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第九章 真実の端緒
第七十話 懇願
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もとより、あらゆる状況証拠が宮部がナツキであると示していたが、更に今、もう一つの補強証拠が加わって、もはやナツキが宮部ではないという合理的疑いはない。強いて言えば、ナツキと現実の宮部との間には、漠然とした性格の相違のようなものを感じたが、チャットという匿名の疑似世界に置いて、本来の自分とは少し異なる人格を演じることは、そう珍しいことではないだろう。誰しも、程度の差こそあれ、本来の自分より優れた人間であるように誇張や脚色をし、或いは、必要以上に自分を卑下して憐れに見せたり、はたまた実年齢より大人ぶってみたり、逆に子供っぽく振る舞ったりするものである。
杏子はそう思案して、いよいよ宮部がナツキであると確信を持ったが、それを今宮部に告げることは、得策ではないと考えた。今、大事なことは、ナツキと杏の関係ではなく、現実世界に生きる宮部と杏子の関係なのである。それは今、杏子の失態によって、風前の灯となっている。悪くすれば、宮部の心の中の、杏子に対する恋の炎は既に消え失せ、消し炭のように黒く燻っているのかもしれない。
もう一度、胸の奥を熱く焦がすような情熱の炎を灯せたなら、どんなにか良いだろう。そう考えて、杏子は、あの自分を見下ろす冷たい侮蔑の視線を思い出し、やはりそんな考えは都合が良すぎるのだと、すぐに思い直した。
宮部は、妹のことを勝手に誤解し、直ぐに他の男に乗り換えようとした杏子のことを、軽蔑しているのだ。杏子に言わせれば、健とは何でもなかったのだが、失恋の痛手を忘れるために健の想いを利用したことは事実であり、それは十分に軽蔑に値するのだと、杏子は自分でも思うのだった。
どのように詫びれば宮部に赦してもらえるのか、具体的な方策など思い付く暇もなく、杏子は太陽の庭にたどり着いた。午後の良い時間だというのに、ハウスの扉は閉じて施錠され、宮部の姿も外には見られなかった。静子が言った通り、宮部は家で真奈美に付いているのだろう。
軽トラの脇に愛車を停め、杏子は石段を駆け上がり、呼び鈴を鳴らした。これから宮部に浴びせられるであろう数々の非情な言葉を予想して、呼び鈴を押したその手は微かに震えていた。
暫くして、扉の向こうで、階段から宮部が降りてくる気配が感じられた。曽我の家と同じく、ガラスに金属製の格子を嵌めた一昔前の玄関扉は、歪んだガラスの向こう側に、とびきり背の高い男の姿を透かして見せた。
がらがらと音をたてて扉が開き、目を丸く見張った宮部がそこに居た。
「あの、こんにちは。少し、お時間を頂けませんか。お話ししたいことがあるんです。」
杏子のしおらしい口調に、来訪の目的を察したであろうが、宮部は膠もなく、ただ否と杏子に告げた。
「お怒りは十分に承知です。本当にごめんなさい。どうか、少しだけで良いから、お話しする時間を下さい。」
杏子は、深々と頭を下げた。そして、下げ続けた。宮部が何かを言うまでは、決して頭をあげまいと、ただひたすらに全身で詫びた。
「申し訳ないけど、つまらない謝罪なんて聞いている暇はないんだ。無駄なことはやめて帰ってくれないか。」
とりつく島もないとは、正にこの事であった。杏子は、漸く頭を上げて宮部を見つめ、縋るように訴えた。
「それもわかってるの。さっきうちに伯母様が見えて、事情を聞いたわ。赦してもらえなくても、謝罪を聞いてもらえなくても、それでもいいの。とにかく、少し話を聞いて。お願い。」
杏子の想いが通じたわけではなかろうが、静子のことを引き合いに出したのが功を奏したのか、宮部は、余計なことを、と悪態を付きつつも、扉を開けたまま、どすどすと足を不機嫌に踏み鳴らして居間へと入っていった。どうやら、杏子に多少の時間を割く気にはなったようだった。
杏子はそう思案して、いよいよ宮部がナツキであると確信を持ったが、それを今宮部に告げることは、得策ではないと考えた。今、大事なことは、ナツキと杏の関係ではなく、現実世界に生きる宮部と杏子の関係なのである。それは今、杏子の失態によって、風前の灯となっている。悪くすれば、宮部の心の中の、杏子に対する恋の炎は既に消え失せ、消し炭のように黒く燻っているのかもしれない。
もう一度、胸の奥を熱く焦がすような情熱の炎を灯せたなら、どんなにか良いだろう。そう考えて、杏子は、あの自分を見下ろす冷たい侮蔑の視線を思い出し、やはりそんな考えは都合が良すぎるのだと、すぐに思い直した。
宮部は、妹のことを勝手に誤解し、直ぐに他の男に乗り換えようとした杏子のことを、軽蔑しているのだ。杏子に言わせれば、健とは何でもなかったのだが、失恋の痛手を忘れるために健の想いを利用したことは事実であり、それは十分に軽蔑に値するのだと、杏子は自分でも思うのだった。
どのように詫びれば宮部に赦してもらえるのか、具体的な方策など思い付く暇もなく、杏子は太陽の庭にたどり着いた。午後の良い時間だというのに、ハウスの扉は閉じて施錠され、宮部の姿も外には見られなかった。静子が言った通り、宮部は家で真奈美に付いているのだろう。
軽トラの脇に愛車を停め、杏子は石段を駆け上がり、呼び鈴を鳴らした。これから宮部に浴びせられるであろう数々の非情な言葉を予想して、呼び鈴を押したその手は微かに震えていた。
暫くして、扉の向こうで、階段から宮部が降りてくる気配が感じられた。曽我の家と同じく、ガラスに金属製の格子を嵌めた一昔前の玄関扉は、歪んだガラスの向こう側に、とびきり背の高い男の姿を透かして見せた。
がらがらと音をたてて扉が開き、目を丸く見張った宮部がそこに居た。
「あの、こんにちは。少し、お時間を頂けませんか。お話ししたいことがあるんです。」
杏子のしおらしい口調に、来訪の目的を察したであろうが、宮部は膠もなく、ただ否と杏子に告げた。
「お怒りは十分に承知です。本当にごめんなさい。どうか、少しだけで良いから、お話しする時間を下さい。」
杏子は、深々と頭を下げた。そして、下げ続けた。宮部が何かを言うまでは、決して頭をあげまいと、ただひたすらに全身で詫びた。
「申し訳ないけど、つまらない謝罪なんて聞いている暇はないんだ。無駄なことはやめて帰ってくれないか。」
とりつく島もないとは、正にこの事であった。杏子は、漸く頭を上げて宮部を見つめ、縋るように訴えた。
「それもわかってるの。さっきうちに伯母様が見えて、事情を聞いたわ。赦してもらえなくても、謝罪を聞いてもらえなくても、それでもいいの。とにかく、少し話を聞いて。お願い。」
杏子の想いが通じたわけではなかろうが、静子のことを引き合いに出したのが功を奏したのか、宮部は、余計なことを、と悪態を付きつつも、扉を開けたまま、どすどすと足を不機嫌に踏み鳴らして居間へと入っていった。どうやら、杏子に多少の時間を割く気にはなったようだった。
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