犬と子猫

良治堂 馬琴

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第5章『秘密』

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第5章『秘密』

 行ってらっしゃいとは、家政婦なのに出過ぎた物言いだったろうか、凛はそんな事を考えつつ高根が出て行った玄関を暫くの間眺めていた。

「素晴らしい、本当に尊敬出来る方でした。もっと長生きして我々若輩を導いて頂きたかった、残念です」

 祖父の葬儀で父と言葉を交わしていた就任したばかりの海兵隊総司令、まさかあんな遊女屋の店先で再会するとは思ってもみなかった。再会、という言葉は適当ではないかも知れない、何せあの時に何か言葉を交わしたわけでもなく自分が一方的に遠くから見ていただけ、彼は自分の事等、存在すら知らないだろうから。
 嫁いでいる間に両親と兄を亡くし身寄りも帰るところも無い自分、出自を高根へと伝えれば立場が立場、最大限の事をしてくれるのだろうがこれ以上の迷惑は掛けられない、この家の事をきちんとやって給金を貰い、少しでも早く独り立ちする事を考えなければ。その為には自分が彼を知っている事は言わない方が良いだろう、それが知れれば理由も言わざるを得なくなる、自分の出自は高根にとっては重荷になるだけ、黙っていた方が良い。
「さ、洗濯と掃除と……食材が何も無いから買い物にも行かないと!」
 先ずは洗濯、と風呂場の脱衣所に置いてある洗濯機の中を覗いてみるがそこには何も無し、一階をとてとてと歩き回り自分に宛がわれた客間を見てみれば、隅の方に積み上げられた敷布団用の敷布が数枚。一昨日迄居候がいたと言っていたからその彼等が使っていたものなのだろう、もう用は無さそうだとそれを洗濯機の中へと入れ、恐る恐る二階へと上がってみる。上がり切った先には扉が二つ、一つをそっと開けて中を覗いてみれば室内用の運動器具が幾つも置かれていて、壁には木刀や竹刀、槍や薙刀が立て掛けられている。総司令と言えども活骸との戦いの最前線に立つ防人、鍛錬は欠かさないのだろう、そういうところは祖父と同じだと妙な感心をしつつ、洗濯物が無い事を確かめて扉を閉じ、もう一つへと手を掛けた。
「失礼します……」
 一階には居間と客間と台所と便所と風呂場以外には部屋は無かったし、寝起き姿の高根はこの二階から降りて来た、こちらが高根の私室なのだろうと思いつつ、誰がいるわけでもないのに断りながら中を覗いてみる。室内には寝台が一つと箪笥が一棹、そして、机と椅子が一組。四面の壁の内一面は全面書架となっていて、雑多な本がぎっしりと詰め込まれている。内容は戦術戦略の多数の概論書籍や、孫子の兵法やクラウゼヴィッツの戦争論、祖父の書架と同じ品揃えだと小さく笑い、寝台へと歩み寄り敷布を外すと部屋を出て下へと降りた。
 遊女屋へと入ろうとしていたところで出会ったものだから、今の総司令は職務に関しては聊か適性に欠けるのか、そんな事を思わなかったわけではないが、何度も何度も繰り返し読み込まれたのだろう所々擦り切れた背表紙、あれを見るにそう心配する事ではいなのかも知れない。
「……生活感の無いお家だなぁ……」
 洗濯機の中に集めた敷布と洗剤を入れ水を溜めながら独り言ちる。仕事柄起きた後にきっちりと寝台を整えるのは分かる、祖父も兄もそうだった。しかしそれだけではない、この家には何処を見ても年嵩の男が暮らしている生活感というものが感じられないのだ。目にするものは仕事との関わりを感じさせるものばかり、高根個人を感じさせる物が全く無い。有るとしても洗面台の歯ブラシやコップ、台所の流しの脇の籠に置かれた少しばかりの食器、その程度。趣味の物や書籍程度を見掛けても良さそうなものなのに、まるでそんな概念自体彼には無いかの様に何も存在を感じられない。
「お兄ちゃんもお祖父ちゃんも仕事馬鹿だったけど趣味位有ったのに……高根さん、仕事が趣味なのかな……」
 祖父に『育て方を間違えた』と迄言わしめた父、その父の様に放蕩三昧なのは論外だが高根もまた少々極端なのかも知れない。父と高根を足して割る位が丁度良いのだろうか、そんな事を考えつつ客間の押入れから掃除機を引っ張り出し、家中の床から隈無く埃を吸い上げた。それが終わる頃には洗濯が終わり、濯ぎと脱水を経て庭へと出て物干しに敷布を掛ける。気温はそう高くはないがすっきりとした秋晴れ、日の出ている内に乾くだろう。
 それが終われば今度は買い物、高根の出勤前に彼から預かった財布の中を覗けば結構な額が入れられていて、食費はともかくとして自分の服や下着や日用品を買う分は後できちんと返さなければ、そう思いながら靴を履いて玄関から外へと出る。
 昼食は自分しかいないから朝の残りで構わないが、夜は高根が帰って来るのだからきちんと作らなければ。しかし何が食べたいとも聞いていないし食の嗜好や好き嫌いも聞いていない、聞きそびれてしまったがそれ位は確認しておけば良かった。油は無かったから揚げ物は無しとして、主菜は肉と魚のどちらが良いだろうか。兄や祖父は食堂では魚が出る事が多いと言っていた、それならば肉の方が良いだろうか、最初からあまりに奇を衒った物ではない方が良いだろう、取り敢えず今日は生姜焼きにでもしてみよう。出来れば喜ばなくても良いから捨てたりせずに食べて欲しい、嫁いでいた間に夫と義父母からされていた仕打ちを思い出し、高根はそうでない事を祈り、凛は博多の街並みをゆっくりと歩いて行った。
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