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第487章『色事』
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第487章『色事』
激戦地となり荒廃した博多市街地、その復興に大きな役割を果たしたのは、皮肉な事に、荒廃させるに至った当事者でもあるワシントン軍駐留艦隊と上陸部隊の存在だった。
協力体制を敷き対馬区の戦線を大陸側へと押し遣る為の軍事同盟が締結され、直接的な戦術戦略だけでなく、今後起こり得る多様な状況に柔軟且つ迅速に対応する為の精鋭を共同で育成するという合意の下、大ワ合同教導団の創設が決定された。ワシントン側の初代団長にはロバート・D・テイラー海兵隊中将が、大和側の初代団長には黒川龍興陸軍少将が就任し、その二人が合意書の調印式で握手を交わしている写真が全国紙の紙面を飾ったのは、博多を春の嵐が吹き抜けた頃の事。
二国間での大きく且つ重要な計画が動き出した事を受け、博多は官民問わず俄かに活気づく事となった。ワシントンの駐留部隊が本格的に博多を拠点とする事が決定し、建造物の新築、食料や物資や燃油の需要が急増し、そこで利益を得ようとする企業や個人が凄まじい勢いで博多とその周辺地域へと流入し始め、それに引っ張られる様にして旧来からの博多住民の帰還も加速する事となった。結果、博多の人口は『博多事変』と呼ばれる様になったあの一連の出来事の以前よりも二倍程に膨れ上がり、今では市街地、特に中州は以前よりも活気に満ち溢れる様になっている。
そんな中、三軍の兵士――、その中でも特に独身者達を喜ばせたのは、中洲の花街の復活だった。
古来より軍と売買春は切っても切れない間柄、それは今でも変わる事は無く、大和国内最大の軍の街である博多には、様々な方法で性欲を発散させる多様な風俗業が遥か昔から連綿と看板を掲げ続けている。一年近くもの間途絶えていたその愉しみの復活ともなれば兵士達が浮足立つのも無理からぬ事で、敦賀が曹長の大部屋へと入った時、部屋の主達は丁度そんな話題で盛り上がっているところだった。
「何だ随分盛り上がってるな」
「先任!お疲れ様です!」
「あ、いや、あの、花街の角海老楼が今日から営業再開するって話で……はい」
突然姿を現した鬼の最先任の姿に曹長達は弾かれる様にして立ち上がり、直立不動で微妙に視線を泳がせながら報告をする。職務をこなしながらなら雑談に目くじらを立てる気も無いのだが、そんな事を考えた直後、敦賀はふとと或る事に気が付く。
「角海老が営業再開?」
以前は処理目的で定期的に花街の遊女屋へと通っていた身には馴染みの有る屋号、博多で最も古く由緒の有る遊女屋の名前を、思わず口に出していた。
「はい、あそこは高いから俺等の俸給じゃなかなか厳しいんですけど、営業再開を記念して半額なんだそうで、それで記念に行ってみようかって話を……して、ました……すみません」
博多の治安が悪化し始めてから既に一年以上、その間海兵隊だけではなく陸軍も沿岸警備隊も、どれ程の覚悟を胸に秘め事態へと臨み戦って来たのかは敦賀にもよく分かっている。そんな泥沼の様な重苦しい日々は終わりを迎え日常が戻りつつある昨今、花街の復活、そしてその象徴でもある角海老楼の営業の再開は、彼等にとって本当に喜ばしい事なのだろう。
「そうか……まぁ、浮足立つ気持ちは分かるが、あまり羽目は外すなよ。特に今はワシントン軍も街中に溢れてるんだ、どんな些細な揉め事も起こすな」
「あ、でも、ワシントン軍も花街にかなり来てますよ。奴さん達も女や女房と離れてるから」
「それを知ってるから奴等と問題を起こすなと言ってるんだ……ところで山瀬、お前何仲間に入ってるんだ、嫁さんはどうした」
「……本人が帰還する代わりに離婚届が送られて来ました……避難先で早々に男作って、もう子供も生まれたそうです……これから離婚と嫡出否認の裁判ですよ……もう良いんです俺なんか……」
「……お、おう……悪かったな」
軽く注意をするに止めるつもりだったのに、どうやら触れてはいけない事に触れてしまったらしい。周囲の曹長達も何とも言えない気まずそうな面持ちになり、その内の一人が空気を変えようと思ったのか、敦賀へと向かって口を開いた。
「先任も行きませんか?前はたまに花街で見かけてたのにもうずっと――」
