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『夫婦』
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『夫婦』
――京都、嵯峨野――
秋の花の盛りも過ぎ、紅葉も少しずつその色を深めつつある、そんな頃合い。普段は妻に任せ切りになってしまっている庭の手入れの手を休め、敦賀貴一郎は丸めていた背を反らし腰をとんとんと叩きながら立ち上がった。
「貴一郎さん、お茶にしましょうか」
背後からかけられた声に振り返れば、湯飲みが二つと急須の乗った盆を手にした妻、幸恵が穏やかな笑みを浮かべつつ縁側に立っており、貴一郎はそれに
「ああ、そうしようか、有り難う」
そう言葉を返して歩き出し、縁側へとゆっくりと腰を下ろす。
四年前の夏の日に端を発した出来事は去年の初夏に最大の転換点を迎え、大和はそれ以降国体が成立してから初めて、外国との国交を樹立するに至った。外交を担う部署は政府には無く、その設立の準備へと入った政府を代表する形で軍はワシントンとの折衝に深く関わった。その中でも貴一郎は事情をよく知る者として統幕を代表してここ一年程は休みも無く働き続け、週末毎に休める様になったのは最近になってからの事。
八月の末、待ち続けていた人物、タカコが大和へとやって来て、そして、息子である貴之との将来を考えてくれていると言ってくれた。その後彼女は博多へと赴いて行き、彼女の帰りを待ち続けていた貴之と共に暮らし始める様になった。その直後にここ京都へと結婚の挨拶に来てくれて以来二人の顔は見ていないが、何の報せも無いところをみると、仲の良い新婚生活を送っているのだろう。
仕事も落ち着きつつある事だし、数日休みを取って博多へと旅行するのも良いかも知れないな、茶を飲みながらそんな事を考えていると、幸恵も似た様な事を考えていたのか、楽しそうな様子で口を開く。
「ねぇ、貴一郎さん、あの二人、仲良くやってるかしらね?」
「ああ、大丈夫だろう」
「ちょっと様子を見に行ってみませんか?」
「俺も同じ事を考えていたところだ。いつ頃が休みを取り易いか、確かめてみるよ。まぁ、俺達が行ったところで、あいつは喜ばないだろうけどな」
「そうねぇ、今は二人きりで仲良くしたいんでしょうしね。でも、あの子は二人きりでも良いんでしょうけど、早く見てみたいですね、あの二人の赤ちゃん」
のんびりとした晩秋の午後、その空気に似つかわしくない感覚が貴一郎の身体を走り抜ける。その話題はまずい、と、姿勢を正し幸恵へと向き直った。
「幸恵さん、貴之にも、タカコさんにも、子供の事は言うんじゃない、良いな?」
貴一郎の突然の言葉に、幸恵は湯飲みを手にしたきょとんした面持ちで固まる。本人達に言うかどうかはともかくとして、我が子が結婚したばかりの夫婦の会話としては何もおかしい事は無い筈なのに、そんな気持ちなのだろう。
「どうしたんです?いきなり、そんな事言って」
「百合達が結婚した時も同じ様な事を言って鬱陶しがられただろう?あの時は俺達の娘だったからそう問題も無かったが、タカコさんは他所様のお嬢さんなんだから。幸恵さんだって嫌な姑にはなりたくないだろう?」
タカコが子供を生せない身体である事はよく知っている、自分はその事について彼女に対してひどい言葉をぶつけ、息子に近づくなと拒絶した。数ヶ月前に彼女がここへとやって来た時に許しを請い漸く和解する事が出来たのだ、これ以上傷つける様な事はしたくないし、貴之がそんな話を耳にすれば激怒するに違いない。
