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第八章 すれ違う心
第六十話 再燃
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二股を掛けられていたのは、むしろ自分の方であると結論づけてもなお、杏子は宮部のことを考えないでは居られなかった。軽トラに女の姿を見てしまってからは、健との関係を強引に進めてでも、宮部を早く忘れるべきだとさえ考えていたというのに、朝市で佑に手酷く非難されて以降、喉の奥に小骨でも引っかかっているかのように、杏子は釈然としない思いで居た。
(宮部さんは、なんで佑さんに私を悪く言ったんだろう。健さんとのことを誤解して、自分のことは棚に上げて、私にも二股を掛けられていたのかもと、腹を立てているのかしら。)
考えても、考えても、正しい答えが得られるわけも無く、何の解決策も見いだせない杏子は、久しぶりにその存在を思い出して、太陽の庭のブログを開いて見ることにした。もちろん、そんなところには、例の女の話や、ましてや杏子の話などが載るわけも無かったが、杏子は、少しでも宮部に関わることで手がかりが欲しかったのである。
(あれ…?また更新されてない…。)
ブログの最後の記事は四月の末で、ゴールデンウィーク中の発送が滞る旨のお詫びの連絡をしたものだった。以降、六月上旬の今に至るまで、一ヶ月以上もの間、ブログの記事が途絶えている。前回は、ナツキが姿を消したのと同時期で、昨年末から今年の頭に掛けて、約2ヶ月の空白があった。
一体、どんな事情で宮部はブログの更新が出来なくなるのだろうか。単に忙しいだけなんだろうか。ナツキとは関係があるのだろうか。そもそも、宮部はナツキなのだろうか。
宮部に二股を掛けられていると知ってからは、ナツキやブログ云々と推測する意味も無かったので、杏子の頭からはすっかり消え失せていた興味が、ここに来て、またむくむくと膨れあがるのを杏子は感じた。
坂下家に招待された土曜日までは、あっという間に時が過ぎた。もちろん、生活のために翻訳の仕事はしていたが、事ある毎に、宮部のことやブログのことが杏子の頭を占拠して、気が付けば何時間も経っているのである。杏子は、普段は何事にも要領よく手際も良いことが取り柄であるが、いったん悩み事に取り憑かれると、とたんに集中力を欠き、気を散らしてばかりになる質であった。
約束の土曜日、日が傾く頃に健が杏子を迎えに来た。晩餐の後、帰り道が心配だと言って、車で送迎すると言って聞かなかったのだ。
呼び鈴に応えて杏子が玄関を出ると、健は満面の笑みで杏子を迎えた。ジーンズに白いセーターという、なんとも爽やかな出で立ちで、さらさらとしたストレートヘアと幼げな笑みを湛える様は、いかにも美少年という印象を与えた。もちろん、健は年下とはいえ、杏子とは2つ違うだけの24歳であるというのだから、相当な童顔の持ち主と言えよう。
「杏子さん、とても良く似合ってる。可愛いね。僕らお揃いみたいだ。」
以前、宮部に服装を褒められたときなど、胸が高鳴ってどうしようもなかったものだが、同じ言葉を健の口から聞いても、こそばゆい気持ちにはなっても、杏子がときめくことはなかった。
確かにお揃いかも、と心中で同意した杏子のファッションは、白い半袖ニットワンピースにデニムのジャケットを羽織ったものである。宮部のことが頭から離れない今では、杏子が健を受け入れることなど出来そうにもなく、健のためにめかし込むこともないが、食事に招待された以上、失礼にならない程度には身嗜みに気を付けた杏子であった。
健が乗ってきた、国内最大手メーカーの売れ筋コンパクトカーに乗り込んだ杏子は、狭い密室に二人きりになることを不安に感じないでもなかったが、もともとそう遠くはない距離を行くだけなので、数分後には何事もなく果樹園に着き、安堵すると共に自意識過剰さを反省した。
