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第32章『読書』
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第32章『読書』
玄関の扉が開く音、鍵音に続いたそれに廊下へと出れば、半分程開かれた隙間から高根が半分だけ顔を覗かせている。凛はその様子に内心ぎょっとしながらも笑顔を浮かべて歩み寄り、
「お帰りなさい、お疲れ様でした」
そう言葉を向ければ、高根は何とも気まずそうな様子で室内へと入って来て
「……ごめん、飲んで来ちゃった」
そう告げた。
「そうなんですか、お風呂も直ぐに入れますよ。すみません、時間が時間だったので、ご飯もお風呂も先に頂いちゃいました」
帰って来ると分かっていれば待っていたのだが、そう告げれば高根は更に申し訳無さそうな面持ちになり、
「いや、職場に泊まりでも何でも、凛が待つ必要無いからさ。特に今日なんかはもう少し早く帰って来られたのに飲みに行っちゃったんだし、用意してもらってるのにごめんな?」
そう言って手を上げ、凛の頭を優しく撫でる。
「そんなの、良いんですよ。高根さんが泊まりだったりでおかずが余った時には翌日の朝かお昼に私が頂いてますから。何だか贅沢してるみたいで、逆に申し訳無いです」
昼食には朝か前日の夜の残り物、その生活は世話になり始めた当初から変わっておらず、高根はあまり良い顔はしないものの変える気は無い。自分一人の分だけを作るのも手間だし残り物であれば高根にも気を遣わずに済むからなのだが、帰って来なかった場合は少々具合が違う。残り物である事に違いは無いのだが、高根に食べてもらう筈だった分丸々を自分が食べる事になるから、量もそうだが内容的にも何とも贅沢をしている気分になってしまう。高根がそういった事を気にする性格ではない事はもう理解しているものの、それでも何だか申し訳無いと笑えば、凛のそんな気持ちは高根にも伝わっているのか、
「そういう事、気にしないで良いからな?」
と、また頭を撫でられた。
弁当の包みを受け取りながら並んで居間へと入れば、机の上には先程迄読んでいた本、高根はそれを見て目を細め、
「うん、好きな事いっぱいやって、な?我慢とか遠慮とか、する必要無いんだからさ」
そう言ってくれる。凛もそれに微笑み返し、
「お茶、淹れますね」
と、踵を返し台所へと足を向けた。
本を読む様になったのは、体調を崩して寝込んでいた時。ほぼ回復はしたものの高根の心配性が炸裂し、家事は自分が出来る限りやるし行き届かない分は悪いがすっかり治ってから纏めてやってくれ、そう拝み倒され、布団で横になる以外の事は何もさせてもらえない日々。そんな中安静にも限度が有ると高根の寝室兼書斎から本を拝借して来て読んでいたが、或る日帰宅した高根がそれを目に留め、
「読書、好きなのか?」
そう尋ねて来た。別段否定する事でも無かったが、彼の書斎から無断で持ち出していた事を気まずく思いそれを詫びれば、高根はそれには言葉を返さずに無言のままポケットから財布を取り出し、札を数枚出してそれを凛へと手渡して来た。そして
「そうだよな、凛だって趣味とか有るし何もせずに寝てるだけなんて退屈だったよな、気付かなくてごめんな?今日はもう遅いけど、明日本屋にでも行って自分の読みたい本買って来な。俺の書斎の本じゃつまらなかっただろ?」
そう言ってまた優しく笑ってくれた。金に関しては遠慮しても逆に彼に気を遣わせるだけ、多少なりとも彼の性格を理解し始めていたからそのまま受け取り、次の日には久し振りに買い物の為に外出し、その帰りに彼の言葉の通りに本屋へと立ち寄り本を何冊か購入したが、高根の家に世話になり始めた時に服や下着を購入した時とは違い、何とも心が弾む、そんなささやかではあるが楽しい時間を過ごす事が出来た。
思い返せば自分の趣味の為の買い物等嫁いで実家を出て以来の事で、婚家では趣味の買い物どころか下着や日用品ですら頭を下げ、その上長い嫌味の時間を経てからでなければ金を渡してもらえなかったから、あんなにも楽しい、浮足立つ程の経験というものは本当に久し振りだった。