何が有ったのか自分が何をしたのかは言えないまま、にどうにか幸恵の意識を他所に向けようと言葉を選びつつ説得を試みれば、長い夫婦生活の中で得た阿吽の呼吸なのか、幸恵は盆の上に湯飲みを置き、貴一郎へと向き直り、にっこりと微笑みを浮かべつつ妙に優しげな口調で問い掛けた。
「ねぇ、貴一郎さん?何で目を逸らしてるのかしら?知ってた?あなた、都合が悪くなるとそうやって目を逸らすのよ?」
――福岡、博多――
大和海兵隊最先任上級曹長、敦賀貴之、年齢、三十七歳、諸般の事情により手続き上制度上は独身だが実質既婚、しかも新婚。
海兵隊史上最強最恐と畏怖される彼が結婚したのは数ヶ月前の晩夏、最愛の女と漸く落ち着いた彼の言動が柔らかくなる事を周囲は期待したが、新妻であるタカコは大和への赴任から一ヶ月も経たない内に急遽本国へと呼び戻され、海兵隊の管理区域内に新設された飛行場からワシントン軍の輸送機へと乗り込み飛び立って行った。長期間の帰国ではなくその期間は二ヶ月程ではあったものの、漸く二人きりの生活を送れるものと思っていた貴之の荒れ具合は凄まじいものだった。その様子に親友であり上官でもある海兵隊総司令の高根を始めとして、多くの大和人がタカコが戻って来るのを待ち侘びるという状況だった。
そんな中その『希望の星』が戻って来たのは一昨日の事、厄介払いとばかりに高根は貴之へと一週間程の纏まった休みを与え、海兵隊に漸くと訪れた平和を皆が満喫していた頃、基地に程近い所に在る『愛の巣』では、主である貴之の怒りがそろそろ臨界点を突破しようかという状況になっていた。
「どう?タカコさん」
「美味しいです!これ、京都から持って来て下さったんですか?」
「そうなの、うちのお漬物はいつもこちらのお店から持って来て貰ってるんだけどね、タカコさんにも食べて欲しくて、出て来る時に買って来たの。喜んでもらえて良かったわ」
原因は、今目の前でタカコと漬物についてきゃっきゃうふふと遣り取りをしている母、敦賀幸恵。昨日の夜いきなり電話をして来て、
『今博多駅に着いたのよ、迎えに来てちょうだい』
事も無げにそう言い放たれた時には、聞かなかった事にして電話を叩っ切ろうかと、正直そんな衝動に駆られた。しかし電話を切ったら切ったで次に電話をするのは基地に違い無い、そう思い直し
「今から行くから待ってろ」
そう言って電話を切れば、居間のソファで愛犬二頭とゴロゴロしていたタカコが顔を出し、その彼女に
「何か知らんがお袋がこっちに来てる、今博多駅だそうだ。迎えに行って来る」
「え?お義母さんが?お義父さんは?」
「分からん、どうも一人で来たっぽい様な感じだったが。取り敢えず行って来る」
「私も行くよ」
駅迄は歩いて行くには距離が有り過ぎる、車を呼ぼうと再び受話器を持ち上げた貴之にそう言って上着を取りに二階へと上がって行くタカコ。その彼女が持って来た自らの上着を受け取り袖を通すと、二人揃って外へと出て、やがてやって来た車へと乗り込み駅へと向かった。
博多駅の喫茶店でお茶を飲んでいたのはやはり母一人、随分と大荷物を抱えた母はタカコの顔を見るなり泣き出し、面食らうタカコの両手を握り締め、
「ごめんなさい、本当にごめんなさいね」
と、そう繰り返し続けた。それを何とか宥めて待たせていた車へと乗り込み自宅へと戻り、
「私が話を聞くから、貴之は台所にでもいてくれ」
と言うタカコの言葉に従い台所で焼酎を飲みつつ様子を窺っていたところ、漏れ聞こえて来る内容を繋ぎ合わせてみると、何故こんな事になったのか話の輪郭がどうにか掴めて来た。
「事の顛末を聞かせる事自体、とても申し訳無いし心苦しいし、タカコさんも嫌な気持ちになると思うんだけれど」
