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繭を破る
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あれから、俺は素直に診察に応じるようになったし、少しずつ看護師さんとも会話するようになった。
いろんな検査もした。胃カメラ、大腸検査は異物感が強くて辛かったが、なぜか検査担当の医師や看護師さんに「上手、上手」と褒められまくった。なぜかと天原に聞いたら、「そうやって褒めないと、辛い検査すぎて患者さんが挫けちゃうから」と答えが返ってきた。「たまにどこで習ったんだか、本当に胃カメラ飲むの上手な患者さんもいるけどね」と笑っていたが。どちらにせよ「上手、上手」と言われるわけだ。胃カメラの看護師さんって上げマンだと思ってしまった。
足の筋力回復のリハビリでは、最初に車椅子から立ち上がるときにバランスを崩しベシャリと倒れた。どうやら右足だけ力が入らないことが判明し、新たに検査項目が追加されて、検査をした。高熱による神経麻痺だったので天原が頭を抱えていたが、外科の佛斑や整形外科の医師と相談して詳しく診察をした結果、膝は多少曲がるし、足首も動く。ただ、力が入らなくて踏ん張れないと言うことで、足の切断までは行かなかった。ホッとした天原が病室で俺と二人きりになったときに「本当に良かった」と泣きそうになりながら抱きついてきたのはびっくりした。…あれから、天原は距離がやけに近くなって、かなり甘やかされている気がするが、なんだか嬉しいようなこそばゆいような感じだった。
(……もし、俺にお兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかな…)
もちろん、足の件の説明は後日お見舞いにきた雪也にも伝えられて、雪也は申し訳なさそうな顔をしてまた俺に謝っていた。同席していた天原や佛斑はもう責めることも怒鳴ることもなく、「足の切断がなかっただけ良かったよ」と励ましてくれた。
ようやく車椅子生活も終わり、なんとか右足を引きずりながら、点滴を連れて院内を歩くこともできるようになった。たまに点滴交換の時間を忘れて散歩をしていると、看護師さんが連れ戻しにやって来たが、「歩く練習も必要ですから、まあ、戻る時間を守らないのは大目に見ます」と言ってくれるようになっていた。この言葉を言ってくれたのは、初日の夜、俺が自分にいっぱいいっぱいで無関心な態度を取ってしまった佐田という看護師さんだった。
相変わらず味覚は甘いものしか感じられなかったので、ほぼ毎食ゼリーやプリンが出た。あとは睡眠薬と精神安定剤とは別に、普通の食事が取れないので、栄養剤の薬も増えたが、特に苦には感じなかった。ただ、薬の量が多くて、ゼリーを食べて薬を飲むだけでお腹が一杯になってしまうのがなかなか大変だったが。
トイレに行ったときに鏡を見て、自分の真っ白に染めていた髪が付け根からだいぶ地毛の焦げ茶髪が生えて伸びてきてることに気がついた。いわゆる、プリン頭。
「…髪、だいぶ伸びたな…」
そう独りごちて、髪の先をつまんだ。たしかにセミロングくらいだった髪は今は胸が被るくらいまで伸びていた。雪也がヘアゴムを持ってきてくれていたので、枕に頭をつけたときに邪魔にならないように首の後ろの低いところで緩く結んでいたから、今まで気が付かなかった。
俺の白く染めていたホワイトブリーチは自分で染めていたもので、ドラッグストアで同じブリーチ剤を3つ買ってきて日を分けて三回やって染めたものだ。毛先の色を入れたのも、カラー剤で自分でやったものだし、髪はいつも自分で切っていた。美容室とかは行ったことがない。白髪にしていたのは、派手髪にすれば自分の童顔を隠せたからだ。ストレートヘアの焦げ茶髪は余計に俺の童顔で女顔なのを助長していた。今時はブリーチやカラーリングはやってる人も多いから、俺が派手髪でもそんなに存在が浮くことも無かったのも助かった。
