71 / 110
第九章 真実の端緒
第七十一話 贖罪のとき
しおりを挟む
手短に、と、ぶっきらぼうに釘を刺され、杏子は躊躇う暇も与えられず、とにかく口を開いた。
「妹さんに…、真奈美さんに、付いていてあげないといけない事情は聞きました。どうか、私への怒りはひとまず忘れて、一経営者として聞いてください。伯母様が戻られる来週まで、私を太陽の庭のアルバイトとして、もう一度雇ってください。プライベートなことは抜きにして、仕事だけに徹します。宮部さんに謝罪しようとしたり、不快な思いをさせるようなことは、一切しないと約束します。ただ毎日ここへ来て、植物の世話を言われた通りにして帰ります。こちらにも上がりません。無事に真奈美さんが加古川へ発って、宮部さんが仕事に戻れるようになれば、もう二度とこちらには来ません。伯母様の家も出ます。だから、どうかお願いします。宮部さんと伯母様が今まで私にしてくださったことに対して、最後にお礼をさせてください。」
何の準備もなく口火を切った杏子だが、自分でも驚くほどにすらすらと、心のままに言葉を紡ぐことができた。少しでも想いが伝わればと、宮部が重い沈黙を破るその時まで、杏子は、目の前の男をじっと見つめ続けた。
「わかった。その言葉を違えないのなら、雇わせてもらう。勤務条件については、前と同じで。」
憮然とした態度はそのままに、宮部は杏子の望みを入れて、再び杏子の雇用主となることを承知した。
杏子は、心の底から安堵した。これで、静子との約束を何とか果たせそうであった。話は付いたので、これ以上、宮部をここに引き留めてはいけないと、杏子は早くも腰を上げた。
「ありがとうございます。じゃあ、早速作業に取りかかりますから、仕事の指示を下さい。」
先程まで切実に訴えかけていた女が、途端に淡白な口調で指示を仰いだので、宮部は僅かに瞠目したが、杏子の本気を見てとったのか、宮部もまた淡々と、的確に杏子に指示を与え、そして直ぐに二階へと姿を消したのだった。
二ヶ月ぶりに立ち入ったハウスには、杏子の見知った植物はほとんどなかった。より正確に言えば、以前と同じ種類の顔ぶれではあるのだが、大きさが違ったり、形が違ったりして、杏子が以前に世話をしていた個体とは別のものに入れ替わっているようだった。疑いようもなく、以前のものたちがほとんど売れてしまい、今ここにあるものは、四月に宮部が仕入れてきた新参者で、秋以降の売り出しに向けて養生のときを過ごす植物たちであった。
水遣り、葉の整理、施肥といった、以前に経験済の仕事に加え、今回は、梅雨時の今ならではの作業も加わった。多湿により病気や害虫が蔓延しやすいため、消毒剤や殺虫剤の散布が欠かせないのである。杏子が当惑したことは、それらの薬剤散布のための器材を、隣の坂下果樹園に借りに行かねばならなかったことである。
昨日の今日で、健の暴挙が保の耳に届いていないかもしれないとも思ったが、宮部の告げ口によるものか、はたまた健自身が白状したのか、保は弟の醜態をしっかりと把握しており、床に頭が着きそうな程、杏子に謝罪した。杏子の心情を考えて、暫くは健を杏子から遠ざけるが、いずれ必ず本人にも詫びに行かせると、保は杏子に固く約束したのだった。
太陽の庭での作業は、初日の日曜のみ二時間程で終えたが、翌月曜から約束の土曜日までは、以前と同じ朝九時から午後二時までの実働四時間で、昼休憩には、宮部の出張中と同様に、曽我の家に帰って過ごした。
仕事の指示は、朝出勤してきて直ぐに電話で指示を仰ぎ、終えた作業は都度メールで報告し、不明な点があればまた電話で確認をするという、対面のコミュニケーションが一切ない殺伐としたものだった。それでも、杏子の嬉しかったことには、電話の向こうの宮部の声が、当初は冷たく突き放すような口調であったのが、日を追う毎に自然なものへと変わり、全く返信のなかった作業報告のメールにも、わかった、了解、などの返信が届くようになったのである。それは、恋だの愛だのといった甘やかさとは程遠かったが、せめてもの罪滅ぼしのつもりで毎日通ってくる杏子にとっては、酬いとなるのに十分であった。
