76 / 110
第十章 瓦解
第七十六話 独白
しおりを挟む
「最初は、大勢でおしゃべりしてたんだけど、その中で仲良くなった男の人がいて、すぐにその人と二人だけでチャットするようになったの。話してたのは、些細な日常のこととか、仕事のこととか、恋愛のこととか。その人、すごく聞き上手で、人の気持ちをくみ取ることが上手でね、だから、主に私が愚痴っては、慰めてもらうことが多かったんだ。前の仕事で、辛いことがあって、今思えば大したことないって言うか、私が単に未熟だっただけなんだけど、そのときの私にとってはすごく深刻で辛くて、それを毎日励まして支えてくれたのがその人だったの。単に優しいだけじゃ無くて、その人の仕事の内容とか、仕事に対する姿勢とか、そういうのもすごく格好良くて、最初は単なる仲の良いチャット友達だったのが、だんだん好きになっていって。もちろん、私が宮部さんを好きになったような、そういう好きとはちょっと違うんだけど、でも、私にとっては間違いなく、すごく大事な存在だった。」
もう宮部は気づいた頃だろうかと、杏子はそう推測したが、話の腰を折られないよう、宮部と目を合わさず俯いたまま話を続けた。
「だけど、その人、どうしてだか突然チャットを辞めちゃったの。今では、その理由は分かってて、仕方ないことだったって思ってるんだけど、当時は判りようも無くて、私、寂しくて辛くて、ちょうど同じ頃に仕事で大きな失敗をして、精神的に追い詰められてしまって、その時たまたま知った翻訳者のテストに合格したこともあって、仕事を辞めてフリーになるって決めたの。でも、当然だけど、現実にはフリーの仕事って厳しくて、毎日無我夢中で仕事して、チャットに来なくなったその人のことはすっかり忘れてた。それがね、たまたま、本当にびっくりするくらい偶然なんだけど、その時受注した翻訳案件が、どうもその人が私と知らずに発注したものだったみたいで、名前も、仕事内容も、住んでる地域も、いろんな状況が全てその人と一致してた。それで、その人がどこの誰だか判ってしまったら、私もう、会って確かめずには居られなくなって、何でチャットを辞めたのか、会って尋ねたかった。ちょうどその頃ね、フリーの収入じゃ前の家が住み難くて引っ越し先を探してたから、思い切って家を引き払って、それでこの町に来たの。私は、その人に会うために、この町に来たの。」
杏子は、漸く顔を上げ、目の前に座する宮部に視線を据えた。宮部は、表情の無い顔で、ただ杏子を見返している。
「私は、ナツキに会うためにこの町に来たの。そして、太陽の庭で本当の夏樹に出会って、貴方に恋をした。もとからナツキのことは好きだったけど、貴方に会って初めて恋をして、私の馬鹿な思い込みのせいでこんなことになってしまったけど、でも、今でも…、私は宮部さんのことが好きです。今まで、正体を隠していて、本当にごめんなさい。」
宮部は、ここに来て表情を崩し、驚愕に目を見開いた。杏子は、宮部が何を言うのか、ただじっと座して待った。杏子が言うべきことは、全て言い尽くした。あとは宮部の沙汰を待つのみである。
「それ…、俺の話だったのか?」
「…え?」
杏子には、宮部の問いの意味が分からず、思わず聞き返した。それを最後に、二人のどちらも口を開かない。お互いに、話の流れを反芻し、状況を把握しようと思考を巡らせている、そんな様相であった。
沈黙を最初に破ったのは、宮部だった。
「そいつ、ナツキっていうのか?この町の人間?」
「え?う…、うん。いや、この町っていうか、この県の南部あたりと聞いてたんだけど。」
怪訝に問う宮部に、杏子は辿々しく答えた。自分はナツキではないとでも言いたげな宮部の態度に、杏子は思いもしなかった方向へ話が向いていくのを感じ、困惑を隠せなかった。
「違うの…?だって、このあたりで、トゲトゲの植物を輸入して育てて販売してるナツキっていう人、他にも居る!?植物に対して情熱があって、いい人に買ってもらえたら嫁に出したみたいに感動して。4月と9月に海外に買い付けに行ったり、30才で親戚に無理矢理お見合いさせられるような、ナツキっていう名前の男、他にも居ると思う!?」
「…居ないだろうな。あいつ、そんなことまで…。」
「あいつって…。宮部さんがナツキじゃないって、そう言いたいの?」
杏子は核心に迫った。この半年ほど、杏子が知りたくても知り得なかった秘密、ナツキの正体に、杏子は今、限りなく近づいていた。
「俺は、お前の言うナツキじゃない。」
宮部は、きっぱりと、そう言い切った。そして、杏子が何かを言う暇も無く、またすぐに言葉を続けた。
「でも、ナツキが誰だかは判る。…真奈美だ。」
苦々しくそう言った宮部は、確かに杏子の視界に入っているのに、それを正しく脳が認識できていないような、そんなちぐはぐな感覚に杏子は見舞われたのだった。