もう、仕事も辞めてしまったから、これからは倹約のためブリーチ剤を買うつもりもないと思っていたので、暫くプリン頭で過ごすか。とトイレを出た。
病院に入院してから季節が2つ過ぎた頃、いつものノックとともに入ってきた天原が「もう退院しても大丈夫だよ」と笑顔で言ってくれた。
「盟君、すごく頑張ったから、予定より早く百舌君のところに帰れるよ。良かったね」
そう言って、また俺を抱きしめた天原は、繰り返し「頑張ったね」と言ってくれた。
「天原さん、本当にありがとうございました。」
俺がそう言うと、抱きしめていた身体を離して上体を起こすと、天原は白衣のポケットに手を入れて、笑った。
「…これからは、担当医と患者じゃなくなるんだから、僕のこと、そろそろ名前で呼んでよ。盟君はちゃんと百舌君の恋人になったんだし、僕とももう友達じゃない。これからも仲良くしたいし、いっぱい話したいよ」
「え、と…名前で?………その…ももの…さん…?」
…確か本名は天原桃野だったはず。名前でって、突然言われても…と恐る恐るさん付けで呼んでみた。
「んー、それでもいいけど、『モモ』でいいよ。みんなそう呼ぶし。ホトケも百舌君も。」
「……モモ…さん…?」
俺が天原の言葉を反芻するように名前を呼び直すと、2回頷いた。
「うん。そう呼んで。盟君なら敬語なしが嬉しいけど、多分盟君の性格上、それは遠慮するでしょう?」
「それは…まあ……。俺、一番年下ですし…」
それはそうだ。佛斑は36歳だと聞いたし、天原も入院初日に34歳だと言っていた。雪也は27歳だから、戸籍上24歳の俺が断然一番下になる。
「まあ、それはおいおい慣れてくれればいいよ。……でもいいなぁ。盟君、24でしょ?若くて羨ましいよ。だって、僕は34だから、君と10個違うんだよ?僕が24の時なんて、大学の研究室でエナドリ握って気絶しそうになりながら論文ばっか書いてた。」
「…やっぱり、医者になるのって大変なんですね…」
「僕は特別大変だったというか…。もう本当に研究室でも劣等生で、成績最悪だったからね。実地見学では開腹の時のリアルな内臓や血が見れなくて気持ち悪くなっちゃってたし、実技練習でやる採血は、ドの付く下手くそで。医者向いてないのかな、って挫折しかけたよ。…大学の先輩だったホトケが研修医で忙しい合間をぬって腕を貸してくれて、ずっと採血の練習台になってくれてたんだ。おかげで今は、採血は人並にできるようになったけど……やっぱり今でも内臓や血を見るのが苦手で、結果的にホトケと同じ外科に進めなくて、少なくとも内臓を見なくて済む内科に逃げたんだよ」
今まで診察していた姿からは想像が付かなかった。
あんなにテキパキと色々こなしたり、俺の味覚についてもすぐに症例を見つけたり、患者に寄り添ったり、診断を正しく下したりしてた優等生のような天原が、まさか学生時代は劣等生だったなんて。
「…それは、内科に逃げたんじゃなくて、天原さ……モモさんがそっちの方が天職だったんですよ。モモさん、看護師さんにも患者さんにも優しいし、すごく寄り添ってくれるから、そう言うのも医者のスキルだと思うんです。俺も、コンビニと居酒屋のバイトやってたとき、無愛想で接客業向いてないって思ってましたけど、声色変えるだけで、案外クレームもなくてなんてことなかったですし。パートのおばちゃんとか、居酒屋のクルーも沢山助けてくれたし。………退院したら、『突然辞めてごめんなさい』って言わなきゃ…。…もうこの足じゃ働けないし。…何か座ってできる仕事探します」
俺は何か、この病院に入院して最初こそ心の糸が切れるほどドン底にあったメンタルだが、なんとか回復して、入院前より前向きになった気がする。
「なんか、強くなったね。盟君は。すごくいい傾向。これからの生活は大変かもしれないけど、負けないでね。いつでも相談して。僕とホトケは盟君の味方なんだから」
「…はい…っ」
その日の夕食の病院食は柔らかいプリンだった。大量の薬も用意され、流石に半年の入院で慣れて、それを胃に流し込む。
お盆を下げに来た天原が、丸椅子に腰掛け俺に話しかける。
