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第一章 チャットルーム
第六話 12月1日(月)
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杏がログインしました。
杏がログアウトしました。
13インチの小振りな画面に深い溜め息を落とし、そっとノートパソコンを閉じる。この二時間で十回以上同じ行為を繰り返し、今日はもう諦めようと杏子は席を立った。
画面の向こうの、さらに蜘蛛の巣のように張り巡らされたネットワークの向こう側に、杏子が今求める人物ナツキはいつも居た。
9月の中頃だっただろうか、杏子が暇潰しにたまたま覗いたチャットルームで、素性も年齢もわからないまま意気投合したのが「ナツキ」だった。大勢でのチャットから、二人だけのプライベート回線を持つようになるまでに、そう長くはかからなかった。ネット上のやり取りではしばしば見られることであるが、この二人も例外ではなく、打ち解けた雰囲気の会話の水面下で、個人情報の出しどころを探っていった。そうして三日も経てば、三つ歳の離れた異性同士が、都会と田舎という環境の隔たりにも関わらず、在住都道府県や職業について真実を晒すほどには、お互いに気安い存在になった。
(お風呂入らなきゃ…。あぁ、でももう眠ってしまいたい。頭が…体が重い…。)
杏子は疲れ果てていた。先週末には、恋人未満の男に社会人としてのダメ出しついでに別れを言い渡され、翌月曜日には、出勤して隣席の苦手な人物の病欠に内心浮かれたのも束の間、取り返しのつかない重大なミスを犯した。難しい仕事や慣れない仕事という訳ではなく、また、病欠した隣席の者のフォローという訳でもなく、只ひたすら、自分の普段の仕事で大ポカをやらかしたというだけである。その事に杏子が気付いたとき、脳裏をよぎったのは元・恋人未満の男、高野の言葉である。すなわち、隣席の煙たい人物が居なくなったときに、困るのは果たして誰であるかという言葉である。
(ナツキ…話したいよ。お願い、ログインして…。)
月曜日に杏子が犯したミスは、その週いっぱいかけてどうにか収束の目処がついた。件の人物は、火曜にはインフルエンザと判明し、結局その週は杏子が彼女の顔を見ることはなかった。そのお陰で、ミスについて杏子が彼女から叱責を受けることはなかったものの、後始末に対しても当然彼女の協力は得られず、結果、事態の収束にそのように不合理なほど時間がかかったのである。
そして、その杏子の失態は、週が開けた今日、感冒により少し窶れたその人物の知るところとなり、事実確認や原因追求にとどまらず、杏子は必要以上の叱責を彼女から執拗に受けた。
(ナツキ…私もうダメかもしれない。明日から仕事に行けない…。)
この三ヶ月間ずっとそうであったように、杏子は、ナツキに対し、胸の奥の黒く冷たく凝った思いの丈を吐き出したかった。ともすれば、軽い口調とも言えるような気軽さで、杏子の欲する言葉を紡ぎ、胸の奥の氷を溶かし暖かく甘いもので満たしてくれる。ナツキは、杏子にとってそのような存在となっていた。
杏がログアウトしました。
13インチの小振りな画面に深い溜め息を落とし、そっとノートパソコンを閉じる。この二時間で十回以上同じ行為を繰り返し、今日はもう諦めようと杏子は席を立った。
画面の向こうの、さらに蜘蛛の巣のように張り巡らされたネットワークの向こう側に、杏子が今求める人物ナツキはいつも居た。
9月の中頃だっただろうか、杏子が暇潰しにたまたま覗いたチャットルームで、素性も年齢もわからないまま意気投合したのが「ナツキ」だった。大勢でのチャットから、二人だけのプライベート回線を持つようになるまでに、そう長くはかからなかった。ネット上のやり取りではしばしば見られることであるが、この二人も例外ではなく、打ち解けた雰囲気の会話の水面下で、個人情報の出しどころを探っていった。そうして三日も経てば、三つ歳の離れた異性同士が、都会と田舎という環境の隔たりにも関わらず、在住都道府県や職業について真実を晒すほどには、お互いに気安い存在になった。
(お風呂入らなきゃ…。あぁ、でももう眠ってしまいたい。頭が…体が重い…。)
杏子は疲れ果てていた。先週末には、恋人未満の男に社会人としてのダメ出しついでに別れを言い渡され、翌月曜日には、出勤して隣席の苦手な人物の病欠に内心浮かれたのも束の間、取り返しのつかない重大なミスを犯した。難しい仕事や慣れない仕事という訳ではなく、また、病欠した隣席の者のフォローという訳でもなく、只ひたすら、自分の普段の仕事で大ポカをやらかしたというだけである。その事に杏子が気付いたとき、脳裏をよぎったのは元・恋人未満の男、高野の言葉である。すなわち、隣席の煙たい人物が居なくなったときに、困るのは果たして誰であるかという言葉である。
(ナツキ…話したいよ。お願い、ログインして…。)
月曜日に杏子が犯したミスは、その週いっぱいかけてどうにか収束の目処がついた。件の人物は、火曜にはインフルエンザと判明し、結局その週は杏子が彼女の顔を見ることはなかった。そのお陰で、ミスについて杏子が彼女から叱責を受けることはなかったものの、後始末に対しても当然彼女の協力は得られず、結果、事態の収束にそのように不合理なほど時間がかかったのである。
そして、その杏子の失態は、週が開けた今日、感冒により少し窶れたその人物の知るところとなり、事実確認や原因追求にとどまらず、杏子は必要以上の叱責を彼女から執拗に受けた。
(ナツキ…私もうダメかもしれない。明日から仕事に行けない…。)
この三ヶ月間ずっとそうであったように、杏子は、ナツキに対し、胸の奥の黒く冷たく凝った思いの丈を吐き出したかった。ともすれば、軽い口調とも言えるような気軽さで、杏子の欲する言葉を紡ぎ、胸の奥の氷を溶かし暖かく甘いもので満たしてくれる。ナツキは、杏子にとってそのような存在となっていた。
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