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第四章 太陽の庭
第十七話 思い立ったが吉日
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瀬戸内の暖かい風が杏子の頬を撫で、桃色というよりは白に近い無数の花びらが宙に舞い上がった。
自宅から着てきた厚手のコットン生地のジャケットは、春らしい淡いベージュ色で、この季節にお気に入りの一着であったが、新大阪で新幹線を降りて以来、杏子は一度も袖を通していない。大きめのボストンバッグに引っかける形で、杏子はジャケットがずり落ちないように持ち直し、もう一度腕時計を確認した。
かれこれ30分近くここに居るが、杏子が待つバスが来るまでは、まだたっぷり20分はある。早朝の電車に飛び乗り、新幹線に乗り換えて新大阪に着いたのは昼目前、そこからローカル線に乗り換えて、太陽の庭の最寄り駅までは、乗り継ぎ時間も入れると二時間以上かかった。平日の昼過ぎという時間帯のせいなのか、はたまた地域柄であるのか、バス停に掲示されている時刻表は余白ばかりであった。朝と夕の通勤通学時間帯の数時間を除けば、どの路線も一時間に一本のみである。
不思議と、杏子の心は穏やかだった。太陽の庭のウェブサイトを見た翌日、何かに突き動かされるように衝動的に家を飛び出した杏子であるが、ここまでの長い道中で、一体どのように宮部夏樹に対面しようかとあれこれ思案するうちに、すっかり肝が据わったのだ。
彼が真実にナツキであるならば、杏子が杏であると明かさない方が賢明だというのが、思案の結果、杏子が出した結論である。また、彼がナツキであるか否かにかかわらず、杏子がインスタント翻訳.comの翻訳担当者であることもまた、彼に明かすべきではない。翻訳者が業務上知り得た情報を私的に利用することは、厳格に禁じられているからである。宮部夏樹が杏子の行為を嫌い、運営会社にクレームを入れたら最後、杏子は規約違反により除籍となるだろう。
(私は、ただ、新居となる新天地を求めてやってきただけ。家賃相場の低そうな、それでいて環境の良さそうな場所。そこにたまたま太陽の庭があったとしても、誰のせいでもないわ。翻訳家と明かさなくたって、フリーランスの物書きとでも言えば良い。それだって、強ち嘘とは言えないもの。)
杏子は、太陽の庭を尋ねていく言い訳を考えることは出来たが、宮部夏樹と対面した後、自分が彼とどうなりたいのか、その点について考えることは出来なかった。より正確に言えば、杏子は、その点についていくら考えても、今はまだ結論が出ないとあきらめていたのだ。
チャットルームでは、杏とナツキは、嫁だ何だと軽口を叩き合っていたが、本心から将来をどうこうするつもりなど、お互いに毛頭なかった。バーチャル空間でしか会えない相手を本気で恋愛対象にするほど、杏子は子供ではない。
杏子にとってナツキとは何なのか。古い言い方を敢えてするならば、ナツキは杏子の心の友であった。杏子が辛いとき、ナツキはいつでもそこに居て、悩みを聞き、心に寄り添い、励まし、時には諫め、背中を押してくれた。杏子は、そんなナツキが好きだった。好意を抱いた相手がたまたま異性であっただけで、恋愛感情であるとは限らない。
そんな温かい関係が、ある日突然途切れたのだ。その理由を知りたい。元の関係に戻れるのなら戻りたい。そして、生身の人間としてのナツキに興味がある。付き合ってみたい。男女交際という意味ではなく、人付き合いという意味合いで、である。
今の杏子が自分の気持ちについてわかるのは、そこまでであった。
そして、生身の人間としてのナツキに最も近い人物、宮部夏樹の営む太陽の庭は、もう目と鼻の先である。
自宅から着てきた厚手のコットン生地のジャケットは、春らしい淡いベージュ色で、この季節にお気に入りの一着であったが、新大阪で新幹線を降りて以来、杏子は一度も袖を通していない。大きめのボストンバッグに引っかける形で、杏子はジャケットがずり落ちないように持ち直し、もう一度腕時計を確認した。
かれこれ30分近くここに居るが、杏子が待つバスが来るまでは、まだたっぷり20分はある。早朝の電車に飛び乗り、新幹線に乗り換えて新大阪に着いたのは昼目前、そこからローカル線に乗り換えて、太陽の庭の最寄り駅までは、乗り継ぎ時間も入れると二時間以上かかった。平日の昼過ぎという時間帯のせいなのか、はたまた地域柄であるのか、バス停に掲示されている時刻表は余白ばかりであった。朝と夕の通勤通学時間帯の数時間を除けば、どの路線も一時間に一本のみである。
不思議と、杏子の心は穏やかだった。太陽の庭のウェブサイトを見た翌日、何かに突き動かされるように衝動的に家を飛び出した杏子であるが、ここまでの長い道中で、一体どのように宮部夏樹に対面しようかとあれこれ思案するうちに、すっかり肝が据わったのだ。
彼が真実にナツキであるならば、杏子が杏であると明かさない方が賢明だというのが、思案の結果、杏子が出した結論である。また、彼がナツキであるか否かにかかわらず、杏子がインスタント翻訳.comの翻訳担当者であることもまた、彼に明かすべきではない。翻訳者が業務上知り得た情報を私的に利用することは、厳格に禁じられているからである。宮部夏樹が杏子の行為を嫌い、運営会社にクレームを入れたら最後、杏子は規約違反により除籍となるだろう。
(私は、ただ、新居となる新天地を求めてやってきただけ。家賃相場の低そうな、それでいて環境の良さそうな場所。そこにたまたま太陽の庭があったとしても、誰のせいでもないわ。翻訳家と明かさなくたって、フリーランスの物書きとでも言えば良い。それだって、強ち嘘とは言えないもの。)
杏子は、太陽の庭を尋ねていく言い訳を考えることは出来たが、宮部夏樹と対面した後、自分が彼とどうなりたいのか、その点について考えることは出来なかった。より正確に言えば、杏子は、その点についていくら考えても、今はまだ結論が出ないとあきらめていたのだ。
チャットルームでは、杏とナツキは、嫁だ何だと軽口を叩き合っていたが、本心から将来をどうこうするつもりなど、お互いに毛頭なかった。バーチャル空間でしか会えない相手を本気で恋愛対象にするほど、杏子は子供ではない。
杏子にとってナツキとは何なのか。古い言い方を敢えてするならば、ナツキは杏子の心の友であった。杏子が辛いとき、ナツキはいつでもそこに居て、悩みを聞き、心に寄り添い、励まし、時には諫め、背中を押してくれた。杏子は、そんなナツキが好きだった。好意を抱いた相手がたまたま異性であっただけで、恋愛感情であるとは限らない。
そんな温かい関係が、ある日突然途切れたのだ。その理由を知りたい。元の関係に戻れるのなら戻りたい。そして、生身の人間としてのナツキに興味がある。付き合ってみたい。男女交際という意味ではなく、人付き合いという意味合いで、である。
今の杏子が自分の気持ちについてわかるのは、そこまでであった。
そして、生身の人間としてのナツキに最も近い人物、宮部夏樹の営む太陽の庭は、もう目と鼻の先である。
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