「明日、百舌君が車で迎えに来るって。洋服持ってくるように頼んであるから、朝ご飯食べて、百舌君来たら着替えて帰れる。ちょっと総合受付で手続きあるけど、その辺は百舌君がやるから、盟君は待合ロビーで待ってること。…いいね?」
「…?はい。」
「あと、これから生活するのに、いつまでも松葉杖は大変だから、杖を買ったほうがいいね。…分かるかな、おじいちゃんおばあちゃんが持ってるアレ。あれが軽量だから松葉杖より取り回しがいいと思う。百均とか雑貨屋さんで売ってるから。……あーあとは…あ、そうだ。持ってると何かと便利だから身体障害者手帳とヘルプマークを取ろう。これからは足が不自由だからね。仕事がしたいって言ってたから、手帳を持ってれば障害者雇用とかそういうのもあるから、選択肢になると思うよ。手帳を取るのに必要な診断書は、確認したらホトケが今書いてくれてるって言ってたから、明日の退院までには出来上がってると思う。ヘルプマークは市役所の福祉課に行ったら無料でもらえるから、貰っておくといいよ。…まあ、これだけ一気に言われたら、盟君パニクっちゃうから、百舌君にも伝えておくけれど。」
確かに、瞬間記憶の許容量の少ない俺は脳みそがパンク寸前だ。とりあえず、明日退院で、杖を買うことと、ナントカ手帳っていうのを取るって言うことだけ頭に入れた。
とりあえず要点だけ頭に入れたことを示すように、首振り人形のようにコクコクと首を縦に振ると、「んー。盟君のこの反応のときは、あまり理解追いついないときだからなぁ…」と苦笑いをされた。…半年の入院で天原は俺の知らない俺のことまでだいぶ理解してるらしい。医者というのはよく人を観察しているようだ。
「…うーん、まあいいよ。朝ごはんのあと、百舌君がお迎え来てくれて帰れるよ。これだけ覚えればいいや」
めちゃくちゃ要点を短くされた。…ちょっと馬鹿にされた気分だったがまあいいかと流した。実際問題、頭は良くないし、俺。
「じゃあ、明日に備えて今日は早めに寝ること。……あまり本読んでちゃダメだよ」
「…はい」
パタン、と部屋を後にした天原を見送って、雪也がお見舞いの時に持ってきてくれていた眼鏡と文庫本の小説に手を伸ばす。家では本を読むときだけ眼鏡をかけてるのを知ってる雪也が、本とセットで眼鏡を持ってきてくれていたのはとても嬉しかった。丸メガネで、銀の薄いフレームのそれは、目つきの悪い俺の印象を少し緩和するらしく、眼鏡屋の店員がニコニコしながら選んでくれた。
俺の視力は0.8くらいで、普通の生活をするくらいなら眼鏡はいらないが、本や細かい文字を読むときは必要になる。だから、読書とバイトのときだけするのだ。居酒屋でオーダーを取りに行ったときに客からメニューを指さされても見えなかったのが始まりで、「これは掛けなきゃ駄目かも」と翌日のバイトから掛け始めたら、その日同じシフトだったクルーのギャルの女の子から「えーっ!マジエロ可愛い!!」とほっぺたをグリグリされて頭を撫で繰り回されるわ、時たま酔っぱらいにセクハラをかけられるようになったが、「クルーの女の子がセクハラにあうよりマシか」と、なんだか周りの反応も変わった。コンビニではパートのおばちゃんたちから「あら、眼鏡いいじゃない。ホントは真面目なのに見た目で損してたから、眼鏡のほうが真面目に見えるわよぉ」と言われた。…そんなもんなのか、と思ったほどだ。
…もう少しでこれも読了する。パラパラと栞までめくって、物語の海に潜った。本は楽しい。知らない世界をたくさん見せてくれる。
暫く物語に夢中になっていたら、看護師が「消灯時間ですよ」と言いに来てくれて、礼を言って、本に栞を挟んで眼鏡を眼鏡ケースに戻すと、看護師がベッドを倒してくれて、部屋の電気を消して出ていった。
(…退院、うれしい…。やっとユキのとこに帰れるんだ…)
目を閉じて、力を抜くと、嬉しさで浮足立って眠れないのではと思っていたが、いつも通りスッと眠りに入った。
翌日、何故か普段より起きるのが遅くて、特徴的なドアのノック音で目が覚めた。
