君に捧ぐ花

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第九章 真実の端緒

第七十二話 孤独な女

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いよいよ、加古川から静子が真奈美を迎えに来る土曜日の朝、何時ものように、と、相変わらず用件だけを端的に伝える宮部との通話を切って、杏子は作業に取りかかった。今日は、恐らく半日でお役御免となるだろう。
春の頃よりも気温が上がり、その分、鉢の土の乾きも早く、水遣りが仕事の多くを占めている。昨日など、いかにも梅雨らしく、一日を通して雨が断続的に降っていたのだが、ハウスの中に納められたここの植物達には、やはり人の手で水を遣らねばならなかった。

(土がカラカラなんだけど…。これには遣らなくていいのかな。)

この一週間、日当たりの良い斜面に建つこのハウスの片隅の、敢えて半日陰になる位置に置かれている小さな鉢を、杏子はずっと気に掛けていた。その日に水を遣るべき植物は、毎朝宮部が名指しで指示するものと、土の乾きを確認した上で杏子に裁量の余地が残されている品種のものとがある。今杏子の目の前にあるこの鉢は、杏子にはその名前さえわからないが、いずれのカテゴリーからも漏れ、この一週間一度も水を遣っていない。当然、その鉢の土は、表面のみならず底の方まで乾いているように思われた。
その植物は、大型品種が多いこのハウスに置いて、一際目を惹く小ささで、生を受けてまだ数年程度の若々しさに満ち溢れた葉肉が、中心から何層にも重なって小さな放物線を描き、杏子にはすっかりお馴染みとなった鋭利な棘に護られていた。その棘すらも、成木に比べると細く短く柔らかく、どこか庇護欲を掻き立てるような初々しさを纏っていたが、他品種と比べると随分棘の数が多く、葉先がくるりとカールする特徴を有していた。

「終わりました。次は何をしましょうか。」
他の作業を全て終え、ちょうど次の指示を仰ぐタイミングで、杏子は、この幼木について宮部に聞いてみようと考えた。杏子の問に、そうだな、と宮部が思案しているうちに、杏子は更に言葉を続けた。
「そういえば、ハウスの隅の日陰のところに、見たことのない品種の小さな鉢があるんですけど、あれは水遣りしなくていいんですか?だいぶ乾いてる感じですけど。」
「あれはいい。触らないように。」
思いの外、即答が宮部から返ってきて、杏子は違和感を感じた。
「何と言う品種なんですか?」
「気にしなくていい。あれは引き受け先が決まっていて、安定するまで寝かせているだけだから。乾き気味にして陽を弱めてやっていれば、それでいいんだ。放っておいてくれ。」
最近ではすっかり普通の物言いに戻っていたというのに、余計なことを聞いてしまったのか、久々に突き放すような言い方の宮部に、杏子は自らの好奇心を悔いたのだった。

宮部の指示により、鉢の中の雑草抜きをしながら一時間程過ごし、足腰に重怠い痛みを感じだした頃、杏子は、ハウスの外に、砂利道を走り来る車の音と、数人の話し声を聞いた。とうとう静子が、今度は娘と婿を伴って、加古川から太陽の庭へとやって来たのだった。
気配を感じたのか、家から表に出てきた宮部も加わって、真奈美を除く関係者が一同に会し、数年ぶりの身内との再会を懐かしんだり、今回の事態に遺憾の意を示したり、身内を預かってもらうことへの感謝の意を表したりと、其々が思い思いに言葉を交わしている。只一人の部外者である杏子は、ハウスの中でひっそりと息を潜めて気配を殺し、手持ち無沙汰に辺りの葉を束ねては弄くっていた。

やがて全員が家の中へ入ったのか、ハウスはまた静寂に包まれた。入り口から奥へと吹き抜ける生温い風が、ゆらゆらと木々の硬い葉を揺らしては、ぱらぱらと乾いた軽い音を鳴らしている。
杏子は孤独だった。
宮部には、不慮の事故で亡くなった両親の他にも、伯母たちやいとこたちがいる。自分を頼りにしてくれている妹がいる。
あの健にも、両親や兄達、可愛らしい姪たちがいる。
彼等は皆、其々が固い絆で結ばれていて、誰かが苦境に陥れば助け、誰かが他者に害為せば代わって頭を下げ、誰かが哀しみに暮れていればそっと寄り添い背を撫でてやるのだ。なぜ、自分には、そんな存在がないのだろうか。その有り難みなど気にも留めないような、誰もが当たり前に持っているものを、なぜ自分は持っていないのだろうかと、杏子はやるせない想いに胸が痛んだ。それはちょうど、物言わぬ植物達の静の中にあって、杏子が唯一の動たる存在であるのと同じくらいに、極めて異質さの際立つ孤独感であった。
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