犬と子猫

良治堂 馬琴

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第63章『職権乱用』

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第63章『職権乱用』

 凛の告白から一夜明け、高根は自宅の客間に敷かれた布団の中で腕の中の凛の寝顔を見詰めていた。
 聞いた瞬間に腰を抜かしその後は年甲斐も無く大泣き、結局その後も何か言おうとする度に涙と感情が込み上げ、結局話らしい話もしないまま。最終的には
「今日はもう寝ましょうか。真吾さんもずっと仕事続きでお疲れなんですから」
 そんな凛の言葉に促され、二階に上がるのも面倒だと客間に布団を敷き二人でそこへと潜り込んだ。
 有り難う――、夕べからもう何度口にしたか覚えていないが、それは高根の嘘偽りの無い本心であり、これからも何度でも口にしたい言葉。護りたい、愛している存在が増えれば増えるだけ確かにそちらに心惹かれる、そして気に掛かる事は増えるが、これから先も背負い続ける重圧に耐えるだけの、否、それ以上の力を自分に与えてくれるのだという事を、今ははっきりと感じる事が出来る。つい三週間程前に博多を惨劇が襲い、活骸に変異しどうしようもなかったとは言えど軍が何千人もの子供達を殺したという状況の中、その軍の高官である自分が例え書類手続きだけでも祝い事を行うという事は出来ないだろう。だから、入籍はまだ少し先になるのだけは間違い無いし人に言える事ではないが、その日が待ち遠しいと、そう思う。
 今迄は『将来的には』という口約束だけだったそれが、そう遠くはない日に名実共に確かなものになる、きっと凛を本心から安心させてやれるだろう。そして夏の辺りには新しい家族が増える事になる、今迄よりも余程責任重大だなと高根は小さく笑い、出勤時間ぎりぎり迄こうしていようかと凛を抱き締め目を閉じた。

「司令、おはようござ、い……って、お前、何か有ったのか?」
 遅刻ぎりぎり迄凛を抱き締め、途中から目を覚ました凛にかなり強めに言われて渋々と起き上がり、
「今日は早めに帰って来るから!週末には絶対に休みとるから、買い物はその時に俺が一緒に行くから!重い物は持つなよ、無理もしないように!!」
 とあれやこれやと思いつく限りの事を言いつけてから家を出て、正門を潜る頃合いに課業開始のラッパの音を聞き、ああ、完全に遅刻だと思いながら本部棟へと入った。階段を駆け上がり執務室の在る最上階へと着けば、小此木が自らの執務室から出て来たのとかち合い、こんな時間にまだ私服とはどういう事だと水を向けられる。
「いや、帰ってから一杯やったら思いの外効いてな、悪い悪い」
「まあ仕方無いな、ひと月近く帰ってなかったみたいだし。ほれ、さっさと着替えて仕事しろ」
「はいい。先ずは陸軍病院に連絡してタカコの移送の手筈整えないとな」
 そんな遣り取りの後に執務室へと入り、制服に着替えてから仕事へと取り掛かる。内線で大和田と移送の手筈を話し合い、その目途が立ったと受話器を置いたところで、
「……あ」
 と、何かを思い出した様に電話へと落としていた視線を上げた。
 曝露の報が入る直前、タカコは凛を病院に連れて行ったと言っていて、その直後高根の自宅へと向かう為にここを飛び出して行った。彼女が間に合わなければ今の自分の幸せは無かったかも知れないわけで、その事を失念していた事に申し訳無さを感じつつ、さて、このままで良いのかと考え込む。
 決して軽くはない傷を負って迄凛を守ってくれたタカコ、その彼女に多少なりとも何か報いたいとあれこれと考えれば、浮かんでくるのは図体のでかい朴念仁且つ野暮天且つ唐変木の部下であり親友、敦賀の顔。敦賀の方の気持ちは今更考えるものでもなく分かり切っているし、タカコの方も決定打は無いにしろ憎からず想っているという感触は有る。麻酔を切れば数日で目を覚ます筈だとジュリアーニも大和田も言っていたし、目を覚ました時、一人きりか看護師や医師が傍にいるだけよりも、敦賀が傍にいた方がタカコも嬉しいのではないか、と、そう思い至る。
 いつ目が覚めるかも分からないし、そこに時機を合わせて狙って敦賀を向かわせる事は無理だ、最初から帯同させておくしか無い。一週間から十日間程程度なら敦賀一人を業務から外す事は出来るだろう。それ以上は流石に無理だが、と、そんな段取りを頭の中で付けつつ、タカコの部下達や無大和田に対しこの極個人的な職権乱用をどう説明するか今度はそちらの方で脳内の算盤を弾き始めた。