そうして購入して来た本を家事の合間に読み、高根が帰宅してからは彼が本の内容や感想について話を向けてくれる。高根は旧時代の文学にも現代の文学にもそう興味は無いのか本の題名や内容については全くと言って良い程に知識が無かったが、それでも凛が話す内容にはいつも笑顔で耳を傾けてくれている。そんな時間が擽ったく、そして何とも言えず幸せで、こんな時間がいつ迄も続けば良いのに、と、最近そんな事をよく考える様になった。
高根が永続的且つ密接な関係を望んでいるのではない事は理解している、だから、自分の気持ちを押し付ける気は無い。それでも今のままの家政婦と雇い主というだけの関係でも良いから、今のこの幸せな時間が出来るだけ長く続けば良い、そう思う。
身体の関係については、彼が自分に対してそんな欲を向けてくれるのであれば話は別だが、性的な意味での女としての自分には価値が無いだろうし、そんな自分を抱いて欲しいと彼に迫る勇気は無い。高根にそんな気が無いというのはここ最近の洗濯ものを見ていれば明らかで、朝に穿いていた、つまりは前日の夜に凛が準備していた下着と、夜に脱ぎ洗濯機に入れている下着が違うものになっている事が時々有る様になった。下着の方は箪笥に入れていた筈の別のものであったり高根が購入して来たのか新しいものだったり、時には明らかに使い古しなのに凛が見た事の無いものだったりもする。
それはきっと、『そういう事』なのだろうと思っているし、高根を非難する気は全く無い。出会いが出会いだったのだ、彼のそんな性生活が自分と一緒に暮らし始めた程度で変わる道理は無い。きっと遅くなった時や帰って来なかった時の何割かは別の場所で過ごし、それには相手がいたという事なのだろう。それはきっと同じ屋根の下で暮らしている自分への配慮なのであって、そういった気遣いをしつつ自分には全く接触して来ないというのは、彼が自分を女として、性的な対象として見ているのではないという事の証左に違い無い。高根が自分を求めてくれるのであれば身体を差し出す事に躊躇いは無いが、自分の方からそれを求める勇気は流石に無かった。嫁いでいた間の夫婦生活でも性交に快感を感じた事等一度も無いし、そんな身体を女に慣れた高根が抱きたいと思う筈も無い。彼の振る舞いには気付かない振りをして今のままの生活を出来るだけ引き延ばす、それが一番なのだろう。
読書が趣味の家政婦、それが高根から自分に求められている役割なのだ、凛はそう自分に言い聞かせ、しゅんしゅんと音を立て始めた薬缶を見下ろし、ガス台の火を消した。
玄関の扉が開く音、鍵音に続いたそれに廊下へと出れば、半分程開かれた隙間から高根が半分だけ顔を覗かせている。凛はその様子に内心ぎょっとしながらも笑顔を浮かべて歩み寄り、
「お帰りなさい、お疲れ様でした」
そう言葉を向ければ、高根は何とも気まずそうな様子で室内へと入って来て
「……ごめん、飲んで来ちゃった」
そう告げた。
「そうなんですか、お風呂も直ぐに入れますよ。すみません、時間が時間だったので、ご飯もお風呂も先に頂いちゃいました」
帰って来ると分かっていれば待っていたのだが、そう告げれば高根は更に申し訳無さそうな面持ちになり、
「いや、職場に泊まりでも何でも、凛が待つ必要無いからさ。特に今日なんかはもう少し早く帰って来られたのに飲みに行っちゃったんだし、用意してもらってるのにごめんな?」
そう言って手を上げ、凛の頭を優しく撫でる。
「そんなの、良いんですよ。高根さんが泊まりだったりでおかずが余った時には翌日の朝かお昼に私が頂いてますから。何だか贅沢してるみたいで、逆に申し訳無いです」
昼食には朝か前日の夜の残り物、その生活は世話になり始めた当初から変わっておらず、高根はあまり良い顔はしないものの変える気は無い。自分一人の分だけを作るのも手間だし残り物であれば高根にも気を遣わずに済むからなのだが、帰って来なかった場合は少々具合が違う。残り物である事に違いは無いのだが、高根に食べてもらう筈だった分丸々を自分が食べる事になるから、量もそうだが内容的にも何とも贅沢をしている気分になってしまう。高根がそういった事を気にする性格ではない事はもう理解しているものの、それでも何だか申し訳無いと笑えば、凛のそんな気持ちは高根にも伝わっているのか、
「そういう事、気にしないで良いからな?」
と、また頭を撫でられた。
弁当の包みを受け取りながら並んで居間へと入れば、机の上には先程迄読んでいた本、高根はそれを見て目を細め、
「うん、好きな事いっぱいやって、な?我慢とか遠慮とか、する必要無いんだからさ」
