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第四章 大日方五郎兵衛
第040話 大日方氏由緒
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五郎兵衛は正式な名を、大日方五郎兵衛といった。
即ち、名字帯刀を許されたれっきとした武士であった。
五郎兵衛の連なる大日方氏は、戦国時代にこの辺りを領有した武将である。
『小川村誌』によると、初代の大日方長政は、信濃国守護として世襲十代に及んだ小笠原氏の庶流で、後に小笠原氏とは袂を分かち、安曇郡大日方の地に居館城砦を構えて居住し、大日方氏を称した。
長政から数えて三代目である大日方直忠には五人の子があり、その長男である大日方金吾介直経は、つとに有名である。
金吾介は身の丈六尺五寸、体重二十七貫。
性質豪傑、勇敢にして節義の士であり、彼の勇名を示す挿話に次のようなものがある。
弘知三年のこと、猛将山県三郎兵衛を主将とする武田の軍が甲州から北信濃へと侵攻した。
軍勢は次々に城を落とし、やがて大日方氏の居城である小川城へと迫る。
もはや一刻の猶予もない大日方勢は、急ぎ家臣団を集め、今後について議論をする事となった。
談義の中で、徹底抗戦を主張したのは、小川城を預かる大日方金吾介である。
この城を枕とし、華々しく散らんと唱えた。
片や各支城から命からがら逃げ延びた家臣団は、武田方の圧倒的兵力に意気消沈し、はや降伏すべしとの主張を曲げなかった。
議論は数日を経て、大勢は、抗戦の不利は承知で最後まで戦う決意を固めていた。
そんな中、籠城の準備を整える城内にあって、一人不審な動きをする者があった。
家老の小林勝右衛門である。
勝右衛門は非戦派の主要人物で、「武士としての面目は立たぬが大日方一族の存亡に関わることであるから、まずは城の保全を第一にすべし」と、秘かに家臣を口説いて回り、障害となる抗戦派の金吾介を暗殺せんと欲した。
やがて敵将山県三郎兵衛へと通じ、金吾介の首と引き換えに、小川城の安堵を約束させたのである。
左様なことを露知らずにいた金吾介は、寝所を勝右衛門により急襲され、傷を負って裾花川沿岸に聳える断崖上にまで逃れた。
そこでようやく裏切りを悟り、最期は割腹ののち、川に身を投げて果てたという。
土地の者は金吾介を偲んで、その崖を金吾淵と名付け、今でも折々に香華を手向けている。
五郎兵衛の家系は金吾介の末弟直親の後裔で、支流が鬼無里の村に土着していたのである。
鬼無里の大日方家は、代々山見を任務としていた。
山見というのは、藩所有である御林の監視役で、帯刀並びに百石の諸役御免の格式を以て待遇されるものを言った。
御林の材木を切り出すのは許可制で、藩によって厳しく制限されていたから、山に勝手に入る者がないか、山見が監視をしたのである。
山見は、表向きには郡奉行の支配に属してその役務を行うことになっているが、大日方五郎兵衛は、実質的に鬼無里割元宮藤喜左衛門の右腕となって、村のために働いている向きが強かった。
喜左衛門も事あるごとに五郎兵衛へと諮って、村政を執っていたそうである。
喜左衛門は五郎兵衛の三歳年長で、二人は兄弟の如く堅い絆に結ばれていたのだという。
その二人の絆を示す挿話に、次のようなものがある。
即ち、名字帯刀を許されたれっきとした武士であった。
五郎兵衛の連なる大日方氏は、戦国時代にこの辺りを領有した武将である。
『小川村誌』によると、初代の大日方長政は、信濃国守護として世襲十代に及んだ小笠原氏の庶流で、後に小笠原氏とは袂を分かち、安曇郡大日方の地に居館城砦を構えて居住し、大日方氏を称した。
長政から数えて三代目である大日方直忠には五人の子があり、その長男である大日方金吾介直経は、つとに有名である。
金吾介は身の丈六尺五寸、体重二十七貫。
性質豪傑、勇敢にして節義の士であり、彼の勇名を示す挿話に次のようなものがある。
弘知三年のこと、猛将山県三郎兵衛を主将とする武田の軍が甲州から北信濃へと侵攻した。
軍勢は次々に城を落とし、やがて大日方氏の居城である小川城へと迫る。
もはや一刻の猶予もない大日方勢は、急ぎ家臣団を集め、今後について議論をする事となった。
談義の中で、徹底抗戦を主張したのは、小川城を預かる大日方金吾介である。
この城を枕とし、華々しく散らんと唱えた。
片や各支城から命からがら逃げ延びた家臣団は、武田方の圧倒的兵力に意気消沈し、はや降伏すべしとの主張を曲げなかった。
議論は数日を経て、大勢は、抗戦の不利は承知で最後まで戦う決意を固めていた。
そんな中、籠城の準備を整える城内にあって、一人不審な動きをする者があった。
家老の小林勝右衛門である。
勝右衛門は非戦派の主要人物で、「武士としての面目は立たぬが大日方一族の存亡に関わることであるから、まずは城の保全を第一にすべし」と、秘かに家臣を口説いて回り、障害となる抗戦派の金吾介を暗殺せんと欲した。
やがて敵将山県三郎兵衛へと通じ、金吾介の首と引き換えに、小川城の安堵を約束させたのである。
左様なことを露知らずにいた金吾介は、寝所を勝右衛門により急襲され、傷を負って裾花川沿岸に聳える断崖上にまで逃れた。
そこでようやく裏切りを悟り、最期は割腹ののち、川に身を投げて果てたという。
土地の者は金吾介を偲んで、その崖を金吾淵と名付け、今でも折々に香華を手向けている。
五郎兵衛の家系は金吾介の末弟直親の後裔で、支流が鬼無里の村に土着していたのである。
鬼無里の大日方家は、代々山見を任務としていた。
山見というのは、藩所有である御林の監視役で、帯刀並びに百石の諸役御免の格式を以て待遇されるものを言った。
御林の材木を切り出すのは許可制で、藩によって厳しく制限されていたから、山に勝手に入る者がないか、山見が監視をしたのである。
山見は、表向きには郡奉行の支配に属してその役務を行うことになっているが、大日方五郎兵衛は、実質的に鬼無里割元宮藤喜左衛門の右腕となって、村のために働いている向きが強かった。
喜左衛門も事あるごとに五郎兵衛へと諮って、村政を執っていたそうである。
喜左衛門は五郎兵衛の三歳年長で、二人は兄弟の如く堅い絆に結ばれていたのだという。
その二人の絆を示す挿話に、次のようなものがある。
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