兄嫁〜あなたがくれた世界で〜

SAKU

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十二章

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朝の光がレース越しに柔らかく揺れて、
キッチンにはコーヒーの香りが満ちていた。

大我は腕時計を留めながら、
玄関で靴紐を結ぶ冴夢に声をかける。

「冴夢ちゃん、そろそろ。学校、送ってくよ。」

冴夢は顔だけ少し上げ、
あきれたように小さく笑った。

「……大我。毎日言ってるけど、平気。
 徒歩で行けるんだから。大我も仕事でしょ。」

大我は肩をすくめ、
困ったように、でもどこか甘さを含んだ笑みを浮かべる。

「はいはい。冴夢ちゃんは強いね。」

その“ちゃん付け”は、
自分自身に線を引き続けるための小さな戒めだった。

(……わかってるよ。
 歩けるのも、平気なのも。
 でも……送りたいんだよ、俺は。)

言ったら戻れない。
だから言わないまま、三年が過ぎた。

冴夢が髪を耳にかける。
その何気ない仕草だけで、
大我の胸の奥に小さな熱が灯る。

(……冴夢ちゃんが好きだ。
 でも“兄嫁”なんだ。
 俺が越えていい線じゃない。)

大我は一番近い義弟という鎖で、
ずっと自分を縛ってきた。

靴紐を結び終えた冴夢が、
くるりと大我の方へ向き直る。

「行くよ、大我。」

呼び捨て。
それはもう日常で、
大我も慣れきってしまった。

だけど――
その“呼び捨て”には、ふたりだけの記憶がある。

──────────────────────────
 ー三年前

「……大我。」

「お、俺……年上なんだけど!? 呼び捨て? 今?」

「大我は義弟。だから許す。」

「いや、許すのは俺だけど!? 理不尽にもほどが……」

そのやり取りのあと、
大我は三日ぶりに笑った。

──────────────────────────

冴夢がバッグを肩にかける。
ドアを開ける前、ほんの一瞬だけ大我を見る。

「……行こ。」

その一言には、
“車には乗れない”という静かな事実が含まれていた。
音も、光も、衝撃も、身体が拒む。
でも――徒歩なら大丈夫。
三年間、歩く景色だけは奪われなかった。

大我は靴を履き、冴夢の隣へ並ぶ。

「……送るって、歩くだけだよ?」

「知ってる。大我しつこい。」

その言い方が、
大我にはどうしようもなく愛しい。

(……三年間、この距離で一緒にいれば、
 そりゃあ好きにもなるよな。)

胸の奥で苦く笑いながら、
顔だけは静かな余裕をまとわせる。

不意に目が合う。
その瞬間だけ、大我の視線には
抑えているのに零れてしまう“大人の男の熱”が宿る。

冴夢はまだ、その意味に気づかない。

ふたりは並んで歩き出す。

三年前より距離は近い。
でも恋人になるには、まだ遠い。

──────────────────────────

アパートの階段を降りると、
春の風が冴夢のスカートを揺らした。

大学のトートを肩にかけて前を歩く冴夢。
その背中を見つめ、
大我はそっと息を飲む。

(……背、また伸びたな。)

三年前に泣いてしがみついてきた少女はもういない。
今は、自分の足で歩く“大学生の女性”。

だけど、横顔の影にはまだ、
あの日の痕跡が淡く残っている。

角を曲がるとき、冴夢がふと足を止めた。

「……大我。」

「ん?」

冴夢はポケットの端を指でもぞ……とつまむ。
昔から変わらない癖。

「歩いてると、たまに……あの音、思い出すときあるけどね。」

大我の表情がわずかに強張る。

冴夢は続ける。

「でも、大我が横にいると平気なんだ。
 理由は……まだよくわかんないけど。」

その一言で、大我の喉に熱がこみ上げる。

(……そんなこと言われたら……
 期待するだろ……俺だって男なんだから。)

けれど必死で抑える。

「冴夢ちゃん。」

「なに?」

「……無理だって思ったら言えよ。
 大学でも、バイトでも、どこでも迎えに行く。
 徒歩で。全速力で。」

冴夢は吹き出した。

「それ三年前から言ってる。」

「言い続けるよ。……許されてるうちは。」

冴夢はふわっと笑う。

「ありがと。……大我。」

その笑顔が、大我の胸を容赦なく締めつける。

(……好きだよ。
 でも“兄嫁”だ。
 その線は絶対に越えない。
 俺が越えちゃいけない。)

キャンパスが近づき、冴夢は足を止める。

「……帰りも、待ってるからね。」

「おう。行ってらっしゃい。」

門をくぐる前、冴夢がもう一度だけ振り返る。
その瞳には、大我を必要とする“影”が揺れた。

大我はその影を抱きしめたい衝動を、
必死に飲み込む。

(……三年、大切に距離を保ってきた。
 あと少し。
 冴夢が自分の足で未来を選べるようになるまで——
 俺はここにいる。)

冴夢の姿がキャンパスに溶け、
春の風だけが二人の間に残った。
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