「妹さんに…、真奈美さんに、付いていてあげないといけない事情は聞きました。どうか、私への怒りはひとまず忘れて、一経営者として聞いてください。伯母様が戻られる来週まで、私を太陽の庭のアルバイトとして、もう一度雇ってください。プライベートなことは抜きにして、仕事だけに徹します。宮部さんに謝罪しようとしたり、不快な思いをさせるようなことは、一切しないと約束します。ただ毎日ここへ来て、植物の世話を言われた通りにして帰ります。こちらにも上がりません。無事に真奈美さんが加古川へ発って、宮部さんが仕事に戻れるようになれば、もう二度とこちらには来ません。伯母様の家も出ます。だから、どうかお願いします。宮部さんと伯母様が今まで私にしてくださったことに対して、最後にお礼をさせてください。」
何の準備もなく口火を切った杏子だが、自分でも驚くほどにすらすらと、心のままに言葉を紡ぐことができた。少しでも想いが伝わればと、宮部が重い沈黙を破るその時まで、杏子は、目の前の男をじっと見つめ続けた。
「わかった。その言葉を違えないのなら、雇わせてもらう。勤務条件については、前と同じで。」
憮然とした態度はそのままに、宮部は杏子の望みを入れて、再び杏子の雇用主となることを承知した。
杏子は、心の底から安堵した。これで、静子との約束を何とか果たせそうであった。話は付いたので、これ以上、宮部をここに引き留めてはいけないと、杏子は早くも腰を上げた。
「ありがとうございます。じゃあ、早速作業に取りかかりますから、仕事の指示を下さい。」
先程まで切実に訴えかけていた女が、途端に淡白な口調で指示を仰いだので、宮部は僅かに瞠目したが、杏子の本気を見てとったのか、宮部もまた淡々と、的確に杏子に指示を与え、そして直ぐに二階へと姿を消したのだった。
二ヶ月ぶりに立ち入ったハウスには、杏子の見知った植物はほとんどなかった。より正確に言えば、以前と同じ種類の顔ぶれではあるのだが、大きさが違ったり、形が違ったりして、杏子が以前に世話をしていた個体とは別のものに入れ替わっているようだった。疑いようもなく、以前のものたちがほとんど売れてしまい、今ここにあるものは、四月に宮部が仕入れてきた新参者で、秋以降の売り出しに向けて養生のときを過ごす植物たちであった。
水遣り、葉の整理、施肥といった、以前に経験済の仕事に加え、今回は、梅雨時の今ならではの作業も加わった。多湿により病気や害虫が蔓延しやすいため、消毒剤や殺虫剤の散布が欠かせないのである。杏子が当惑したことは、それらの薬剤散布のための器材を、隣の坂下果樹園に借りに行かねばならなかったことである。
昨日の今日で、健の暴挙が保の耳に届いていないかもしれないとも思ったが、宮部の告げ口によるものか、はたまた健自身が白状したのか、保は弟の醜態をしっかりと把握しており、床に頭が着きそうな程、杏子に謝罪した。杏子の心情を考えて、暫くは健を杏子から遠ざけるが、いずれ必ず本人にも詫びに行かせると、保は杏子に固く約束したのだった。
太陽の庭での作業は、初日の日曜のみ二時間程で終えたが、翌月曜から約束の土曜日までは、以前と同じ朝九時から午後二時までの実働四時間で、昼休憩には、宮部の出張中と同様に、曽我の家に帰って過ごした。
仕事の指示は、朝出勤してきて直ぐに電話で指示を仰ぎ、終えた作業は都度メールで報告し、不明な点があればまた電話で確認をするという、対面のコミュニケーションが一切ない殺伐としたものだった。それでも、杏子の嬉しかったことには、電話の向こうの宮部の声が、当初は冷たく突き放すような口調であったのが、日を追う毎に自然なものへと変わり、全く返信のなかった作業報告のメールにも、わかった、了解、などの返信が届くようになったのである。それは、恋だの愛だのといった甘やかさとは程遠かったが、せめてもの罪滅ぼしのつもりで毎日通ってくる杏子にとっては、酬いとなるのに十分であった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜
紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。
しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。
私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。
近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。
泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。
私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる