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十五章
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冴夢がマンションの通路を歩いていると、
ちょうど玄関から出てくる大我と鉢合わせた。
「……あれ? 冴夢ちゃん、おかえり。」
いつもと同じ、
声の低さと優しさが混ざった響き。
冴夢は自然に笑って返す。
「大我どっか行くの?」
「買い物。ちょっと必要なもん。
一緒いく?」
「いく!」
その返事の速さに、
大我は少しだけ目を丸くした。
夕日の赤がマンションの壁に反射して、
ふたりの影が静かに重なる。
──────────────────────────
通勤ラッシュの気配が漂う道。
車のエンジン音、急ぎ足の会社員、
遠くで信号の切り替わる電子音。
そんな雑音の中でも、
大我は自然に冴夢を歩道側に寄せて歩いた。
「冴夢ちゃん、ちょい遠回りしようぜ。
車の通り多いから、こっちの方が歩きやすい。」
「うん……ありがとう。」
(……大我って、こういうとこ……ほんと優しい……)
大我の歩幅は冴夢よりずっと大きいはずなのに、
いつも当たり前みたいに合わせてくれる。
「夕日、すげぇな。今日真っ赤。」
「そうだねぇ……」
ただの夕日。
ただの散歩。
ただの日常。
なのに——
冴夢の胸だけが
“ふわっ”と知らない熱を帯びていた。
その正体を、まだ彼女は知らない。
──────────────────────────
スーパーの大きな看板が
夕日に照らされて柔らかい赤を帯びている。
店の前まで来たとき、
大我がふと足を止めた。
「悪い、靴紐ゆるんでた。
冴夢ちゃん、先に入ってていいよ。」
「うん。」
大我はその場でしゃがみ込み、
丁寧に靴紐を結び直し始める。
冴夢はひとりで
スーパーの自動ドアの前に立った。
夕日が背中から照らし、
髪の先が金色に染まる。
人が行き交う中、
冴夢だけがそこに静止しているみたいだった。
(……夕日、きれい……
ちょっと眩しい……)
そのタイミングだった。
「ねぇお姉さん、駅どっちか分かる?」
軽い調子の声。
振り向くと、
ピアスに前髪をセットした、
大学生っぽい軽めなお兄ちゃんが立っていた。
危険な雰囲気はない。
ただ“距離が近い”タイプ。
冴夢は少したじろぎながらも、
いつものように答えようとする。
「え、えっと……駅は——」
そのとき。
背後から、空気を割る声が落ちた。
「——冴夢ちゃんッ!?!?」
冴夢はびくっと肩を揺らした。
入口から振り返ると、
靴紐を結び終えた大我が
全力で走って来ていた。
「え!? た、大我!?!?」
大我は息を切らし、
勢いのまま冴夢の前に立つ。
目は大きく開かれていて、
驚きと焦りが混ざった光。
「……大丈夫か?」
声が低い。
いつもの柔らかさじゃない。
冴夢は一瞬、言葉を失った。
「う、うん……
道聞かれた……だけ……」
チャラ男は手をひらひら上げて苦笑する。
「ごめんね~、ちょっと道聞いただけだよ。
……彼氏さん、心配性だね?」
「ちが……ッ!!」
(即答。だが耳は真っ赤。)
(……か、彼氏……?
いま……言った……?)
男の子が去り、
夕風だけがふたりの間に残った。
──────────────────────────
大我の胸はまだ上下していて、
冴夢をまっすぐ見つめる目は
どこか怖いくらい真剣だった。
「……冴夢ちゃんが、急に見えなくなって……
入口で……誰かに声かけられてたから……」
言葉は途中で溶けるように小さくなる。
(“焦った”なんて……
言えるわけ、ないだろ……)
冴夢は胸の前でそっと指を握った。
(……大我が……こんな顔……
したことあった……?)
心臓が熱い。
呼吸が浅くなる。
さっきまで“日常”だった空気が、
一瞬で“違う色”に変わっていた。
「……びっくりしたぁ……大声出すから……」
そう言う冴夢の声は、
自分でも驚くほど震えていた。
大我は視線を少しそらし、
小さな声でつぶやいた。
「……なんか……あったかと思って……」
冴夢の胸が、
夕日の音よりも先に跳ねた。
(……なにこれ……
なんで……こんな……)
その瞬間、冴夢はまだ知らない。
“落ちる瞬間”は、
いつもこうやって静かに始まるのだと。
──────────────────────────
自動ドアがウィーンと開いて、
明るい蛍光灯の光がふたりを包む。
さっきまで夕日の中で胸がざわついていたのに、
店に入った途端、空気は“日常”の顔をし始める。
——でも。
ぎこちないのは、ふたりだけ。
(……落ち着け。いつもの大我だよ……)
(普通に喋れ俺……!いつも通りだろ……!)
