犬と子猫

良治堂 馬琴

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第76章『足止め』

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第76章『足止め』

 炬燵に入りうとうととしていた凛の鼓膜を、電話の呼び鈴の音が軽く叩く。慌てて立ち上がり
「はい、高根でございます」
 と出てみれば、聞こえて来たのは聞き慣れた低く優しい声音。
『凛?俺。体調はどうだ?』
「真吾さん……この時間じゃ仕事中なんじゃ……さぼりは駄目ですよ?」
 家の主であり凛の夫でもある高根は現在京都へと出張中、家へと残して来た身重の愛妻がよほど心配なのか日に何度も電話をよこし、凛を呆れさせている。
『いやぁ、こっちは季節外れの大雪でな、する事何も無いのよ。その所為で戻りが押すんだけど、大丈夫か?』
「はい、体調も最近は凄く良いし、何も問題無いですよ。胎動感じる様になったのも随分早いみたいですけど、二人も元気に動いてます」
『そっか、無理は絶対にしない様にな?』
「はい」
『また夜に電話するから』
「はい、お仕事頑張って下さいね」
 高根の過保護と心配性はとどまるところを知らず、京都への出張も自分が行かないか凛を一緒に連れて行くかのどちらかだと半ば本気で言っていた。それを何とか宥めすかして送り出した事を思い出し笑いながら、凛は受話器を戻し再び炬燵へと入った。
 桜の季節はもうすぐそこ迄来ている筈なのに、天候は全国的に冬へと逆戻りしたのかここ数日の冷え込みは少々厳しい按配。空気は乾燥していても気温がここ迄低いと洗濯物が今日の内に乾くのかは微妙なところで、もういっその事明日迄そのままにしておこうか等と考えつつ冷めてしまったほうじ茶の湯飲みに口をつけた。
 披露宴の当日とその翌日に休んだ以外は碌に休日も無いままの高根、健康を害さないかという事は心配ではあるものの、現在の情勢を考えれば当代の海兵隊総司令の任に在る者が、規則的且つしっかりとした休日を得る事が困難である事は凛にも理解出来る。せめて帰宅出来た時だけでもしっかりと身体を休めて欲しいとあれこれと気を配ってはいるつもりだが、そんな中、自分ばかりが大事にされ楽をしている様でもあり、何とも申し訳無い心持ちになってしまう、それがここ最近の心情だ。

『お前も今大仕事してるだろ、俺には絶対に出来ないのをさ。子供産むってのは男にはどう頑張ったって出来ねぇんだぞ、しかも俺の子を産むのはお前だけなの。お前にしか出来ない大仕事なんだから、あれこれ考える前にそれをこなす事を一番に考えてくれよ、な?』

 凛が気に病んでいる事は高根にもよく分かっていたのか、京都への出発前、玄関先でそんな事を諭された。実際、彼の言う事は尤もで、あまり考えない様にしようとは思うもののふとした拍子に考え込み、そしてそれにはたと気が付いてふるふると頭を振り気を取り直す、そんな日々。
 以前の生活を考えれば贅沢至極な悩みだと思うし、考えていてもどうしようもない事ばかり、そんな事をいつ迄も続けていても仕方が無い。運動がてら同じ様に夫が京都へと出張中である義姉敦子のところへと行ってみようかと思い立ち、先ずは約束を取り付けよう、凛はそんな事を考えつつ、電話へと向かって歩き出した。

 ――京都、陸軍宇治駐屯地――
 本体へと戻した公衆電話の受話器、高根はそれを掴んだままの己の手を見下ろしながら、はぁ、と、深い溜息を一つ吐く。
 手続きを済ませ親族や世間に対してお披露目も済ませ名実共に夫婦となったものの、それで仕事が減るわけでもなく逆に時機悪く増える始末、新婚早々に京都への出張とは間が悪い事この上無い。凛をこちらへと帯同させようかと半ば本気で考えたもののそれは流石に実行出来ず、かと言って自分が京都へと赴かずに済ませるという事も出来ず、後ろ髪引かれるどころが後頭部の毛をごっそりと持っていかれる勢いで渋りつつここへとやって来た。
 今回の会議等を終えて博多へと戻れば、それ以降は実地での訓練や演習の連続が待っている、家に帰れない事もまた増えるだろう。この国、そして大和国民二千五百万の身命と財産を護る為に必要不可欠な行程だという事は分かってはいるしそれを不満に思う事は無いが、大切な時期にぶつかる様にして事を起こして来た『敵』に対しては、殺しても殺し足りないというのが正直なところ。自分が現場の人間であれば先陣切って斬り込み敵を徹底的に叩きのめすのに、そんな物騒な事を思いつつ、黒川や宇治駐屯地司令を兼任する東部方面師団総監の室井が待つ総監執務室へと向かって歩き出す。
 今日は異常気象とも呼ぶべき大雪の為に予定されていた訓練は軒並み中止となり、高根を始めとした高官達も現場の人間も、皆少々暇を持て余し気味。片付けなければいけない仕事が無いわけでは当然無いのだが、現在の悪天候でそれも止まってしまっている状態であり、天候が回復したらその皺寄せが一気に来る事に思いを馳せ溜息を吐きながら執務室の扉を叩いて中へと入れば、そこにいたのは黒川だけだった。
「あれ?室井さんは?」
「んー、何か良い事思いついたっつって出て行ったぞ」
「良い事?」
「さぁ?何の事だか」
 そう言いながら卓上の茶菓子の包みを開けて中身を口へと放り込む黒川、その様子を眺めつつ高根は向かいへと腰を下ろし、自らも菓子鉢へと手を伸ばす。
「ったくよぉ……この雪はいつ止むのかねぇ……」
「……お前さ、幾ら早く帰りたいからってよ、それ、もう止めろよ。今日もう十七回目だぞ、いい加減鬱陶しいわ」
「だって俺新婚さんなのに!嫁さんといちゃいちゃしたい盛りなのに!それが何でむさ苦しい野郎に囲まれてなきゃなんねぇんだよ!」
「むさ苦しいのは海兵隊の代名詞だろうが。言っとくがな、陸軍はお前等よりは爽やかだぞ」
「うるせぇ!!」
 呆れ顔で菓子をぽりぽりと食う黒川、高根はそれに荒々しく言葉を返し、小袋の中のあられを口の中に一気に流し込んだ。
 新婚――、今回ずっと顔を合わせている室井からはからかいと祝いの言葉を贈られたが、中央、統幕の面々からは今のところ何も言われていない。名を連ねる人間が入籍したという事を知らない筈は無いのだが、現状の忙しさは何処も似た様なものであり、祝い事とは言えど個人的な事に言及している余裕は無いのだろう。尤も、外野からあれこれこ言われる事の煩わしさは未経験とは言えど想像はつくから、何も言って来ない現状は却って有り難いというのが高根の本音だった。
 事が落ち着けば『遅ればせながら』という言葉と共にやって来るのであろう鬱陶しさ、高根はそれに思いを馳せつつ、菓子の小袋へと再び手を伸ばした。
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