兄嫁〜あなたがくれた世界で〜

SAKU

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十一章

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カーテンの隙間から射す朝の光が、
薄く温度のない部屋に静かに落ちていた。

夜通し泣き疲れた大我は、
重たいまぶたをゆっくり開けて体を起こした。

視界に映ったのは、
ソファの脇で座ったまま眠り込んでいた冴夢の姿。

泣き腫らした目。
触れれば消えてしまいそうな頬。
指先だけが、世那のジャージの裾を握っていた。

(……苦しかったんだな……)

胸が痛む。

気配に気づいたように、冴夢もまばたきをした。

“世那を探す”動きが反射のように出る。
でも――どこにもいない。

そのたび、胸が深くえぐられる。

「……冴夢ちゃん。」

大我は声を落とし、静かに呼んだ。

冴夢はゆっくり顔を向けたが、
返事の仕方が分からなくなったみたいに、
ただ少しだけ瞬きをするだけだった。

沈黙が痛い。

大我はしばらく待ち、
言葉を選びながら問いかけた。

「……これから、どうするつもり?」

冴夢はしばらく口を開けず、
膝の上の手をぎゅっと握る。

ようやく絞り出した声は、
自分の声じゃないみたいにかすれていた。

「……わたし……わからない……」

「ここにいると……
 世那くんのこと……全部、思い出す……
 苦しくて……」

震える指先。

「でも……いなくなるのも……もっと……怖い……」

その正直な痛みを、大我はまっすぐ受け止めた。

「そっか。」

ゆっくり頷き、
冴夢の正面に座り直す。

そして――
逃げずに見つめた。

「ここは、兄ちゃんと冴夢ちゃんの家だ。
 思い出も多いし……きっと辛いよな。」

冴夢は唇を噛んだ。

大我は続ける。

「つらいなら、うちに来い。
 一人暮らしだし、困ることなんて何もない。」

「……大我くんの……家……?」

「うん。
 冴夢ちゃんが落ち着けるなら、いつでも。」

その言い方は押しつけじゃなくて、
“居場所の選択肢”を差し出す声だった。

冴夢は小さく震えながら答えた。

「……行っても……いい……?」

不安、勇気、頼る気持ち。
全部が混ざった声。

大我はすぐに、強く頷いた。

「もちろん。」

その優しさに、冴夢の胸がぎゅっと痛んだ。

(……優しい……
 世那くんと……似てる……)

でもすぐに別の痛みが押し寄せる。

「……でも、この家……どうするの……?」

世那と告げたい未来を語った場所。
笑った場所、怒った場所、眠った場所。

全部、彼の温度が残っている。

冴夢は俯いたまま震える声で言った。

「……残したい……
 捨てられない……
 触るのも……まだ怖い……」

大我は、迷わず言った。

「――なら、保管しよう。」

冴夢は顔を上げる。

「兄ちゃんの部屋も家具も、全部そのまま。
 引き払わない。
 俺が管理する。」

「本当に……いいの……?」

「いいよ。
 兄ちゃんの財産は冴夢ちゃんに渡る。
 でも管理は……兄ちゃんが俺に任せてた。」

冴夢の目が大きく開く。

「……任せて……た……?」

大我は静かに、苦しげに微笑んだ。

「ずっと前から。
 “もし俺に何かあったら、冴夢を頼む”って。
 生活も、未来も、家も……
 全部、俺に任せるって言った。」

冴夢の喉が詰まって声が出ない。

胸が痛くて、温かくて、どうしていいか分からない。

(……そんな……ずっと前から……
 わたしのこと……)

涙がにじむ。

大我は優しく言葉を続けた。

「だから、この家は残そう。
 冴夢ちゃんが“もう大丈夫”って思える日まで。
 帰りたいときに帰ってこい。
 ここは冴夢ちゃんの家なんだから。」

冴夢の頬に、一筋の涙が落ちた。

朝の光は少しだけあたたかくて、
その涙の粒をきれいに照らした。

――ここは残る。
――でも今は、大我の家に行く。

世那が守ったふたりが、
世那の残した家から、新しい一歩を踏み出した瞬間だった。

──────────────────────────

大我の家へ行くと決めて、
けれどまだ何も整理できていない心のまま、
冴夢は小さく指先を握った。

そして――
ふっと、大我の袖をつまむ。

「……大我くん……」

呼ばれた大我が振り向くと、
冴夢は視線を床に落としたまま、
胸の前で両手をぎゅっと握っていた。

言葉にするだけで、
何かを裏切ってしまう気がする質問。

でも、聞かずにはいられなかった。

「……あの……わたし……」

小さく息を吸い、

「……“名取なとり”のままでも……いいのかな……?」

その声は、
“世那くんの名字を背負っていいのか”
“自分がそこにいる資格があるのか”
“世那の家族でいていいのか”

そんな全部の不安がひと塊になって震えている声だった。

大我は一瞬だけ言葉をなくした。

(……そうか……
 冴夢ちゃん……そこを気にしてたのか……)

