりする条件として、彼との結婚が決まった。ヴィヴィアンは断る権利などなかった。この結婚は、愛ではなく契約であり、ヴィヴィアン自身もそれを十分に理解していた。
「さあ、行きなさい。」
父親が背後でそう呟いた。命令ではなく、まるで彼女を駒として送り出すような冷たい声。ヴィヴィアンは振り返らず、毅然とした足取りでバージンロードを進んだ。その先に立つのは、彼女の新たな夫となる男――アレクサンダー・ブラックモア。
灰色の瞳を持つその男は、無表情のままヴィヴィアンを見つめていた。その冷たい視線に、ヴィヴィアンの背筋は自然と緊張を覚える。
「彼にとっても私はただの駒に過ぎない。」
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥にわずかな痛みが広がる。彼女はその感情を振り払うように、小さく息を吐き、視線を前に戻した。
「君には愛情は一切注がない。」
誓いの言葉を交わした直後、アレクサンダーが耳打ちするように冷たく告げた。
「これが契約だ。君は1年間だけここにいればいい。その後は――自由にしてやる。」
その瞬間、ヴィヴィアンの中に期待のようなものがあったとすれば、それは完全に打ち砕かれた。
「わかっています。」
彼女は表情を変えずに答えた。その声に震えはなかった。すでに覚悟していたはずのこと。アレクサンダーが彼女を愛さないということも、そして自分がこの結婚において何の意味も持たないことも。
しかし、周囲にいる客たちはこのやり取りを知る由もない。表面上は完璧な夫婦に見えるだろう。
式が終わり、形式的な披露宴が始まった。アレクサンダーは終始無言で、ヴィヴィアンに視線すら向けなかった。彼は部屋の片隅で貴族たちの話を聞き流しながら、冷ややかな表情で立っているだけだった。
「冷徹な公爵様だ。」
貴族たちがそんな噂を立てるのも無理はない、とヴィヴィアンは内心思う。彼が何を考えているのか、誰にもわからない。それでも、ヴィヴィアンは気丈に振る舞い、公爵夫人としての役割を全うした。
「公爵家の妻として、この場を無事に終えることが私の役目。」
それだけを胸に誓いながら、ヴィヴィアンは貴族たちとの会話に応じた。冷たい視線や侮辱的な言葉もあったが、彼女は微笑みを絶やさなかった。その毅然とした態度は、一部の貴族たちに「さすがウィンザーの令嬢」と賞賛されるほどだった。
その夜、披露宴が終わり、二人だけになった寝室で、ヴィヴィアンはふと立ち止まった。
「公爵様、私は――」
何か言葉を伝えようとした瞬間、アレクサンダーが冷たく遮った。
「君に期待はしない。だから、余計なことをしなくていい。」
その言葉に、一瞬胸が締め付けられるような感覚を覚えた。しかし、ヴィヴィアンはその痛みを飲み込み、毅然とした態度を崩さなかった。
「わかりました。私は公爵家の妻として、役目を果たします。」
それだけ言い残すと、彼女は背を向けて寝室の奥に消えていった。
扉の向こうで、アレクサンダーは小さく息をついた。彼の心の奥底には、言葉では表現しきれない違和感があった。彼女の毅然とした態度、その中に潜む強さ――それがなぜか気になっていたのだ。
「ただの契約のはずなのに……。」
彼自身も気づかぬうちに、彼女の存在が少しずつ心に刻まれ始めていた。
1-2:冷たくも揺らぐ関係
翌朝、ブラックモア公爵家の広大な庭園には冷たい朝霧が立ち込めていた。結婚初日にも関わらず、ヴィヴィアンはすでに一人で朝の散歩に出かけていた。夫であるアレクサンダーと朝食を共にする予定はない。彼は彼女に興味がないどころか、必要最低限の関わりすら避けているようだった。
「この状況に慣れなければならない。」
ヴィヴィアンは自分に言い聞かせるように、霧の中を進んだ。契約結婚とはいえ、公爵家の一員となった以上、彼女は公爵夫人としての務めを果たさなければならない。それが彼女の生きる目的であり、家族への責務でもあった。
庭の奥にある温室にたどり着いたとき、彼女は偶然にもそこでアレクサンダーの姿を見つけた。灰色の瞳が彼女を見つめるが、そこに温かみは一切なかった。
「早起きだな。」
彼は短くそう言うと、手に持った紅茶のカップを口に運んだ。その動作は一切の無駄がなく、まるで機械のようだった。
「公爵様こそ、温室でおくつろぎとは意外です。」
ヴィヴィアンは毅然とした態度で応じた。その声には礼儀正しさが込められていたが、どこか冷静すぎる響きもあった。
「ここは私にとって唯一、静かな場所だからな。」
そう言って再びカップに口をつける彼に、ヴィヴィアンは小さく息をついた。この男は本当に感情を持たないのではないか――そんな印象さえ受けた。
「静かで美しい場所ですね。公爵様にとって特別な場所なのでしょう。」
ヴィヴィアンはそう言いながら、温室の中を見渡した。そこには珍しい花々が咲き乱れ、彼女の知る限り、どの植物も手入れが行き届いていた。
アレクサンダーは彼女の言葉には答えず、ただ静かに立ち上がった。そして、出口に向かう途中で立ち止まり、振り返ることなく言った。
「必要があれば執事に言え。君の好きにして構わない。」
それだけ言い残し、彼は温室を後にした。
「本当に、冷たい人……。」
ヴィヴィアンはそう呟きながら、彼がいなくなった温室に一人残った。しかし、その背中にはどこか孤独な影が見えた気がして、彼女の胸にわずかな疑問が浮かぶ。この人は本当に冷徹なだけなのだろうか――?
---
昼下がり、ヴィヴィアンは公爵夫人としての初めての仕事に臨んでいた。それは、公爵家の領地を管理するための書類に目を通し、必要な決裁を行うことだった。彼女の聡明さは、こうした事務作業にも如実に表れていた。
「この項目ですが、少し見直すべき点があるように思います。」
ヴィヴィアンが執事にそう指摘すると、執事は目を見張った。
「奥様、これは非常に的確なご指摘です。失礼ながら、このような内容にまで目を向けられるとは思いませんでした。」
「公爵夫人として当然のことをしているだけです。」
ヴィヴィアンはそう言い、再び書類に目を落とした。彼女にとって、この結婚生活の中で自分が存在意義を感じられるのは、こうした仕事においてのみだった。
その日の夕方、アレクサンダーが執務室に戻ると、執事が彼女の働きぶりについて報告を始めた。
「奥様は非常に聡明で、書類に目を通される速度も速い上、的確なご指摘をされています。これまでのどの公爵夫人とも異なり――」
「もういい。」
アレクサンダーは執事の話を遮った。そして、心の中で自分に言い聞かせた。
「あの女に期待するつもりはない。それが契約の条件だ。」
しかし、ふと温室での会話を思い出した。毅然とした態度を崩さない彼女の姿と、庭を静かに歩く姿が、どこか心の奥に残っていることに気づき、彼は不快そうに眉をひそめた。
---
その夜、ヴィヴィアンは公爵夫人としての初日を無事に終え、自室で休んでいた。ふと鏡に映る自分の姿を見て、彼女は心の中で呟いた。
「これでいいの。この生活を乗り切れば、自由になれるのだから。」
しかし、その瞳にはわずかな不安が宿っていた。孤独と義務に耐える日々はまだ始まったばかりだったのだ。
一方、アレクサンダーは自室で眠ることなく、暗い廊下を歩いていた。彼の足は無意識のうちに、再び温室へと向かっていた。
温室に入ると、昼間ヴィヴィアンが触れていた花が目に入った。彼女がその花を見つめながら「美しいですね」と呟いていたことが、妙に耳に残っている。
「美しい……か。」
アレクサンダーは短くそう呟き、ふっと笑みのようなものを浮かべた。しかし、それはすぐに消え去り、彼は深く息を吐いた。
「何を考えている、俺は。」
彼女との契約結婚は単なる取引だ。それ以上でも以下でもない。そう心に言い聞かせながらも、彼の心の中には微かな違和感が広がりつつあった。
1-3:揺れる感情と隠された優しさ
ヴィヴィアンがブラックモア公爵家に嫁いで数週間が過ぎた。その間、夫であるアレクサンダーと顔を合わせる機会はほとんどなく、日々の生活はまるで独り暮らしのようだった。彼はほとんどを執務室で過ごし、食事の時間ですら同席しない。
「君には愛情は注がない」という冷酷な言葉を思い返しながら、ヴィヴィアンはその現実に慣れるしかないと心を決めていた。
しかし、彼女はただ耐えるだけではなく、公爵夫人としての役割を果たしていた。日々、領地の管理書類に目を通し、執事や使用人たちの信頼を着実に得ていた。その姿は毅然としていて、誰もが「ウィンザー伯爵家の令嬢」としての矜持を感じずにはいられなかった。
ある日、領地の視察が行われるという知らせがヴィヴィアンに届いた。公爵夫人として同行することが求められているため、彼女は初めてアレクサンダーと正式に仕事で顔を合わせることになった。
---
視察の日、馬車に揺られながら、ヴィヴィアンは公爵の隣に座っていた。狭い空間の中で、彼の存在感は大きく、冷たい灰色の瞳が窓の外を見つめる姿に緊張感が漂っていた。
「この視察では、公爵夫人としての役割を果たすことを期待している。」
アレクサンダーが短くそう言った。彼の声は感情を一切排除した冷淡なものだったが、その中にほんの少しだけ、何か別のものが混じっているような気がした。
「承知しております。公爵家の名に恥じぬよう、最善を尽くします。」
ヴィヴィアンもまた、毅然とした態度で応じた。その目には強い意志が宿っていた。アレクサンダーは彼女の返答に一瞬だけ視線を向けたが、すぐにまた窓の外に目を移した。
---
視察先の村では、多くの住民たちが公爵夫妻の訪問を歓迎していた。貴族に対する住民たちの態度はどこか萎縮しているものの、ヴィヴィアンは優しい笑顔で接し、住民たちに親しみを込めて話しかけた。
「公爵夫人様、本当に美しいお方ですね。」
年配の女性がそう言って頭を下げたとき、ヴィヴィアンは微笑みながら彼女の手を握った。
「ありがとうございます。この村はとても素敵ですね。皆さんが丁寧に管理されているのが伝わってきます。」
そのやり取りを少し離れた場所から見ていたアレクサンダーは、静かに彼女を観察していた。いつも冷静で毅然とした態度を崩さない彼女が、ここでは柔らかな表情を見せている。それは、彼にとってどこか新鮮なものだった。
「……偽りの笑顔か?」
彼は心の中でそう呟いたが、ヴィヴィアンの表情に嘘はないように見えた。
その後、村の中を案内される中で、小さな少年が転んで泣き出す場面に遭遇した。ヴィヴィアンは咄嗟にその少年の元に駆け寄り、膝をついて目線を合わせた。
「大丈夫、痛かったね。でも、しっかりした子はこんなことで負けないのよ。」
そう言って彼女がそっと少年の膝を撫でると、彼は涙を拭い、力強く頷いた。その様子に、周囲の住民たちも安堵の表情を浮かべた。
アレクサンダーはその場面を黙って見つめていたが、内心で自分が何を感じているのか整理できなかった。彼女がこうして人々に優しく接する姿は、彼にとって予想外だったからだ。
---
視察を終え、馬車に戻った二人は、しばらく無言のままだった。窓の外に広がる夕焼けを眺めながら、ヴィヴィアンは安堵の息をついていた。村の住民たちが満足してくれたことに、少しだけ達成感を覚えていた。
「……意外だな。」
突然、アレクサンダーが低い声で呟いた。
「何が意外なのでしょうか、公爵様。」
ヴィヴィアンが問いかけると、彼はほんの一瞬だけ目を伏せた後、冷静に答えた。
「君がここまでやるとは思わなかった。ただの形式的な夫人だと思っていた。」
その言葉に、ヴィヴィアンは驚きを覚えたが、感情を表に出すことなく冷静に答えた。
「公爵家の妻として当然のことをしたまでです。それに……」
そこで彼女は言葉を止めた。窓の外を見つめながら、静かに続ける。
「形式的でも、私はこの立場を全うするつもりです。誰かに必要とされることが、私にとって唯一の意味を持つことなのです。」
アレクサンダーはその言葉に何も返さなかったが、心の奥で何かが揺れるのを感じた。
---
その夜、ヴィヴィアンは自室に戻り、静かな夜を迎えていた。一方でアレクサンダーは温室に立ち尽くし、考え込んでいた。
彼女の言葉が頭から離れない。必要とされることで自分の存在意義を見出す――その強さと孤独に、なぜか共感を覚えた自分に戸惑いを隠せなかった。
「何をしている、俺は。」
彼は小さく息を吐き、温室を後にした。心に芽生えた微かな感情を、冷静さで押し殺そうとするかのように。
しかし、それは完全に消え去ることはなかった。
1-4:孤独の仮面と予期せぬ優しさ
それから数日が経ち、ヴィヴィアンは日常に戻っていた。公爵夫人としての役割をこなす日々の中、彼女は冷徹で無関心な夫に対して毅然とした態度を保ち続けていた。しかし、領地視察の際に見せたアレクサンダーの僅かな揺らぎが、どこか心に引っかかっていた。
「彼の中にも感情があるのかもしれない。」
そう思いかける自分を否定し、ヴィヴィアンは自室で書類を整理する手を止めた。契約結婚に期待するべきではない。彼の優しさを感じたのは、ただの錯覚だと自分に言い聞かせた。
