兄嫁〜あなたがくれた世界で〜

SAKU

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十九章

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マンションを出た瞬間、
夕日の残り香がふたりの影を長く伸ばした。

冴夢は胸のあたりをそっと押さえる。
ずっと苦しかった重さが、
今日だけは少しだけ軽い気がした。

隣の大我は、ただ静かに歩いていた。
ポケットに入れた手が、かすかに震えている。

(……大我……緊張してる……)

冴夢は横目で見つめた。

その視線に気づいたのか、
大我がふっと小さく息を吸う。

そして——
夕暮れに溶けるような低い声で口を開いた。

 
「……冴夢ちゃん。」

歩きながら、
でも逃げないようにまっすぐ前を向いて。

「俺さ……
 多分、一生──兄貴への罪悪感とか、
 後ろめたさとか……
 全部、持ったまま生きてくんだと思う。」

冴夢の足がすこし止まりそうになる。

大我は続けた。
声が震えて、でも強くて。

「兄貴が……
 冴夢ちゃんをあんなに大事にしてたの、
 今日ちゃんと知った。知れてよかった。」

胸に刺さる事実。
でもそれを正面から言う大我が、
とても痛々しくて、優しくて。

「だから……
 俺が冴夢ちゃんを好きでいること、
 今でもどっかで“いけねぇんじゃねぇか”って思う。」

言葉の端が少し滲む。

「だけど……」

大我はふっと立ち止まり、
夕日の残りを背にして冴夢の方に向き直った。

その目は、揺れていて、
でも溺れるくらいまっすぐだった。

「……それでも。」

一歩近づく。

「俺は冴夢ちゃんが好きだ。」

胸の奥に押し込んでいた全てを、
今ここで、やっと解いていくように。

「どうしようもないくらい、好きなんだ。」

冴夢の呼吸が止まる。

大我は目を伏せて、
噛みしめるように言った。

「だから……
 兄貴に“託して良かった”って……
 そう思ってもらえるくらい……
 冴夢ちゃんのこと、大事にする。」

夕日の余韻の中で、
その言葉は祈りのように静かに響いた。

胸の奥が一気に熱くなる。
ずっと泣きたくて、
ずっと泣けなかった涙がにじむ。

(大我……ずっと……こんな気持ちで……)

冴夢は震える声で返した。

「……大我……ありがとう。」

涙の中の笑顔。
ずっと言えなかった言葉。

「ずっとそばにいてくれて……
 苦しくても、離れないでいてくれて……
 ほんとうに、ありがとう。」

大我の目がかすかに揺れる。

冴夢は胸に手を置いて、
自分の鼓動を確かめるように言った。

「世那くんのことは、きっと……忘れられない。」

それは嘘じゃない。
でも、次の言葉も嘘じゃなかった。

「でもね……
 わたしは、大我と生きていきたい。」

大我が——
息を吸う音が聞こえた。

驚いて、苦しんで、
でもどこか救われたような、そんな音。

冴夢は少しだけ近づいた。

「大我の手……あったかいの。
 強いのに、優しくて……
 ずっと……そばにあるのを感じてた。」

そっと手を差し出す。

「……これからも、一緒にいてくれますか?」

大我は一瞬、言葉を失った。
目の奥が熱くなる。

(……こんなの……)

胸の奥の蓋が外れる音がした。

震える手で、
冴夢の小さな手をそっと握る。

「……そんなの……」

苦しくて、愛しくて、
どうしようもない声で。

「離すわけ……ねぇだろ……」

冴夢が笑った。
泣きながら、幸せそうに。

夕日が完全に沈み、
街灯がふたりの影を重ねた。

指と指が絡んでいる。

罪も痛みも、過去も全部抱いたまま。
それでも歩いていける未来が、
いま確かに、二人の足元にあった。


──────────────────────────

 ー玄関前

部屋の前まで歩いてきたのに、
どちらも鍵を開けようとしない。

冴夢はまだ、大我の手をゆっくり離せずにいた。
指先に、さっきの鼓動が残ってる。

大我も、同じだった。
離したらすぐ壊れそうで……
離したら、もう二度と掴めない気がして。

「……冴夢ちゃん、鍵……」

「……うん……わかってる……」

でもふたり、動けない。

冴夢は意を決して手を引こうとする。
その瞬間、大我の指が反射で“きゅ”っと絡まった。

(……あ……)

