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第九章 真実の端緒
第七十四話 ごめんなさいが言いたくて
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もう杏子がハウスの外へ出ることは何も憚られないのに、杏子の足は、地面に突き刺さった二本の棒のように微動だにせず、一寸さえも動く気配は無かった。それほどに、杏子の心は打ち砕かれた。
何をそれほどショックを受けることがあろうかと、杏子の理性は、至って冷静に状況を分析している。杏子は、自発的に、宮部の前から姿を消すと宣言したのである。そうであるならば、その宮部が、誰と見合いをしようが、誰と結婚しようが、そんなことは関係無いでは無いか。
しかし、そうは問屋が卸さないのが恋心というものである。杏子が今ここに居ると言うことを、全く知るよしも無い真奈美や静子達はともかく、確実に杏子の存在を念頭に置いている宮部が、皆の前で見合いを肯定的に受け入れたのだ。それは即ち、杏子に対する、宮部からの、決定的な離別状であった。
「待たせてすまん。報酬を渡すから、ちょっと上まで頼む。」
宮部がハウスの入り口から顔を覗かせ、親指で背後の自宅を指してそう言った。
杏子は、アルバイトとして雇ってくれと言ったものの、今回のことで報酬をもらうつもりは無かったが、最後に少しでも話ができればと、僅かな希望にすがるようにして、宮部の後に従った。
「報酬はいりません。前に言ったように、今までのお礼として、私がやりたかったことをしただけだから。とはいっても、宮部さんは、はいそうですかって黙ってお金を引っ込める人じゃないでしょうけど。良ければ、私が退去した後の、あの家のクリーニング代か何かに充ててください。親切に甘えて、敷金礼金なんかを全然納めてないから。」
宮部が杏子に封筒を渡そうとしたのを見て、杏子は先に断りを入れた。宮部は、しばらく黙して思案しているようだったが、やがて短く諾と告げた。
「今回のことは、正直、助かった。ありがとう。」
封筒を脇に退けた宮部は、もともと崩れていない姿勢を更に正して、杏子を真っ直ぐ見据え、そう礼を述べて頭を下げた。
宮部は、単に、仕事の手伝いに対して常識的な礼を言ったに過ぎないが、杏子には、それで十分であった。自分の愚かな過ちを悔いながらも、それを謝罪することも赦されず、ひたすら労働という名の贖罪を行ってきたこの一週間、出口の見えないトンネルを直走るような、絶望感と徒労感に杏子は堪えてきたのだ。どれだけ尽くしても、その先に赦しもなければ、酬われることもないのだと、そう自分に言い聞かせ、無駄な望みを抱かないよう自分を戒めて来た。そんな辛い時を過ごしてきた杏子には、真実、心の底では欲してやまない恋しい男から、ありがとう、と一言もらえただけで、胸の奥から湧き上がる溢れる感情を抑えきれずに、それが涙となってはらはらと零れ落ち、杏子の頬を幾筋か濡らした。
自分が宮部にした仕打ちを考えれば、涙を見せるなど許されない気がして、杏子は、下を向き涙を隠そうと試みたが、それが成功したとは思えなかった。それでも、宮部が何も言わないところを見ると、こんなことで涙を流す杏子に呆れかえっているか、或いは、どの面下げて涙を流すのかと憤っているかのどちらかであるはずだと思い、杏子はしばらく宮部の顔を見ることができず、俯き続けたのだった。
「今後のことは…。」
しびれを切らしたのか、宮部が沈黙を破った。杏子の涙には触れなかった。
「はい。お約束通り、今月末で退去します。末日に、引き渡しの立ち会いをお願いできますか。家の中が原状回復されているか見て頂いて、鍵をお返しします。」
慌てて涙を拭った杏子は、宮部の調子に合わせて、淡々と事務的な話を進めるべく努め、宮部も異論無くこれに承知した。
そして、また沈黙が訪れた。雇用主と被雇用者としての遣り取りも、大家代理と店子としての遣り取りも終わり、建前上は、もはや二人が会話を交わす必要は無い。しかし二人の本音は、まだお互いに何かを言い足りないのか、相手の出方を窺って、何をどう切り出すべきか考え倦ねているかのようであった。
口火を切ったのは、意外にも、宮部だった。
「この間は、済まなかった。」
杏子は、耳を疑った。宮部に謝られるようなことなど、身に覚えが無いと思ったのだ。
「真奈美のことで気が立っていたんだと思う。余裕が無かった。話も聞かずに追い返そうとして、済まなかった。」
「そんな。私がしたことを思えば、玄関先で追い返されても文句は言えないわ。でも、あの…。それは、今からでも話を聞いてもらえると言うことなの?」
杏子は、恐る恐る、宮部の顔色を窺いながら、話の裏を読んだ。