「えっと……じゃがいも……買うんだっけ?」
大我の声が硬い。
語尾がわずかに詰まっている。
「うん……多分。あ、ほら、特売だよ。」
口調はいつも通り。
でも、目線がいつもよりわずかに泳いでいた。
大我はその変化に気づかない。
(冴夢ちゃん……全然動揺してないじゃん……落ち着け大丈夫気づかれてない……!)
冴夢は逆に思っている。
(大我……めちゃくちゃ普通……に戻ってる……私だけ……変なの……?)
少しだけ近い。
少しだけ落ち着かない。
いつもの距離が思い出せない。
いつもの空気が掴めない。
冴夢と大我は、
同時に胸の奥でつぶやいていた。
(……なんか、今日だけ“いつも”が分かんない……)
──────────────────────────
スーパーの明るい蛍光灯から外へ出ると、
夕日はほとんど沈みかけていて、
空が紫と橙のあいだでゆっくり溶け合っていた。
買い物袋を持った大我が、
いつもの調子で歩き出す。
冴夢も後ろをついていく。
さっきまでざわついていた胸が、
なんとか息を整えようと頑張っていた。
(……落ち着け……
大我はいつもの大我……
さっきのは……ただ焦っただけ……)
言い聞かせるたびに、
胸の奥の熱がほんの少し引く。
ふたりは、
いつもの“帰り道の距離”を
ゆっくり取り戻していった。
でも——
完全には戻らない。
ほんの少し、空気が柔らかい。
ほんの少し、互いの足音が近い。
大我の背中を見ながら、
冴夢はふと、思ってしまった。
(……大我……背中おっきいなぁ……)
今さら。
なんで今日だけ、そんなこと思うんだろう。
夕日の残り火のせいでも、
さっきの知らない男のせいでもない。
ただ、大我の背中が
あまりにも大きく、
あまりにも頼もしく見えてしまった。
(……なんで、いま……気づくんだろ……)
胸の奥がそっと揺れた。
気づいたら、手が動いていた。
自然に。
とても自然に。
冴夢の指先が、
そっと大我の袖に伸びて——
キュッ、と
小さく、生まれたばかりの勇気でつまんだ。
「ん?……冴夢ちゃん、どうした?
つかれた?」
振り返った大我のその目は優しくて、
あたたかくて、
いつもの“大人の余裕”に少し“心配”が混ざっている。
その優しさだけで、
冴夢の頬がふわっと熱くなった。
「……うん。
夕日……眩しくて……
見えにくい……」
本当は違う。
でも、そんな本当は言えない。
大我は一瞬だけ冴夢の表情を見つめて、
ふ、と優しく笑った。
「……そっか。
じゃ、ゆっくり帰ろ。」
夕暮れの風が柔らかくふたりを包む。
引かれた袖は、
そのままそっと解けたけれど——
冴夢の鼓動は解けていなかった。
大我の背中は、
もう“普通の背中”じゃなくなっていた。
まだ恋とは呼べない。
でも、恋にならずにはいられない。
そんな、静かな“落ちる一歩”だった。
──────────────────────────
ー帰宅後。
玄関の鍵が閉まる音がして、
部屋に静けさが戻った。
大我は靴も脱がず、
その場に立ち尽くした。
深く、深く、息を吐く。
(……あれは……マズい。
今日の……あの瞬間は……)
喉の奥から、どうしようもないため息が漏れる。
胸の奥の熱は、夕暮れで止まったまま下がらない。
バッグを置く指先が
わずかに震えた。
──────────────────────────
気づけば、大我は両手で顔を覆っていた。
(……ほんとに……バレたんじゃねぇか……?)
冴夢の、あの小さく震えた声。
「……びっくりしたぁ……大声出すから……」
そして——
こちらを見たときの目。
夕日の赤に照らされて、
冴夢の表情がわずかに揺れた。
動揺。
戸惑い。
そして……何かが、芽の先みたいに震えた。
(……やめてくれよ……気づくなよ……冴夢ちゃん……)
そう願っているのに。
胸の奥では別の熱が暴れていた。
(頼む……気づかないでくれ。
……頼むから……)
握った拳が、布をきしませた。
──────────────────────────
これ以上考えたら壊れそうで、
大我はふらつくように立ち上がった。
シャツをほとんど投げるように脱ぎ捨て、
温度高めのシャワーを頭から浴びる。
熱い水が肩を打つ音の中で、
呼吸がぶれた。
(……十九歳だぞ……)
(兄貴の……妻で……
守らなきゃいけない子で……
俺みたいなやつが、一番想っちゃいけない相手で……)
(大切な兄さんの……大切だった子で……
俺がいちばん……ダメだろ……)
喉で言葉が潰れた。
汚い。
ずるい。
こんな気持ち、抱えちゃいけない。
だけど——
冴夢が自分の袖を
キュッとつまんだあの温度。
まだ指先に残ってる。
「……夕日、眩しくて……」
あれが嘘だって、
本当は分かってる。
耳が赤かった。
呼吸が浅かった。
目を合わせきれてなかった。
(……あれは……反応だったろ……冴夢ちゃん……)
壁に手をつき、
水がゆっくり床に落ちる。
そして、頭のなかのどこかが
残酷に囁いた。
(……可愛かった……
抱きしめたいなんて……
本気で……思っちまった……)
シャワーの音が心臓の音に負ける。
止まらない。
──────────────────────────
夜風が冷たくて、
熱を持った体に刺さった。
大我はベッドに倒れ込み、
片腕で目を覆った。
(……どうすりゃいいんだよ……)
逃げても、抑えても、
今日の冴夢が頭を離れない。
夕日の中で振り返った横顔。
不安げに揺れた声。
袖をつまんだ指。
あの指に触れたら壊れそうなほど柔らかかった感触。
(……冴夢ちゃん……
俺……ほんとに……)
言葉がそこで止まる。
想うだけで罪。
触れたいなんて、もっと罪。
欲しいなんて——
考える資格すらない。
なのに胸は。
(……苦しい……)
焼けているみたいだ。
どれだけ否定しても、
どれだけ押し殺しても、
心臓だけが嘘をつかない。
(……惚れ直したんだよ……また……)
彼女が兄の妻だった過去を知っていても。
自分には許されない恋だと知っていても。
それでも——
夕日の中の冴夢を見た瞬間、
胸はもう戻れなかった。
静かな夜の部屋で、
誰にも言えない気持ちだけが
熱く、密かに燃え続けていた。
ちょうど玄関から出てくる大我と鉢合わせた。
「……あれ? 冴夢ちゃん、おかえり。」
いつもと同じ、
声の低さと優しさが混ざった響き。
冴夢は自然に笑って返す。
「大我どっか行くの?」
「買い物。ちょっと必要なもん。
一緒いく?」
「いく!」
その返事の速さに、
大我は少しだけ目を丸くした。
夕日の赤がマンションの壁に反射して、
ふたりの影が静かに重なる。
──────────────────────────
通勤ラッシュの気配が漂う道。
車のエンジン音、急ぎ足の会社員、
遠くで信号の切り替わる電子音。
そんな雑音の中でも、
大我は自然に冴夢を歩道側に寄せて歩いた。
「冴夢ちゃん、ちょい遠回りしようぜ。
車の通り多いから、こっちの方が歩きやすい。」
「うん……ありがとう。」
(……大我って、こういうとこ……ほんと優しい……)
大我の歩幅は冴夢よりずっと大きいはずなのに、
いつも当たり前みたいに合わせてくれる。
「夕日、すげぇな。今日真っ赤。」
「そうだねぇ……」
ただの夕日。
ただの散歩。
ただの日常。
なのに——
冴夢の胸だけが
“ふわっ”と知らない熱を帯びていた。
その正体を、まだ彼女は知らない。
──────────────────────────
スーパーの大きな看板が
夕日に照らされて柔らかい赤を帯びている。
店の前まで来たとき、
大我がふと足を止めた。
「悪い、靴紐ゆるんでた。
冴夢ちゃん、先に入ってていいよ。」
「うん。」
大我はその場でしゃがみ込み、
丁寧に靴紐を結び直し始める。
冴夢はひとりで
スーパーの自動ドアの前に立った。
夕日が背中から照らし、
髪の先が金色に染まる。
人が行き交う中、
冴夢だけがそこに静止しているみたいだった。
(……夕日、きれい……
ちょっと眩しい……)
そのタイミングだった。
「ねぇお姉さん、駅どっちか分かる?」
軽い調子の声。
振り向くと、
ピアスに前髪をセットした、
大学生っぽい軽めなお兄ちゃんが立っていた。
危険な雰囲気はない。
ただ“距離が近い”タイプ。
冴夢は少したじろぎながらも、
いつものように答えようとする。
「え、えっと……駅は——」
そのとき。
背後から、空気を割る声が落ちた。
「——冴夢ちゃんッ!?!?」
冴夢はびくっと肩を揺らした。
入口から振り返ると、
靴紐を結び終えた大我が
全力で走って来ていた。
「え!? た、大我!?!?」
大我は息を切らし、
勢いのまま冴夢の前に立つ。
目は大きく開かれていて、
驚きと焦りが混ざった光。
「……大丈夫か?」
声が低い。
いつもの柔らかさじゃない。
冴夢は一瞬、言葉を失った。
「う、うん……
道聞かれた……だけ……」
チャラ男は手をひらひら上げて苦笑する。
「ごめんね~、ちょっと道聞いただけだよ。
……彼氏さん、心配性だね?」
「ちが……ッ!!」
(即答。だが耳は真っ赤。)
(……か、彼氏……?