ふたりとも息が止まる。

大我は慌てて手を離そうとして、
でも離せなくて、困ったみたいに笑った。

「……ごめん……反射で……
 まだ……ちょっと……離しがたくて……」

冴夢は目を伏せ、小さく首を振る。

「ううん……わたしも……」

声が柔らかく揺れる。

この距離が、今日だけはいつもより甘くて危険だった。

──────────────────────────

 ー部屋の中

玄関の灯りをつけると、
空気がふっと変わった。

冴夢は靴を脱ぎながら胸を押さえる。
心臓がまだ“大我”を呼んでる。

大我は少し距離を取ろうとして——
でも取れなかった。

(……無理だ……
 今の俺、距離なんか……保てるわけない……)

それでも必死に自分を落ち着かせようと
キッチンに向かい、水道を開く。

——ジャー……

けれど水の音の中で、
背中に視線が刺さるのが分かった。

(冴夢ちゃん……見てる……)

振り返ると、
冴夢は廊下で立ったまま、大我の背を見つめていた。

光に照らされた横顔が
今日いちばん、大人に見えた。

「……ねぇ、大我。」

「ん……?」

「今日……ありがとうね。」

大我の喉が大きく動く。

「……俺の方こそ……
 冴夢ちゃんが隣にいてくれて……
 ほんと、救われた。」

沈黙が落ちる。

苦しくない沈黙。
でも、甘すぎて胸が熱くなる沈黙。

冴夢は、小さな声で続けた。

「……手、あったかかった。」

大我の呼吸が止まる。

冴夢も自分の胸を押さえながら言う。

「……ずっと、こうしてたかった……
 怖くて……言えなかった……」

大我はもう限界だった。

ふらり、と一歩近づく。
冴夢の目が揺れる。

「冴夢ちゃん……」

喉の奥で名前だけが震える。

「抱きしめて……いい……?」

ほしい、じゃない。
してしまいそう、でもない。
許可を求める声が、あまりにも優しい。

冴夢は小さく息を吸い、
そして——

こくん、と頷いた。

瞬間。
大我は堪えていたすべてがほどけて、
冴夢を胸にそっと抱き寄せる。

強すぎない。
でも離す気なんてまったくない抱きしめ方。

冴夢は胸に顔をうずめた。

(……大我の匂い……
 あったかい……落ち着く……
 あ……好き……)

指先が大我の背中をそっと掴む。

大我は肩を震わせ、
冴夢の髪に額を寄せて、
熱を押し殺すように言った。

「……冴夢ちゃん……
 これから俺、きっと……
 いっぱい不器用なとこ見せると思う……
 でも……絶対に……離れないから……」

冴夢はその胸の中で、
小さく、小さく笑った。

「……うん。
 だって……大我だもん。」

その一言で、大我は完全に落ちた。

彼女の肩を抱く腕に、
どうしようもない“愛してる”の温度が宿る。

ふたりの距離はもう、
“家族の距離”じゃない。

甘くて、苦しくて、
これから恋人になる寸前の——
たまらないほど切ない距離だった。

──────────────────────────

大我の腕が、冴夢の背をそっと包むように力を込めた。
それは迷いでも衝動でもなく、
“この瞬間を逃したら一生言えない”と覚悟した人間の手つきだった。

胸の奥で何度も暴れていた鼓動を、
ひとつ深い息でゆっくり押さえ込み——

大我は冴夢の髪に唇が触れそうな距離で、
震える低い声を落とした。

「……冴夢ちゃん。」

「……うん……」

返事を聞いた瞬間、背中越しに大我の指がわずかにふるえた。

そして——

「冴夢ちゃん……
 俺と……付き合ってくれる?」

その声は、ずっと胸の奥に閉じ込めていた痛みや願いが、
ようやく形になった“告白”だった。

強くもない。
押しつけでもない。
ただただ、大我という一人の男の、真っすぐな気持ち。

冴夢の心臓がきゅっと縮まる。

(……やっと……言ってくれた……)