「退去日に会うとは言え、これがちゃんと話ができる最後の機会だろうから。お互い遺恨を残さないように、話をしておくのが良いかもしれない。」
宮部の寛大かつ前向きな申し出に、杏子は驚嘆しつつも、最後に思いの丈をぶつけようと心に決めた。
何をそれほどショックを受けることがあろうかと、杏子の理性は、至って冷静に状況を分析している。杏子は、自発的に、宮部の前から姿を消すと宣言したのである。そうであるならば、その宮部が、誰と見合いをしようが、誰と結婚しようが、そんなことは関係無いでは無いか。
しかし、そうは問屋が卸さないのが恋心というものである。杏子が今ここに居ると言うことを、全く知るよしも無い真奈美や静子達はともかく、確実に杏子の存在を念頭に置いている宮部が、皆の前で見合いを肯定的に受け入れたのだ。それは即ち、杏子に対する、宮部からの、決定的な離別状であった。
「待たせてすまん。報酬を渡すから、ちょっと上まで頼む。」
宮部がハウスの入り口から顔を覗かせ、親指で背後の自宅を指してそう言った。
杏子は、アルバイトとして雇ってくれと言ったものの、今回のことで報酬をもらうつもりは無かったが、最後に少しでも話ができればと、僅かな希望にすがるようにして、宮部の後に従った。
「報酬はいりません。前に言ったように、今までのお礼として、私がやりたかったことをしただけだから。とはいっても、宮部さんは、はいそうですかって黙ってお金を引っ込める人じゃないでしょうけど。良ければ、私が退去した後の、あの家のクリーニング代か何かに充ててください。親切に甘えて、敷金礼金なんかを全然納めてないから。」
宮部が杏子に封筒を渡そうとしたのを見て、杏子は先に断りを入れた。宮部は、しばらく黙して思案しているようだったが、やがて短く諾と告げた。
「今回のことは、正直、助かった。ありがとう。」
封筒を脇に退けた宮部は、もともと崩れていない姿勢を更に正して、杏子を真っ直ぐ見据え、そう礼を述べて頭を下げた。
宮部は、単に、仕事の手伝いに対して常識的な礼を言ったに過ぎないが、杏子には、それで十分であった。自分の愚かな過ちを悔いながらも、それを謝罪することも赦されず、ひたすら労働という名の贖罪を行ってきたこの一週間、出口の見えないトンネルを直走るような、絶望感と徒労感に杏子は堪えてきたのだ。どれだけ尽くしても、その先に赦しもなければ、酬われることもないのだと、そう自分に言い聞かせ、無駄な望みを抱かないよう自分を戒めて来た。そんな辛い時を過ごしてきた杏子には、真実、心の底では欲してやまない恋しい男から、ありがとう、と一言もらえただけで、胸の奥から湧き上がる溢れる感情を抑えきれずに、それが涙となってはらはらと零れ落ち、杏子の頬を幾筋か濡らした。
自分が宮部にした仕打ちを考えれば、涙を見せるなど許されない気がして、杏子は、下を向き涙を隠そうと試みたが、それが成功したとは思えなかった。それでも、宮部が何も言わないところを見ると、こんなことで涙を流す杏子に呆れかえっているか、或いは、どの面下げて涙を流すのかと憤っているかのどちらかであるはずだと思い、杏子はしばらく宮部の顔を見ることができず、俯き続けたのだった。
「今後のことは…。」
しびれを切らしたのか、宮部が沈黙を破った。杏子の涙には触れなかった。
「はい。お約束通り、今月末で退去します。末日に、引き渡しの立ち会いをお願いできますか。家の中が原状回復されているか見て頂いて、鍵をお返しします。」
慌てて涙を拭った杏子は、宮部の調子に合わせて、淡々と事務的な話を進めるべく努め、宮部も異論無くこれに承知した。
そして、また沈黙が訪れた。雇用主と被雇用者としての遣り取りも、大家代理と店子としての遣り取りも終わり、建前上は、もはや二人が会話を交わす必要は無い。しかし二人の本音は、まだお互いに何かを言い足りないのか、相手の出方を窺って、何をどう切り出すべきか考え倦ねているかのようであった。
口火を切ったのは、意外にも、宮部だった。
「この間は、済まなかった。」
杏子は、耳を疑った。宮部に謝られるようなことなど、身に覚えが無いと思ったのだ。
「真奈美のことで気が立っていたんだと思う。余裕が無かった。話も聞かずに追い返そうとして、済まなかった。」
「そんな。私がしたことを思えば、玄関先で追い返されても文句は言えないわ。でも、あの…。それは、今からでも話を聞いてもらえると言うことなの?」
杏子は、恐る恐る、宮部の顔色を窺いながら、話の裏を読んだ。
「退去日に会うとは言え、これがちゃんと話ができる最後の機会だろうから。お互い遺恨を残さないように、話をしておくのが良いかもしれない。」
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