「充分だと!?おい真吾よ、てめぇ、あいつがどんな目に遭わされたか分かってて、それでよく言えたもんだな!」
 午後になり、陸軍病院へのタカコの移送を聞きつけた敦賀が執務室へとやって来た。タカコの部下達や大和田の存在に構う事無く高根へと不満をぶつけ、それに看護師の詰所の前の病室にタカコを配置してもらえばそれで充分だろう、そんな事を敢えて冷淡に吐き捨てれば、純情且つ単純な親友は見事にそれに乗り、応接セットの机を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり向かいへと腰を下ろしていた高根の胸倉を掴み上げる。
「お前等、見たよな?下士官如きが総司令に暴言吐いて胸倉掴む暴力行為に出たの、見たよな?」
 にやり、と人の悪い笑みを浮かべてそう言えば敦賀以外の四人からは次々に肯定の声が上がり、高根はそれを聞いて更に笑みを深くし、状況が飲み込めずに固まっている敦賀の肩をぽんぽんと叩きながら言葉を続けた。
「敦賀上級曹長、お前、命令不服従と上官への暴言と暴行で十日間謹慎な。最先任がそれじゃあ下に示しがつかねぇんだよ。十日間きっちり頭冷やして来い、基地内へも立ち入り禁止。着替えとか荷物纏めて、十日間戻って来るな、な?」
 恐らくは未だに理解が追い付いていないのだろう、自分を締め出す気か、タカコから遠ざける気なのかとでも思っているのか、高根の胸倉を掴んでいるのとは反対の拳がきつく握られる。このままでは殴られるな、と高根は判断し、ネタばらしをする事にした。
「取り敢えず荷物纏めて来いや、陸軍病院に話はもう通ってるんだよ、もう直ぐ車も来る。営外に家も無ぇんだし、それに一緒に乗って行って、陸軍病院の辺りに十日間いれば良いんじゃねぇの?」
「……は?」
「それ以上時間はやれねぇが勘弁してくれ、十日後には代わりの人間を送る……ほれ、早く準備して来い、戦闘服持って行くんじゃねぇぞ、陸軍の縄張りに行くんだから面倒起こすなよ」
 つまり、と、高根が何を言わんとしているかを漸くと把握した敦賀は彼の胸倉を掴み上げた手を離し再びソファへと座り込む。一人で突っ走っていた事が何とも言えず恥ずかしいのか微妙な面持ちをして状況を誤魔化す様にして頭を掻くその様子を見て高根は笑い、早く支度をして来いと促せば、敦賀はそれに従い無言のまま立ち上がり、扉へと向かって歩き出す。
「……総司令」
「何だよ?」
「……有り難う、御座います」
 それだけ言って扉を閉めて出て行った敦賀、高根はそれを目を細めて見送り、机の上に置かれた湯呑みを手にして中身を一啜りした。
「司令も人が悪いですねぇ。普通に言ってあげれば良いじゃないですか」
「茶目っ気茶目っ気。ほら、真吾君てばお茶目さんだから。それに、敦賀の為って言うよりはタカコに対しての礼、かな」
「礼?何か有ったんですか?」
「いやいや、『良い報せ』ってやつだよ」
「はい?」
「うふふ、こっちの話」
「……司令……凄く……気持ち悪いです……」
 敦賀に警護の役を持って行かれたのが面白くないのか無表情に押し黙るワシントン勢、高根はそんな彼等の様子と大和田の言葉にまた笑う。
 思わず泣いてしまった程の『良い報せ』、それを教えてくれた、そして、曝露という地獄の中で凛を守ってくれたタカコが目を覚ました時、誰もいないよりは敦賀がいた方が彼女も喜ぶだろう。そんな思いから生まれたこの悪戯、思いついた理由は流石に誰にも言うつもりは無い。
 職権乱用と言われれば確かにそうなのだが、今回ばかりは、と、小さく笑った。
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