「岡田さん、この度は本当に大変お世話になりました。お陰さまで来週からシンガポールに行けることになりました。」
そう言って深々と杏子に頭を下げたのは、杏子の向かいに座した保であった。桧の欄間が美しい広々とした和室に、横長の重厚な一枚板の座卓が据えられ、卓上には様々な惣菜を盛り付けた大皿が幾つも並べられていた。保の隣には、随分と歳の差のありそうな若々しい嫁志乃と、保の四歳と二歳になる娘たちが座して、早く食事を始めたいと騒いでは、志乃にたしなめられている。卓の反対側の杏子の隣には、もちろん健が陣取っていた。
「今日は、どうぞゆっくりしていってください。お口に合うと良いんですけど。」
そう言って、気立ての良さそうな志乃が、杏子に食事を促した。
「とても美味しそうです。いただきます。」
お世辞抜きに、本当に美味しそうな料理ばかりであった。志乃は、まだ年若そうであるのに、料理の腕もあり、子供を二人ももうけ、同じ女としては尊敬するばかりだと杏子は感じ入った。
ちらし寿司にアスパラベーコン、鯛と牛蒡の煮付けに、揚げ出し豆腐、アボカドの乗ったグリーンサラダに鶏の唐揚げ。どれもとても良い味付けで、杏子は遠慮も忘れて満腹になるまで箸を置くことができなかった。
「志乃さん、お料理がとてもお上手なんですね。本当に美味しかったです。お子さんも小さいのに、こんなに沢山作っていただいて、大変だったでしょう。ありがとうございました。」
「喜んで頂けて良かったです。子供たちはお義母さんたちが見てくださるから、お陰さまで家事に専念させてもらってます。味付けも、新婚の頃に坂下の味をお義母さんに教えてもらったんですよ。」
朗らかにそう言った志乃を見て、なるほど、絵に描いたように円満な二世帯家族だと、杏子は羨ましくなった。温かい家族団らんなど、杏子には縁のなかった話である。
隣に座る男、健と結ばれたら、杏子もこのような家族の温もりを手に入れることが出来るんだろうかと一瞬考えて、そんな動機で健の気持ちを受けるなど失礼甚だしいと、杏子はすぐに思い直したのだった。
(宮部さんは、なんで佑さんに私を悪く言ったんだろう。健さんとのことを誤解して、自分のことは棚に上げて、私にも二股を掛けられていたのかもと、腹を立てているのかしら。)
考えても、考えても、正しい答えが得られるわけも無く、何の解決策も見いだせない杏子は、久しぶりにその存在を思い出して、太陽の庭のブログを開いて見ることにした。もちろん、そんなところには、例の女の話や、ましてや杏子の話などが載るわけも無かったが、杏子は、少しでも宮部に関わることで手がかりが欲しかったのである。
(あれ…?また更新されてない…。)
ブログの最後の記事は四月の末で、ゴールデンウィーク中の発送が滞る旨のお詫びの連絡をしたものだった。以降、六月上旬の今に至るまで、一ヶ月以上もの間、ブログの記事が途絶えている。前回は、ナツキが姿を消したのと同時期で、昨年末から今年の頭に掛けて、約2ヶ月の空白があった。
一体、どんな事情で宮部はブログの更新が出来なくなるのだろうか。単に忙しいだけなんだろうか。ナツキとは関係があるのだろうか。そもそも、宮部はナツキなのだろうか。
宮部に二股を掛けられていると知ってからは、ナツキやブログ云々と推測する意味も無かったので、杏子の頭からはすっかり消え失せていた興味が、ここに来て、またむくむくと膨れあがるのを杏子は感じた。
坂下家に招待された土曜日までは、あっという間に時が過ぎた。もちろん、生活のために翻訳の仕事はしていたが、事ある毎に、宮部のことやブログのことが杏子の頭を占拠して、気が付けば何時間も経っているのである。杏子は、普段は何事にも要領よく手際も良いことが取り柄であるが、いったん悩み事に取り憑かれると、とたんに集中力を欠き、気を散らしてばかりになる質であった。