寝起きの声で「……んはい…」と声を掛けて起き上がると、天原が入ってきた。俺は入院して薬を服用してから、人が変わったかと思うほど、ものすごく朝に弱くなったのだ。それでも回診の始まる時間より前には必ず起きていたのだが。
「ん?あれ、おはよう。…起こしちゃった?」
「…いや、…だいじょぶ、です…」
ゆっくり、舌の回らない声で返事をしながら、目をパチパチと瞬いて頭を起こそうとする。
「今日は起きるのゆっくりだね。昨日の晩、退院楽しみで寝れなかった?……一応今、もう回診時間だから、点滴抜きに来たんだけど。朝ご飯食べる前に抜いたほうが、管がなくて楽にご飯食べれるでしょう?」
ベッドを起こしながらそう言う天原を見ながら、俺は弁解する。
「いや、別に…ちゃんと消灯時間には寝たんですけど…今の今までぐっすりで…。自分でもびっくりなんです…。あ、そっか。コレないとたしかに食べるの楽ですね…」
そう言いながら天原に点滴の刺さった腕を差し出すと、点滴を止めて、点滴の上から被っていたネットを腕から抜くと、点滴を固定するテープを剥がす。少し肌がひきつれて痛みを覚えたが、そんなことを思っているうちに、針もス、ス、と抜いて、点滴から解放された。
腕がものすごく軽くなった気がして、「こんなに変わるのか」とびっくりした。半年の入院で点滴に慣れすぎていた。
テープを剥がしたところに、天原は白衣のポケットから取り出した缶の中の白いクリームを塗ってくれて、俺は頭を傾げた。
「このクリームなんですか?」
「盟君、肌弱そうだし、長く点滴してたからテープかぶれしてそうだなって思って、皮膚かぶれ用の軟膏。そんな特殊な薬じゃないよ。退院してもまだ痒かったら、ドラッグストアで皮膚かぶれ用の軟膏買って、痒みが治まるまで塗ってね。掻いたら、傷になってさらにひどくなるから、絶対に掻いちゃだめだから。」
「あ、はい」
クリームをよく塗り込むと、「はい終わり」と言って蓋を閉めてまたポケットに戻した。
部屋のカーテンを開けてくれたので、窓を見ると、外は青空に指し色をするように木々が赤と黄色に紅葉していた。
「じゃあ、最後の病院食、持ってくるね」
天原は部屋を後にしたのを見送って、俺は暫く窓の外を眺めていた。
部屋の外を出歩くようになってわかったのは、俺のいる部屋は5階の一番奥の部屋で、最初散歩したときは帰り道がわからなくなって、近くのナースステーションの看護師に聞いてしまったほどだ。
すぐに俺が『特患』だと分かったらしく、ナースステーション内がアリの巣を突いたようにわちゃわちゃしたあと、一人の看護師がすぐに持ってきた車椅子に乗せられ、部屋に送られた。「特患ってなんですか?」と道すがらに聞いたら「特別看護患者と言って、医師や病院が決めた特別扱いの患者さんのことです」と言われ、言葉を失ってしまった。そんな大事な患者として扱われてたのか、と恐縮していると、「でも、一ノ瀬さんは今までの特患さんと違って、何も問題を起こさない、稀に見るちゃんとした患者さんなんで、ナースステーションは戦々恐々もせず、楽ですけどね~」なんてニコニコしながらあっけらかんと話していた。たしかに、言われてみるとほとんどナースコールも押したことがなかった。
「…そういえば天原先生は担当医だから分かるんですけど、たまに佛斑先生も来るじゃないですか。…一瞬誰かわからなかったけど、私服の佛斑先生が一ノ瀬さんの部屋に入っていくのも見たことあるんですよね。……お知り合いですか?」
「あ。はい…まあ」
「えっ!あの佛斑先生ですよ!?…こんなこと言ったら失礼かもですけど…こ、怖くないんですか?!」
「いえ…全然。むしろ優しいですね…」
「や、優しい!?あの『鬼のホトケ』が!?」
これは…俺はどう回答したらいいのか。佛斑に営業妨害をしてしまったか?『鬼のホトケ』は笑いながら天原が言っていたのを聞いていたが、…とはいえ、ここで「優しいです」と返し続けるのも違う気がする…と苦笑いするしかなかった。
かなりこの看護師さんは明け透けに話すタイプなんだな、と思っていたら、もう一つ看護師から質問が飛んできた。
