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序章
不安
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連邦の国土を大きく蛇行しながら南北に貫くブラーバ河は、連邦内でも比較的大きな河川のひとつだ。全長が五〇〇キロメートルを越えるうえ、川幅は河口近くでは二キロに達するし、中流域くらいまでであれば、五〇〇総トン近い船舶による航行も可能なほどに深い。
これだけの規模の河川ともなると、河川そのものを交通手段として利用できる一方、河の対岸に渡ること自体が困難であることは言うまでもない。それを国防上の利点としてとらえた連邦政府の指導により、ブラーバ河には橋がたったの三つしか架かっていない。そのうちの一つが、プリレチェンスキー市にある”栄光の十一月七日橋”だ。
労農党が結党した日を冠したこの橋は、複線化された鉄道を中央に配し、一段低くなった両側には二車線分の道路が並び、その外側にはさらに一段低くした歩道が設けられている。橋の幅は実に三〇メートルに迫るものであり、相当な規模を誇る。
また、このあたりの川幅は六〇〇メートルほどだが、両岸には二〇〇メートルほどの空き地を設けて堤防が築かれているため、橋の長さは一キロをわずかに超える。トラス構造を取るこの橋は、その長さ、幅ともに、党の記念日を冠するにふさわしい、重厚かつ壮大な建造物だ。
この橋の防空を担う部隊として、連邦人民評議会の第一党たる労農党の党員から志願者を募って編成された、第四三七独立防空中隊が配置されているのだが、その臨時指揮官たるマリヤ・ニコラエヴナ・ロマーシュキナ下級街区指導者は、キリキリと締め付けるような胃の痛みに襲われていた。
双眼鏡を握りしめる手にも、自然と力が入ってしまう。
それも仕方のない話だ。
何しろ、彼女はこの中隊の本来の指揮官ではない。本来の中隊長であるタラソヴァ上級街区指導者は、中隊に配備されている高射砲と高射機関砲の取り扱いや、防空任務全般についての指導のために、労農赤軍の防空軍から派遣されてきたペトロフ大尉とともに、上級部隊への陳情に行くと言って中隊を離れてから、もう四日以上も連絡が途絶えている。
訪問先である上級部隊の司令部に問い合わせてみたのだが、二人が訪問したという事実はなく、移動中に空襲にでもあったのか、それとも事件や事故にでも巻き込まれたのか、いまだに行方不明のままだ。
そのため、中隊に三人いる下級街区指導者の最先任で、高射砲小隊の小隊長であったマリヤが、臨時の中隊長を務めることになったのだ。
これまでは小隊の二門の高射砲についてだけ考えていればよかったのだが、さらに二基の四連装高射機関砲まで指揮しなければならない。さらに、橋の防衛は目下のところ、第四三七独立防空中隊の任務であり、もし仮に、橋に被弾して損傷でもすれば、責任を追及されてもおかしくない。しかも、”栄光の十一月七日橋”は、労農党の結党記念日をその名に冠する橋だ。損傷したこと自体が、党の名誉を著しく汚すことになるだろう。
このような条件がそろっていて、重圧を感じない方がおかしい。
そんな緊張が顔に出てしまっていたのだろう。傍らにいたアレクサンドラ・ペトローヴナ・ザイツェヴァ上級班指導者が、マリヤの肩に手を添えながら、彼女の耳元でささやく。
「マーシャ、大丈夫かい?」
急に声をかけられて、身体がぴくりと動いたマリヤだったが、顔の筋肉を総動員してなんとか笑顔らしきものをつくると、なるべく平静に聞こえるように絞った声で答えた。
「ありがとう、サーシャ。私なら大丈夫よ」
あきらかに虚勢とわかるその返答に、アレクサンドラの顔は曇る。
「他の連中ならともかく、友人かつ先任下士官でもあるあたしには、本音を言って欲しかったなぁ……」
声色と表情は冗談めいたものだったが、その眼は真剣そのもので、冗談を言っているようにはまるで見えない。
自分が友人に対する気遣いのつもりで言った言葉が、逆に彼女を傷つけてしまったことに気付いたマリヤは、素直に謝る。
「ごめんなさい。本当は不安で不安で仕方がないのよ。でも、私は士官だから、弱みなんて見せられないし……」
「他の連中にはそれでいいのよ」
マリヤの本音をようやく聞けたアレクサンドラが答える。
「先任下士官っていうのは、部下には言えない悩みを相談するためにいるんだから。それだけは忘れないで」
「わかったわ。ありがとう」
マリヤの表情がこわばったままであることを見て取ったアレクサンドラは、彼女の正面に立つと、その肩に手を添えながら言う。
「大丈夫。あの子たちも毎日の訓練で操砲には慣れてきてるし、前回はちゃんと追い払えたんだから。あなたが黙っていたって、ちゃんと仕事はできるわ」
それはマリヤも十分にわかっている。
部下たちの能力も向上しているし、何より、前回は確実に一機を撃破という実績があり、それが隊員たちの自信にもなっている。
だが、前回は旧式の爆撃機が、たった三機で様子見のようにやってきただけだった。しかし、今回は、機種こそ不明だが、その数は二〇機を越えているらしい。前回と比べたら、同じ機体を使っていたとしても、はるかに本気の攻撃だ。
そんな敵に対して、我々は本当に、有効な打撃を与えることができるだろうか。
そんなマリヤの後ろ向きな思考を中断させたのは、防空指揮所に配置されている野戦電話だった。
けたたましい呼び鈴に素早く反応したアレクサンドラは、受話器を取って回線の向こう側にいる誰かと会話を始めた。手元の紙に手早くメモを取ると、傍らにいた少女に手渡す。
アレクサンドラからメモを渡された少女、マルガリータは、彼女自慢のよく通る声で、自分の胸元にぶら下げた通話機に向かってメモの内容を読み上げる。
「哨所二五四二から連絡。敵機二〇以上が速度三五、高度三〇で、方位三〇五より一一〇へと移動中。総員、注意されたし」
来た。
哨所二五四二は対空監視を任務とする民間人ボランティアが詰めている哨戒所なのだが、第四三七独立防空中隊がいるプリレチェンスキー市の、西北西のやや北より、二〇キロほど先に位置している。
彼らからの報告をそのまま受け取れば、二〇機を超える敵機が、時速三五〇キロメートル、高度三〇〇〇メートルでこちらに向かっている。ということになる。
中隊全員に情報を伝達するため、防空指揮所には有線と無線の通話装置が備えられている。基本は有線通話だが、空爆で断線したときのことを考え、無線も準備されているのだ。そして、指揮所から各砲座に対し、敵機の情報や射撃開始と終了といった命令を伝えるために利用されている。
マルガリータはその伝令係だ。
彼女が敵機の情報を伝える声を聞いたマリヤから、表情が消える。
その姿を見たアレクサンドラはほっと胸の撫でおろした。
そう。不安がってはいたものの、いざとなれば、マリヤは士官として必要な態度と能力を示すことができる。
そうでなければ、軍隊なら士官として扱われる下級街区指導者になんて、なれるはずがないのだから。
マリヤたちが持つ双眼鏡が、敵機の姿をとらえるのに、それほど時間はかからなかった。もっとも、今の段階ではレンズに付着した埃のような小さな点だが。
残念なことに、射撃を始めるにはまだ遠い。しかし、敵機は時速三五〇キロでこちらへと向かっているのだから、倍率の低い双眼鏡でもその姿をとらえられた以上、その時は間近に迫っている。
「射撃用意!」
そう叫んだマリヤは、双眼鏡を持った手を胸元までおろすと、敵機をにらみつけるようにして肉眼で追い始める。
「射撃用意!」
マルガリータがマリヤの命令を中隊に伝える。
さあ、いよいよだ。
これだけの規模の河川ともなると、河川そのものを交通手段として利用できる一方、河の対岸に渡ること自体が困難であることは言うまでもない。それを国防上の利点としてとらえた連邦政府の指導により、ブラーバ河には橋がたったの三つしか架かっていない。そのうちの一つが、プリレチェンスキー市にある”栄光の十一月七日橋”だ。
労農党が結党した日を冠したこの橋は、複線化された鉄道を中央に配し、一段低くなった両側には二車線分の道路が並び、その外側にはさらに一段低くした歩道が設けられている。橋の幅は実に三〇メートルに迫るものであり、相当な規模を誇る。
また、このあたりの川幅は六〇〇メートルほどだが、両岸には二〇〇メートルほどの空き地を設けて堤防が築かれているため、橋の長さは一キロをわずかに超える。トラス構造を取るこの橋は、その長さ、幅ともに、党の記念日を冠するにふさわしい、重厚かつ壮大な建造物だ。
この橋の防空を担う部隊として、連邦人民評議会の第一党たる労農党の党員から志願者を募って編成された、第四三七独立防空中隊が配置されているのだが、その臨時指揮官たるマリヤ・ニコラエヴナ・ロマーシュキナ下級街区指導者は、キリキリと締め付けるような胃の痛みに襲われていた。
双眼鏡を握りしめる手にも、自然と力が入ってしまう。
それも仕方のない話だ。
何しろ、彼女はこの中隊の本来の指揮官ではない。本来の中隊長であるタラソヴァ上級街区指導者は、中隊に配備されている高射砲と高射機関砲の取り扱いや、防空任務全般についての指導のために、労農赤軍の防空軍から派遣されてきたペトロフ大尉とともに、上級部隊への陳情に行くと言って中隊を離れてから、もう四日以上も連絡が途絶えている。
訪問先である上級部隊の司令部に問い合わせてみたのだが、二人が訪問したという事実はなく、移動中に空襲にでもあったのか、それとも事件や事故にでも巻き込まれたのか、いまだに行方不明のままだ。
そのため、中隊に三人いる下級街区指導者の最先任で、高射砲小隊の小隊長であったマリヤが、臨時の中隊長を務めることになったのだ。
これまでは小隊の二門の高射砲についてだけ考えていればよかったのだが、さらに二基の四連装高射機関砲まで指揮しなければならない。さらに、橋の防衛は目下のところ、第四三七独立防空中隊の任務であり、もし仮に、橋に被弾して損傷でもすれば、責任を追及されてもおかしくない。しかも、”栄光の十一月七日橋”は、労農党の結党記念日をその名に冠する橋だ。損傷したこと自体が、党の名誉を著しく汚すことになるだろう。
このような条件がそろっていて、重圧を感じない方がおかしい。
そんな緊張が顔に出てしまっていたのだろう。傍らにいたアレクサンドラ・ペトローヴナ・ザイツェヴァ上級班指導者が、マリヤの肩に手を添えながら、彼女の耳元でささやく。
「マーシャ、大丈夫かい?」
急に声をかけられて、身体がぴくりと動いたマリヤだったが、顔の筋肉を総動員してなんとか笑顔らしきものをつくると、なるべく平静に聞こえるように絞った声で答えた。
「ありがとう、サーシャ。私なら大丈夫よ」
あきらかに虚勢とわかるその返答に、アレクサンドラの顔は曇る。
「他の連中ならともかく、友人かつ先任下士官でもあるあたしには、本音を言って欲しかったなぁ……」
声色と表情は冗談めいたものだったが、その眼は真剣そのもので、冗談を言っているようにはまるで見えない。
自分が友人に対する気遣いのつもりで言った言葉が、逆に彼女を傷つけてしまったことに気付いたマリヤは、素直に謝る。
「ごめんなさい。本当は不安で不安で仕方がないのよ。でも、私は士官だから、弱みなんて見せられないし……」
「他の連中にはそれでいいのよ」
マリヤの本音をようやく聞けたアレクサンドラが答える。
「先任下士官っていうのは、部下には言えない悩みを相談するためにいるんだから。それだけは忘れないで」
「わかったわ。ありがとう」
マリヤの表情がこわばったままであることを見て取ったアレクサンドラは、彼女の正面に立つと、その肩に手を添えながら言う。
「大丈夫。あの子たちも毎日の訓練で操砲には慣れてきてるし、前回はちゃんと追い払えたんだから。あなたが黙っていたって、ちゃんと仕事はできるわ」
それはマリヤも十分にわかっている。
部下たちの能力も向上しているし、何より、前回は確実に一機を撃破という実績があり、それが隊員たちの自信にもなっている。
だが、前回は旧式の爆撃機が、たった三機で様子見のようにやってきただけだった。しかし、今回は、機種こそ不明だが、その数は二〇機を越えているらしい。前回と比べたら、同じ機体を使っていたとしても、はるかに本気の攻撃だ。
そんな敵に対して、我々は本当に、有効な打撃を与えることができるだろうか。
そんなマリヤの後ろ向きな思考を中断させたのは、防空指揮所に配置されている野戦電話だった。
けたたましい呼び鈴に素早く反応したアレクサンドラは、受話器を取って回線の向こう側にいる誰かと会話を始めた。手元の紙に手早くメモを取ると、傍らにいた少女に手渡す。
アレクサンドラからメモを渡された少女、マルガリータは、彼女自慢のよく通る声で、自分の胸元にぶら下げた通話機に向かってメモの内容を読み上げる。
「哨所二五四二から連絡。敵機二〇以上が速度三五、高度三〇で、方位三〇五より一一〇へと移動中。総員、注意されたし」
来た。
哨所二五四二は対空監視を任務とする民間人ボランティアが詰めている哨戒所なのだが、第四三七独立防空中隊がいるプリレチェンスキー市の、西北西のやや北より、二〇キロほど先に位置している。
彼らからの報告をそのまま受け取れば、二〇機を超える敵機が、時速三五〇キロメートル、高度三〇〇〇メートルでこちらに向かっている。ということになる。
中隊全員に情報を伝達するため、防空指揮所には有線と無線の通話装置が備えられている。基本は有線通話だが、空爆で断線したときのことを考え、無線も準備されているのだ。そして、指揮所から各砲座に対し、敵機の情報や射撃開始と終了といった命令を伝えるために利用されている。
マルガリータはその伝令係だ。
彼女が敵機の情報を伝える声を聞いたマリヤから、表情が消える。
その姿を見たアレクサンドラはほっと胸の撫でおろした。
そう。不安がってはいたものの、いざとなれば、マリヤは士官として必要な態度と能力を示すことができる。
そうでなければ、軍隊なら士官として扱われる下級街区指導者になんて、なれるはずがないのだから。
マリヤたちが持つ双眼鏡が、敵機の姿をとらえるのに、それほど時間はかからなかった。もっとも、今の段階ではレンズに付着した埃のような小さな点だが。
残念なことに、射撃を始めるにはまだ遠い。しかし、敵機は時速三五〇キロでこちらへと向かっているのだから、倍率の低い双眼鏡でもその姿をとらえられた以上、その時は間近に迫っている。
「射撃用意!」
そう叫んだマリヤは、双眼鏡を持った手を胸元までおろすと、敵機をにらみつけるようにして肉眼で追い始める。
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