その言葉に、最初に顔色を変えたのは周囲の曹長達、その次は口を開いた当人だった。言われた方の敦賀と言えば普段から怒り以外に表情の変化は大きくなく、今回もまた僅かに眉根を寄せて口元を微かに歪めた程度で、部下の誘いに
「いや……俺は良い。羽目を外さない態度に楽しんで来い。ああ、この書類、決裁しておいたから需品科に回せ」
と、それだけを淡々と返すとそのまま大部屋を出て行った。
「馬鹿!お前!!」
「先任が未だにタカコを待ってるの忘れたのか阿呆が!!」
「ごめん……空気変えようと思って慌てて話題探したら……すまん」
現在の大部屋の住人は、全員が十年以上の経験を持つ古参揃い。事変の遥か以前から、そしてほんの束の間の間タカコがこの部屋の一員として加わる前からの経験者で、当然のことながら全員がタカコの事はよく知っている。それは取りも直さず敦賀がタカコにベタ惚れであり、事変の直前にはどうやら二人の想いは通じ合っていたらしいという事もまた、している事でもあった。
そして、理由ははっきりとはしないもののタカコは敦賀の前から姿を消し、昨年の事変終結後暫くしてから、高根から
『タカコの事について口外する事を禁止する』
という緘口令が全海兵に対し下命され、どうも穏当な話ではないらしいといった事はそこかしこで囁かれる様になった。敦賀にとってもタカコの失踪も緘口令も納得の出来るものではなかったのだろう、表向きは命令に従いつつも、それでも彼がタカコの事を諦めずに只管待ち続けているという事は、二人の事をよく知っている者から見ればそれは明らかで、真剣だという事が分かるからこそ、何も言えずに見守る事しか出来なくなった。
彼のそんな様子を理解してれば、他の女を紹介したり花街へと誘ったりするという事は言語道断であるという事は理解している筈。それなのに幾ら空気を変えようと思ったとは言え、その方法が最悪だと失言をした曹長を他の面々が罵る声が段々と小さくなるのを感じながら、敦賀は自らの執務室へと戻ろうと廊下を歩き続け、階段を昇り始める。
執務室へと戻ればそこは静けさに満ちており、その事に若干の安堵を感じながら椅子へと身体を沈め、そして、執務机に立て掛けてある二振りの太刀へと手を伸ばした。一振りは自らに貸与されている武蔵、それには構わずにその隣の太刀を手に取り、鞘を片手で掴み、す、と、音も無く抜いてみる。
静かに、それでも強い光を放つ刀身に黒い油性ペンで自らが書いた『村正』の文字に、小さく溜息を吐いた。
激戦地となり荒廃した博多市街地、その復興に大きな役割を果たしたのは、皮肉な事に、荒廃させるに至った当事者でもあるワシントン軍駐留艦隊と上陸部隊の存在だった。
協力体制を敷き対馬区の戦線を大陸側へと押し遣る為の軍事同盟が締結され、直接的な戦術戦略だけでなく、今後起こり得る多様な状況に柔軟且つ迅速に対応する為の精鋭を共同で育成するという合意の下、大ワ合同教導団の創設が決定された。ワシントン側の初代団長にはロバート・D・テイラー海兵隊中将が、大和側の初代団長には黒川龍興陸軍少将が就任し、その二人が合意書の調印式で握手を交わしている写真が全国紙の紙面を飾ったのは、博多を春の嵐が吹き抜けた頃の事。
二国間での大きく且つ重要な計画が動き出した事を受け、博多は官民問わず俄かに活気づく事となった。ワシントンの駐留部隊が本格的に博多を拠点とする事が決定し、建造物の新築、食料や物資や燃油の需要が急増し、そこで利益を得ようとする企業や個人が凄まじい勢いで博多とその周辺地域へと流入し始め、それに引っ張られる様にして旧来からの博多住民の帰還も加速する事となった。結果、博多の人口は『博多事変』と呼ばれる様になったあの一連の出来事の以前よりも二倍程に膨れ上がり、今では市街地、特に中州は以前よりも活気に満ち溢れる様になっている。
そんな中、三軍の兵士――、その中でも特に独身者達を喜ばせたのは、中洲の花街の復活だった。
古来より軍と売買春は切っても切れない間柄、それは今でも変わる事は無く、大和国内最大の軍の街である博多には、様々な方法で性欲を発散させる多様な風俗業が遥か昔から連綿と看板を掲げ続けている。一年近くもの間途絶えていたその愉しみの復活ともなれば兵士達が浮足立つのも無理からぬ事で、敦賀が曹長の大部屋へと入った時、部屋の主達は丁度そんな話題で盛り上がっているところだった。
「何だ随分盛り上がってるな」
「先任!お疲れ様です!」
「あ、いや、あの、花街の角海老楼が今日から営業再開するって話で……はい」