もう宮部は気づいた頃だろうかと、杏子はそう推測したが、話の腰を折られないよう、宮部と目を合わさず俯いたまま話を続けた。
「だけど、その人、どうしてだか突然チャットを辞めちゃったの。今では、その理由は分かってて、仕方ないことだったって思ってるんだけど、当時は判りようも無くて、私、寂しくて辛くて、ちょうど同じ頃に仕事で大きな失敗をして、精神的に追い詰められてしまって、その時たまたま知った翻訳者のテストに合格したこともあって、仕事を辞めてフリーになるって決めたの。でも、当然だけど、現実にはフリーの仕事って厳しくて、毎日無我夢中で仕事して、チャットに来なくなったその人のことはすっかり忘れてた。それがね、たまたま、本当にびっくりするくらい偶然なんだけど、その時受注した翻訳案件が、どうもその人が私と知らずに発注したものだったみたいで、名前も、仕事内容も、住んでる地域も、いろんな状況が全てその人と一致してた。それで、その人がどこの誰だか判ってしまったら、私もう、会って確かめずには居られなくなって、何でチャットを辞めたのか、会って尋ねたかった。ちょうどその頃ね、フリーの収入じゃ前の家が住み難くて引っ越し先を探してたから、思い切って家を引き払って、それでこの町に来たの。私は、その人に会うために、この町に来たの。」
杏子は、漸く顔を上げ、目の前に座する宮部に視線を据えた。宮部は、表情の無い顔で、ただ杏子を見返している。
「私は、ナツキに会うためにこの町に来たの。そして、太陽の庭で本当の夏樹に出会って、貴方に恋をした。もとからナツキのことは好きだったけど、貴方に会って初めて恋をして、私の馬鹿な思い込みのせいでこんなことになってしまったけど、でも、今でも…、私は宮部さんのことが好きです。今まで、正体を隠していて、本当にごめんなさい。」
宮部は、ここに来て表情を崩し、驚愕に目を見開いた。杏子は、宮部が何を言うのか、ただじっと座して待った。杏子が言うべきことは、全て言い尽くした。あとは宮部の沙汰を待つのみである。
「それ…、俺の話だったのか?」
「…え?」
杏子には、宮部の問いの意味が分からず、思わず聞き返した。それを最後に、二人のどちらも口を開かない。お互いに、話の流れを反芻し、状況を把握しようと思考を巡らせている、そんな様相であった。
沈黙を最初に破ったのは、宮部だった。
「そいつ、ナツキっていうのか?この町の人間?」
「え?う…、うん。いや、この町っていうか、この県の南部あたりと聞いてたんだけど。」
怪訝に問う宮部に、杏子は辿々しく答えた。自分はナツキではないとでも言いたげな宮部の態度に、杏子は思いもしなかった方向へ話が向いていくのを感じ、困惑を隠せなかった。
「違うの…?だって、このあたりで、トゲトゲの植物を輸入して育てて販売してるナツキっていう人、他にも居る!?植物に対して情熱があって、いい人に買ってもらえたら嫁に出したみたいに感動して。4月と9月に海外に買い付けに行ったり、30才で親戚に無理矢理お見合いさせられるような、ナツキっていう名前の男、他にも居ると思う!?」
「…居ないだろうな。あいつ、そんなことまで…。」
「あいつって…。宮部さんがナツキじゃないって、そう言いたいの?」
杏子は核心に迫った。この半年ほど、杏子が知りたくても知り得なかった秘密、ナツキの正体に、杏子は今、限りなく近づいていた。
「俺は、お前の言うナツキじゃない。」
宮部は、きっぱりと、そう言い切った。そして、杏子が何かを言う暇も無く、またすぐに言葉を続けた。
「でも、ナツキが誰だかは判る。…真奈美だ。」
苦々しくそう言った宮部は、確かに杏子の視界に入っているのに、それを正しく脳が認識できていないような、そんなちぐはぐな感覚に杏子は見舞われたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜
紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。
しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。
私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。
近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。
泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。
私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる