君に捧ぐ花

ancco

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第七章 猜疑心

第四十話 ラベルの女

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唐突に行き当たった一つの可能性が、杏子の思考を支配して二日、翻訳も片付けも手につかず、杏子はただ徒に時間が過ぎるのを待った。
いよいよ初出勤となる土曜日の朝、杏子は昼食用の弁当と、保温ポットに自慢の珈琲を容れて家を出た。太陽の庭までは、愛車である電動自転車で十分の距離だった。帰りは下り坂のため、もう少し早いだろう。余裕をもって家を出た杏子は、約束の九時より十五分程早く着いた。
砂利道を自転車を押しながら奥まで進み、杏子は、宮部宅の石段脇に駐輪した。見渡した範囲には宮部の姿はなかったが、ハウスの中か、或いはまだ自宅の中かもしれないと、杏子は辺りを見回した。
そのとき、自宅へ上がる石段の段上に、大小のダンボール箱が多数ずらりと並べられているのが杏子の目に留まった。取扱注意、天地無用の赤いシールと、宅配業者の送り状のラベルが付いているところを見ると、どうやら、注文の植物を発送するのだと思われた。先週、植物の状態が整って販売開始ができる頃合いだと宮部が言っていたが、早くもこんなに注文が来ているのかと、杏子は改めて感心した。
梱包された植物は、人一人が辛うじて段を上ることができるくらいのスペースを残して、石段の下からほとんど上の方までを埋め尽くして並んでいる。
どの辺りから注文が来ているのか、好奇心に駆られた杏子は、荷物に近寄ってラベルを確認しようとして、たちまちその場に凍りついた。

(この送り状、女性の字だ…。)

次から次へと、段上の箱を全て確認したが、いずれのラベルも同じ筆跡であった。少し癖のある、丸みを帯びた若い女性らしい字で、宮部の手蹟とは考えられない代物だった。
これはどう解釈すれば良いのか。あらゆる可能性が杏子の頭を駆け巡る。これほどの物量で、わざわざラベル書きに人手を雇うだろうか。そんな人員がいるならば、端からその人物に留守中の世話を頼めば良いではないか。他にアルバイトなどが居ないのであれば、誰がこれらのラベルを書いたのか。一日数時間の労働を数日頼むことまでは出来ないが、ラベル書きくらいなら依頼できるということは、その人物は、他に主たる仕事を持っているのだ。その仕事の合間に、その人物は、こんな面倒な雑用を宮部のためにやっているのだろう。
それほどに気安い身近な若い女性、そんな存在が宮部には居るのだろうか。親戚、近隣住人、或いは。

(彼女…?)

まさか、と否定したい気持ちと、他に考えられるだろうかと猜疑する心がせめぎあい、杏子は茫然と石段の中程に立ち尽くした。

「あれ?来てたんだ。こっちこっち。」 

背後から宮部の呼び寄せる声が聞こえ、杏子は振り返った。
いつもと同じ作業着に、グレーのウィンドブレーカーを羽織った宮部が、ハウスの中から手招きしていた。
杏子は、今は仕事の時間だと自分に言い聞かせ、足取り重く宮部のもとへと向かった。

「おはよう。なんか顔色が良くないけど、疲れてる?」
宮部は杏子の顔を覗きこむように首をかしげて、心配そうに杏子を見た。杏子は宮部を見上げ、黙って首を振る。
「何ともないよ。気にしないで。日焼け止め塗りすぎて白浮きしてるのかも。」
杏子は、固い表情を努めて崩し、平静を装ってそう答えた。
「そっか、色白い人は大変だな。確かに、何にも塗らないとこうなるからな。」
そう言って笑い、宮部は、腕捲りをして良く焦げた逞しい腕を出して見せた。
「ほんと、こんがり美味しそうな色。でも私はこんなに茶色くならないのよ。焼けると真っ赤に爛れちゃって大変なの。」
杏子も愛想よく笑ってみせた。
「美味しそうなのは、むしろ杏子さんだろ。白くてふわふわの餅みたいだ。でも、真っ赤になった杏子さんも、それはそれで美味しそうかもな。」
宮部は、途端に甘い空気を纏い、杏子の頬に手を伸ばしたかと思うと、その柔い肉を確かめるように指先で弄んだ。目を細めて杏子を見つめ、すっかり悦に入っている。
杏子は、そこがちょうど、先日宮部が初めて口付けた、まさに同じ場所だったと気付き、思わず羞恥に頬を朱に染めた。
「うん、やっぱり真っ赤も美味しそう。」
宮部はそう言うと、またもや盗むような素早さで、今度は反対の頬に唇を寄せたのだった。杏子は益々逆上せて、いよいよ両手で頬を包むと、宮部を睨み上げた。
「宮部さん!仕事中!それに、随分手が早いんですね。いつもそうやって女の子を落とすんですか!?」
語気だけは強かったが、杏子の目は羞恥に潤んでおり、果たして牽制しているのか煽っているのか、宮部が目尻を下げて困り顔になったのも無理はなかった。
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