犬と子猫

良治堂 馬琴

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第64章『悪阻』

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第64章『悪阻』

「重い物は持つな!」
「掃除は一階だけで良い!」
「布団なんか干さなくても死なないから!」
「買い物も一人で行くな!俺が一緒に行く!」

「……真吾さん……妊娠は病気じゃありません……」

 高根に妊娠を告げてから四日、知った直後は号泣しひたすら『有り難う』と繰り返していた彼は翌日からは凄まじい過保護ぶりを発揮し、あれをするなこれは駄目だとやかましく、凛は少々うんざりしているというのが正直なところだった。
 大切にしてくれているというのは分かる、早くも腹に耳を押し当てたり話しかけたり、挙句には名前はどうしようかと男女別に候補を書き出して悩んでみたりと、妊娠を心から喜び誕生を心待ちにしてくれているというのも、よく分かる。
 しかし禁止事項が多過ぎて言いつけ通りにしていたら居間で日がな一日お茶を飲む位しか出来る事は無いし、話し掛けるのも名前を考えるのももう少し腹が目立つようになってからで良いのではとしか思えない。逆に入籍に関しては高根個人としては今すぐにでもと思っている様子だが、昨今の博多と海兵隊を取り巻く情勢では惨劇の直後早々に海兵隊最高司令官が祝い事を催すという事は流石に出来ないのか、
「悪いな……仕事の都合も有るし、こんな情勢だからさ……もう少し待っててくれな?」
 と、凛を気遣いつつも一番残念且つ不満に思っているのは高根自身なのだという事が丸分かりの面持ちと声音でそう告げた。博多に住む者として、そして嘗ての海兵隊最高司令官の親族として、事情も軍の民間に対する配慮もよく分かっている。だから高根には
「お仕事じゃしょうがないですよね、こんなご時世ですし……気にしないで、真吾さんの都合の良い様にして下さいね?」
 そう言ったが、高根が一番納得していないのは表情からも明らかだ。
 妊娠を告げる迄は、彼が受け入れてくれなかったら、その先は一人で産んで育てて、と、そんな事ばかり考えていた。それが全くの杞憂だったというのは喜ぶべき事だが、これはこれで極端だな、と、洗濯物を畳みながらそんな事を考え、凛は、ふふ、と小さく笑う。今は無理だとしても、数ヶ月の内には必ずどうにかするから、高根はそう言っていた。生まれてからというのは流石に彼の外聞というものも有るのだろうから、その辺りの事は任せておけば問題は無いだろう。
 と、そこ迄考えて思い至るのは、自らの出自の事。子供が出来結婚というものが時期は別として確定した今、殊更に隠しておく必要はもう無いのだろという事は分かる。高根が自らの立場を未だに言い出さない理由は分からないが、自分の方の理由は出自が高根の気持ちに負担を掛けてしまうからという事だったから、それはもう度外視して良いのだろう。
 けれど今更何を切っ掛けに言い出せば良いのかも分からず、入籍の時には戸籍謄本の取り寄せ等が必要になって来る筈だから、その機会に言えば良いのか、そんな風に考えた。
「買い物行こうかと思ってたけど、真吾さんが知ったら怒るだろうしなぁ……安定期に入る迄は大人しくしといた方が良いって言うし、今日はのんびりしておこうかな」
 少々鬱陶しいと思わないでもないが、高根が自分と胎の子供の事を心底愛し心配してくれているという事はよく分かっている。そんな彼の気持ちを敢えて無駄にする事もあるまい、凛はそう判断し、それならば言いつけ通りにのんびりするかと、畳んだ洗濯物を寝室の箪笥へと仕舞い込んだ後は居間に戻り、ソファへと身体を埋め買い込んでいた本を読みつつ時折眠りに落ちながら、高根の帰りを待つ時間を穏やかに過ごした。

 翌朝、高根よりも早く目を覚まし朝食の準備に取り掛かろうと身体を起こした凛、しかし寝台から立ち上がろうとしたところで強烈な眩暈に襲われ、寝台の脇へと崩れ落ちてしまう。その物音と振動は高根にも伝わったのか彼は布団を跳ね飛ばす勢いで起き上がり、
「凛!どうした!?」
 と、焦りきった声音が凛の耳へと入って来る。
「……ちょっと眩暈が……吐き、そ……」
 真っ暗になる視界、込み上げる嘔吐感、ぐ、う、と口腔内にせり上がって来た胃液を吐き出せば、寝台の脇の椅子の上に置いてあった高根の上着が差し出され、胃液はそこに沁み込んでいく。
「真吾さん……ごめ、なさ……服、汚し――」
「んな事気にすんな!……病院行くぞ」
「だいじょ――」
「昨日も食欲無いって殆ど食ってねぇだろ、何が有るか分かんねぇし、俺も行くから。待ってろ、車呼ぶから、な?」
 毎日帰宅するようになったとは言え、高根が多忙である事に変わりは無い。病院に行くなら一人で行くしそもそも悪阻で病院に行っても出来る事は何も無い、言葉は切れ切れになりつつもそう伝えたが、高根は今回は聞く気は無いのか
「とにかく横になってろ、今日は俺も行く、分かったな?」
 と、それだけ言うと凛をやや強引に布団の中へと押し込み、電話を掛けるのか階下へと降りて行った。

「んー、ちょっと脱水症状出てるかなー。食欲無くても水分だけはちゃんと摂らないと。お水とか麦茶とか。そういうのも飲んで無かったでしょ?」
 陸軍病院の産婦人科診察室、凛の様子を診察しながら医師が『よくある事』と言った調子で凛に話し掛ける。
「あ、はい……何か口に入れると吐き気が出る事が多くて……すみません」
「吐き気を我慢してでも無理矢理食べる必要はそんなに無いですけどね、食べたいと思えるものを適度に食べられれば。でもね、水分だけはちゃんと摂らないと駄目。脱水症状は命に関わりますよ。今日は点滴して行きましょう、念の為にね」
 そんな会話を交わした後に看護師に点滴の準備を指示する医師、凛はそれに頭を下げて立ち上がり、
「あ、連れに点滴になったって言って来ます、直ぐ戻りますので」
 そう看護師に告げ、診察室を出た。高根は、と姿を探せば産婦人科の隣の皮膚科の待合用の長椅子に腰かけている彼が目に入り、
「あ、やっぱりこっちには来られないんだ」
 と小さく笑う。
 ずっと付き添うと言い張ってはいたものの、産婦人科の待合所には男性はおらず、年齢も腹の大きさも様々な女性が長椅子を埋め尽くしているのを見た高根はその様子に気圧されたのか
「……凛、俺、隣の待合にいるから。一人で大丈夫か?」
 そんな事を問い掛けて来て、診察室に入る迄こちらの様子を随分離れた場所で気にしていた。凛もいない状態では更に入って来辛かったのだろう、そわそわとしている彼へと歩み寄り、
「特に問題は無いそうですけど、脱水気味だから点滴するそうです。先に戻ってますか?」
 そう問い掛ける。
「いやいや、終わる迄待ってるよ。一時間位か?」
「二時間は掛かると思いますけど……大丈夫ですか?」
「そっか……それなら、俺、その間見舞いに行って来るわ。タカコも入院してるし、会社の他の連中も何人か入院してるからさ」
「タカコさん、大丈夫なんですか?」
「ああ、お前は心配するな。その内二人で見舞いに行ってやろう、な?」
 そんな遣り取りを交わした後に高根は病棟へと向かって歩き出し、凛は彼の背中が廊下の向こうに消える迄見送ってから処置室へと足を向けた。
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