そして――
ためらいも、否定も、迷いも挟まなかった。

ただ真っすぐに言った。

「――いいよ。」

冴夢の肩がびくっと揺れる。

大我は一歩近づき、
逃げ場を塞がずに正面からその視線を受け止める。

「“名取のまま”がいいなら、名取のままでいい。
 兄ちゃんが守った時間も、名前も……
 全部、無理に変えなくていい。」

「……でも……だって……わたし……
 世那くんの……」

声が震えて言葉にならない。

大我は静かに首を振った。

「世那くんの“冴夢”だったんだろ?」

冴夢は目を見開く。


「なら、その名字を大事に思うのは当たり前だよ。
 背負っていい。
 守ってもらったこと、愛された記憶……
 その全部が、名取冴夢なとりさゆ名取冴夢なとりさゆを作ってる。」


「…………」


「無理に変えなくていい。
 “名取冴夢”でいたいなら、そのままでいればいい。
 俺は……その選択、全部支えるから。」

ふっと、冴夢の指先から力が抜けた。

こぼれた涙は、
悲しみではなく――
“許された”ことで滲んだものだった。


「……ありがとう……大我くん……
 わたし……名取のままで……いたい……」

大我は静かに頷いた。

「うん。
 それでいいよ、冴夢ちゃん。」

その瞬間、
“失った名字”ではなく
“守ってもらった名字”として、
冴夢は初めて名取を選んだ。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━

大我の言葉に肩の力がほどけたあとも、
冴夢の胸の奥には、まだ小さな震えが残っていた。

大我は気づいていた。
冴夢が“名取”という名前を守りたい理由には、
もうひとつの痛みが隠れていることに。

だから――
彼は少しだけ柔らかい声で続けた。

「冴夢ちゃん。」

冴夢は涙のあとが残る目を上げる。

「“名取”を選ぶってことは……
 兄ちゃんを忘れない、ってことだろ?」

冴夢は息を止めた。

「……うん……忘れたくない……
 忘れたら……わたし……世那くんを失う気がする……」

大我はふっと、優しい息を吐く。

「忘れなくていいよ。
 全部覚えてていい。
 兄ちゃんがそばに置いた時間も、
 守った気持ちも、
 未来を信じてたことも……
 冴夢ちゃんの中に残ってれば、それでいい。」

冴夢の震えが、少しずつ弱くなる。

大我はそっと視線を落とし、
それでもまっすぐな声で言った。

「……冴夢ちゃん。
 名前って、“過去を守るための鍵”にもなるんだ。」

冴夢はゆっくり目を瞬く。

「鍵……?」

「うん。
 兄ちゃんとの時間を閉じ込めておく扉の鍵。
 もし別の名字にしちゃったら……
 その鍵まで、手放すことになるかもしれない。」

冴夢は胸の奥がぎゅっと鳴るのを感じた。

(……名取のままでいい……
 ここに居ていいって……
 大我くんが……言ってくれた……)

涙がまたこぼれそうになったのを、
大我はそっと気づかないふりをした。

「名取冴夢でいたいなら、そうすればいい。
 無理に未来を早く決めなくていい。
 今は……“守られてきた自分”を続けていいんだよ。」

その言葉は、
冴夢の胸にずっとあった
“裏切ってしまうかもしれない”という恐怖を
そっと解いていった。

冴夢は、かすかな声で言う。

「……名取冴夢でいたい……
 世那くんが守ってくれた名前だから……」

大我はひとつ頷き、
その決意を祝福するように目を細めた。

「じゃあ、名取のままで行こう。
 これからの冴夢ちゃんが決める未来も、
 名取冴夢が歩いていけばいい。」

冴夢の中で、
ぽたり、と温かい雫がひとつ落ちた。

それは“失ったもの”の涙じゃなくて――

“持っていていいんだ”と
初めて心が許された涙。

大我は小さく笑った。

「冴夢ちゃんの名前、兄ちゃんも喜ぶよ。
 ……あいつ、冴夢ちゃんの名前、好きだったからさ。」

その一言で、
冴夢の指先がぎゅっと震えた。

でも――
もう悲しみで震えているわけじゃなかった。

胸の奥で、そっと守られた想いが灯っていた。

──────────────────────────

大我と一緒に玄関へ向かうと、
冴夢はそっと歩みを止めた。

ドアを開ける前に、
振り返る。

世那の気配がまだ残るリビング。
乱れたままのクッション。
昨夜、泣きながらしがみついたソファ。

胸の奥がきゅっと痛んだ。

(……また帰ってきてもいいんだよね……
 名取冴夢のままで……)

指先が震えるけれど、
今は涙じゃなくて――“決意”に近い震え。

冴夢はふっと息を吸い、
ほんの少し笑った。

そして。

「……世那くん……
 いってくるね。」

その声は震えていたけれど、
確かに前へ進むための一歩だった。

ドアが静かに開く。
朝の光がふたりを包み込む。

冴夢は名取冴夢のままで、
大我の隣へと歩き出した。
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