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第1章 冷遇されし公爵令嬢
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わたしの名はエリシア・フォン・ルクセンベルク。光と栄誉に包まれる王都ルクス・ラグレードにおいて、名門貴族であるルクセンベルク公爵家の長女として生まれ落ちた。
……と書けば、いかにも華々しい立場に思えるかもしれない。けれども、実際のわたしはそんな輝かしいものとは程遠い。父であるルクセンベルク公爵――アドルフ・フォン・ルクセンベルクは、わたしを実の娘とは思えないほど冷淡に扱い、次女である妹ビアンカばかりを溺愛している。
その理由を、わたしははっきりとは知らない。母は、わたしを生んだあと間もなくこの世を去った。父にとって最愛の妻を失った悲しみをわたしにぶつけているのか、それとも単に母を失った娘を厄介者と見なしているのか。わからない。けれど、幼いころからかけられた言葉は「お前には何の価値もない」「ビアンカを見習え」というものばかりだった。
大きな窓の外、王都の朝はいつも穏やかだ。美しく磨かれた中庭には噴水があり、通りからは観光客の楽しげな笑い声がかすかに届く。けれども、わたしにはこの屋敷が、まるで檻のように感じられて仕方がない。
そんなわたしが十七歳になったある日。唐突に父から呼び出され、書斎へと足を運ぶことになった。普段ならば使用人を通じて「来い」と一言あるだけなのに、その日は珍しくビアンカも同席している。きらびやかなティーカップで紅茶を飲む妹は、すでにこの国の貴婦人たちの間で「次期公爵家当主になるのでは」と噂されているほど有能で、そして美しい。
豊かな金の髪に、色彩の鮮やかなグリーンの瞳。上等なドレスの胸元には、小粒の宝石がさりげなく揺れている。わたしがそっと挨拶すると、ビアンカは涼やかな表情のまま、どこか見下すように鼻を鳴らした。
「呼びましたか、父様」
「……ああ、エリシアか」
父は机に肘をつき、鼻眼鏡の奥から冷たくわたしを見つめる。彼の視線には、いつものとおりの嫌悪と苛立ちが混ざっていた。
「お前を呼んだのはほかでもない。……今日、王宮から第二王子殿下の正式な使者がいらした」
「第二王子、レナード殿下の……ですか?」
第二王子のレナード殿下といえば、かつてはわたしの婚約者だった人だ。とはいえ、それは口約束程度のもので、しかもビアンカが十歳になったころから状況は一変した。いつの間にかレナード殿下はビアンカに興味を示し、わたしとの縁談は立ち消えになったのである。
それからは、王宮や上流社会ではビアンカこそが「未来の王妃候補」にふさわしいと目されていた。そんな中で突然、第二王子の名前が出てくるとは。
「ひょっとして、もうわたしと縁を結ぶことはやめていると思っていましたが……何か、改めて話があるのでしょうか」
「ああ、まぁ……そういう話ではない」
父はふいっと視線をそらし、言いにくそうに言葉を濁す。するとビアンカが代わりに楽しげな声で口を開いた。
「姉さま、あなたには少しショックかもしれませんわね。実は先日、わたくし……レナード殿下との婚約がほぼ正式に決まりかけておりますの。つまり、姉さまと殿下の旧い縁談は完全に破棄というわけでして」
「……そう、ですか」
正直、わたしはショックを受けるどころか、ほっとしている自分に気づいていた。名ばかりの婚約だったとはいえ、ビアンカのように愛されているわけでもないわたしが、王家に嫁いだところで幸せになれるはずなどない。
ビアンカはあからさまに勝ち誇った表情を浮かべ、わたしの様子をうかがうように微笑んだ。しかし、わたしが何ら動揺の色を見せなかったので、つまらなさそうに口をすぼめる。
それを見て、わたしは彼女のことを心底、哀れだと思った。自分が優位に立っていることを示すために、常にわたしを見下し、勝ち誇らなければ気が済まないのだろう。
「それで――」
ビアンカが紅茶を一口飲んだあと、興味深げに続ける。
「父様、それで姉さまにはどんな話があるの? わざわざ呼んだところをみると、よほどのことかしら」
「まあな。……エリシア、お前に隣国への輿入れが決まった。数日後には国王陛下の名のもと、正式に発表されるだろう」
隣国――グラナート帝国。わたしたちのセレスティア王国とは長らく戦争状態にあった国だ。ようやくここ数年で停戦協定の話し合いが進んではいるが、油断ならない相手であることは変わらない。そんな国へ嫁ぐ? それも、わたしが?
「……どういう、ことですか。それはつまり、政略結婚ということでしょうか」
「そういうことだ。今回の停戦協定には、お互いの人質交換も含まれている。グラナート帝国側は、『冷酷な将軍』と呼ばれるクラウス・フォン・グラナート公爵を差し出してきた。実質的には、あちらも“自国内で一番都合のいい男”という認識で動いているらしいが……とにかく、こちらとしては適当な貴族の娘を嫁がせることが条件なんだ」
冷酷な将軍クラウス・フォン・グラナート。その名はわたしですら耳にしたことがある。グラナート帝国の若き将軍であり、無慈悲な戦場指揮によって数多くの勝利をもたらしてきた男――という悪名を持っている。
そんな人物に、わたしは嫁ぐのか? わたしはただ、呆然とするしかなかった。するとビアンカが楽しそうにクスクス笑いだす。
「まぁ! 姉さま、クラウス将軍の名は聞いたことがあるでしょう? たしかに非常に優秀だけれど、その冷酷さから周囲に恐れられているとか。しかも政略結婚ですもの。姉さまは向こうの国で上手くやれるのかしら?」
「……」
「ま、適当に嫁がされて、すぐに離縁でもされるんじゃない? 可哀想にね。まぁでも、そのほうが姉さまにとっては幸せかもしれませんわ。だって、この国で居場所がないのでしょう?」
ひどく嘲りに満ちた物言いだった。それでも、わたしの心はどこか奇妙な落ち着きを保っている。確かに、わたしにはこの屋敷での居場所などない。むしろ、強引に政略結婚を命じられたところで、驚きや悲しみよりも先に、「やっと自由になれるかもしれない」という安堵のような感情が湧いてきた。
「……承知しました」
わたしが淡々と返事をした瞬間、父とビアンカは意外そうに顔を見合わせた。どうやら「嫌だ」と叫ぶか、「そんなのはお断り」と駄々をこねることを期待していたのかもしれない。
「お前、ほんとうに構わないのか? その男は他国でも悪名高い将軍だ。正直なところ、お前などすぐに用済みにされるかもしれんのだぞ」
「ええ、わたしがどうなろうと構わないでしょう? 父様もずっと、わたしをお邪魔虫としか考えていなかったのですから」
父はわずかに眉をひそめたが、すぐにまた冷たい表情へと戻った。ビアンカは唇に指を当て、何かを思案するようにわたしを見つめている。
「好きにしろ。ただし、国王陛下の勅命である以上、嫌だと言っても許される話ではない。――数日後、正式に発表があったら、お前は早急に支度を整えろ」
「了解しました」
わたしはそれだけ言うと、深く頭を下げ、部屋を後にした。部屋の外へ出てから、重い扉が閉じる音を聞き、ようやくわたしは息を吐く。
嫌な空気だった。だが、そうだとしても――この家から出られるかもしれない。政略結婚の目的はお飾りに過ぎないだろうが、いまの生活よりも辛くなるとは思えない。
……本当に、そうだろうか?