という言葉から始まったのは、幸恵がタカコの不妊について知ったという事。昨日の日中早く孫の顔が見たいと自分が言ったところ、貴一郎がそれは絶対に息子夫婦には言うなと窘め、その時の貴一郎の様子を不審に思い問い詰めた。その結果幸恵が聞かされたのは、一年半程前にタカコが貴之の前から姿を消す決定打となった、貴一郎がタカコへとぶつけた言葉の数々とタカコの出自や立場について。その流れは喩え自らの夫と言えど幸恵にとって看過出来るものではなかった様子で、夫のあまりの無神経さに顔も見たくないとその日は息子である貴之の私室であった離れへと籠り、次の日の朝貴一郎が出勤してから家を出て電車に乗り博多へとやって来たのだと、そんな流れだった。
話している間幸恵は何度も何度も言葉を詰まらせ、宥めるタカコへと謝り続けていた。タカコの方としては貴一郎の言葉は既に過去のもので気にもしていなかったのか、幸恵を宥めている声音は困惑しきりで、しかし幸恵や喜一郎に対して孫を見せられないという負い目は未だに有るのだろう、
「私は気にしてませんから……寧ろ、私の方が申し訳無くて」
そんな事を何度も言っていた。
結局数時間は二人でそんな話を続け、もう夜も遅いからと貴之が布団を用意した客間へと幸恵が入ったのは日付も変わった深夜の事。それから貴之とタカコも二階へと上がり寝台へと入ったが、真下に人がいては事に及ぶ事も出来ず、旅の疲れが完全には取れていないタカコの寝顔を見ながら、若干苛立ちを感じつつ目を閉じる事しか出来なかった。
そうして夜が明けて今、起床からこちら幸恵は我が子である貴之には見向きもせず、タカコと共に台所に立ち漬物をつまみつつ朝食を作っている。
「いやぁ、私、料理は全然で……」
「ずっとお仕事してたならしょうがないわよ」
「これから頑張ります」
交わされる会話は実に和やかで、嫁姑の諍いというものに無縁である状況を喜ぶべきところなのだろう。しかし、タカコがワシントンから帰って来た当日は雑務の処理も有るという事で彼女は基地内に設けられたPの事務所で寝泊まりし、自宅へと帰って来たのは昨日の夕方近くの事だった。つまり、二ヶ月近くも離れ離れになっていて漸く再会したというのに、二人きりの時間はほんの数時間程しか過ごせておらず、その数時間ですら彼女が事務所から連れ帰って来たヤスコとトルゴが間に割って入っているという状況。夜こそはと期待していたというのにそれすらも母という邪魔が入り、一体この状況は何なんだと、貴之の機嫌は秒刻みで悪化を続け、今では垂れ流しになっている不機嫌を隠そうともしていない。
しかし女二人はそんな事には気が付かないのか無視しているのか実に楽しそうに言葉を交わしていて、その様子がまた貴之の不機嫌に拍車をかける。
父がタカコにぶつけた言葉は今でも許す事は出来ない、しかしタカコが許すと、過去の事だからと言っているから、もう言及しない事にした。これ以上はもう波風を立てて欲しくはないし、二人きりの時間を大切にしたいと思っているのに、何故こうも平穏無事とはならないのか、事を荒立てた張本人である父の言動でこうも振り回さなければならないのか。
と、電話が鳴ったのはそんな時。出ようと踵を返したタカコを目線と指先で制し、貴之はソファから立ち上がり電話へと歩み寄り受話器を手に取った。
「はい、敦賀です」
『貴之か……その、母さんそっちに行ってないか?』
「……いい加減にしてくれ!あいつは一昨日迄本国に戻ってて家に帰って来たのは昨日だぞ昨日!夜にはお袋が押しかけて来てこの有様だよ!!都合つけて一緒に休み取ろうと思ってたってのに全部パァだよ!!さっさと迎えに来い!!」
ガチャン!
言うだけ言って受話器を叩きつければ、その勢いに呆気にとられた様なタカコと幸恵の様子が目に入り、それにすら苛立ちを感じつつ、深く息を吐いた。
さっさと迎えに来いと言いはしたものの父も立場の有る身、今日明日とはいかないのは貴之にも分かってはいたが、父が母を迎えに来たのは次の週末。結局、それ迄に貴之の機嫌は更に悪化する事となった。
「じゃあね、タカコさん、お世話様でした」
「タカコさん、家内が迷惑をかけたね、すみませんでした」
「いえいえ、こちらこそ何のお構いも出来ませんで。お義母さんには色々教えて頂いて楽しかったです。また来て下さいね」
「……親父、お袋……二人共、俺には何の言葉も無しかよ……」
自宅の前で未だ不機嫌を纏ったまま仁王立ちの息子の姿を見て貴一郎は内心溜息を吐き、貴之の横に立つタカコへと言葉を掛け、幸恵に続いて車へと乗り込み運転手へと
「やってくれ、博多駅に」
と、そう声をかける。やがてゆっくりと走り出す車、窓の外の風景を見遣った後に隣に座る幸恵に視線を向ければ、彼女は視線を前へと向けたまま、
「私はまだ怒ってますからね?」
そんな言葉をぶつけられる。
「ああ、俺が悪かった。あんな良いお嬢さんにひどい事を言ったな、幸恵さんが怒るのも当然だ」
「本当ですよ、私、タカコさんに申し訳無くて」
「ああ、悪かった」
その後は暫く双方無言のまま、次に話し始めたのは、今度は貴一郎。
「……仲良くやっていたな……あいつも俺達に邪魔されて不機嫌だったし、暫くは二人きりの時間を過ごさせてやろう」
「あら、お休みをとって行こうって話してたのにですか?」
「もう二人の様子は見ただろう。休みは取るが、二人で旅行にでも行こう」
「貴一郎さんと私でですか?」
「ああ。もうずっと百合も亮二君も孫達も一緒の生活だ、俺と幸恵さん二人の時間が欲しくなったよ、貴之とタカコさんを見ていたらな。どうだ?」
「……ええ、それも良いかも知れませんね」
貴一郎が言い出した事が意外だったのか驚いた様子の幸恵、その表情がふんわりと和らぐのを見ながら、貴一郎もまた目を細めて笑い、す、と、手を伸ばし幸恵の手を取り、指を絡めてそっと握る。
「何処に行きたい?」
「そうですねぇ、そろそろ寒くなって来たし、もう少し温暖な気候のところで温泉なんかどうですか?」
「そうだな、それなら――」
穏やかな遣り取り、貴一郎も幸恵もその心地良さに目を細めて微笑み、絡み合う指に僅かに力を込めた。
――京都、嵯峨野――
秋の花の盛りも過ぎ、紅葉も少しずつその色を深めつつある、そんな頃合い。普段は妻に任せ切りになってしまっている庭の手入れの手を休め、敦賀貴一郎は丸めていた背を反らし腰をとんとんと叩きながら立ち上がった。
「貴一郎さん、お茶にしましょうか」
背後からかけられた声に振り返れば、湯飲みが二つと急須の乗った盆を手にした妻、幸恵が穏やかな笑みを浮かべつつ縁側に立っており、貴一郎はそれに
「ああ、そうしようか、有り難う」
そう言葉を返して歩き出し、縁側へとゆっくりと腰を下ろす。
四年前の夏の日に端を発した出来事は去年の初夏に最大の転換点を迎え、大和はそれ以降国体が成立してから初めて、外国との国交を樹立するに至った。外交を担う部署は政府には無く、その設立の準備へと入った政府を代表する形で軍はワシントンとの折衝に深く関わった。その中でも貴一郎は事情をよく知る者として統幕を代表してここ一年程は休みも無く働き続け、週末毎に休める様になったのは最近になってからの事。
八月の末、待ち続けていた人物、タカコが大和へとやって来て、そして、息子である貴之との将来を考えてくれていると言ってくれた。その後彼女は博多へと赴いて行き、彼女の帰りを待ち続けていた貴之と共に暮らし始める様になった。その直後にここ京都へと結婚の挨拶に来てくれて以来二人の顔は見ていないが、何の報せも無いところをみると、仲の良い新婚生活を送っているのだろう。