「よくお見舞いにいらっしゃる背の高いイケメンのお兄さんはご友人さんですか?」
「っぅえっ!?………あ、まあ…」
恋人です、とは言えないし、同居人です、もなんか違う気がした。俺はこの看護師に全て話す必要はないし、義務もない。有耶無耶に返したら、次に看護師から出てきた言葉に反応せざるを得なかった。
「私、一目惚れしちゃって、お近づきになりたくて…、連絡先渡したんですよー。ラインIDと電話番号。」
「…っえっ!!!」
「返されちゃいましたー。玉砕です。イケメンだからもうお相手居るのかなー…」
まさかその相手は自分ですとも言えず、さらに、連絡先を渡されてたなんてそんなの聞いてない、と思いながら、早く部屋に着いてくれ、と心の中で悲鳴を上げていた。この看護師さんは踏み込んで話すし聞いてきすぎて怖すぎる…。居酒屋クルーのギャルの女の子もこの手の明け透けなタイプだったが、こんなに酷くなかった────というのも、俺が当事者や関係者に該当しなかったから、そんなに気にしてなかっただけかもしれないが。
とにかくこの看護師さんは言うこと聞くことが全て心臓に悪いので本当にやめてほしかった。そんなことを言えるはずもなく、部屋にやっとついて、ベッドに戻ったのだった。もちろんほぼ毎日顔を合わせる天原にこの事を告げ口するようなこともできず、一人で悶々と暫くしていた事があった。それ以来、あまり遠くに行かないようにしていたし、ナースステーションの前を通るときは、できるだけ早く歩いて通り過ぎるのを努めた。
それを思い出していたら、天原がゼリーの乗ったお盆を持ってきた。
「…ごめんお待たせ。朝ご飯…なんだけど…なんか変な顔してるけどどうしたの?どこか痛いとかある?」
退院当日でなにかあっては、と天原は真面目な医者の顔をして尋ねてきた。
「え、あ、いや…。何でもないです。ちょっと思い出してただけで…」
自分の両頬をパンっと叩いて普段の顔に戻ろうとするが、頭の隅にチラついてしまう。
天原は疑問に思ったのか、ちゃんと尋ねてきた。
「何を?」
「えっ…い、言えないです…」
俺は首を振ると、天原は首を傾げ、お盆を机に置いて、それを寄せてくれた。
「?…そう?…はいゼリー。今日珍しくパイナップルなんだけど、大丈夫?アレルギーなかったよね?」
「パイナップル、好きです」
「良かった。」
そう言って丸椅子に腰掛ける天原の顔をちら、と見る。
「……やっぱり言う?」
「あ、ぅ。……モモさん。…ユキ、看護師さん達に『イケメン』って呼ばれてるんですか?」
俺はこわごわと天原に尋ねてみる。
「え?…あ、うん。ナースステーションではそんなふうに盛り上がってるけど、誰から聞いたの?」
「…その…看護師さん…。」
天原の肯定に小さな声で噂した看護師のことを言うと、軽く握った手を口元に当てた天原が小声で笑った。
「あはは。なるほど?気になっちゃうんだね」
「そんなことは…!」
俺の顔が、ぼっ、と赤くなって首を振る。
「だって、僕に言うってことはそういう事でしょう?かわいい嫉妬じゃない。いいなぁ、そういう話は聞いててにこにこしちゃう」
大人の余裕なのか、人生経験の量なのか、恋愛経験の量なのか分からないが、そんなふうに茶化されて、俺は眉根を寄せて、持っていた紙のスプーンをぎゅっと握った。
「だって、連絡先渡した看護師さんがいたって!…そんなの…」
「あれ、ちゃんと断って返してたから大丈夫。僕も見てたし。これで受け取ってたら張り倒してたから、百舌君を」
「あ、いや、渡した看護師さん本人から聞いたんで…俺も知ってるんですけど…。あとあの、暴力はやめてください…」
「まだしてないから。まあ、僕もナースステーションに用事あって行くことがあるんだけど、もし盟君の耳に入ったら、盟君嫌だろうなって、行くたびに咳払いで牽制はしてたんだけどねえ。女性のそういう口は塞げないから、仕方ない。まあ、男性アイドルを見るような目で見てる感じだったし、そんなに気にしないで」
「あ、はい…」
そう返事をして、「あと」と繋げた。