もし、冷酷将軍という噂が本当だとしたら、わたしは結婚と同時にむごい扱いを受けるかもしれない。いや、そもそも国同士の和平のための結婚なのだ。わたしなど、うまく利用されるだけで――そして用が済めば、簡単に捨てられる。
それでも、いいと思う。
この国でわたしが生きていても、何もいいことなどなかった。多少の教養と礼儀作法は身につけているものの、それは生きていくために最低限必要なスキルであり、父やビアンカのように誇らしげに振る舞えるほどの才覚はない。
……わたしは、ただ大人しく嫁ぐだけ。誰からも期待されていないし、わたし自身も何かを望むことはない。そう考えながら、廊下を歩いているうちに、少し胸が苦しくなる。
実際は、本当になにも期待していないわけではない。例えば「幸せになりたい」とか、「誰かに大切にされたい」とか――そんな願いを胸の奥底で捨てきれずにいるのだ。だが、父やビアンカからかけられた言葉が、その願いをいつも踏みにじってきた。
それでも、わたしは……。
わたしは、どうなるのだろう? 本当に、この結婚はわたしにとって救いとなるのか。それとも――。
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数日後。王宮で正式に、わたしの隣国への輿入れが発表された。
セレスティア王国の国王陛下は、政略結婚という形こそ取っているものの、いかにも「友好の象徴」を取り繕う形でわたしを祝福してくださった。もっとも、わたしの顔などほとんどご覧になっていないようだが。
そして驚いたことに、王宮のあちこちでビアンカとの噂が飛び交っていた。ビアンカが第二王子レナード殿下と急速に親密になっている、近々正式な婚約発表があるだろう――そんな話だ。わたしに対する視線は、さながら「捨て石」と言わんばかりの冷ややかなもの。
貴族令嬢たちの中には心底可哀想という顔をしている者もいたが、その実、胸の内では「敵国へ嫁ぐのは怖ろしいわね」とか「まあ彼女なら仕方ないかしら」とか、そんな意地悪な本音が見え隠れする。
しかしわたしは、そんな周囲の噂をどうでもいいと思えるほど達観していた。もし今回の縁談がなければ、いつまでもこの国で肩身の狭い思いをし続けるだけだったのだ。多少の辛いことがあっても、あの冷たく重苦しい屋敷から解放されるのなら――。
とはいえ、クラウス・フォン・グラナート将軍との初対面は、実際に隣国に赴いてからだという。普通ならば、両国のどこか中間地帯で顔合わせをするものだが、今回の停戦協定自体がかなり急ピッチで進められているため、なりゆきでそうなったらしい。
わたしとしては、相手の顔を知らないまま嫁ぐことに、不安がないわけではない。けれど、どうせ形だけの結婚。夫となる人が冷酷であろうが優しかろうが、わたしの運命は大きく変わらない。心をきちんと決めておけば、そう取り乱すことはない――そう自分に言い聞かせていた。
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出発前日。
わたしはようやく最低限の荷造りを終え、自室の椅子に腰かけてほっと息をついた。公爵家の長女でありながら、それほど多くの私物を持っていないことを改めて実感する。衣装らしい衣装もほとんどないし、宝飾品も妹に譲られてばかりで、わたし自身のものは寂しいほど少ない。
ドレスはビアンカの使い古しばかり。実はサイズが若干合わないものもあるが、仕方ない。わたしを送り出す気がないのかと思いきや、父は「早く荷造りしろ」と言うだけで、一向に支度金を出してくれようとはしない。
そんなわたしに対して、たったひとりだけ心配してくれる人がいる。使用人としてずっとわたしを世話してくれた侍女のラナだ。彼女はわたしの幼いころからの乳母であり、母のような存在だった。
「お嬢様……本当に隣国へ行かれるんですね。わたしはどうすれば……。お嬢様のそばに仕えたいと願っておりますが……」
「ラナ……ありがとう。でも、この輿入れは政略結婚。わたしは大した荷物も持たずに行くことになるし、あなたを連れて行くのは難しいと思う。――ごめんなさい」
ラナはわたしの言葉を聞いて、涙ぐんだ目を伏せた。
「そんな……お嬢様を、ひとりであんな恐ろしい国に送り出すなんて……。クラウス将軍は、酷い男だという噂で……」
「うん。噂は知ってる。でも、わたしなら大丈夫。……なにせ、父やビアンカにぞんざいに扱われるのは慣れているもの。少々のことではくじけないよ」
本音を言えば、心細い。けれど、ラナに心配ばかりかけるわけにはいかない。だからこそ、わたしはできるだけ穏やかな口調で微笑んだ。
「わたしは平気。ラナはこの国で、堂々と暮らして。……ビアンカの侍女になれとは言わないけど、父もあなたのことは重宝してるはず。大丈夫だよ、きっと」
「……お嬢様……」
ラナはそれ以上何も言わず、わたしの手を握りしめて離さなかった。その温もりと優しさが、幼いころから変わっていないことが、わたしはとても嬉しかった。
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そして、ついに出立の日の朝が訪れる。
屋敷の正面玄関には馬車が二台。わたしの乗る馬車と、随行役を務める騎士たちの乗る馬車が、一面の朝焼けに照らされている。荷運びの兵士たちが忙しなく動き、わたしのわずかながらの荷物を積み込んでいた。
そこに現れたのは、ビアンカと、彼女に寄り添うように立つレナード殿下――わたしの元婚約者だったはずの第二王子。その姿に、わたしの胸はほんの少しだけ痛んだ。以前は婚約者というだけで、それなりの情もあったのかもしれない。けれど今となっては、もう何も残ってはいない。
「おや、もう出立の準備をしているのか。エリシア、なかなか手際がいいな」
軽く手を振りながら近づいてくるレナード殿下は、美しい金髪に爽やかな青い瞳をもつ二十歳の青年だ。優しい笑顔を振りまく様子は相変わらずで、これが本来ならわたしの婚約者だったというのだから、運命の皮肉を感じる。
一方、ビアンカは殿下の腕にしっかりと腕を通し、わざとわたしのほうに視線を投げてきた。
「姉さま、わざわざ見送りに来てあげましたわ。そちらの馬車、ずいぶんと質素ではなくて? あぁ、それとも姉さまにはそんなもので十分なのかしら」
「出発前に嫌味を言いに来たの? ご丁寧にどうも」
わたしはできるだけ穏やかに返す。そこに、ひそやかに近づいてきた父の気配を感じた。振り返ると、いつも以上に難しい顔をしている父がいた。
「エリシア、これを渡しておく。……まあ、父としての形だけだがな」
そう言って差し出されたのは、小さな革袋だった。ずしりとした重みがある。中には、それほど多くはないが金貨が入っているようだ。父からこんなものを手渡されるのは、記憶にないほど珍しい。
「ありがとう、父様……」
「勘違いするな。これは国王陛下の手前、何も持たせずに送り出すのは公爵家の名に傷がつくからだ。お前のためではない」
父の厳しい声に、わたしはただ黙って頭を下げるしかない。ビアンカがすかさず冷笑する。
「ふふっ、姉さまならもっと見苦しく頼るかと思ったのに。少しは成長したのね」
「……もういいわ。わたしはこれで行くから、あなたたちもお幸せに」
そう言って、わたしは馬車へと足を進める。背後で殿下が「お元気で」と言い、ビアンカが「あら、ご忠告どうも」と言い放った。ああ、もう聞きたくもない。
わたしは馬車の扉を開け、中へと乗り込む。すると、侍女のラナがそっと顔を出してきた。
「お嬢様、本当に……本当にお気をつけて。何かあればすぐ手紙をください。わたしは――」
「ありがとう、ラナ。あなたの優しさ、忘れない」
わたしが微笑みかけると、ラナはこらえきれず泣きそうな表情になりながら、「ご無事をお祈りしております」と深々と頭を下げてくれた。
心が痛む。長年一緒にいてくれたラナを置いていくのはつらい。しかし、わたしがどうにかなるとしても、彼女を巻き込むわけにはいかない。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。わたしは最後に一度だけ屋敷を振り返る。そこには相変わらず尊大な態度で立ち尽くす父と、殿下に寄り添うビアンカの姿があるだけだ。
……もう、戻らなくてもいい。そう思うと、少しだけ解放感を感じる自分がいた。
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馬車の揺れは、決して楽とは言えない。けれど、わたしは想像していたよりは平静でいられた。
同乗しているのは、わたしと護衛役を務める騎士のひとり。彼は王国軍の若い騎士だが、口数が少なく、わたしにはあまり話しかけてこない。もともと任務で同行しているだけなのだし、無理に会話をする必要はないのだろう。
王都を出発してから二日ほどが過ぎ、風景は徐々に寂しい丘陵地帯へと変わっていった。あたりに民家はほとんどなく、道も粗くなって馬車が時折大きく揺れる。わたしは酔わないように窓の外を見続け、呼吸を整えながらなんとか耐えていた。
そんな折、馬車が急に止まり、御者が騎士たちに何か指示を飛ばしているのが聞こえてくる。何ごとかと思っていると、護衛の騎士が扉を開けて厳かな声で告げた。
「エリシア様、国境の関所に到着いたしました。ここから先は、グラナート帝国の領地となります」
「そう……わかりました」
国境の関所。わたしは生まれてこのかた、国境を越えたことなど一度もない。これが初めての海外への旅になるわけだ。
ドキドキするような、けれど不安のほうが大きい。
馬車を降りると、グラナート帝国の兵士らしき人たちがずらりと並んでいた。みな硬い表情で、わたしや騎士たちを警戒の目で見ている。うかつな行動をすれば、即座に矢を放たれそうな雰囲気だ。
そして、その中にひとりだけ、重厚な黒い外套を纏った大柄な男の姿があった。白銀の髪を短く刈り込み、その瞳は鋭い金色。あまりに鋭利な目つきで、わたしは思わず息をのむ。
噂に聞く「冷酷な将軍」、クラウス・フォン・グラナート――。わたしは、直感的にそう悟った。
緊張しながらも、わたしは騎士の助けを借りて彼の前に進み出た。すると、彼は静かに視線を下ろし、その厳つい面差しをわたしに向ける。
「――お初にお目にかかる。クラウス・フォン・グラナート公爵だ」
低く、よく通る声だった。それだけで、彼が並々ならぬ威厳を持っていることが伝わってくる。
わたしは見よう見まねで礼をして、かすれそうになる声をなんとか抑え込んだ。
「わたしは、セレスティア王国のルクセンベルク公爵家長女、エリシア・フォン・ルクセンベルクと申します。このたびは、停戦協定にかかわる政略結婚の話を承り――」
そこまで言ったところで、彼が手で制するように軽く片手を上げた。
「形式ばった挨拶は不要だ。……あちらから聞いている話と相違がなければ、お前は今日から俺の婚約者……いや、妻になる予定の女性だ。歓迎する」
その言葉に、わたしは少し驚いた。政略結婚とはいえ、こんなにもはっきり「歓迎する」と言われるとは思っていなかったからだ。
彼は肩にかかる外套を揺らしながら、後ろを振り返る。そこに控えていた部下のひとりが、小走りで彼のもとに近づき、何かを報告している。わたしはぼんやりとそのやり取りを見つめていた。
それが終わると、クラウスはわたしのほうへ向き直り、一瞬だけ険しかった表情を緩める。
「まぁ、道中は疲れただろう。ここからは俺の馬車に乗るといい。……お前たち護衛の騎士たちも、これより先は帝国の許可なく王国の軍服でうろつくことはできん。引き返してもらうしかないが、構わんか?」
その言葉に、王国の護衛騎士たちは戸惑いの色を見せた。まだエリシア様を帝国に引き渡してよいのかどうか――葛藤しているのだろう。だがこれは、両国間で決めた協定なのだ。彼らに拒否する権限はない。
「……わかりました。エリシア様、ご武運をお祈りしております」
騎士たちは、それぞれ名残惜しそうな目をわたしに向けて頭を下げる。それが国境での別れとなった。わたしはなんとも言えない心細さを覚えつつも、彼らに笑顔で答える。
「ここまで護衛をありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
こうしてわたしは、たったひとり、グラナート帝国側へ足を踏み入れた。国境の関所を越えれば、いよいよ敵国の地。それなのに、わたしはなぜか底知れぬ安堵を覚えている。
もう、セレスティアの国へは戻れない。けれど、それでいい。あの家にいるよりは、きっとマシ。
「おい、立ち尽くしていないでこっちへ来い」
そう言って、わたしを呼び寄せる声。振り向くと、クラウスが目で合図を送っている。彼のそばには、馬車が一台止まっていた。わたしが恐る恐る近づくと、彼はわたしが歩きやすいよう、少しばかり位置をずらしてくれる。
意外と紳士的な所作に、わたしは驚きを隠せない。冷酷将軍と聞いていたのに、こんなふうに女性を気遣うものなのだろうか。
「ありがとうございます……」
馬車は王国のものよりずっと頑丈そうで、車輪も大きい。内部も広いが、装飾は少なく質実剛健といった印象だ。乗り込む際、手を貸してくれたのはクラウス自身だった。大きく、男性的な手。それがわたしの手を包み込む瞬間、思わず心臓が高鳴った。
……どうしてだろう。怖さよりも、彼に対する強い好奇心と不思議な安堵感が入り混じっている。
「このまま帝都へ向かう。お前の話は……馬車の中でゆっくり聞かせてくれ」
「……わかりました」
わたしはそう返事をして、クラウスに続いて馬車へと入る。再び扉が閉まり、今度こそ本当にセレスティア王国を離れ、グラナート帝国へと向かうのだ。
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馬車はそれから四日ほどかけて走り続けた。その道中、わたしはクラウスといくつか言葉を交わす機会があった。もっとも、彼から問いかけられるのは簡単な身の上話ばかり。
「お前の家では、どのような暮らしをしていた?」
「……父と妹の下で、貴族として最低限の教養を身につけておりました。母は早くに亡くなって……」
わたしがそう答えると、彼は少し思案するように眉を動かす。
「……そうか」
その「そうか」の中に、どんな感情が込められているのかはわからない。でも、時折「お前はどうしてそんなに悲しそうな目をするのだ」と尋ねられることもあり、わたしは戸惑いながらも、何と答えればいいのか迷ってしまう。
「……父や妹とは、あまり上手くいっていませんでした。冷遇されていたというか……まぁ、よくある家族不和とでも思っていただければ」
「…………」
クラウスはそれ以上何も言わなかったが、彼の瞳が一瞬、不機嫌そうに光ったように思えた。わたしの勘違いかもしれない。
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そのまま数日を過ごし、ついに帝都グラナートが見えてきたとき、わたしの胸は高鳴りを隠せなかった。
高い城壁に囲まれた、威圧感すら覚える巨大な都。石造りの荘厳な建物が立ち並び、兵士があちこちを警備している。その様子は王都ルクス・ラグレードとは明らかに異なり、戦士の国としての面影が色濃い。
まるでわたしとは場違いな場所……だが、それでも不思議と心が弾むのはどうしてだろう。
馬車が城壁の門を通過すると、街中の大通りがまっすぐ先の宮殿へ続いているのが見えた。沿道には露店や商人がずらりと並び、民族衣装のような派手な布を纏った人々が行き交う。活気に満ちた声が馬車の中にまで聞こえてきて、セレスティアとはまた違った文化があることがうかがえる。
「お前が暮らすことになる屋敷は、宮殿から少し離れた場所にある。俺の家だ。公爵の地位を与えられてはいるが、先祖代々、軍務に重きを置いている家系だ。あまり華やかな暮らしは望めないかもしれない」
「いえ、わたしにとっては、そんなことはどうでもいいです」
わたしが素直に答えると、クラウスはわずかに目を細めた。
「……どうでもいい、とは?」
「その……わたしは、貴族として華やかな暮らしをしたことなどありませんでした。ですから、贅沢は望んでいません。むしろ、普通に扱っていただけるだけでありがたいくらいです」
その言葉が、どんなふうに彼に受け止められたのかはわからない。けれど、クラウスはしばし沈黙した後、小さく息を吐いた。
「お前は……本当に、不思議な女だな。貴族令嬢というよりは、もっとこう……自分を蔑ろにしているように見える」
「……そう見えますか。……そうですね、たしかに自分に価値があるとは思えませんから」
「なるほど。……まぁ、ゆっくり休め。すぐに屋敷へ着く。そこに着いたら、改めてお前を歓迎しよう」
その言葉を聞いたとき、わたしはなぜか胸がチクチクと痛んだ。歓迎される――その言葉が、わたしにはとてもまぶしく感じられたのだ。あの家では決して言ってもらえない言葉。欲しくても得られなかった愛情。
けれど、わたしはそれを表に出すことなく、ただ「ありがとうございます」とつぶやくにとどめた。
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馬車が公爵家の屋敷に到着すると、門の前には数人の使用人らしき人々が整列して待っていた。クラウスが扉を開けて先に降り、わたしに手を差し伸べる。恐る恐るその手を取って地面に降り立つと、使用人たちは一斉に頭を下げた。
「クラウス様、お帰りなさいませ」
「お疲れ様でございました、将軍閣下」
どの声も、敬意というより畏れにも似た響きが混ざっている。やはり彼は、この国で相当の地位と権威を有しているのだろう。
わたしの姿を見ると、使用人たちは小さく息をのんだようだった。わたしがセレスティア王国から来た、いわば「和平の道具」にすぎない存在であることは、もうすでに知られているのかもしれない。
「こいつがエリシアだ。……お前たち、丁重にもてなせ。あまり過度な装飾や儀礼は好まぬようだから、最低限のことだけでいい」
「はっ、承知いたしました」
クラウスはそれだけ言うと、わたしを振り返り、さりげなく言葉をつけ足す。
「この屋敷では、お前は俺の妻――近々正式に迎える身として扱われる。身分は俺と同等……いや、俺に次ぐ立場だ。何か不都合があれば遠慮なく言え」
わたしの胸は、その言葉でさらに大きく動揺した。だって、わたしはただの政略結婚の道具だ。そんなわたしを、彼は正式に妻として迎える気なのだろうか。本当に……?
思わず上目遣いに彼の表情をうかがうが、そこにはいつもの厳めしい顔があるだけで、真意は読めない。
「……はい。ありがとうございます」
使用人たちに案内され、わたしは屋敷の中へ入る。内部は外観以上に広く、足音が高く響く廊下が何本も伸びていた。飾られている美術品や甲冑が、グラナート帝国独特の様式らしく、ところどころに獅子や竜を象った意匠がある。
わたしは途中で部屋をいくつも見せられ、最後に案内されたのは奥まった場所にある客室だった。いや、客室というよりは完全に寝室だ。大きなベッドに、厚手のカーテン。椅子やテーブルもあり、その一角には洗面台まで備わっている。
「しばらくは、こちらでお休みください。何かご要望がございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
そう言って、世話役とおぼしき中年の女性が優しく微笑む。わたしもぎこちなく微笑み返し、「ありがとうございます」と伝える。すると、彼女は布団を整えながら言葉を続けた。
「エリシア様、長旅でお疲れでしょう。帝都に着くまでの道は荒れていますし、まずはごゆっくり休んでくださいませ。もしお食事などの用意が必要でしたら、声をかけてくだされば、こちらでご用意しますので」
「はい、そうさせていただきます。……助かります」
そう言ったものの、わたしにはまだまだ気が張っていて、とてもすぐに眠れる状態ではない。ベッドのふかふかの感触に腰を下ろしてみるが、旅の疲労と緊張感が入り混じり、頭が混乱している。
政略結婚で来たはずなのに、クラウスはわたしをこれほどまでに丁重に迎え入れようとしている。いったいどういうつもりなのだろう。わたしに隙があれば、すぐにでも蔑ろにされるのではないか、なんて思っていたが、そのような様子は少しも見られない。
むしろ、「お前は大切にされるべき存在だ」と言わんばかりの扱い。わたしは、一体どう反応すればいいのか。
「エリシア、お前は今、自由だ」
――ふと、そんな声が頭の中で響いた気がした。
今まで、公爵家のしがらみの中で生きてきたわたし。愛されることのない居場所に縛られていたわたし。
でも、ここでは……。
わたしは、誰にも強制されず、ただ夫となる人(まだ形式的だが)が与えてくれる保護のもとで新しい生活を始められるのではないか。
