君に捧ぐ花

ancco

文字の大きさ
73 / 110
第九章 真実の端緒

第七十三話 暫しの別れ

しおりを挟む
時刻はちょうど昼に差し掛かり、いつもであれば、そろそろ一度自宅へ引き上げる頃合いであった。アルバイト最終日である今日は、いくらプライベートなことは無しと言っても、さすがに何の挨拶もなしに帰宅するわけにもいかず、このまま待ち続けるべきか、それとも昼休憩に行って戻ってくるべきか、決めかねた杏子は、ただハウスの中をうろうろと歩き回っていた。
端から端まで三往復ほどはした時、再び家の方からガヤガヤと複数の人の声がして、杏子は慌てて作業に勤しむ振りをした。

「じゃあ、どこかで美味しいものを食べてから帰りましょ。真奈美ちゃん、お寿司は好き?私のお気に入りのお店に連れていきたいわぁ。」
「あら、あの店?良いわねぇ。今からだと混んでるかもしれないから、総一さん、予約の電話してくれないかしら?」
「そうですね、そうしましょう。」
すぐに、もしもし、と聞きなれない男の声が架電する様子があり、一行は目論見通り昼食に上手い寿司にありつけるようだった。
「じゃあな。週末毎にそっちに顔見に行くから、沢山上手いもん食わしてもらって、早く昔みたいな真ん丸ほっぺのまぁちゃんになれよ。」
「やめてよ、お兄ちゃん。まぁちゃんとか、いつの話。だいたい太りたくなんてないし。」
初めて聞いた真奈美の声は、若々しく弾んでいて、鈴が鳴るような高く澄んだ声だった。とても心の病に侵されているようには思われなかったが、鬱病というのは、タイプによっては躁と鬱が交互に訪れるようなものもあるらしく、時折落ち込んで何も手につかなくなるという真奈美は、そういうタイプなのかもしれないなと、杏子は思った。
「お前は痩せすぎだ。可奈姉ちゃんを見てみろよ。ちょっとは肉を分けてもらえ。」
「ちょっと!夏樹!どういう意味よ。私はデブじゃなくて妊婦なんです!ごっちゃにしないでよね。」
「うんうん、可奈姉ちゃんは全然太ってないし!」
家族が軽口を叩きあって、愉しそうに笑いあっている。以前に真奈美が親戚に引き取られたときは、釦の掛け違いのように、皆の想いが空回りして不幸な結果になってしまったが、今回ばかりは、全員にとって良い選択をしたのだろうなと、他人事ながら杏子は胸を撫で下ろした。
「あら、知らないの?夏樹はふくよかな女らしいラインの女性が好みなのよね?」
揶揄うように静子が吐いた言葉に、ハウスの陰では杏子の心臓がどきりと跳び跳ねた。
「えー!?何それ。初耳なんですけど。夏樹、誰かそんな好い人がいるのー!?」
「いないわ!静子おばちゃん、余計なことを言うなよ、マジで。」
静子の言葉に焦っているのは、杏子だけではなさそうだった。むしろ、宮部の方こそ、野次馬的ギャラリーに囲まれて、進退窮まった様子である。
「お兄ちゃん。そんな好い人がいるなら、さっさと決めた方がいいよ。十一月までもう半年切ってるんだから。三十になったら、見合い相手連れて幸子おばちゃんが城崎から降臨するんだからね。」
「降臨って!夏樹お見合いさせられちゃうんだ~。幸子おばちゃん、なんかすっごい女連れてきそう。」
ハウスの中の杏子にまで聞こえるほどの、盛大な溜め息が聞こえた。宮部のものだろう。
「姉さんがずっと言ってるのよ。ほら、夏樹がこっちに戻って来たせいで、東京の彼女と別れてしまったでしょう。田舎じゃ出逢いも少ないし、三十までに好い人ができなかったら、責任もって嫁を見繕うって。宮部家の長男がいつまでも独身じゃあ、武雄さんに申し訳が立たないってね、姉さんなりに色々考えてくれてるのよ。」
「わかってるよ。最近じゃ、それも悪くないかなって思ってる。」
聞き耳を立てていた杏子は、東京の元彼女の件でも十分にショックを受けたが、宮部が見合いを満更でもなく考えていると知って、雷に打たれたような衝撃を受けた。あちらの面々も絶句しているようである。
「そ…そうなの?まぁ、夏樹がそれでいいなら、いいんだろうけど。」
「…よく考えて、後悔しないように決めなさい。」
杏子の存在を知る静子だが、控え目に、一言だけ宮部を諭して、そして一行は車に乗り込み去っていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

辺境伯夫人は領地を紡ぐ

やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。 しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。 物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。 戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。 これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。 全50話の予定です ※表紙はイメージです ※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)

すれ違う心 解ける氷

柴田はつみ
恋愛
幼い頃の優しさを失い、無口で冷徹となった御曹司とその冷たい態度に心を閉ざした許嫁の複雑な関係の物語

片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜

橘しづき
恋愛
 姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。    私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。    だが当日、姉は結婚式に来なかった。  パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。 「私が……蒼一さんと結婚します」    姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

処理中です...