「佛斑さんとがよく面会に来てくれたのも見てたのか、『知り合いなんですか?』って聞かれて、はい、って答えたんですけど…」
「うん。そしたら?」
もう天原の顔がにやにやしている。
「『怖くないんですか!?』って返されました。『鬼のホトケですよ!』って…一応、優しいですって言ったんですけど…返しがあってたか…って」
俺がそう言うと、天原は身体を折り曲げ膝を叩いて笑った。
「アッハハハハ!!!傑作!ついに内科にも広がってたか!『鬼のホトケ』!しかも、盟君、ホトケのこと優しいって返しちゃったんだ!くくく、どうしよう、これ笑い止まらないよ。はーもう、なんの為に盟君の面会の度に私服を変装にしてたか、バレるの時間の問題だね。」
「……あれ、変装だったんですか?」
「そう。ノンフレームしか持ってなかったのに、縁付きの眼鏡をわざわざ買ってきて、前髪だって下ろして、普段のホトケじゃ着ないような服着てさ。…たぶん、僕の普段着真似したんだろうなって一発で分かったんだけど。…最初僕は見たときから吹き出して笑いそうだったけど、あの時は耐えたんだよ…そんな場合じゃなかったから」
たしかにあの時はそんな場合じゃなかったが、あの時、天原はそんなことも思っていたのか。
「…あれ、変装だったら、看護師さん達にバレてます…」
「でしょうね!!ホトケは姿勢いいし歩き方キレイだからそれだけでバレるよ!何で変装してきたかすごく謎だったもんなあ。…未だに聞けてないけど…クククッ……えー、ちょっと今日はシフトも同じだし、今夜辺り聞いとくかあ……。…ついでに看護師たちにバレてるって言お。どんな顔するか楽しみだなあ、大体予想つくけど…」
大笑いしたあとの余韻でまだ口元が笑っている天原は非常に楽しそうである。この二人の関係は、恋人やパートナーというより、夫婦みたいなのが近い印象だ。やり取りが時折、夫婦漫才みたいになっている。天原がイジって、佛斑が嫌がる、みたいな会話を何回か見かけて、「いいな」と思ったりもした。俺と雪也じゃこうなることは無いだろう。
「ホトケ、真面目ちゃん過ぎて融通効かないし、変なところ天然だからなぁ」
未だにいたずらっ子のようにニヤニヤしている天原がボソリとそう言うと、俺は仰天した。
「…っえ!天…然…?え?そうなんですか!?」
「え、うん。見ててわかんないかな。これ、百舌君でも一緒に飲んで二回目のときには同じ事言ってたよ」
天原は、足を組んで膝に肘を置いて、高くなった手のひらを上にむけて、そこに顎を乗せる。
「…というか、ずっと聞こうか迷ってたんですけど、三人の出会いって…?」
俺がおずおず聞くと、ポカンとした天原は思わず手のひらに乗せてた顔が離れた。
「あれ?話してなかったか。…えっとね…最初、行きつけのバーが一緒だったの。その時は僕はホトケと、百舌君は一人で飲んでたんだよね。そのうち、まあいつもの事なんだけどホトケが先に潰れちゃって。僕に寄りかかったまでは良かったんだけど、あまりに全体重乗せるもんで、僕が耐えきれなくなって椅子から落ちた挙句押しつぶされてさ。ホトケってあの見た目で鍛えてるから重たくて重たくて。動けなくなってバタバタしてたら割と近い席で飲んでた百舌君が見かねて助けてくれて。なんとか二人でタクシーに押し込んで、うちに運ぶの手伝ってくれたんだよ。しかも、ホトケをベッドに放り投げるまで手伝ってくれて。それで、まだ僕も百舌君も飲みたりなかったから、二人でそのままうちで飲み直して。それが結構楽しかったから、連絡先交換して…それからかな、仲良いの。」
バーで知り合ったとは聞いてなかった。しかも、雪也の酒の量に着いて行けるって何者なんだ、と天原が末恐ろしくなる。
(ユキのお酒の量っていつもすごいもんな…たまにワイン2瓶開けてケロッとしてるし…俺も少し酒一緒に飲んだことあったけど、俺はあのときはたしか、ユキのペースにのまれて自分のペース守れなくて、ハイボール2杯飲んでダイニングで俺潰れたしな……起きたらいつの間にかベッドだったけど)