それが、どれほど幸せなことか、わたしにはまだ実感がわかない。
けれど……もし、この場所でわたしが本当に求められるのなら。もし、クラウスがわたしに優しさを向けてくれるのなら。
――そんな夢のような話を、少しだけ期待してしまうのは、いけないことだろうか。
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わたしがしばらく部屋でぼんやりと考えごとをしていると、控えめなノックの音が聞こえた。
「失礼します。……エリシア様、クラウス様がお呼びです。夕餉の前に、少しお話がしたいとおっしゃっております」
「……わかりました。今行きます」
わたしは音もなく立ち上がり、洗面台で身だしなみを整える。鏡には、慣れない地に来たせいでやや疲れた顔の自分が映っている。でも、せめて髪を整え、服の皺を伸ばしてから行こう。
案内されたのは、屋敷の中庭に面した一室。大きな窓から夕焼けの名残が差し込み、室内を赤く染め上げていた。
そこに立っていたのは、もちろんクラウス。外套を脱ぎ、襟元を少し緩めた姿は、昼間の厳つい印象とはどこか異なる。わたしが戸口で一礼すると、彼は椅子を勧めてきた。
「座れ。……疲れているところを呼び出してすまない。けれど、今のうちに聞いておきたいことがある」
「いえ、お気になさらず……。わたしでお力になれることでしたら、なんでも」
そう言いながら、わたしは少し身構える。いよいよ本題――政略結婚の話。どこまでの条件を飲めという話になるのだろう。わたしの任務は和平の象徴としてここにいることだ。下手に逆らえば、セレスティア王国側に迷惑をかけるかもしれない。
けれど、クラウスはそんなわたしの思惑など知ってか知らずか、シンプルに口を開く。
「……まず、お前の国での生活について、少し詳しく教えてくれないか? 父や妹が……どうだったのか。お前の表情を見ていると、どうにも普通の家族関係には思えないからな」
「え……それは、どうして、そんなことを?」
「俺は、お前のことを知りたい。それだけだ」
わたしのことを、知りたい――。
言われた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。これまでの人生で、わたしの事情に真剣に興味を持ってくれた人などいなかったのだ。ラナを除けば、誰もがわたしを放置し、見下し、冷遇してきた。
だから、その言葉が嘘であったとしても、わたしには甘美な響きに感じられる。
「……あまり、面白い話ではありません。それでもよろしいのですか?」
「ああ」
「……わたしは、母を失ってからずっと、父や妹に疎まれていました。いえ、正確には父が妹を溺愛するあまり、わたしを邪険にした、といったほうが近いかもしれません。ビアンカは優秀で、美しく、父の誇りでしたから……わたしはそれに比べて何もかもが劣っていると言われて育ちました」
一度口を開くと、まるで決壊したように言葉があふれ出す。自分でも驚くほど、ぽろぽろと本音が漏れてしまう。ずっと押し殺していた感情が、表に現れているのがわかった。
「……馬鹿にされ、婚約者だった第二王子の殿下も、結局は妹に興味を移して。わたしはただ、この家から出たい、と願っていました。だから、今回の政略結婚の話を聞いたとき、すこしほっとしてしまったんです。おかしいですよね、普通なら……怖いと思うはずなのに」
「……そう、か」
クラウスは真剣な表情で、わたしの話を聞いている。時折、「許せんな」と低く呟くように唇を動かすのが見えた。
「……だから、わたしは何も望みません。あなたがた帝国の役に立つのなら、それで構わないんです。わたしなど、飾りにでも何にでもお好きに使っていただければ……」
そう言った瞬間、クラウスが拳を握りこんだのがわかった。彼は鋭い視線をわたしに向け、低く怒気を含んだ声を出す。
「……お前、そんなにも自分を大事に思えないのか?」
「大事……? わたしは……そんな、存在じゃ……」
「ふざけるな。お前は人間だ。道具ではない。ましてや、この俺の妻になる女だぞ? そんな言い方をするな」
彼の言葉に、わたしは息をのむ。まさか、冷酷将軍と名高い男が、こんなにもはっきりと、わたしを“妻”として扱おうとするなんて。
熱いものが込み上げてきて、わたしは思わず目を伏せた。声が震えてしまいそうだからだ。
「……信じられない。あなたがわたしを、妻として……そんな……」
「信じられなくて結構だ。だが、事実だ。お前は俺の妻となる。それは政略結婚だろうがなんだろうが、変わらん」
その声はまるで、わたしの中にある不安を打ち砕くかのように力強い。戸惑いと驚きが入り混じったわたしの表情を見て、クラウスは少しだけ口元を緩めた。
「……すまん。少し感情的になったな。お前が自分を大切に思えないほど、ひどい扱いを受けてきたのだろう。その分も含めて、これからお前には幸せを教えてやる。――そう考えてはいけないか?」
その言葉に、わたしは涙が溢れそうになり、必死にそれをこらえる。ああ、なんて人なんだろう。冷酷将軍と怖れられながら、なぜこんなにも優しい言葉をかけてくれるのか。
わたしは思わず視線をそらし、わずかに震える声で答えた。
「……あなたのほうこそ、そんなことをして……メリットがあるんですか? わたしは価値のない娘です。愛しても得られるものなど何もないですよ」
「それは、俺が決めることだ。お前が自分をどう思っていようが、俺はお前を妻にする。それだけのことだ」
まっすぐな瞳。強い意志に満ちた言葉。
……わたしは、どうしてこんなにも胸を突き動かされるのだろう。彼の言葉に嘘は感じられない。むしろ、怒りすら帯びていたのは、わたしが自分を卑下しすぎるからだろうか。
そんな気持ちを抱えたまま、わたしは深くうなずくしかできなかった。
「……わかりました。もし、それがあなたのお望みならば、わたしは……」
「うん。それでいい。……夕餉の用意がそろそろできるはずだ。お前はこのあと風呂で汗を流してからでもいいし、食堂に来てくれ。……わからんことがあれば使用人に聞け」
「わかりました。……ありがとうございます」
もう、それしか言えなかった。わたしの感情はすでにぐちゃぐちゃで、何をどう表現すればいいのかがわからない。ただ、わたしの目元を覗き込んだクラウスが、少しだけ慈しむようにわたしの頬を撫でてくれた気がして――その瞬間、涙がこぼれそうになるのをこらえて、わたしは慌てて俯いた。
---
部屋に戻り、わたしは用意された湯にゆっくりと浸かった。温かい湯が体を包み込み、何日もの旅の疲れを溶かしてくれる。とはいえ、疲れは肉体だけではない。わたしの心はいま、混乱と不思議な高揚感に揺れ動いている。
ずっと、誰かに求められたいと望んでいた。だけど、求められるはずなどないと思っていた。
クラウスは、わたしのそんな思いをまるで見透かすかのように「お前は大切だ」と言ってくれる。こんな夢みたいな言葉を簡単に信じていいのだろうか。きっと、彼には彼の考えがある。わたしが思うほど単純な話ではないかもしれない。
それでも――ほんの少しだけ、その言葉を信じてもいいだろうか。
「わたし……どうしよう」
湯気の立ちこめる浴場で、ひとりつぶやく。返事はない。でも、心の中にほんの小さな希望の灯が点りはじめているのを感じる。
……もし、この家で、わたしが幸せを掴むことができるのなら――。
そう考えるだけで、胸が熱くなった。
---
そして、わたしは気持ちを落ち着かせるために時間をかけて湯から上がり、用意されていた衣服に着替える。といっても、わたしが持ってきたドレスはほとんどが旧いものばかりで、サイズも合っていない。そんなわたしの事情を知ってか、使用人が「こちらで仕立てさせていただいた簡易なドレスがございます」と出してくれた。
それは上質な布でできた落ち着いた色合いのドレスだった。華美というわけではないが、肌触りがよく、とても着やすい。わたしが鏡の前でそっと身を整えると、いつもより上品に見える気がした。
「……似合っている、かな」
誰もいない部屋でそう呟き、自嘲気味に笑う。これまで鏡を見るたびに「自分は妹より劣っている」と思ってきたけれど、いまは少しだけ自信を持ってもいいのかもしれない。
使用人に案内され、食堂へと向かうと、そこにはすでにクラウスの姿があった。彼はテーブルの上に置かれた書類に目を通していたが、わたしの足音に気づくと顔を上げて、その金色の瞳でわたしを捉える。
「……来たか。疲れはとれたか?」
「はい。お陰さまで、すっかり……」
彼はゆっくりとわたしを眺め、わずかに口元をほころばせた。
「そのドレス、よく似合っているな。……なんだ、その顔は」
「い、いえ……こんなに褒めていただいたことがないので、少し戸惑っているだけです」
わたしが頬を染めて正直にそう言うと、彼は「ああ、そうか」と納得したように何度か頷いた。そして椅子を引き、わたしに座るよう促してくれる。
夕餉のメニューは、帝国風のスープや肉料理が中心だった。スパイスの効いた香りが食欲をそそり、見た目よりはるかにあっさりとした味付けに感じる。わたしは「おいしい」と素直に言葉にしていた。すると、クラウスが小さくうなずく。
「そうか。お前に合っているならいい。……この国の料理は、馴染みがないと多少癖があるからな」
「ええ、でもとても気に入りました。ありがとうございます」
食事中、わたしが素直においしさを表すと、彼はなぜか微笑ましそうにわたしを見つめる。少し恥ずかしいが、嫌な感じはしない。むしろ、体の奥にほんのりとした温かさが広がっていく。
こんな穏やかな夕食を、わたしはいつぶりに味わったのだろう。少なくとも、公爵家でこんな温かな空気を感じることはなかった。
「エリシア、これからのことだが……近々、俺の上司でもある皇帝陛下に、お前を正式に紹介する場を設けたいと考えている。政略結婚の一環とはいえ、お前は俺の妻になるのだから、陛下へのお披露目は必要だ」
「皇帝陛下に……」
思わず息をのむ。グラナート帝国の皇帝といえば、かなり威厳のある人物だと聞いている。そんなお方に謁見するなんて、わたしには恐れ多い話だ。
けれど、クラウスは淡々と続ける。
「心配するな。俺がついている。お前が失礼をしないよう、儀礼の作法は教えるし、侍女もきちんとつける。……どのみち、大きな儀式や行事になるわけじゃない。ただの顔合わせ程度だと思っておけばいい」
