兄嫁〜あなたがくれた世界で〜

SAKU

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十四章

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春の夕暮れ。
大学帰りのショッピングモールは、
制服と私服が入り混じる“普通”でいっぱいだった。

冴夢は、美琴に手首を軽く引かれながら歩く。

「ほら冴夢、あの店寄ってこ。春物かわいいよ~。」

「うん……うん、いいよ。」

美琴はいつも明るい。
でも冴夢の歩幅にちゃんと合わせて歩いてくれる。

二人で店に入ると、春服が風のように揺れていた。

美琴は服を見ながら急に言った。

「冴夢ってさ、将来どうしたいの?」

冴夢はハンガーを持つ手が止まる。

「……よく、わかんない。
 考えたこと、あんまりなくて……」

美琴は冴夢を笑わずに受け取る。

「そっか。」

「……ずっと、守られてきたから。
 自分のしたいことって……よく分からないんだ。」

「うん。」

美琴はその声を受け止めながら、
次の話題にそっと進む。

「じゃあ、恋愛は?」

冴夢の心が揺れた。

「……恋愛……?」

美琴はくすっと笑う。

「初恋くらいあるでしょ。だれ?」

胸の奥に、夕焼けの色が浮かぶ。
世那の手の温度、声の低さ……
でも。

(……あれは……恋、だった?
 それとも……“守られてた”だけ……?)

「……わかんない。」

美琴の眉が少し上がる。

「わかんない、か。」

彼女は軽く肩を回し、

「冴夢、お茶しに行こ。」

「え!?急に?」

「いいからいいから!」

──────────────────────────

 ー某ハンバーガーチェーン。

初めての店に戸惑う冴夢に、
美琴は爆笑してポテトを差し出した。

「ほんとかわいいなぁ冴夢、デビューじゃん。」

冴夢は少し照れながらポテトをつまむ。

席につくと、美琴は唐突に切り込んだ。

「で、恋の話だけどさ——」

「えっ、まだ続くの?」

美琴はコーラのストローをくるくる回しながら言う。

「難しいことないよ。
 “その時”って、身体が教えてくれるの。」

冴夢は静かに美琴を見る。

美琴はゆっくりと言葉を続ける。

「芸能人とかイケメンにドキドキするのは普通。
 女子なんだから、誰だってする。」

「うん……」

「でもね。
 “男が、自分を女として見てくる”時のドキドキは別物。」

冴夢の指先が、小さく震える。

美琴は視線を横に落としながら続ける。

「劇薬みたいに心臓が跳ねるよ。
 息がつまって、逃げたいのに逃げられない感じ。」

「……劇薬……」

「そう。
 怖いけど……なんか、生きてるって感じするやつ。」

冴夢は息をのみそうになる。

美琴は指を立てて言った。

「それはね、“女”には分かるの。
 相手の視線とか、声とか、距離の取り方とか。」

「……美琴は、わかるの?」

美琴はさらっと頷く。

「あるよ、嫌なやつも良いやつも。
 でもね——女は、見られたらわかるんだよ。」

「……んでね、冴夢。
 “自分を女として見る目”ってさ……
 わたしら、ほんとは気づいてるのよ。」

「……気づいてる……?」

美琴はストローの氷をカラン、と鳴らした。

「うん。説明できないけどさ。
 視線がふれるだけで、体が先に反応するの。
 頭じゃなくて……皮膚で、息で、心臓で分かる感じ。」

冴夢の胸が、すこしだけ熱を帯びる。

美琴は冴夢の反応を見ず、あえて軽く笑う。

「別に恋とかじゃなくてもいいの。
 でもね——“あ、この人はわたしを女として見てる”って、
 そういう瞬間だけは、嘘つけないんだよ。」

(……嘘、つけない……?)


冴夢は胸がきゅっとした。

理由は、まだ分からない。

美琴は笑って言う。

「ま、焦んなくていいよ。
 そのうち自然と分かるから。」

──────────────────────────

 ー帰り道

カフェを出たあと、春の風が吹いた。

美琴が歩きながらぽつり。

「冴夢ってさ、なんか……守られてきた感じするよ。」

「……うん。」

「でもさ、それだけじゃ息できない時もあるでしょ?
 だから……外の世界、ちょっとずつ見てほしいなって。」

「……外の世界……?」

美琴は笑った。

「そう。友達とバカ話したり、恋で失敗したり、
 誰かにドキッとしたり——
 “普通”の十九歳を、少しずつでいいから。」

冴夢はその言葉を胸の奥にそっと沈めた。

(……普通……
 わたしに、できるかな……)

その時ふっと胸の奥が熱くなった。
なにかに触れたような——
まだ名前のない感情。

でも、何かに気づく準備だけは
確かに、静かに芽を出し始めていた。

──────────────────────────

春風がマンションの通路を抜けていく。
夕暮れの色はもう薄く、街灯がぽつぽつ灯り始めていた。

冴夢は鍵を握ったまま、しばらくその光を見つめていた。

胸の奥が……
“ふわっ”と熱い。

(……さっきの、美琴の話……)

——“女として見られる時の、特別なドキドキは嘘つけない”。

その言葉だけが、夕焼けの中でずっと返っていた。

冴夢はそっと、自分の胸に触れた。

(……なんで……
 なんで、今こんなに……どきどきするんだろ……)

理由は分からない。
けど、胸がきゅぅっとして、呼吸の仕方が少しだけ変わる。

ちいさな鼓動が、耳の奥でやけに響く。

「……美琴、すごいこと言うんだもん……」

ぽつりとつぶやいて、少しだけ笑う。
照れたような、困ったような、あたたかいような気持ち。

そして——
ふと、思い浮かぶ“横顔”がひとつ。

包む手の温度。
静かに呼ぶ声。
近い距離。
あの夕焼け。

(………?)

冴夢は首を振った。
その名前を胸の中心に置くのが、まだ怖かった。

けれど。

“普通の十九歳としての揺れ”は、確かに芽を出していて。

息を吸ったとき、さっきより少しだけ胸があたたかかった。

(……わたしにも……
 こういうの、あるのかな……)

ぽつりと零したその小さな疑問は、
まだ恋とは言えない。
まだ気づくには遠い。

でも——

それは確かに、冴夢の“外の世界”への、一歩目だった。

そっと玄関を開ける。
靴を脱ぐ音がいつもより優しく響く。

胸の奥の小さな芽は、まだ名前も形もないまま——
でも確実に、生まれたばかりの春みたいに息づいていた。
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