大和―YAMATO― 第五部

良治堂 馬琴

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第488章『家』

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第488章『家』

「なぁ、貴之よ。マス掻くのは男として自然な事だとして、窓は閉めておけよ」
 夜の中洲、活気を取り戻し行きかう人で賑わっている通りに並んだ屋台の一つに並んで座り、炙った明太子を突きながら焼酎を飲んでいるのは敦賀と藤田。気心の知れた古馴染同士くだらない事を思い付くままに話していた最中、突然藤田が吐き出した言葉に敦賀は口に含んでいた焼酎を藤田へと向けて思い切り噴き出した。
「だー!汚ぇ!!」
「てめぇがいきなりそんな事言うからだろうが!!何盗み聞きしてんだふざけんな!!」
「いや、だってさぁ、お前の部屋角部屋で、外は本部棟から戻って来た時の通路だし、しょうがねぇじゃん?俺だって気付きたかねぇよ、野郎の、しかもお前のそんな場面想像したくもねぇわ。だいたいお前が悪いんじゃねぇかあの位置取り、タカコを部屋に連れ込むのに一階の角部屋ならバレ難いとでも思ったんだろうけど、安普請の薄い壁一枚先は皆が通る通路だぞ。反対側の角部屋を指定しておかなかったとか詰めが甘いわ。何の為の最先任だよ、権力使え、権力を」
「うるせぇ……そんな事の為の最先任じゃねぇのだけは確かだ……とにかく、もう黙れ」
 究極の個人的な事柄を親友とは言えど他人に聞かれ、その上部屋割に私情を持ち込んでいた事も見透かされ、何ともばつが悪そうな面持ちの敦賀はそれだけを言うのが精一杯。その後はもう焼酎を一気に呷りそっぽを向いてしまい、藤田はそんな彼の様子を見て肩を揺らせて笑いながら、空になった敦賀のコップに一升瓶を傾け、つい、と指先で僅かばかり相手の方へと押し遣り言葉を続けた。
「待つって決めたんだろ、なら、身持ちは堅くしといた方が良いと俺も思うぜ?ま、他にバレない様に発散しとけよ」
「……うるせぇ」
「何だよ、あいつの事、待つ気無いのか」
「そこじゃねぇよ」
 誰もタカコの事を口にしなくなってからもう随分と経つ、敦賀に近しい者であれば緘口令だけではなく彼に対しての配慮も有るのだろう。そして、敦賀自身も彼女の名を呟く事は今はもう殆ど無い。いないと分かり切っている人物の名を呼び、不在を実感して例え様も無い孤独感に襲われた事は数知れず、いつしか名を呼ぶ事は無くなった。
 それでも、だからと言ってタカコの事を忘れたわけではなく、何をしていても常に意識の真ん中に彼女の存在が有る。待つと決めた事も本心からで、何とか折り合いを付けようと静かにもがいているというのが敦賀の実情だった。そんな中、健康な成人男性として性欲というものは意識でどうにかするには限度が有り、かと言って花街へと出向きタカコ以外の女を抱くという発想はそもそも無く、結局、何度か自分で処理をしてはいるものの、それをよくよく見知った人間に勘付かれてしまうとは、どうにも始末が悪い出来事だった。
 季節は移り変わり春は終わりの頃合い、もう直ぐ梅雨がやって来る。それからもう少し経てば『あの日』から四年、早かったようでいて随分と年月は経ってしまった。高根の妻が京都から戻って来たのは先月の頭の事、高根は会議の予定がずれ込んでしまい迎えには出られず、代わりにと駅へと向かった敦賀の視界へと飛び込んで来たのは、双子用の乳母車の中ですやすやと眠る乳児が二人。顔立ちはと言えば非常に残念な事に高根に瓜二つで、これで中身も似ているなら最悪だ、母親である凛はこれから先さぞかし大変だろうと妙な同情をした事をよく覚えている。
 高根の自宅へと送り届けて基地へと戻れば、それと入れ替わる様にして高根が基地の正門を凄まじい勢いで出て来て、自宅の方向に全力疾走で消えて行った。長い間離れ離れになっていたのだから気持ちは分かるがとそれを無言で見送り職務へと戻ったが、翌朝は何時になっても出勤して来ない高根に痺れを切らせて迎えを遣り、そうやって漸く渋々とやって来た高根には若干の苛立ちを感じてしまったのが正直なところ。
 公はともかくとして私は甚く充実している様子の高根、その彼が以前持ち掛けて来た自宅の売却の話は頓挫していたわけではない様子で、その話題を再度振られたのは今朝の事。これから一気に騒がしくなるこの界隈は流石に子育てには不向きだという認識は変わっていないどころか強まったらしく、もう少し郊外の住宅地に中古だが広い間取りの良い物件を見付けたから契約して来たと、そう言われた。日本海海岸線、つまりは基地に近い地域ではワシントン軍や大和軍の施設の建造やその周辺で儲けようとしている業者達が用地を必要としている所為も有り地価が暴騰しつつあるが、住宅地に関しては立地的な意味以外にも細切れ過ぎてそういった用途には不向きの為、地価は寧ろ下落傾向にあるらしい。博多とその周辺地域の住人の中には、帰還ではなく避難先への定住を選択した者もそれなりにおり、そんな住人達が売りに出していた物件を職務に忙殺されながらもまめに当たっていた中で漸く見付けた物件だとかで、内見に行った時に何も手を入れずに引っ越せる事はもう確認しているから、敦賀の方が気が変わっていなければ今の自宅を買い受けてもらえないだろうかと、そう言われた。
 家を構え、彼女が帰って来られる場所を用意して待ち続けるという意思は変わっていなかったし、そうでなくとももう随分と前からいい加減に営外へと出ろという事は言われていた。それならばと値段の擦り合わせをして契約書を交わし、財布に入っていた札全てを手付として高根に渡したのが午後の事。流石に即金で買える額ではなかったから近い内に銀行へと融資の申し込みをして割賦の手続きを執る事になるが、引っ越し自体は高根の都合に合わせなければならないから、そちらの方の見通しはまだ立っていない。
 いずれにせよ、周囲の時間だけが流れて行く中で独り立ち止まっていた自分、それを良い事だとは思ってはいなかったし、動き出す良い切っ掛けになるだろう、そんな事を考えながら焼酎を呷る敦賀に、藤田がまた話し掛けてくる。
「貴之、本当に気を付けろよお前。気付いたのが俺だったから良かったようなものの、他の奴等だったら――」
「……だから……その話はもうするんじゃねぇ……真吾の家を買った、真吾が新居に引っ越したら直ぐに俺も営外に出る……手伝えよ」
「漸くか!そうだな、営外に出て一戸建てに住めばどんだけマス掻いても――」
 その少しばかり後、大柄な海兵が那珂川へと叩き込まれ、随分と大きな水柱が上がっていた。
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