君に捧ぐ花

ancco

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第九章 真実の端緒

第六十九話 もう一つの謎

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感情を込めて起伏に富んだ調子で語る静子に、杏子は、まるで寄席を見ている観客のような、どこか遠くから語り部の声に耳を傾けているような、そんな気分になっていた。杏子の意識は、頭上遙か後方の何処かを彷徨っており、宮部の妹があの家にずっと住んでいたことや、その妹とのあらぬ仲を疑って宮部を傷つけたことや、そんな杏子に呆れた宮部に決別を言い渡されたことなど、何もかも全部が、この壮大な演劇の一幕に過ぎず、杏子はただ観客として遠くからそれを眺めているのだと、そう感じたのだ。
しかし、実際には、それは単なる杏子の願望に過ぎず、如何に足掻こうとも悔いようとも、現実から逃避することなどできない。

目の前では、静子の話がまだ続いていたが、もう半分ほどしか杏子の頭には入ってこなかった。ぼんやりとその声に耳を傾けながら、杏子は、なぜこうなってしまったのかと、今更ながらに思いを馳せた。
真実は常に一つであり、それを知っている者には、いかなる事象も真実に反して見えることは無いのだろう。しかし、真実を隠された者にとっては、目に見える事象から物事を推測し、考え得る答えを導き出すしかないのである。杏子の場合、その推測が誤っていたために、その推測に基づいて取ったあらゆる行動が、宮部を不必要に傷つけ、育まれつつあった二人の甘い関係を杏子自ら台無しにするという結果に至ったということである。

杏子は、自らの早計さを悔やんだ。一言、宮部に尋ねれば良かったのだ。このラベルは誰が書いたのか。留守中に二階に居たのは誰か。車の隣に乗せていたのは誰か。自分以外の本命が居るのだと、彼女が居るのだと、そう事実を突き付けられて二人の関係に終止符が打たれるかも知れないが、そんなことを恐れずに、ただ一言、宮部に尋ねれば良かったのだ。否、真なる問題は、杏子が宮部を信じられなかったことにある。女の影を認めても、宮部という男を、実直で誠実なこの男の人となりを信じていれば、杏子は早合点することもなく、真実を問い質すことも躊躇われなかったはずである。
同居の家族がいるならば、一言教えてくれればよかったではないかと、杏子はそう思わないでもなかったが、引きこもりの妹がいるなど、出会ったばかりの杏子には話しにくかっただろうことは想像に難くない。何より、自分の過ちを棚に上げて宮部を責めることなど、できるわけがなかった。

「杏子さんも、夏樹に対して色々思うところがおありでしょうが、一度だけ、杏子さんから折れてやってもらえませんか。お二人の仲違いの理由は存じませんが、あの子達をずっと苦しめてきた宮部の家の不幸に免じて、もう一度だけ、夏樹を助けてやってください。」
杏子が宮部を傷つけたことなど知るよしもなく、依然、杏子に懇願し続ける静子に、杏子は恐縮しきりであった。
静子曰く、鬱病と診断され定期的に服薬しなければならない真奈美を、今までのように部屋に一人きりで放置できないため、静子が加古川の娘の家に引き取って面倒を見ることになったのだ。加古川の家の準備を整えて、再び真奈美を迎えに戻って来る来週までは、宮部がなるべく真奈美に付き添って世話をするというのである。そこで、疎かになってしまう仕事の方を、以前のように杏子に手伝ってもらえないかというのが、静子の来訪の真の目的であった。
「悪いのは、全て私なんです。訪ねていただいて、本当に感謝しています。ご家族の辛いお話を聞かせていただいて、本当に、ありがとうございました。お話は良くわかりました。赦してもらえるかはわかりませんけど、宮部さんに心からお詫びして、お仕事のお手伝いをさせてもらえるようにお願いしてみます。」
杏子の力強い言葉を聞いて、静子は漸く気が済んだようで、突然の来訪をもう一度杏子に詫びると、直ぐに立ち去った。

静子を見送った杏子は、取るものも取り敢えず、愛車に跨がって太陽の庭へと向かった。四月の初旬に、暗闇であの二階の灯りに衝撃を受けて以来、実に二ヶ月ぶりの訪れとなる。宮部に何と言って詫びようかと思案しつつも、静子の昔語りによって明らかになったもう一つの謎についても、杏子は思いを馳せた。すなわち、ブログの空白期間についてである。
静子の話を鑑みると、ブログの更新が途絶えた時期は、真奈美の状態が悪化した時期と寸分違わず一致する。おそらく、真奈美が部屋に引きこもって姿を見せなくなったために、心配してブログどころではなかったか、或いは、真奈美の世話を焼かねばならず物理的に時間がとれなかったのだろうと、杏子は思い至った。

(宮部さんがナツキなのだとしたら、同じ理由で、チャットどころではなくなって辞めてしまったんだわ。間違いなく、やっぱり、宮部さんがナツキなんだ。)

杏子が以前から予想していた通り、ブログの謎が明らかになったことで、自然と、ナツキが突然姿を消した合理的説明もついたのだった。
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