「はい。……よろしくお願いします」
正直、不安だ。だけど、クラウスがここまで言ってくれるのだから、わたしも心配しすぎないようにしよう。
わたしがそう心に決めたとき、彼はグラスに入った水を一口飲み、静かに口を開いた。
「お前がここへ来てくれたことを、俺は感謝している。……政略結婚とはいえ、お前がいなければ、この停戦協定は不安定なままだ。俺にとっても、国にとっても、大きな意味がある」
「そんな……わたしは、ただ言われるままに来ただけで――」
「それでいい。お前には、お前なりの理由があって、ここへ来たのだろう。……少なくとも、俺はこの結婚を大切にしたいと思っている。それが、お前にとって悪い話じゃないことを願うよ」
その言葉に、わたしは戸惑いながらも小さく首を振った。
「悪い話だなんて……わたしにとっては、救いのようなものです。まだ上手く言葉にできませんが……クラウス様が優しくしてくださることが、不思議で、嬉しくて……」
そう言いながら、わたしは目が潤んでいるのを感じる。自分の言葉が、こんなにも素直に出てきたのは初めてかもしれない。クラウスはわたしの様子を見て、小さく息をつくと、どこか照れくさそうに目をそらした。
「……俺は、お前が望むならどんなことでもしてやる。お前が今まで望んでこなかった分も、これから望んでくれ。……それが俺の喜びになるだろうからな」
その言葉がわたしの胸を強く揺さぶる。彼は、わたしに何を求めているのか。どうして、そんなにも……。
だけど、わたしにはまだ何もわからない。ただ、ひとつだけはっきりしているのは、わたしがここに来たことは間違いではなかったということだ。わずか数日で、こんなにも心が救われる思いをするのだから。
いくつかの料理を平らげ、食事が終わるころには、すっかり夜も更けていた。わたしは部屋へ戻り、深い疲れを感じながらも、心のどこかが軽くなっているのを実感する。
ベッドに横になると、薄明かりのランプが天井をぼんやりと照らしていた。シーツの感触が心地いい。瞼がだんだん重くなるのを感じるが、わたしの頭の中にはクラウスの言葉が何度も反芻している。
「……お前は、人間だ。道具ではない」
――そうか、わたしはただの道具なんかじゃない。もし、あの人がそう言ってくれるのなら――わたしは、自分を少しは信じてみてもいいのだろうか。
そう思った瞬間、涙がすっとこぼれた。声も出さずに、枕にこぼれ落ちる涙。それは悲しみの涙であり、同時に救われたいという希望の涙だった。
わたしは何度か深呼吸をして、静かに目を閉じる。いつの間にか、柔らかな眠りが訪れ、わたしの意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
――こうして始まった、わたしの「政略結婚の道行き」。
だが、これは序章にすぎない。これからわたしが知ることになるのは、グラナート帝国が誇る将軍クラウス・フォン・グラナートの、恐ろしくも優しい「本当の姿」。
わたしを利用するだけだと思っていた相手は、まるでわたしを溺愛しているかのように手を差し伸べてくる。さらに、セレスティア王国ではわたしを冷遇していた実家が、後に思わぬ形で関わってくるなんて――このときのわたしには知る由もなかった。
だけど、少なくとも今は、安らかな寝息を立てながら、わたしは知らぬ間に微笑んでいる。
ここが、わたしの人生の転機になるかもしれない。それだけは、確かなことだった。
……と書けば、いかにも華々しい立場に思えるかもしれない。けれども、実際のわたしはそんな輝かしいものとは程遠い。父であるルクセンベルク公爵――アドルフ・フォン・ルクセンベルクは、わたしを実の娘とは思えないほど冷淡に扱い、次女である妹ビアンカばかりを溺愛している。
その理由を、わたしははっきりとは知らない。母は、わたしを生んだあと間もなくこの世を去った。父にとって最愛の妻を失った悲しみをわたしにぶつけているのか、それとも単に母を失った娘を厄介者と見なしているのか。わからない。けれど、幼いころからかけられた言葉は「お前には何の価値もない」「ビアンカを見習え」というものばかりだった。
大きな窓の外、王都の朝はいつも穏やかだ。美しく磨かれた中庭には噴水があり、通りからは観光客の楽しげな笑い声がかすかに届く。けれども、わたしにはこの屋敷が、まるで檻のように感じられて仕方がない。
そんなわたしが十七歳になったある日。唐突に父から呼び出され、書斎へと足を運ぶことになった。普段ならば使用人を通じて「来い」と一言あるだけなのに、その日は珍しくビアンカも同席している。きらびやかなティーカップで紅茶を飲む妹は、すでにこの国の貴婦人たちの間で「次期公爵家当主になるのでは」と噂されているほど有能で、そして美しい。
豊かな金の髪に、色彩の鮮やかなグリーンの瞳。上等なドレスの胸元には、小粒の宝石がさりげなく揺れている。わたしがそっと挨拶すると、ビアンカは涼やかな表情のまま、どこか見下すように鼻を鳴らした。
「呼びましたか、父様」
「……ああ、エリシアか」
父は机に肘をつき、鼻眼鏡の奥から冷たくわたしを見つめる。彼の視線には、いつものとおりの嫌悪と苛立ちが混ざっていた。
「お前を呼んだのはほかでもない。……今日、王宮から第二王子殿下の正式な使者がいらした」
「第二王子、レナード殿下の……ですか?」
第二王子のレナード殿下といえば、かつてはわたしの婚約者だった人だ。とはいえ、それは口約束程度のもので、しかもビアンカが十歳になったころから状況は一変した。いつの間にかレナード殿下はビアンカに興味を示し、わたしとの縁談は立ち消えになったのである。
それからは、王宮や上流社会ではビアンカこそが「未来の王妃候補」にふさわしいと目されていた。そんな中で突然、第二王子の名前が出てくるとは。
「ひょっとして、もうわたしと縁を結ぶことはやめていると思っていましたが……何か、改めて話があるのでしょうか」
「ああ、まぁ……そういう話ではない」
父はふいっと視線をそらし、言いにくそうに言葉を濁す。するとビアンカが代わりに楽しげな声で口を開いた。
「姉さま、あなたには少しショックかもしれませんわね。実は先日、わたくし……レナード殿下との婚約がほぼ正式に決まりかけておりますの。つまり、姉さまと殿下の旧い縁談は完全に破棄というわけでして」
「……そう、ですか」
正直、わたしはショックを受けるどころか、ほっとしている自分に気づいていた。名ばかりの婚約だったとはいえ、ビアンカのように愛されているわけでもないわたしが、王家に嫁いだところで幸せになれるはずなどない。
ビアンカはあからさまに勝ち誇った表情を浮かべ、わたしの様子をうかがうように微笑んだ。しかし、わたしが何ら動揺の色を見せなかったので、つまらなさそうに口をすぼめる。
それを見て、わたしは彼女のことを心底、哀れだと思った。自分が優位に立っていることを示すために、常にわたしを見下し、勝ち誇らなければ気が済まないのだろう。
「それで――」
ビアンカが紅茶を一口飲んだあと、興味深げに続ける。
「父様、それで姉さまにはどんな話があるの? わざわざ呼んだところをみると、よほどのことかしら」
「まあな。……エリシア、お前に隣国への輿入れが決まった。数日後には国王陛下の名のもと、正式に発表されるだろう」
隣国――グラナート帝国。わたしたちのセレスティア王国とは長らく戦争状態にあった国だ。ようやくここ数年で停戦協定の話し合いが進んではいるが、油断ならない相手であることは変わらない。そんな国へ嫁ぐ? それも、わたしが?
「……どういう、ことですか。それはつまり、政略結婚ということでしょうか」
「そういうことだ。今回の停戦協定には、お互いの人質交換も含まれている。グラナート帝国側は、『冷酷な将軍』と呼ばれるクラウス・フォン・グラナート公爵を差し出してきた。実質的には、あちらも“自国内で一番都合のいい男”という認識で動いているらしいが……とにかく、こちらとしては適当な貴族の娘を嫁がせることが条件なんだ」
冷酷な将軍クラウス・フォン・グラナート。その名はわたしですら耳にしたことがある。グラナート帝国の若き将軍であり、無慈悲な戦場指揮によって数多くの勝利をもたらしてきた男――という悪名を持っている。
そんな人物に、わたしは嫁ぐのか? わたしはただ、呆然とするしかなかった。するとビアンカが楽しそうにクスクス笑いだす。
「まぁ! 姉さま、クラウス将軍の名は聞いたことがあるでしょう? たしかに非常に優秀だけれど、その冷酷さから周囲に恐れられているとか。しかも政略結婚ですもの。姉さまは向こうの国で上手くやれるのかしら?」
「……」
「ま、適当に嫁がされて、すぐに離縁でもされるんじゃない? 可哀想にね。まぁでも、そのほうが姉さまにとっては幸せかもしれませんわ。だって、この国で居場所がないのでしょう?」
ひどく嘲りに満ちた物言いだった。それでも、わたしの心はどこか奇妙な落ち着きを保っている。確かに、わたしにはこの屋敷での居場所などない。むしろ、強引に政略結婚を命じられたところで、驚きや悲しみよりも先に、「やっと自由になれるかもしれない」という安堵のような感情が湧いてきた。
「……承知しました」
わたしが淡々と返事をした瞬間、父とビアンカは意外そうに顔を見合わせた。どうやら「嫌だ」と叫ぶか、「そんなのはお断り」と駄々をこねることを期待していたのかもしれない。
「お前、ほんとうに構わないのか? その男は他国でも悪名高い将軍だ。正直なところ、お前などすぐに用済みにされるかもしれんのだぞ」
「ええ、わたしがどうなろうと構わないでしょう? 父様もずっと、わたしをお邪魔虫としか考えていなかったのですから」
父はわずかに眉をひそめたが、すぐにまた冷たい表情へと戻った。ビアンカは唇に指を当て、何かを思案するようにわたしを見つめている。
「好きにしろ。ただし、国王陛下の勅命である以上、嫌だと言っても許される話ではない。――数日後、正式に発表があったら、お前は早急に支度を整えろ」
「了解しました」
わたしはそれだけ言うと、深く頭を下げ、部屋を後にした。部屋の外へ出てから、重い扉が閉じる音を聞き、ようやくわたしは息を吐く。
嫌な空気だった。だが、そうだとしても――この家から出られるかもしれない。政略結婚の目的はお飾りに過ぎないだろうが、いまの生活よりも辛くなるとは思えない。
……本当に、そうだろうか?