いま……言った……?)
男の子が去り、
夕風だけがふたりの間に残った。
──────────────────────────
大我の胸はまだ上下していて、
冴夢をまっすぐ見つめる目は
どこか怖いくらい真剣だった。
「……冴夢ちゃんが、急に見えなくなって……
入口で……誰かに声かけられてたから……」
言葉は途中で溶けるように小さくなる。
(“焦った”なんて……
言えるわけ、ないだろ……)
冴夢は胸の前でそっと指を握った。
(……大我が……こんな顔……
したことあった……?)
心臓が熱い。
呼吸が浅くなる。
さっきまで“日常”だった空気が、
一瞬で“違う色”に変わっていた。
「……びっくりしたぁ……大声出すから……」
そう言う冴夢の声は、
自分でも驚くほど震えていた。
大我は視線を少しそらし、
小さな声でつぶやいた。
「……なんか……あったかと思って……」
冴夢の胸が、
夕日の音よりも先に跳ねた。
(……なにこれ……
なんで……こんな……)
その瞬間、冴夢はまだ知らない。
“落ちる瞬間”は、
いつもこうやって静かに始まるのだと。
──────────────────────────
自動ドアがウィーンと開いて、
明るい蛍光灯の光がふたりを包む。
さっきまで夕日の中で胸がざわついていたのに、
店に入った途端、空気は“日常”の顔をし始める。
——でも。
ぎこちないのは、ふたりだけ。
(……落ち着け。いつもの大我だよ……)
(普通に喋れ俺……!いつも通りだろ……!)
「えっと……じゃがいも……買うんだっけ?」
大我の声が硬い。
語尾がわずかに詰まっている。
「うん……多分。あ、ほら、特売だよ。」
口調はいつも通り。
でも、目線がいつもよりわずかに泳いでいた。
大我はその変化に気づかない。
(冴夢ちゃん……全然動揺してないじゃん……落ち着け大丈夫気づかれてない……!)
冴夢は逆に思っている。
(大我……めちゃくちゃ普通……に戻ってる……私だけ……変なの……?)
少しだけ近い。
少しだけ落ち着かない。
いつもの距離が思い出せない。
いつもの空気が掴めない。
冴夢と大我は、
同時に胸の奥でつぶやいていた。
(……なんか、今日だけ“いつも”が分かんない……)
──────────────────────────
スーパーの明るい蛍光灯から外へ出ると、
夕日はほとんど沈みかけていて、
空が紫と橙のあいだでゆっくり溶け合っていた。
買い物袋を持った大我が、
いつもの調子で歩き出す。
冴夢も後ろをついていく。
さっきまでざわついていた胸が、
なんとか息を整えようと頑張っていた。
(……落ち着け……
大我はいつもの大我……
さっきのは……ただ焦っただけ……)
言い聞かせるたびに、
胸の奥の熱がほんの少し引く。
ふたりは、
いつもの“帰り道の距離”を
ゆっくり取り戻していった。
でも——
完全には戻らない。
ほんの少し、空気が柔らかい。
ほんの少し、互いの足音が近い。
大我の背中を見ながら、
冴夢はふと、思ってしまった。
(……大我……背中おっきいなぁ……)
今さら。
なんで今日だけ、そんなこと思うんだろう。
夕日の残り火のせいでも、
さっきの知らない男のせいでもない。
ただ、大我の背中が
あまりにも大きく、
あまりにも頼もしく見えてしまった。
(……なんで、いま……気づくんだろ……)
胸の奥がそっと揺れた。
気づいたら、手が動いていた。
自然に。
とても自然に。
冴夢の指先が、
そっと大我の袖に伸びて——
キュッ、と
小さく、生まれたばかりの勇気でつまんだ。
「ん?……冴夢ちゃん、どうした?
つかれた?」
振り返った大我のその目は優しくて、
あたたかくて、
いつもの“大人の余裕”に少し“心配”が混ざっている。
その優しさだけで、
冴夢の頬がふわっと熱くなった。
「……うん。
夕日……眩しくて……
見えにくい……」
本当は違う。
でも、そんな本当は言えない。
大我は一瞬だけ冴夢の表情を見つめて、
ふ、と優しく笑った。
「……そっか。
じゃ、ゆっくり帰ろ。」
夕暮れの風が柔らかくふたりを包む。
引かれた袖は、
そのままそっと解けたけれど——
冴夢の鼓動は解けていなかった。
大我の背中は、
もう“普通の背中”じゃなくなっていた。
まだ恋とは呼べない。
でも、恋にならずにはいられない。
そんな、静かな“落ちる一歩”だった。
──────────────────────────
ー帰宅後。
玄関の鍵が閉まる音がして、
部屋に静けさが戻った。
大我は靴も脱がず、
その場に立ち尽くした。
深く、深く、息を吐く。
(……あれは……マズい。
今日の……あの瞬間は……)
喉の奥から、どうしようもないため息が漏れる。
胸の奥の熱は、夕暮れで止まったまま下がらない。
バッグを置く指先が
わずかに震えた。
──────────────────────────
気づけば、大我は両手で顔を覆っていた。
(……ほんとに……バレたんじゃねぇか……?)
冴夢の、あの小さく震えた声。
「……びっくりしたぁ……大声出すから……」
そして——
こちらを見たときの目。
夕日の赤に照らされて、
冴夢の表情がわずかに揺れた。
動揺。
戸惑い。
そして……何かが、芽の先みたいに震えた。
(……やめてくれよ……気づくなよ……冴夢ちゃん……)
そう願っているのに。
胸の奥では別の熱が暴れていた。
(頼む……気づかないでくれ。
……頼むから……)
握った拳が、布をきしませた。
──────────────────────────
これ以上考えたら壊れそうで、
大我はふらつくように立ち上がった。
シャツをほとんど投げるように脱ぎ捨て、
温度高めのシャワーを頭から浴びる。
熱い水が肩を打つ音の中で、
呼吸がぶれた。
(……十九歳だぞ……)
(兄貴の……妻で……
守らなきゃいけない子で……
俺みたいなやつが、一番想っちゃいけない相手で……)
(大切な兄さんの……大切だった子で……
俺がいちばん……ダメだろ……)
喉で言葉が潰れた。
汚い。
ずるい。
こんな気持ち、抱えちゃいけない。
だけど——
冴夢が自分の袖を
キュッとつまんだあの温度。
まだ指先に残ってる。
「……夕日、眩しくて……」
あれが嘘だって、
本当は分かってる。
耳が赤かった。
呼吸が浅かった。
目を合わせきれてなかった。
(……あれは……反応だったろ……冴夢ちゃん……)
壁に手をつき、
水がゆっくり床に落ちる。
そして、頭のなかのどこかが
残酷に囁いた。
(……可愛かった……
抱きしめたいなんて……
本気で……思っちまった……)
シャワーの音が心臓の音に負ける。
止まらない。
──────────────────────────
夜風が冷たくて、
熱を持った体に刺さった。
大我はベッドに倒れ込み、
片腕で目を覆った。
(……どうすりゃいいんだよ……)
逃げても、抑えても、
今日の冴夢が頭を離れない。
夕日の中で振り返った横顔。
不安げに揺れた声。
袖をつまんだ指。
あの指に触れたら壊れそうなほど柔らかかった感触。
(……冴夢ちゃん……
俺……ほんとに……)
言葉がそこで止まる。
想うだけで罪。
触れたいなんて、もっと罪。
欲しいなんて——
考える資格すらない。
なのに胸は。
(……苦しい……)
焼けているみたいだ。
どれだけ否定しても、
どれだけ押し殺しても、
心臓だけが嘘をつかない。
(……惚れ直したんだよ……また……)
彼女が兄の妻だった過去を知っていても。
自分には許されない恋だと知っていても。
それでも——
夕日の中の冴夢を見た瞬間、
胸はもう戻れなかった。
静かな夜の部屋で、
誰にも言えない気持ちだけが
熱く、密かに燃え続けていた。
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