仕事も落ち着きつつある事だし、数日休みを取って博多へと旅行するのも良いかも知れないな、茶を飲みながらそんな事を考えていると、幸恵も似た様な事を考えていたのか、楽しそうな様子で口を開く。
「ねぇ、貴一郎さん、あの二人、仲良くやってるかしらね?」
「ああ、大丈夫だろう」
「ちょっと様子を見に行ってみませんか?」
「俺も同じ事を考えていたところだ。いつ頃が休みを取り易いか、確かめてみるよ。まぁ、俺達が行ったところで、あいつは喜ばないだろうけどな」
「そうねぇ、今は二人きりで仲良くしたいんでしょうしね。でも、あの子は二人きりでも良いんでしょうけど、早く見てみたいですね、あの二人の赤ちゃん」
のんびりとした晩秋の午後、その空気に似つかわしくない感覚が貴一郎の身体を走り抜ける。その話題はまずい、と、姿勢を正し幸恵へと向き直った。
「幸恵さん、貴之にも、タカコさんにも、子供の事は言うんじゃない、良いな?」
貴一郎の突然の言葉に、幸恵は湯飲みを手にしたきょとんした面持ちで固まる。本人達に言うかどうかはともかくとして、我が子が結婚したばかりの夫婦の会話としては何もおかしい事は無い筈なのに、そんな気持ちなのだろう。
「どうしたんです?いきなり、そんな事言って」
「百合達が結婚した時も同じ様な事を言って鬱陶しがられただろう?あの時は俺達の娘だったからそう問題も無かったが、タカコさんは他所様のお嬢さんなんだから。幸恵さんだって嫌な姑にはなりたくないだろう?」
タカコが子供を生せない身体である事はよく知っている、自分はその事について彼女に対してひどい言葉をぶつけ、息子に近づくなと拒絶した。数ヶ月前に彼女がここへとやって来た時に許しを請い漸く和解する事が出来たのだ、これ以上傷つける様な事はしたくないし、貴之がそんな話を耳にすれば激怒するに違いない。
何が有ったのか自分が何をしたのかは言えないまま、にどうにか幸恵の意識を他所に向けようと言葉を選びつつ説得を試みれば、長い夫婦生活の中で得た阿吽の呼吸なのか、幸恵は盆の上に湯飲みを置き、貴一郎へと向き直り、にっこりと微笑みを浮かべつつ妙に優しげな口調で問い掛けた。
「ねぇ、貴一郎さん?何で目を逸らしてるのかしら?知ってた?あなた、都合が悪くなるとそうやって目を逸らすのよ?」
――福岡、博多――
大和海兵隊最先任上級曹長、敦賀貴之、年齢、三十七歳、諸般の事情により手続き上制度上は独身だが実質既婚、しかも新婚。
海兵隊史上最強最恐と畏怖される彼が結婚したのは数ヶ月前の晩夏、最愛の女と漸く落ち着いた彼の言動が柔らかくなる事を周囲は期待したが、新妻であるタカコは大和への赴任から一ヶ月も経たない内に急遽本国へと呼び戻され、海兵隊の管理区域内に新設された飛行場からワシントン軍の輸送機へと乗り込み飛び立って行った。長期間の帰国ではなくその期間は二ヶ月程ではあったものの、漸く二人きりの生活を送れるものと思っていた貴之の荒れ具合は凄まじいものだった。その様子に親友であり上官でもある海兵隊総司令の高根を始めとして、多くの大和人がタカコが戻って来るのを待ち侘びるという状況だった。
そんな中その『希望の星』が戻って来たのは一昨日の事、厄介払いとばかりに高根は貴之へと一週間程の纏まった休みを与え、海兵隊に漸くと訪れた平和を皆が満喫していた頃、基地に程近い所に在る『愛の巣』では、主である貴之の怒りがそろそろ臨界点を突破しようかという状況になっていた。
「どう?タカコさん」
「美味しいです!これ、京都から持って来て下さったんですか?」
「そうなの、うちのお漬物はいつもこちらのお店から持って来て貰ってるんだけどね、タカコさんにも食べて欲しくて、出て来る時に買って来たの。喜んでもらえて良かったわ」
原因は、今目の前でタカコと漬物についてきゃっきゃうふふと遣り取りをしている母、敦賀幸恵。昨日の夜いきなり電話をして来て、