もし、冷酷将軍という噂が本当だとしたら、わたしは結婚と同時にむごい扱いを受けるかもしれない。いや、そもそも国同士の和平のための結婚なのだ。わたしなど、うまく利用されるだけで――そして用が済めば、簡単に捨てられる。
それでも、いいと思う。
この国でわたしが生きていても、何もいいことなどなかった。多少の教養と礼儀作法は身につけているものの、それは生きていくために最低限必要なスキルであり、父やビアンカのように誇らしげに振る舞えるほどの才覚はない。
……わたしは、ただ大人しく嫁ぐだけ。誰からも期待されていないし、わたし自身も何かを望むことはない。そう考えながら、廊下を歩いているうちに、少し胸が苦しくなる。
実際は、本当になにも期待していないわけではない。例えば「幸せになりたい」とか、「誰かに大切にされたい」とか――そんな願いを胸の奥底で捨てきれずにいるのだ。だが、父やビアンカからかけられた言葉が、その願いをいつも踏みにじってきた。
それでも、わたしは……。
わたしは、どうなるのだろう? 本当に、この結婚はわたしにとって救いとなるのか。それとも――。
---
数日後。王宮で正式に、わたしの隣国への輿入れが発表された。
セレスティア王国の国王陛下は、政略結婚という形こそ取っているものの、いかにも「友好の象徴」を取り繕う形でわたしを祝福してくださった。もっとも、わたしの顔などほとんどご覧になっていないようだが。
そして驚いたことに、王宮のあちこちでビアンカとの噂が飛び交っていた。ビアンカが第二王子レナード殿下と急速に親密になっている、近々正式な婚約発表があるだろう――そんな話だ。わたしに対する視線は、さながら「捨て石」と言わんばかりの冷ややかなもの。
貴族令嬢たちの中には心底可哀想という顔をしている者もいたが、その実、胸の内では「敵国へ嫁ぐのは怖ろしいわね」とか「まあ彼女なら仕方ないかしら」とか、そんな意地悪な本音が見え隠れする。
しかしわたしは、そんな周囲の噂をどうでもいいと思えるほど達観していた。もし今回の縁談がなければ、いつまでもこの国で肩身の狭い思いをし続けるだけだったのだ。多少の辛いことがあっても、あの冷たく重苦しい屋敷から解放されるのなら――。
とはいえ、クラウス・フォン・グラナート将軍との初対面は、実際に隣国に赴いてからだという。普通ならば、両国のどこか中間地帯で顔合わせをするものだが、今回の停戦協定自体がかなり急ピッチで進められているため、なりゆきでそうなったらしい。
わたしとしては、相手の顔を知らないまま嫁ぐことに、不安がないわけではない。けれど、どうせ形だけの結婚。夫となる人が冷酷であろうが優しかろうが、わたしの運命は大きく変わらない。心をきちんと決めておけば、そう取り乱すことはない――そう自分に言い聞かせていた。
---
出発前日。
わたしはようやく最低限の荷造りを終え、自室の椅子に腰かけてほっと息をついた。公爵家の長女でありながら、それほど多くの私物を持っていないことを改めて実感する。衣装らしい衣装もほとんどないし、宝飾品も妹に譲られてばかりで、わたし自身のものは寂しいほど少ない。
ドレスはビアンカの使い古しばかり。実はサイズが若干合わないものもあるが、仕方ない。わたしを送り出す気がないのかと思いきや、父は「早く荷造りしろ」と言うだけで、一向に支度金を出してくれようとはしない。
そんなわたしに対して、たったひとりだけ心配してくれる人がいる。使用人としてずっとわたしを世話してくれた侍女のラナだ。彼女はわたしの幼いころからの乳母であり、母のような存在だった。
「お嬢様……本当に隣国へ行かれるんですね。わたしはどうすれば……。お嬢様のそばに仕えたいと願っておりますが……」
「ラナ……ありがとう。でも、この輿入れは政略結婚。わたしは大した荷物も持たずに行くことになるし、あなたを連れて行くのは難しいと思う。――ごめんなさい」
ラナはわたしの言葉を聞いて、涙ぐんだ目を伏せた。
「そんな……お嬢様を、ひとりであんな恐ろしい国に送り出すなんて……。クラウス将軍は、酷い男だという噂で……」
「うん。噂は知ってる。でも、わたしなら大丈夫。……なにせ、父やビアンカにぞんざいに扱われるのは慣れているもの。少々のことではくじけないよ」
本音を言えば、心細い。けれど、ラナに心配ばかりかけるわけにはいかない。だからこそ、わたしはできるだけ穏やかな口調で微笑んだ。
「わたしは平気。ラナはこの国で、堂々と暮らして。……ビアンカの侍女になれとは言わないけど、父もあなたのことは重宝してるはず。大丈夫だよ、きっと」
「……お嬢様……」
ラナはそれ以上何も言わず、わたしの手を握りしめて離さなかった。その温もりと優しさが、幼いころから変わっていないことが、わたしはとても嬉しかった。
---
そして、ついに出立の日の朝が訪れる。
屋敷の正面玄関には馬車が二台。わたしの乗る馬車と、随行役を務める騎士たちの乗る馬車が、一面の朝焼けに照らされている。荷運びの兵士たちが忙しなく動き、わたしのわずかながらの荷物を積み込んでいた。
そこに現れたのは、ビアンカと、彼女に寄り添うように立つレナード殿下――わたしの元婚約者だったはずの第二王子。その姿に、わたしの胸はほんの少しだけ痛んだ。以前は婚約者というだけで、それなりの情もあったのかもしれない。けれど今となっては、もう何も残ってはいない。
「おや、もう出立の準備をしているのか。エリシア、なかなか手際がいいな」
軽く手を振りながら近づいてくるレナード殿下は、美しい金髪に爽やかな青い瞳をもつ二十歳の青年だ。優しい笑顔を振りまく様子は相変わらずで、これが本来ならわたしの婚約者だったというのだから、運命の皮肉を感じる。
一方、ビアンカは殿下の腕にしっかりと腕を通し、わざとわたしのほうに視線を投げてきた。
「姉さま、わざわざ見送りに来てあげましたわ。そちらの馬車、ずいぶんと質素ではなくて? あぁ、それとも姉さまにはそんなもので十分なのかしら」
「出発前に嫌味を言いに来たの? ご丁寧にどうも」
わたしはできるだけ穏やかに返す。そこに、ひそやかに近づいてきた父の気配を感じた。振り返ると、いつも以上に難しい顔をしている父がいた。
「エリシア、これを渡しておく。……まあ、父としての形だけだがな」
そう言って差し出されたのは、小さな革袋だった。ずしりとした重みがある。中には、それほど多くはないが金貨が入っているようだ。父からこんなものを手渡されるのは、記憶にないほど珍しい。
「ありがとう、父様……」
「勘違いするな。これは国王陛下の手前、何も持たせずに送り出すのは公爵家の名に傷がつくからだ。お前のためではない」
父の厳しい声に、わたしはただ黙って頭を下げるしかない。ビアンカがすかさず冷笑する。
「ふふっ、姉さまならもっと見苦しく頼るかと思ったのに。少しは成長したのね」
「……もういいわ。わたしはこれで行くから、あなたたちもお幸せに」
そう言って、わたしは馬車へと足を進める。背後で殿下が「お元気で」と言い、ビアンカが「あら、ご忠告どうも」と言い放った。ああ、もう聞きたくもない。
わたしは馬車の扉を開け、中へと乗り込む。すると、侍女のラナがそっと顔を出してきた。
「お嬢様、本当に……本当にお気をつけて。何かあればすぐ手紙をください。わたしは――」
「ありがとう、ラナ。あなたの優しさ、忘れない」
わたしが微笑みかけると、ラナはこらえきれず泣きそうな表情になりながら、「ご無事をお祈りしております」と深々と頭を下げてくれた。
心が痛む。長年一緒にいてくれたラナを置いていくのはつらい。しかし、わたしがどうにかなるとしても、彼女を巻き込むわけにはいかない。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。わたしは最後に一度だけ屋敷を振り返る。そこには相変わらず尊大な態度で立ち尽くす父と、殿下に寄り添うビアンカの姿があるだけだ。
……もう、戻らなくてもいい。そう思うと、少しだけ解放感を感じる自分がいた。
---
馬車の揺れは、決して楽とは言えない。けれど、わたしは想像していたよりは平静でいられた。
同乗しているのは、わたしと護衛役を務める騎士のひとり。彼は王国軍の若い騎士だが、口数が少なく、わたしにはあまり話しかけてこない。もともと任務で同行しているだけなのだし、無理に会話をする必要はないのだろう。
王都を出発してから二日ほどが過ぎ、風景は徐々に寂しい丘陵地帯へと変わっていった。あたりに民家はほとんどなく、道も粗くなって馬車が時折大きく揺れる。わたしは酔わないように窓の外を見続け、呼吸を整えながらなんとか耐えていた。
そんな折、馬車が急に止まり、御者が騎士たちに何か指示を飛ばしているのが聞こえてくる。何ごとかと思っていると、護衛の騎士が扉を開けて厳かな声で告げた。
「エリシア様、国境の関所に到着いたしました。ここから先は、グラナート帝国の領地となります」
「そう……わかりました」
国境の関所。わたしは生まれてこのかた、国境を越えたことなど一度もない。これが初めての海外への旅になるわけだ。
ドキドキするような、けれど不安のほうが大きい。
馬車を降りると、グラナート帝国の兵士らしき人たちがずらりと並んでいた。みな硬い表情で、わたしや騎士たちを警戒の目で見ている。うかつな行動をすれば、即座に矢を放たれそうな雰囲気だ。
そして、その中にひとりだけ、重厚な黒い外套を纏った大柄な男の姿があった。白銀の髪を短く刈り込み、その瞳は鋭い金色。あまりに鋭利な目つきで、わたしは思わず息をのむ。
噂に聞く「冷酷な将軍」、クラウス・フォン・グラナート――。わたしは、直感的にそう悟った。
緊張しながらも、わたしは騎士の助けを借りて彼の前に進み出た。すると、彼は静かに視線を下ろし、その厳つい面差しをわたしに向ける。
「――お初にお目にかかる。クラウス・フォン・グラナート公爵だ」
低く、よく通る声だった。それだけで、彼が並々ならぬ威厳を持っていることが伝わってくる。
わたしは見よう見まねで礼をして、かすれそうになる声をなんとか抑え込んだ。
「わたしは、セレスティア王国のルクセンベルク公爵家長女、エリシア・フォン・ルクセンベルクと申します。このたびは、停戦協定にかかわる政略結婚の話を承り――」
そこまで言ったところで、彼が手で制するように軽く片手を上げた。
「形式ばった挨拶は不要だ。……あちらから聞いている話と相違がなければ、お前は今日から俺の婚約者……いや、妻になる予定の女性だ。歓迎する」
その言葉に、わたしは少し驚いた。政略結婚とはいえ、こんなにもはっきり「歓迎する」と言われるとは思っていなかったからだ。
彼は肩にかかる外套を揺らしながら、後ろを振り返る。そこに控えていた部下のひとりが、小走りで彼のもとに近づき、何かを報告している。わたしはぼんやりとそのやり取りを見つめていた。
それが終わると、クラウスはわたしのほうへ向き直り、一瞬だけ険しかった表情を緩める。
「まぁ、道中は疲れただろう。ここからは俺の馬車に乗るといい。……お前たち護衛の騎士たちも、これより先は帝国の許可なく王国の軍服でうろつくことはできん。引き返してもらうしかないが、構わんか?」
その言葉に、王国の護衛騎士たちは戸惑いの色を見せた。まだエリシア様を帝国に引き渡してよいのかどうか――葛藤しているのだろう。だがこれは、両国間で決めた協定なのだ。彼らに拒否する権限はない。