「もしかして、モモさん、めちゃくちゃ酒強いですか?」
「あ、うん。一般的にはそう言われる方かもしれない。実家帰ると家族とか親戚に必ず潰されるから、そんな認識はあまり無かったけど……。東京来てからはわりと無敵かも。大学の時も、酒が弱そうに見えたらしくて、カモにしたかった先輩達に『一番酒雑魚は居酒屋奢り』っていうゲームで居酒屋に連れてかれてやってたんだけど、僕一円も払ったことないんだよね」
ニッコリとした笑顔でそういった天原に、俺は引いていた。大学に行ったことがない俺は「大学って怖いところだ」と思ってしまった。そんな奢りルールの中、ずっと無敵だった天原は凄い。
「…ちなみにその奢りのゲーム、何かお酒の指定はあったんですか。…多分そういう指定ないと成り立ちませんよね、そのゲーム。」
「あ、詳しいね。僕の時は日本酒だったよ。自分の土俵だったから喜んじゃった。どんなお酒より得意だからね、日本酒」
「俺、居酒屋でバイトしてたんで、たまに大学生のグループが似たようなゲームしてるの見かけてたんです。モモさんもそういうのやってた人だとは思いませんでしたけど…。…ていうか日本酒…!?日本酒得意なんですか!」
「出身が秋田の田舎だから。米どころは日本酒美味しいからね。実家や親戚の家行くと、ビールなんか出てこなくて日本酒しか出てこないし。うちの叔父さんたちなんか、日本酒はお猪口で飲まないよ。ジョッキ。」
「じ、ジョッキで…?え、日本酒を、ジョッキ?」
「イカれてるよねー。日本酒を効率良く飲むのにキンキンに冷やしたサーモスのジョッキだよ?しかもめちゃくちゃおかわりするし。隣で飲んでる僕は確実に潰されてたなぁ。気が付いたら飲んでた居間の隣の和室に、邪魔だから、って転がされてるし」
あまりにも、天原の実家や親戚の方がヤバすぎるのは分かった。
「一回だけ百舌君に聞いたことあるんだけど、たしか盟君もお酒飲めるよね?」
「…え…でも、普通か、それより弱いくらいです。ハイボールとかラムコークとかのほうが飲むんですけど、日本酒は…それこそ全く駄目で、意識はあるのに腰砕けになって立てなくなりますね…這いつくばってジタバタしてました」
あまりに苦い思い出だ。日本酒の取扱が多かった居酒屋でバイトしていた関係で「日本酒の味を覚えないとお客さんに説明できないよね」という話になって、閉店後に店長の奢りで試飲会が行われたのだ。ちょっとずつ飲んでいたはずだったが、日本酒の種類が多かった故に、結果的に量飲んでるのと同じになってしまい、腰砕けになって全く動けなくなり、かなり酔っていたが俺よりマシだったクルーの男の子が、俺のスマホを勝手に弄って通話履歴の一番上だった雪也に電話をかけた。そして、いつもの笑顔で迎えに来た雪也に担がれて帰ったのだ。あのときはしばらく雪也の家のトイレから動けなかった。そこで言われたのが「もう盟は日本酒禁止ね」だ。
「何それ、かわいいー。うちの妹に聞かせたいよ。去年かな、ホトケとホテルディナー行ったときに、偶然双子の妹がいてさ。向こうは仕事の接待っぽかったんだけど、席が近かったから話聞こえちゃったんだよ。『お酒強くないんですぅ、もう飲めませんよぉ』って聞いたことない可愛こぶりっこしてて、こっちは食べてたご飯吹き出しそうになったんだから。僕より酒強いくせに何言ってんだ、って。それは流石にうちの実家に来たことあるホトケも肩を震わせて笑い堪えてた。その場ですぐに『ぶりっ子してんじゃないよ』ってラインしたら、『女の営業マンなんて水商売と同じなんだから、これくらいやらなきゃだめなの。邪魔すんなバカ』って返ってきた。あっちも僕らに気付いてたらしい」
ちょっと待って、情報量が多い。天原に双子の妹がいて、天原より酒が強い?しかも、天原より少し口悪いし………それで、佛斑はもう天原の実家に行ったことがあるのか?というか、これに関しては突っ込みづらい。ご実家に挨拶…ということなのか?俺の頭は少しグルグルした。
「……ん?双子の妹さん?モモさん、双子なんですか!」