突然姿を現した鬼の最先任の姿に曹長達は弾かれる様にして立ち上がり、直立不動で微妙に視線を泳がせながら報告をする。職務をこなしながらなら雑談に目くじらを立てる気も無いのだが、そんな事を考えた直後、敦賀はふとと或る事に気が付く。
「角海老が営業再開?」
以前は処理目的で定期的に花街の遊女屋へと通っていた身には馴染みの有る屋号、博多で最も古く由緒の有る遊女屋の名前を、思わず口に出していた。
「はい、あそこは高いから俺等の俸給じゃなかなか厳しいんですけど、営業再開を記念して半額なんだそうで、それで記念に行ってみようかって話を……して、ました……すみません」
博多の治安が悪化し始めてから既に一年以上、その間海兵隊だけではなく陸軍も沿岸警備隊も、どれ程の覚悟を胸に秘め事態へと臨み戦って来たのかは敦賀にもよく分かっている。そんな泥沼の様な重苦しい日々は終わりを迎え日常が戻りつつある昨今、花街の復活、そしてその象徴でもある角海老楼の営業の再開は、彼等にとって本当に喜ばしい事なのだろう。
「そうか……まぁ、浮足立つ気持ちは分かるが、あまり羽目は外すなよ。特に今はワシントン軍も街中に溢れてるんだ、どんな些細な揉め事も起こすな」
「あ、でも、ワシントン軍も花街にかなり来てますよ。奴さん達も女や女房と離れてるから」
「それを知ってるから奴等と問題を起こすなと言ってるんだ……ところで山瀬、お前何仲間に入ってるんだ、嫁さんはどうした」
「……本人が帰還する代わりに離婚届が送られて来ました……避難先で早々に男作って、もう子供も生まれたそうです……これから離婚と嫡出否認の裁判ですよ……もう良いんです俺なんか……」
「……お、おう……悪かったな」
軽く注意をするに止めるつもりだったのに、どうやら触れてはいけない事に触れてしまったらしい。周囲の曹長達も何とも言えない気まずそうな面持ちになり、その内の一人が空気を変えようと思ったのか、敦賀へと向かって口を開いた。
「先任も行きませんか?前はたまに花街で見かけてたのにもうずっと――」
その言葉に、最初に顔色を変えたのは周囲の曹長達、その次は口を開いた当人だった。言われた方の敦賀と言えば普段から怒り以外に表情の変化は大きくなく、今回もまた僅かに眉根を寄せて口元を微かに歪めた程度で、部下の誘いに
「いや……俺は良い。羽目を外さない態度に楽しんで来い。ああ、この書類、決裁しておいたから需品科に回せ」
と、それだけを淡々と返すとそのまま大部屋を出て行った。
「馬鹿!お前!!」
「先任が未だにタカコを待ってるの忘れたのか阿呆が!!」
「ごめん……空気変えようと思って慌てて話題探したら……すまん」
現在の大部屋の住人は、全員が十年以上の経験を持つ古参揃い。事変の遥か以前から、そしてほんの束の間の間タカコがこの部屋の一員として加わる前からの経験者で、当然のことながら全員がタカコの事はよく知っている。それは取りも直さず敦賀がタカコにベタ惚れであり、事変の直前にはどうやら二人の想いは通じ合っていたらしいという事もまた、している事でもあった。
そして、理由ははっきりとはしないもののタカコは敦賀の前から姿を消し、昨年の事変終結後暫くしてから、高根から
『タカコの事について口外する事を禁止する』
という緘口令が全海兵に対し下命され、どうも穏当な話ではないらしいといった事はそこかしこで囁かれる様になった。敦賀にとってもタカコの失踪も緘口令も納得の出来るものではなかったのだろう、表向きは命令に従いつつも、それでも彼がタカコの事を諦めずに只管待ち続けているという事は、二人の事をよく知っている者から見ればそれは明らかで、真剣だという事が分かるからこそ、何も言えずに見守る事しか出来なくなった。
彼のそんな様子を理解してれば、他の女を紹介したり花街へと誘ったりするという事は言語道断であるという事は理解している筈。それなのに幾ら空気を変えようと思ったとは言え、その方法が最悪だと失言をした曹長を他の面々が罵る声が段々と小さくなるのを感じながら、敦賀は自らの執務室へと戻ろうと廊下を歩き続け、階段を昇り始める。
執務室へと戻ればそこは静けさに満ちており、その事に若干の安堵を感じながら椅子へと身体を沈め、そして、執務机に立て掛けてある二振りの太刀へと手を伸ばした。一振りは自らに貸与されている武蔵、それには構わずにその隣の太刀を手に取り、鞘を片手で掴み、す、と、音も無く抜いてみる。
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