そう言ってくれる。凛もそれに微笑み返し、
「お茶、淹れますね」
と、踵を返し台所へと足を向けた。
本を読む様になったのは、体調を崩して寝込んでいた時。ほぼ回復はしたものの高根の心配性が炸裂し、家事は自分が出来る限りやるし行き届かない分は悪いがすっかり治ってから纏めてやってくれ、そう拝み倒され、布団で横になる以外の事は何もさせてもらえない日々。そんな中安静にも限度が有ると高根の寝室兼書斎から本を拝借して来て読んでいたが、或る日帰宅した高根がそれを目に留め、
「読書、好きなのか?」
そう尋ねて来た。別段否定する事でも無かったが、彼の書斎から無断で持ち出していた事を気まずく思いそれを詫びれば、高根はそれには言葉を返さずに無言のままポケットから財布を取り出し、札を数枚出してそれを凛へと手渡して来た。そして
「そうだよな、凛だって趣味とか有るし何もせずに寝てるだけなんて退屈だったよな、気付かなくてごめんな?今日はもう遅いけど、明日本屋にでも行って自分の読みたい本買って来な。俺の書斎の本じゃつまらなかっただろ?」
そう言ってまた優しく笑ってくれた。金に関しては遠慮しても逆に彼に気を遣わせるだけ、多少なりとも彼の性格を理解し始めていたからそのまま受け取り、次の日には久し振りに買い物の為に外出し、その帰りに彼の言葉の通りに本屋へと立ち寄り本を何冊か購入したが、高根の家に世話になり始めた時に服や下着を購入した時とは違い、何とも心が弾む、そんなささやかではあるが楽しい時間を過ごす事が出来た。
思い返せば自分の趣味の為の買い物等嫁いで実家を出て以来の事で、婚家では趣味の買い物どころか下着や日用品ですら頭を下げ、その上長い嫌味の時間を経てからでなければ金を渡してもらえなかったから、あんなにも楽しい、浮足立つ程の経験というものは本当に久し振りだった。
そうして購入して来た本を家事の合間に読み、高根が帰宅してからは彼が本の内容や感想について話を向けてくれる。高根は旧時代の文学にも現代の文学にもそう興味は無いのか本の題名や内容については全くと言って良い程に知識が無かったが、それでも凛が話す内容にはいつも笑顔で耳を傾けてくれている。そんな時間が擽ったく、そして何とも言えず幸せで、こんな時間がいつ迄も続けば良いのに、と、最近そんな事をよく考える様になった。
高根が永続的且つ密接な関係を望んでいるのではない事は理解している、だから、自分の気持ちを押し付ける気は無い。それでも今のままの家政婦と雇い主というだけの関係でも良いから、今のこの幸せな時間が出来るだけ長く続けば良い、そう思う。
身体の関係については、彼が自分に対してそんな欲を向けてくれるのであれば話は別だが、性的な意味での女としての自分には価値が無いだろうし、そんな自分を抱いて欲しいと彼に迫る勇気は無い。高根にそんな気が無いというのはここ最近の洗濯ものを見ていれば明らかで、朝に穿いていた、つまりは前日の夜に凛が準備していた下着と、夜に脱ぎ洗濯機に入れている下着が違うものになっている事が時々有る様になった。下着の方は箪笥に入れていた筈の別のものであったり高根が購入して来たのか新しいものだったり、時には明らかに使い古しなのに凛が見た事の無いものだったりもする。
それはきっと、『そういう事』なのだろうと思っているし、高根を非難する気は全く無い。出会いが出会いだったのだ、彼のそんな性生活が自分と一緒に暮らし始めた程度で変わる道理は無い。きっと遅くなった時や帰って来なかった時の何割かは別の場所で過ごし、それには相手がいたという事なのだろう。それはきっと同じ屋根の下で暮らしている自分への配慮なのであって、そういった気遣いをしつつ自分には全く接触して来ないというのは、彼が自分を女として、性的な対象として見ているのではないという事の証左に違い無い。高根が自分を求めてくれるのであれば身体を差し出す事に躊躇いは無いが、自分の方からそれを求める勇気は流石に無かった。嫁いでいた間の夫婦生活でも性交に快感を感じた事等一度も無いし、そんな身体を女に慣れた高根が抱きたいと思う筈も無い。彼の振る舞いには気付かない振りをして今のままの生活を出来るだけ引き延ばす、それが一番なのだろう。
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