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第十二章 Beyond the Truth
第百二話 急転直下
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上がり框に腰掛けて、杏子は暫くそこから動くことができなかった。
ふと目線を向こうにやると、玄関からひと続きになった台所の三和土に、プヤの鉢が据えられていた名残で、丸い小さな輪染みができていた。思いがけず杏子の手元にやってきたあの幼苗は、愛玩動物のように尻尾を振ったり甘えてきたりするわけではないが、確かに、杏子の心の慰めになっていたのだ。
(名無しの、トゲべくん…。)
あの優美な放物線、鋭くも柔らかい棘、ぷっくりと膨れたような厚ぼったい葉肉、宝石のように艶めく緑。そのどれもが、どうしようもなく愛した男宮部を、杏子に彷彿とさせたのだ。そのプヤを失った今、杏子の心には、台所の土間と同じように、擦っても擦っても決して消えない墨色の染みができたようだった。
実際には、杏子は宮部を失って久しいのに、あたかも、たった今、プヤを押しつけて背中を押して追い返したその時に、宮部の心が杏子から永遠に離れてしまったように、杏子にはそう感じられてならなかった。
それほどまでに、自分はあの幼い苗に愛着を持っていたのだと気づき、せめて待ち受け画像にその姿を残しておいて良かったと、杏子は自分の思いつきを褒め称えた。
きっとそれは、ボストンという新天地で、頼もしい心の支えになってくれるに違いないと、杏子は確信したのだった。
スマホの画面を存分に眺め、漸く杏子が腰を上げたときには、もう橙色の淡い光が部屋を満たし始めていた。そろそろ宮部も港に着く頃だろうかと思いを馳せながら、放りっぱなしだったエッセイに取りかかるべく、省電力モードで暗転したモニターを再び起動させた。
もっとも、複雑な思いにかき乱れた思考では碌な文章は一つも浮かばず、早々に筆を投げた杏子は、ふと思いつき、自分から真奈美にもう一度メールを送ることにした。
宮部が訪れて、無事にプヤを引き取ってもらったのだと、真奈美に報告しなければならない。ずっと便りが無かったことも、心配しているのだと書いてみよう。そう杏子は考えて、使い慣れたメーラーを立ち上げた。
エッセイに没頭していて昨日から立ち上げていなかったメーラーは、受信ボックスに貯まった新規メールを読み込むべく、起動するまでに数秒の時間を要した。見慣れた通販サイトや英語教育関連の多数のDMに混じって、一通だけ、登録に無いメールアドレスからのメールが届いていた。今日の午前中に発信されたそのメールのタイトルが、真奈美です、となっていて、なぜ突然メールアドレスを変えたのだろうかと怪訝に思いつつも、杏子はカチカチっと軽快な音を鳴らし、それを開封した。
瞬時に開いた文面は、画面全体が黒くなるほどぎっしりと字が詰まっていて、普段の真奈美らしくないその行間使いに驚いたが、上から目を走らせ読み進めるうちに、杏子は居ても立っても居られなくなり、取るものも取りあえず玄関を飛び出した。
家のすぐ脇に駐めてある愛車に跨がると、杏子はブレーキの存在意義など知らぬかのように、猛スピードで坂を駆け下りて、一目散に港へと向かった。
時刻は、最終便の出航まであと五分を切り、重力を最大限に利用して加速しても、辛うじて間に合うかどうか、五分五分の賭けといったところだ。
(どうか、間に合って!)
全速力で愛車のペダルを漕ぎながら、杏子は真奈美からのメールの文面を何度も頭の中で反芻し、先ほど見送ったばかりの恋しい男の背を全力で追いかけた。
追いかけて、追いかけて、追いついたとき、果たして自分は何を言えば良いのだろうか。良案は一つも頭に浮かばないのに、それでも追いかけずには居られないのだと、杏子は無我夢中で坂を下ったのだった。
ふと目線を向こうにやると、玄関からひと続きになった台所の三和土に、プヤの鉢が据えられていた名残で、丸い小さな輪染みができていた。思いがけず杏子の手元にやってきたあの幼苗は、愛玩動物のように尻尾を振ったり甘えてきたりするわけではないが、確かに、杏子の心の慰めになっていたのだ。
(名無しの、トゲべくん…。)
あの優美な放物線、鋭くも柔らかい棘、ぷっくりと膨れたような厚ぼったい葉肉、宝石のように艶めく緑。そのどれもが、どうしようもなく愛した男宮部を、杏子に彷彿とさせたのだ。そのプヤを失った今、杏子の心には、台所の土間と同じように、擦っても擦っても決して消えない墨色の染みができたようだった。
実際には、杏子は宮部を失って久しいのに、あたかも、たった今、プヤを押しつけて背中を押して追い返したその時に、宮部の心が杏子から永遠に離れてしまったように、杏子にはそう感じられてならなかった。
それほどまでに、自分はあの幼い苗に愛着を持っていたのだと気づき、せめて待ち受け画像にその姿を残しておいて良かったと、杏子は自分の思いつきを褒め称えた。
きっとそれは、ボストンという新天地で、頼もしい心の支えになってくれるに違いないと、杏子は確信したのだった。
スマホの画面を存分に眺め、漸く杏子が腰を上げたときには、もう橙色の淡い光が部屋を満たし始めていた。そろそろ宮部も港に着く頃だろうかと思いを馳せながら、放りっぱなしだったエッセイに取りかかるべく、省電力モードで暗転したモニターを再び起動させた。
もっとも、複雑な思いにかき乱れた思考では碌な文章は一つも浮かばず、早々に筆を投げた杏子は、ふと思いつき、自分から真奈美にもう一度メールを送ることにした。
宮部が訪れて、無事にプヤを引き取ってもらったのだと、真奈美に報告しなければならない。ずっと便りが無かったことも、心配しているのだと書いてみよう。そう杏子は考えて、使い慣れたメーラーを立ち上げた。
エッセイに没頭していて昨日から立ち上げていなかったメーラーは、受信ボックスに貯まった新規メールを読み込むべく、起動するまでに数秒の時間を要した。見慣れた通販サイトや英語教育関連の多数のDMに混じって、一通だけ、登録に無いメールアドレスからのメールが届いていた。今日の午前中に発信されたそのメールのタイトルが、真奈美です、となっていて、なぜ突然メールアドレスを変えたのだろうかと怪訝に思いつつも、杏子はカチカチっと軽快な音を鳴らし、それを開封した。
瞬時に開いた文面は、画面全体が黒くなるほどぎっしりと字が詰まっていて、普段の真奈美らしくないその行間使いに驚いたが、上から目を走らせ読み進めるうちに、杏子は居ても立っても居られなくなり、取るものも取りあえず玄関を飛び出した。
家のすぐ脇に駐めてある愛車に跨がると、杏子はブレーキの存在意義など知らぬかのように、猛スピードで坂を駆け下りて、一目散に港へと向かった。
時刻は、最終便の出航まであと五分を切り、重力を最大限に利用して加速しても、辛うじて間に合うかどうか、五分五分の賭けといったところだ。
(どうか、間に合って!)
全速力で愛車のペダルを漕ぎながら、杏子は真奈美からのメールの文面を何度も頭の中で反芻し、先ほど見送ったばかりの恋しい男の背を全力で追いかけた。
追いかけて、追いかけて、追いついたとき、果たして自分は何を言えば良いのだろうか。良案は一つも頭に浮かばないのに、それでも追いかけずには居られないのだと、杏子は無我夢中で坂を下ったのだった。
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