「……わかりました。エリシア様、ご武運をお祈りしております」
騎士たちは、それぞれ名残惜しそうな目をわたしに向けて頭を下げる。それが国境での別れとなった。わたしはなんとも言えない心細さを覚えつつも、彼らに笑顔で答える。
「ここまで護衛をありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
こうしてわたしは、たったひとり、グラナート帝国側へ足を踏み入れた。国境の関所を越えれば、いよいよ敵国の地。それなのに、わたしはなぜか底知れぬ安堵を覚えている。
もう、セレスティアの国へは戻れない。けれど、それでいい。あの家にいるよりは、きっとマシ。
「おい、立ち尽くしていないでこっちへ来い」
そう言って、わたしを呼び寄せる声。振り向くと、クラウスが目で合図を送っている。彼のそばには、馬車が一台止まっていた。わたしが恐る恐る近づくと、彼はわたしが歩きやすいよう、少しばかり位置をずらしてくれる。
意外と紳士的な所作に、わたしは驚きを隠せない。冷酷将軍と聞いていたのに、こんなふうに女性を気遣うものなのだろうか。
「ありがとうございます……」
馬車は王国のものよりずっと頑丈そうで、車輪も大きい。内部も広いが、装飾は少なく質実剛健といった印象だ。乗り込む際、手を貸してくれたのはクラウス自身だった。大きく、男性的な手。それがわたしの手を包み込む瞬間、思わず心臓が高鳴った。
……どうしてだろう。怖さよりも、彼に対する強い好奇心と不思議な安堵感が入り混じっている。
「このまま帝都へ向かう。お前の話は……馬車の中でゆっくり聞かせてくれ」
「……わかりました」
わたしはそう返事をして、クラウスに続いて馬車へと入る。再び扉が閉まり、今度こそ本当にセレスティア王国を離れ、グラナート帝国へと向かうのだ。
---
馬車はそれから四日ほどかけて走り続けた。その道中、わたしはクラウスといくつか言葉を交わす機会があった。もっとも、彼から問いかけられるのは簡単な身の上話ばかり。
「お前の家では、どのような暮らしをしていた?」
「……父と妹の下で、貴族として最低限の教養を身につけておりました。母は早くに亡くなって……」
わたしがそう答えると、彼は少し思案するように眉を動かす。
「……そうか」
その「そうか」の中に、どんな感情が込められているのかはわからない。でも、時折「お前はどうしてそんなに悲しそうな目をするのだ」と尋ねられることもあり、わたしは戸惑いながらも、何と答えればいいのか迷ってしまう。
「……父や妹とは、あまり上手くいっていませんでした。冷遇されていたというか……まぁ、よくある家族不和とでも思っていただければ」
「…………」
クラウスはそれ以上何も言わなかったが、彼の瞳が一瞬、不機嫌そうに光ったように思えた。わたしの勘違いかもしれない。
---
そのまま数日を過ごし、ついに帝都グラナートが見えてきたとき、わたしの胸は高鳴りを隠せなかった。
高い城壁に囲まれた、威圧感すら覚える巨大な都。石造りの荘厳な建物が立ち並び、兵士があちこちを警備している。その様子は王都ルクス・ラグレードとは明らかに異なり、戦士の国としての面影が色濃い。
まるでわたしとは場違いな場所……だが、それでも不思議と心が弾むのはどうしてだろう。
馬車が城壁の門を通過すると、街中の大通りがまっすぐ先の宮殿へ続いているのが見えた。沿道には露店や商人がずらりと並び、民族衣装のような派手な布を纏った人々が行き交う。活気に満ちた声が馬車の中にまで聞こえてきて、セレスティアとはまた違った文化があることがうかがえる。
「お前が暮らすことになる屋敷は、宮殿から少し離れた場所にある。俺の家だ。公爵の地位を与えられてはいるが、先祖代々、軍務に重きを置いている家系だ。あまり華やかな暮らしは望めないかもしれない」
「いえ、わたしにとっては、そんなことはどうでもいいです」
わたしが素直に答えると、クラウスはわずかに目を細めた。
「……どうでもいい、とは?」
「その……わたしは、貴族として華やかな暮らしをしたことなどありませんでした。ですから、贅沢は望んでいません。むしろ、普通に扱っていただけるだけでありがたいくらいです」
その言葉が、どんなふうに彼に受け止められたのかはわからない。けれど、クラウスはしばし沈黙した後、小さく息を吐いた。
「お前は……本当に、不思議な女だな。貴族令嬢というよりは、もっとこう……自分を蔑ろにしているように見える」
「……そう見えますか。……そうですね、たしかに自分に価値があるとは思えませんから」
「なるほど。……まぁ、ゆっくり休め。すぐに屋敷へ着く。そこに着いたら、改めてお前を歓迎しよう」
その言葉を聞いたとき、わたしはなぜか胸がチクチクと痛んだ。歓迎される――その言葉が、わたしにはとてもまぶしく感じられたのだ。あの家では決して言ってもらえない言葉。欲しくても得られなかった愛情。
けれど、わたしはそれを表に出すことなく、ただ「ありがとうございます」とつぶやくにとどめた。
---
馬車が公爵家の屋敷に到着すると、門の前には数人の使用人らしき人々が整列して待っていた。クラウスが扉を開けて先に降り、わたしに手を差し伸べる。恐る恐るその手を取って地面に降り立つと、使用人たちは一斉に頭を下げた。
「クラウス様、お帰りなさいませ」
「お疲れ様でございました、将軍閣下」
どの声も、敬意というより畏れにも似た響きが混ざっている。やはり彼は、この国で相当の地位と権威を有しているのだろう。
わたしの姿を見ると、使用人たちは小さく息をのんだようだった。わたしがセレスティア王国から来た、いわば「和平の道具」にすぎない存在であることは、もうすでに知られているのかもしれない。
「こいつがエリシアだ。……お前たち、丁重にもてなせ。あまり過度な装飾や儀礼は好まぬようだから、最低限のことだけでいい」
「はっ、承知いたしました」
クラウスはそれだけ言うと、わたしを振り返り、さりげなく言葉をつけ足す。
「この屋敷では、お前は俺の妻――近々正式に迎える身として扱われる。身分は俺と同等……いや、俺に次ぐ立場だ。何か不都合があれば遠慮なく言え」
わたしの胸は、その言葉でさらに大きく動揺した。だって、わたしはただの政略結婚の道具だ。そんなわたしを、彼は正式に妻として迎える気なのだろうか。本当に……?
思わず上目遣いに彼の表情をうかがうが、そこにはいつもの厳めしい顔があるだけで、真意は読めない。
「……はい。ありがとうございます」
使用人たちに案内され、わたしは屋敷の中へ入る。内部は外観以上に広く、足音が高く響く廊下が何本も伸びていた。飾られている美術品や甲冑が、グラナート帝国独特の様式らしく、ところどころに獅子や竜を象った意匠がある。
わたしは途中で部屋をいくつも見せられ、最後に案内されたのは奥まった場所にある客室だった。いや、客室というよりは完全に寝室だ。大きなベッドに、厚手のカーテン。椅子やテーブルもあり、その一角には洗面台まで備わっている。
「しばらくは、こちらでお休みください。何かご要望がございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
そう言って、世話役とおぼしき中年の女性が優しく微笑む。わたしもぎこちなく微笑み返し、「ありがとうございます」と伝える。すると、彼女は布団を整えながら言葉を続けた。
「エリシア様、長旅でお疲れでしょう。帝都に着くまでの道は荒れていますし、まずはごゆっくり休んでくださいませ。もしお食事などの用意が必要でしたら、声をかけてくだされば、こちらでご用意しますので」
「はい、そうさせていただきます。……助かります」
そう言ったものの、わたしにはまだまだ気が張っていて、とてもすぐに眠れる状態ではない。ベッドのふかふかの感触に腰を下ろしてみるが、旅の疲労と緊張感が入り混じり、頭が混乱している。
政略結婚で来たはずなのに、クラウスはわたしをこれほどまでに丁重に迎え入れようとしている。いったいどういうつもりなのだろう。わたしに隙があれば、すぐにでも蔑ろにされるのではないか、なんて思っていたが、そのような様子は少しも見られない。
むしろ、「お前は大切にされるべき存在だ」と言わんばかりの扱い。わたしは、一体どう反応すればいいのか。
「エリシア、お前は今、自由だ」
――ふと、そんな声が頭の中で響いた気がした。
今まで、公爵家のしがらみの中で生きてきたわたし。愛されることのない居場所に縛られていたわたし。
でも、ここでは……。
わたしは、誰にも強制されず、ただ夫となる人(まだ形式的だが)が与えてくれる保護のもとで新しい生活を始められるのではないか。
それが、どれほど幸せなことか、わたしにはまだ実感がわかない。
けれど……もし、この場所でわたしが本当に求められるのなら。もし、クラウスがわたしに優しさを向けてくれるのなら。
――そんな夢のような話を、少しだけ期待してしまうのは、いけないことだろうか。
---
わたしがしばらく部屋でぼんやりと考えごとをしていると、控えめなノックの音が聞こえた。
「失礼します。……エリシア様、クラウス様がお呼びです。夕餉の前に、少しお話がしたいとおっしゃっております」
「……わかりました。今行きます」
わたしは音もなく立ち上がり、洗面台で身だしなみを整える。鏡には、慣れない地に来たせいでやや疲れた顔の自分が映っている。でも、せめて髪を整え、服の皺を伸ばしてから行こう。
案内されたのは、屋敷の中庭に面した一室。大きな窓から夕焼けの名残が差し込み、室内を赤く染め上げていた。
そこに立っていたのは、もちろんクラウス。外套を脱ぎ、襟元を少し緩めた姿は、昼間の厳つい印象とはどこか異なる。わたしが戸口で一礼すると、彼は椅子を勧めてきた。
「座れ。……疲れているところを呼び出してすまない。けれど、今のうちに聞いておきたいことがある」
「いえ、お気になさらず……。わたしでお力になれることでしたら、なんでも」
そう言いながら、わたしは少し身構える。いよいよ本題――政略結婚の話。どこまでの条件を飲めという話になるのだろう。わたしの任務は和平の象徴としてここにいることだ。下手に逆らえば、セレスティア王国側に迷惑をかけるかもしれない。
けれど、クラウスはそんなわたしの思惑など知ってか知らずか、シンプルに口を開く。
「……まず、お前の国での生活について、少し詳しく教えてくれないか? 父や妹が……どうだったのか。お前の表情を見ていると、どうにも普通の家族関係には思えないからな」
「え……それは、どうして、そんなことを?」
「俺は、お前のことを知りたい。それだけだ」
わたしのことを、知りたい――。
言われた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。これまでの人生で、わたしの事情に真剣に興味を持ってくれた人などいなかったのだ。ラナを除けば、誰もがわたしを放置し、見下し、冷遇してきた。
だから、その言葉が嘘であったとしても、わたしには甘美な響きに感じられる。
「……あまり、面白い話ではありません。それでもよろしいのですか?」
「ああ」