約束の土曜日、日が傾く頃に健が杏子を迎えに来た。晩餐の後、帰り道が心配だと言って、車で送迎すると言って聞かなかったのだ。
呼び鈴に応えて杏子が玄関を出ると、健は満面の笑みで杏子を迎えた。ジーンズに白いセーターという、なんとも爽やかな出で立ちで、さらさらとしたストレートヘアと幼げな笑みを湛える様は、いかにも美少年という印象を与えた。もちろん、健は年下とはいえ、杏子とは2つ違うだけの24歳であるというのだから、相当な童顔の持ち主と言えよう。
「杏子さん、とても良く似合ってる。可愛いね。僕らお揃いみたいだ。」
以前、宮部に服装を褒められたときなど、胸が高鳴ってどうしようもなかったものだが、同じ言葉を健の口から聞いても、こそばゆい気持ちにはなっても、杏子がときめくことはなかった。
確かにお揃いかも、と心中で同意した杏子のファッションは、白い半袖ニットワンピースにデニムのジャケットを羽織ったものである。宮部のことが頭から離れない今では、杏子が健を受け入れることなど出来そうにもなく、健のためにめかし込むこともないが、食事に招待された以上、失礼にならない程度には身嗜みに気を付けた杏子であった。
健が乗ってきた、国内最大手メーカーの売れ筋コンパクトカーに乗り込んだ杏子は、狭い密室に二人きりになることを不安に感じないでもなかったが、もともとそう遠くはない距離を行くだけなので、数分後には何事もなく果樹園に着き、安堵すると共に自意識過剰さを反省した。
「岡田さん、この度は本当に大変お世話になりました。お陰さまで来週からシンガポールに行けることになりました。」
そう言って深々と杏子に頭を下げたのは、杏子の向かいに座した保であった。桧の欄間が美しい広々とした和室に、横長の重厚な一枚板の座卓が据えられ、卓上には様々な惣菜を盛り付けた大皿が幾つも並べられていた。保の隣には、随分と歳の差のありそうな若々しい嫁志乃と、保の四歳と二歳になる娘たちが座して、早く食事を始めたいと騒いでは、志乃にたしなめられている。卓の反対側の杏子の隣には、もちろん健が陣取っていた。
「今日は、どうぞゆっくりしていってください。お口に合うと良いんですけど。」
そう言って、気立ての良さそうな志乃が、杏子に食事を促した。
「とても美味しそうです。いただきます。」
お世辞抜きに、本当に美味しそうな料理ばかりであった。志乃は、まだ年若そうであるのに、料理の腕もあり、子供を二人ももうけ、同じ女としては尊敬するばかりだと杏子は感じ入った。
ちらし寿司にアスパラベーコン、鯛と牛蒡の煮付けに、揚げ出し豆腐、アボカドの乗ったグリーンサラダに鶏の唐揚げ。どれもとても良い味付けで、杏子は遠慮も忘れて満腹になるまで箸を置くことができなかった。
「志乃さん、お料理がとてもお上手なんですね。本当に美味しかったです。お子さんも小さいのに、こんなに沢山作っていただいて、大変だったでしょう。ありがとうございました。」
「喜んで頂けて良かったです。子供たちはお義母さんたちが見てくださるから、お陰さまで家事に専念させてもらってます。味付けも、新婚の頃に坂下の味をお義母さんに教えてもらったんですよ。」
朗らかにそう言った志乃を見て、なるほど、絵に描いたように円満な二世帯家族だと、杏子は羨ましくなった。温かい家族団らんなど、杏子には縁のなかった話である。
隣に座る男、健と結ばれたら、杏子もこのような家族の温もりを手に入れることが出来るんだろうかと一瞬考えて、そんな動機で健の気持ちを受けるなど失礼甚だしいと、杏子はすぐに思い直したのだった。
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