その夜、ヴィヴィアンは突然の来客を告げるノックの音に驚かされた。扉を開けると、執事が慌ただしい様子で立っていた。
「奥様、大変申し訳ありませんが、公爵様が倒れられました。」
その言葉に、一瞬息を飲んだ。
「倒れた?公爵様が?」
アレクサンダーが倒れるなど、想像もつかないことだった。あの冷静沈着で鋼のような意志を持つ男が、そんなことになるはずがない――そう思いながらも、ヴィヴィアンは急いで執事についていった。
---
アレクサンダーは執務室の長椅子に横たわっていた。顔色は青白く、額には汗が滲んでいる。医師がすでに診察をしており、執事がその結果を報告した。
「疲労と過労による体調不良とのことです。公爵様はここ数日、休息をほとんど取られておりませんでした。」
「そんな……。」
ヴィヴィアンは無意識のうちに拳を握りしめた。アレクサンダーの体調不良に動揺している自分がいることに気づき、心の中で戸惑いを感じる。
「公爵様、しっかり休息を取らなければなりません。」
そう声をかけると、アレクサンダーはかすかに目を開け、彼女を見た。
「……必要ない。これくらい、どうということはない。」
弱々しい声ながらも、その言葉にはいつもの冷たさが含まれていた。しかし、彼の顔には普段の無表情では隠しきれない疲労が滲み出ていた。
「どうということがないわけがありません。」
ヴィヴィアンはその場に跪き、彼の目をしっかりと見据えた。
「公爵様が倒れたら、この家も、この領地も混乱するのです。どうか自分の身体をもっと大切にしてください。」
彼女の真剣な眼差しに、アレクサンダーは短く息をついた。
「君に心配される筋合いはない。」
そう言いながらも、彼は反論する気力すらないようだった。ヴィヴィアンは立ち上がり、執事に命じた。
「すぐに湯を用意してください。そして、消化の良い食事を持ってきてください。私が付き添います。」
執事は驚きつつも、「かしこまりました」と頭を下げて去っていった。
---
ヴィヴィアンはその夜、アレクサンダーのそばで看病を続けた。彼が眠りについた後も、彼女は一度も席を外さなかった。
「冷徹で感情を持たない人だと思っていたけれど……。」
アレクサンダーが抱える責務や孤独を垣間見た気がして、彼女の胸には複雑な感情が湧き上がっていた。
夜が更けた頃、アレクサンダーが薄く目を開けた。そこにいたのは、眠ることなく自分を見守るヴィヴィアンだった。
「……なぜそこまでする?」
彼の低い声に、ヴィヴィアンはハッと顔を上げた。そして、少し戸惑いながらも答えた。
「それが、公爵夫人としての役割だからです。」
その言葉に、アレクサンダーはかすかに笑みのようなものを浮かべた。
「役割……ね。」
彼は短く呟き、再び目を閉じた。しかし、その胸の奥には、彼女の存在が少しだけ違うものとして刻まれ始めていた。
---
翌朝、アレクサンダーは体調を多少回復させていたが、無理に動こうとはしなかった。ヴィヴィアンが準備した軽い朝食を取る姿は、いつもの冷たい仮面を外したように穏やかだった。
「もう、大丈夫だ。」
そう言う彼に、ヴィヴィアンは微笑みを浮かべた。
「公爵様にはもっと休んでいただきます。領地の管理も、執事と相談して私が引き受けますので。」
「君が?」
アレクサンダーは意外そうに眉を上げたが、すぐに納得したように頷いた。
「……分かった。任せる。」
その返事を聞き、ヴィヴィアンはほっと息をついた。
彼女にとって、この結婚は依然として契約に過ぎない。しかし、この夜の出来事は、二人の関係にわずかな変化をもたらし始めていた。それが愛情かどうかはまだ分からない。しかし、互いの孤独に気づき始めたことは確かだった。
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