「……わたしは、母を失ってからずっと、父や妹に疎まれていました。いえ、正確には父が妹を溺愛するあまり、わたしを邪険にした、といったほうが近いかもしれません。ビアンカは優秀で、美しく、父の誇りでしたから……わたしはそれに比べて何もかもが劣っていると言われて育ちました」
一度口を開くと、まるで決壊したように言葉があふれ出す。自分でも驚くほど、ぽろぽろと本音が漏れてしまう。ずっと押し殺していた感情が、表に現れているのがわかった。
「……馬鹿にされ、婚約者だった第二王子の殿下も、結局は妹に興味を移して。わたしはただ、この家から出たい、と願っていました。だから、今回の政略結婚の話を聞いたとき、すこしほっとしてしまったんです。おかしいですよね、普通なら……怖いと思うはずなのに」
「……そう、か」
クラウスは真剣な表情で、わたしの話を聞いている。時折、「許せんな」と低く呟くように唇を動かすのが見えた。
「……だから、わたしは何も望みません。あなたがた帝国の役に立つのなら、それで構わないんです。わたしなど、飾りにでも何にでもお好きに使っていただければ……」
そう言った瞬間、クラウスが拳を握りこんだのがわかった。彼は鋭い視線をわたしに向け、低く怒気を含んだ声を出す。
「……お前、そんなにも自分を大事に思えないのか?」
「大事……? わたしは……そんな、存在じゃ……」
「ふざけるな。お前は人間だ。道具ではない。ましてや、この俺の妻になる女だぞ? そんな言い方をするな」
彼の言葉に、わたしは息をのむ。まさか、冷酷将軍と名高い男が、こんなにもはっきりと、わたしを“妻”として扱おうとするなんて。
熱いものが込み上げてきて、わたしは思わず目を伏せた。声が震えてしまいそうだからだ。
「……信じられない。あなたがわたしを、妻として……そんな……」
「信じられなくて結構だ。だが、事実だ。お前は俺の妻となる。それは政略結婚だろうがなんだろうが、変わらん」
その声はまるで、わたしの中にある不安を打ち砕くかのように力強い。戸惑いと驚きが入り混じったわたしの表情を見て、クラウスは少しだけ口元を緩めた。
「……すまん。少し感情的になったな。お前が自分を大切に思えないほど、ひどい扱いを受けてきたのだろう。その分も含めて、これからお前には幸せを教えてやる。――そう考えてはいけないか?」
その言葉に、わたしは涙が溢れそうになり、必死にそれをこらえる。ああ、なんて人なんだろう。冷酷将軍と怖れられながら、なぜこんなにも優しい言葉をかけてくれるのか。
わたしは思わず視線をそらし、わずかに震える声で答えた。
「……あなたのほうこそ、そんなことをして……メリットがあるんですか? わたしは価値のない娘です。愛しても得られるものなど何もないですよ」
「それは、俺が決めることだ。お前が自分をどう思っていようが、俺はお前を妻にする。それだけのことだ」
まっすぐな瞳。強い意志に満ちた言葉。
……わたしは、どうしてこんなにも胸を突き動かされるのだろう。彼の言葉に嘘は感じられない。むしろ、怒りすら帯びていたのは、わたしが自分を卑下しすぎるからだろうか。
そんな気持ちを抱えたまま、わたしは深くうなずくしかできなかった。
「……わかりました。もし、それがあなたのお望みならば、わたしは……」
「うん。それでいい。……夕餉の用意がそろそろできるはずだ。お前はこのあと風呂で汗を流してからでもいいし、食堂に来てくれ。……わからんことがあれば使用人に聞け」
「わかりました。……ありがとうございます」
もう、それしか言えなかった。わたしの感情はすでにぐちゃぐちゃで、何をどう表現すればいいのかがわからない。ただ、わたしの目元を覗き込んだクラウスが、少しだけ慈しむようにわたしの頬を撫でてくれた気がして――その瞬間、涙がこぼれそうになるのをこらえて、わたしは慌てて俯いた。
---
部屋に戻り、わたしは用意された湯にゆっくりと浸かった。温かい湯が体を包み込み、何日もの旅の疲れを溶かしてくれる。とはいえ、疲れは肉体だけではない。わたしの心はいま、混乱と不思議な高揚感に揺れ動いている。
ずっと、誰かに求められたいと望んでいた。だけど、求められるはずなどないと思っていた。
クラウスは、わたしのそんな思いをまるで見透かすかのように「お前は大切だ」と言ってくれる。こんな夢みたいな言葉を簡単に信じていいのだろうか。きっと、彼には彼の考えがある。わたしが思うほど単純な話ではないかもしれない。
それでも――ほんの少しだけ、その言葉を信じてもいいだろうか。
「わたし……どうしよう」
湯気の立ちこめる浴場で、ひとりつぶやく。返事はない。でも、心の中にほんの小さな希望の灯が点りはじめているのを感じる。
……もし、この家で、わたしが幸せを掴むことができるのなら――。
そう考えるだけで、胸が熱くなった。
---
そして、わたしは気持ちを落ち着かせるために時間をかけて湯から上がり、用意されていた衣服に着替える。といっても、わたしが持ってきたドレスはほとんどが旧いものばかりで、サイズも合っていない。そんなわたしの事情を知ってか、使用人が「こちらで仕立てさせていただいた簡易なドレスがございます」と出してくれた。
それは上質な布でできた落ち着いた色合いのドレスだった。華美というわけではないが、肌触りがよく、とても着やすい。わたしが鏡の前でそっと身を整えると、いつもより上品に見える気がした。
「……似合っている、かな」
誰もいない部屋でそう呟き、自嘲気味に笑う。これまで鏡を見るたびに「自分は妹より劣っている」と思ってきたけれど、いまは少しだけ自信を持ってもいいのかもしれない。
使用人に案内され、食堂へと向かうと、そこにはすでにクラウスの姿があった。彼はテーブルの上に置かれた書類に目を通していたが、わたしの足音に気づくと顔を上げて、その金色の瞳でわたしを捉える。
「……来たか。疲れはとれたか?」
「はい。お陰さまで、すっかり……」
彼はゆっくりとわたしを眺め、わずかに口元をほころばせた。
「そのドレス、よく似合っているな。……なんだ、その顔は」
「い、いえ……こんなに褒めていただいたことがないので、少し戸惑っているだけです」
わたしが頬を染めて正直にそう言うと、彼は「ああ、そうか」と納得したように何度か頷いた。そして椅子を引き、わたしに座るよう促してくれる。
夕餉のメニューは、帝国風のスープや肉料理が中心だった。スパイスの効いた香りが食欲をそそり、見た目よりはるかにあっさりとした味付けに感じる。わたしは「おいしい」と素直に言葉にしていた。すると、クラウスが小さくうなずく。
「そうか。お前に合っているならいい。……この国の料理は、馴染みがないと多少癖があるからな」
「ええ、でもとても気に入りました。ありがとうございます」
食事中、わたしが素直においしさを表すと、彼はなぜか微笑ましそうにわたしを見つめる。少し恥ずかしいが、嫌な感じはしない。むしろ、体の奥にほんのりとした温かさが広がっていく。
こんな穏やかな夕食を、わたしはいつぶりに味わったのだろう。少なくとも、公爵家でこんな温かな空気を感じることはなかった。
「エリシア、これからのことだが……近々、俺の上司でもある皇帝陛下に、お前を正式に紹介する場を設けたいと考えている。政略結婚の一環とはいえ、お前は俺の妻になるのだから、陛下へのお披露目は必要だ」
「皇帝陛下に……」
思わず息をのむ。グラナート帝国の皇帝といえば、かなり威厳のある人物だと聞いている。そんなお方に謁見するなんて、わたしには恐れ多い話だ。
けれど、クラウスは淡々と続ける。
「心配するな。俺がついている。お前が失礼をしないよう、儀礼の作法は教えるし、侍女もきちんとつける。……どのみち、大きな儀式や行事になるわけじゃない。ただの顔合わせ程度だと思っておけばいい」
「はい。……よろしくお願いします」
正直、不安だ。だけど、クラウスがここまで言ってくれるのだから、わたしも心配しすぎないようにしよう。
わたしがそう心に決めたとき、彼はグラスに入った水を一口飲み、静かに口を開いた。
「お前がここへ来てくれたことを、俺は感謝している。……政略結婚とはいえ、お前がいなければ、この停戦協定は不安定なままだ。俺にとっても、国にとっても、大きな意味がある」
「そんな……わたしは、ただ言われるままに来ただけで――」
「それでいい。お前には、お前なりの理由があって、ここへ来たのだろう。……少なくとも、俺はこの結婚を大切にしたいと思っている。それが、お前にとって悪い話じゃないことを願うよ」
その言葉に、わたしは戸惑いながらも小さく首を振った。
「悪い話だなんて……わたしにとっては、救いのようなものです。まだ上手く言葉にできませんが……クラウス様が優しくしてくださることが、不思議で、嬉しくて……」
そう言いながら、わたしは目が潤んでいるのを感じる。自分の言葉が、こんなにも素直に出てきたのは初めてかもしれない。クラウスはわたしの様子を見て、小さく息をつくと、どこか照れくさそうに目をそらした。
「……俺は、お前が望むならどんなことでもしてやる。お前が今まで望んでこなかった分も、これから望んでくれ。……それが俺の喜びになるだろうからな」
その言葉がわたしの胸を強く揺さぶる。彼は、わたしに何を求めているのか。どうして、そんなにも……。
だけど、わたしにはまだ何もわからない。ただ、ひとつだけはっきりしているのは、わたしがここに来たことは間違いではなかったということだ。わずか数日で、こんなにも心が救われる思いをするのだから。
いくつかの料理を平らげ、食事が終わるころには、すっかり夜も更けていた。わたしは部屋へ戻り、深い疲れを感じながらも、心のどこかが軽くなっているのを実感する。
ベッドに横になると、薄明かりのランプが天井をぼんやりと照らしていた。シーツの感触が心地いい。瞼がだんだん重くなるのを感じるが、わたしの頭の中にはクラウスの言葉が何度も反芻している。
「……お前は、人間だ。道具ではない」
――そうか、わたしはただの道具なんかじゃない。もし、あの人がそう言ってくれるのなら――わたしは、自分を少しは信じてみてもいいのだろうか。
そう思った瞬間、涙がすっとこぼれた。声も出さずに、枕にこぼれ落ちる涙。それは悲しみの涙であり、同時に救われたいという希望の涙だった。
わたしは何度か深呼吸をして、静かに目を閉じる。いつの間にか、柔らかな眠りが訪れ、わたしの意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
――こうして始まった、わたしの「政略結婚の道行き」。
だが、これは序章にすぎない。これからわたしが知ることになるのは、グラナート帝国が誇る将軍クラウス・フォン・グラナートの、恐ろしくも優しい「本当の姿」。
わたしを利用するだけだと思っていた相手は、まるでわたしを溺愛しているかのように手を差し伸べてくる。さらに、セレスティア王国ではわたしを冷遇していた実家が、後に思わぬ形で関わってくるなんて――このときのわたしには知る由もなかった。
だけど、少なくとも今は、安らかな寝息を立てながら、わたしは知らぬ間に微笑んでいる。
ここが、わたしの人生の転機になるかもしれない。それだけは、確かなことだった。
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