「……たい……が……」

名前を呼ぶだけで、胸が熱くなる。
大我が抱く腕の力が、かすかに強まる。

冴夢は震える指先で大我の腰に腕を回し、
その温度に身を預けた。

「……大我……好き……」

耳元で小さく伝えると、
大我の肩がはっきりと揺れた。

「ありがとう……
 嬉しい……
 ……大好き……」

言葉のひとつひとつに、
冴夢の頬が熱を帯びていく。

(……あぁ……
 こんな気持ち、ずっと……抑えてたんだ……)

胸に顔を寄せたまま、
冴夢はそっと目を閉じた。

大我は息をのむ。

「……冴夢…ちゃん…?」

冴夢は大我の胸に手をそえ、
ゆっくり顔を上げて、涙の跡が残る笑顔で見つめた。

まっすぐ、逃げずに。

「……もう、義姉でも……妹でもいられない……」

低くて小さくて、
でもこの上なく強い声。

「……“大我の彼女”になりたい。」

その瞬間——
大我の世界が完全に音を失った。

呼吸が止まり、
胸が一気に熱に溺れる。

(……彼女……
 冴夢ちゃんが……
 俺の……?)

目の奥が熱くなる。
腕の中の冴夢が愛しくて仕方ない。

「……冴夢……っ……」

大我はもう堪えられなかった。

ぎゅっと、だけど壊さないように抱きしめる。

冴夢はその腕の中で、幸せに胸を震わせた。

二人だけの静かな部屋で——
兄弟の影を越えて、
初めて“恋人”が生まれた瞬間だった。

──────────────────────────

大我の腕の中で、
冴夢はそっと顔を上げた。

(たぶん…人生で一番緊張した…。)

“大我の彼女になりたい”
その言葉が胸の中でまだ温かく残っている。

大我も、冴夢の頬に触れたまま
信じられないように、小さく笑っていた。

「……冴夢ちゃん……手を伸ばしてくれて……ありがとう」

「うん……大我が好きだから……」

その瞬間。

——ビーッ、ビーッ。

無情すぎるバイブ音が
静かな部屋に割り込んだ。

大我「………………」

冴夢「………………」

((……最悪のタイミング……))

大我は肩を落としてスマホを見た。

《課長:至急折り返し》

大我「…………」

冴夢「あ、あの……出た方が……」

大我「いや、出たくねぇ……。マジで……」

そう言った瞬間——
また鳴る。

《課長:大我くん、今すぐ電話ほしい》

大我「…………(絶望)」

冴夢はくすっと笑って、
大我の腕に軽く触れた。

「……行ってあげて。大変なんだよね、いつも。」

大我はゆっくり息を吐く。

「……ごめん。冴夢ちゃんと……今、やっと……」

冴夢は首を振る。

「ううん。
 “今日から恋人”なんだよね?
 だったら……大我の仕事も大事にしたい。」

大我の目が、じん……と熱くなる。

(……なんで……こんなに優しいんだよ……)

冴夢は笑って言う。

「大我。早く帰っておいで。
 ……待ってるから。」

それは、
“恋人として初めて言う”待ってる、だった。

大我の胸が一気に熱くなる。

「……冴夢ちゃん……っ……!
 すぐ終わらせて帰ってくる。絶対。」

慌ててスーツを掴みながら玄関へ向かう大我。

ドアの前で一度だけ振り返る。

「……冴夢ちゃん。
 今日から……よろしくな。」

冴夢は少し照れた顔で、

「……うん、よろしく。大我。」

ぱたん、とドアが閉じる。

静かな部屋に残された冴夢は
胸に手を当てた。

(……大我、仕事頑張ってね……)

さっきまで隣にあった温度が
まだ指先に残ってる。

ふたりは恋人になったばかりなのに
“社会人の壁”がさっそく立ちはだかる。

でも——
その壁すら、今はどこか甘く感じる。

だって。
もう“家族”じゃなくて。

恋人になったから。
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