『今博多駅に着いたのよ、迎えに来てちょうだい』
事も無げにそう言い放たれた時には、聞かなかった事にして電話を叩っ切ろうかと、正直そんな衝動に駆られた。しかし電話を切ったら切ったで次に電話をするのは基地に違い無い、そう思い直し
「今から行くから待ってろ」
そう言って電話を切れば、居間のソファで愛犬二頭とゴロゴロしていたタカコが顔を出し、その彼女に
「何か知らんがお袋がこっちに来てる、今博多駅だそうだ。迎えに行って来る」
「え?お義母さんが?お義父さんは?」
「分からん、どうも一人で来たっぽい様な感じだったが。取り敢えず行って来る」
「私も行くよ」
駅迄は歩いて行くには距離が有り過ぎる、車を呼ぼうと再び受話器を持ち上げた貴之にそう言って上着を取りに二階へと上がって行くタカコ。その彼女が持って来た自らの上着を受け取り袖を通すと、二人揃って外へと出て、やがてやって来た車へと乗り込み駅へと向かった。
博多駅の喫茶店でお茶を飲んでいたのはやはり母一人、随分と大荷物を抱えた母はタカコの顔を見るなり泣き出し、面食らうタカコの両手を握り締め、
「ごめんなさい、本当にごめんなさいね」
と、そう繰り返し続けた。それを何とか宥めて待たせていた車へと乗り込み自宅へと戻り、
「私が話を聞くから、貴之は台所にでもいてくれ」
と言うタカコの言葉に従い台所で焼酎を飲みつつ様子を窺っていたところ、漏れ聞こえて来る内容を繋ぎ合わせてみると、何故こんな事になったのか話の輪郭がどうにか掴めて来た。
「事の顛末を聞かせる事自体、とても申し訳無いし心苦しいし、タカコさんも嫌な気持ちになると思うんだけれど」
という言葉から始まったのは、幸恵がタカコの不妊について知ったという事。昨日の日中早く孫の顔が見たいと自分が言ったところ、貴一郎がそれは絶対に息子夫婦には言うなと窘め、その時の貴一郎の様子を不審に思い問い詰めた。その結果幸恵が聞かされたのは、一年半程前にタカコが貴之の前から姿を消す決定打となった、貴一郎がタカコへとぶつけた言葉の数々とタカコの出自や立場について。その流れは喩え自らの夫と言えど幸恵にとって看過出来るものではなかった様子で、夫のあまりの無神経さに顔も見たくないとその日は息子である貴之の私室であった離れへと籠り、次の日の朝貴一郎が出勤してから家を出て電車に乗り博多へとやって来たのだと、そんな流れだった。
話している間幸恵は何度も何度も言葉を詰まらせ、宥めるタカコへと謝り続けていた。タカコの方としては貴一郎の言葉は既に過去のもので気にもしていなかったのか、幸恵を宥めている声音は困惑しきりで、しかし幸恵や喜一郎に対して孫を見せられないという負い目は未だに有るのだろう、
「私は気にしてませんから……寧ろ、私の方が申し訳無くて」
そんな事を何度も言っていた。
結局数時間は二人でそんな話を続け、もう夜も遅いからと貴之が布団を用意した客間へと幸恵が入ったのは日付も変わった深夜の事。それから貴之とタカコも二階へと上がり寝台へと入ったが、真下に人がいては事に及ぶ事も出来ず、旅の疲れが完全には取れていないタカコの寝顔を見ながら、若干苛立ちを感じつつ目を閉じる事しか出来なかった。
そうして夜が明けて今、起床からこちら幸恵は我が子である貴之には見向きもせず、タカコと共に台所に立ち漬物をつまみつつ朝食を作っている。
「いやぁ、私、料理は全然で……」
「ずっとお仕事してたならしょうがないわよ」
「これから頑張ります」
交わされる会話は実に和やかで、嫁姑の諍いというものに無縁である状況を喜ぶべきところなのだろう。しかし、タカコがワシントンから帰って来た当日は雑務の処理も有るという事で彼女は基地内に設けられたPの事務所で寝泊まりし、自宅へと帰って来たのは昨日の夕方近くの事だった。つまり、二ヶ月近くも離れ離れになっていて漸く再会したというのに、二人きりの時間はほんの数時間程しか過ごせておらず、その数時間ですら彼女が事務所から連れ帰って来たヤスコとトルゴが間に割って入っているという状況。夜こそはと期待していたというのにそれすらも母という邪魔が入り、一体この状況は何なんだと、貴之の機嫌は秒刻みで悪化を続け、今では垂れ流しになっている不機嫌を隠そうともしていない。
しかし女二人はそんな事には気が付かないのか無視しているのか実に楽しそうに言葉を交わしていて、その様子がまた貴之の不機嫌に拍車をかける。
父がタカコにぶつけた言葉は今でも許す事は出来ない、しかしタカコが許すと、過去の事だからと言っているから、もう言及しない事にした。これ以上はもう波風を立てて欲しくはないし、二人きりの時間を大切にしたいと思っているのに、何故こうも平穏無事とはならないのか、事を荒立てた張本人である父の言動でこうも振り回さなければならないのか。
と、電話が鳴ったのはそんな時。出ようと踵を返したタカコを目線と指先で制し、貴之はソファから立ち上がり電話へと歩み寄り受話器を手に取った。
「はい、敦賀です」
『貴之か……その、母さんそっちに行ってないか?』
「……いい加減にしてくれ!あいつは一昨日迄本国に戻ってて家に帰って来たのは昨日だぞ昨日!夜にはお袋が押しかけて来てこの有様だよ!!都合つけて一緒に休み取ろうと思ってたってのに全部パァだよ!!さっさと迎えに来い!!」
ガチャン!
言うだけ言って受話器を叩きつければ、その勢いに呆気にとられた様なタカコと幸恵の様子が目に入り、それにすら苛立ちを感じつつ、深く息を吐いた。
さっさと迎えに来いと言いはしたものの父も立場の有る身、今日明日とはいかないのは貴之にも分かってはいたが、父が母を迎えに来たのは次の週末。結局、それ迄に貴之の機嫌は更に悪化する事となった。
「じゃあね、タカコさん、お世話様でした」
「タカコさん、家内が迷惑をかけたね、すみませんでした」
「いえいえ、こちらこそ何のお構いも出来ませんで。お義母さんには色々教えて頂いて楽しかったです。また来て下さいね」
「……親父、お袋……二人共、俺には何の言葉も無しかよ……」
自宅の前で未だ不機嫌を纏ったまま仁王立ちの息子の姿を見て貴一郎は内心溜息を吐き、貴之の横に立つタカコへと言葉を掛け、幸恵に続いて車へと乗り込み運転手へと
「やってくれ、博多駅に」
と、そう声をかける。やがてゆっくりと走り出す車、窓の外の風景を見遣った後に隣に座る幸恵に視線を向ければ、彼女は視線を前へと向けたまま、
「私はまだ怒ってますからね?」
そんな言葉をぶつけられる。
「ああ、俺が悪かった。あんな良いお嬢さんにひどい事を言ったな、幸恵さんが怒るのも当然だ」
「本当ですよ、私、タカコさんに申し訳無くて」
「ああ、悪かった」
その後は暫く双方無言のまま、次に話し始めたのは、今度は貴一郎。
「……仲良くやっていたな……あいつも俺達に邪魔されて不機嫌だったし、暫くは二人きりの時間を過ごさせてやろう」
「あら、お休みをとって行こうって話してたのにですか?」
「もう二人の様子は見ただろう。休みは取るが、二人で旅行にでも行こう」
「貴一郎さんと私でですか?」
「ああ。もうずっと百合も亮二君も孫達も一緒の生活だ、俺と幸恵さん二人の時間が欲しくなったよ、貴之とタカコさんを見ていたらな。どうだ?」
「……ええ、それも良いかも知れませんね」
貴一郎が言い出した事が意外だったのか驚いた様子の幸恵、その表情がふんわりと和らぐのを見ながら、貴一郎もまた目を細めて笑い、す、と、手を伸ばし幸恵の手を取り、指を絡めてそっと握る。
「何処に行きたい?」
「そうですねぇ、そろそろ寒くなって来たし、もう少し温暖な気候のところで温泉なんかどうですか?」
「そうだな、それなら――」
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