「うん。妹、綾野っていうんだけど。…まあ本当は、僕が綾野になる予定で、妹が桃野になる予定だったんだけど、焦って出生届出した父が間違えて。…だから僕の名前は女の子の名前なんだ」
なるほど、ずっと引っかかっていた天原の女性名が解決した。女、女の双子や男、男の双子なら大したダメージは無かっただろうが、男女の双子だとたしかにこれは大変だっただろう。
まあ、そうじゃなくても、初対面で男か女か分からなかったくらいの女顔の天原なら『桃野』の名前でもしっくり来てしまうけれど。俺も身長も相まって大概童顔女顔だが、天原には負ける。…まあ、勝とうとは露ほども思わないが。俺は男っぽくありたい。
「…なるほど…で、妹さんの方がお酒強いんですか…?」
「大学が二人とも東京だったから二人で上京して、ひとり暮らしのお金浮かせるために、最初は狭いアパートに二人で住んでたんだ。最初の時はよく二人で家で飲んでたんだけど、家で飲むと必ず僕のほうが先に潰れてたね。妹はそれ眺めながら朝までマイペースに飲んでた……もしかしたら親族で一番お酒強いの、妹かも」
「その…ホテルディナーは妹さん、仕事だったんですよね?なんの仕事なんですか?やっぱりモモさんと同じ医療系?」
「当たらずとも遠からずかな。新薬の営業してるよ。一応、本人も薬剤師免許は持ってる。営業は病院回りが多いから、うちの病院に来たりとかもあるよ。僕は忙しくてわざわざ挨拶したりとかないけど」
ほお、と思っていたら、ドアが3回ノックされた。
ガラ、と開けて入ってきた雪也はポカンとしていた。
「…あれ。来るの早すぎた?…指定された時間通りのはずなんだけど」
俺は目の前のゼリーと薬の山を見て、しまった、と思った。
紙スプーンを握ったまま天原と話に夢中になりすぎた。雪也が来たということは、もちろん今は面会時間で、明らかに朝食の時間が終わっていると言う事だ。
「…え、あ、ホントだ。面会時間になってる。盟君と話すのに夢中になっちゃった…。盟君ご飯食べてて。僕は百舌君と話あるから」
腕時計を見て丸椅子から立ち上がった天原は、「ちょっと必要書類取ってくる」とパタパタと出ていった。
それを俺と雪也は見送ったあと、雪也はさっきまで天原が座っていた丸椅子に腰掛ける。
「ゆっくりゼリー食べてて。…それにしても薬の量凄いね、こんな量初めて見た」
たしかに、朝食が終わってから面会なので、雪也はこの量の薬を俺が飲むところは見たことがない。もちろん処方箋も天原が俺に渡してくるので、雪也は薬の内容も知らないのだ。
「半年飲んでたら、慣れたよ。…そうだ。俺、この前もうすぐ退院だからって、摂食障害の治療効果を最終確認するために体重計乗ったんだ。そしたら、途中経過で乗った3ヶ月前から2キロ増えたんだよ。凄いでしょ」
ゼリーを口に運びながら、雪也に報告したかった話をする。
雪也は仕事もしてるし、毎日来れるわけではないから、いつも面会の度にこんな話から始まる。
「良かったね。今までは減るばかりで全然増えなかったもんね。」
「だな。少し増えてよかった。まだまだ体重足らないけど…」
俺はすこしはにかんでしまい、恥ずかしくなって、それがバレないようにゼリーに口をつける。
「…そのゼリー何味?みかん?」
「ん?これ、パイナップル。半年入院してたけど、初めて出たよ、パイナップル味は」
「良かったじゃない。好きだもんね、パイナップル」
「うん、好き」
雪也が、俺がパイナップル好きなのを覚えていたのが嬉しかった。絶対言わないけれど。
「…いつか甘みも感じられなくなるって言われてるけど……。なら、今はめいいっぱい、甘いもの食べようね。盟、元々甘いの好きだったし。俺、色んなスイーツのお店とか調べたんだ。これからは沢山食べに行こう。どこでも連れて行くよ」
「……でも、ユキはあまり甘いの得意じゃないじゃん」
ゼリーを食べ終わり、薬をプチプチとシートから出しながら、俺は雪也に言う。
施設にいた頃、雪也はクリスマスで出た小さなショートケーキに一切手を付けなかった。それを俺にこっそりスライドし、「あげる」と言ってきたのだ。手で鼻と口を覆って吐きそうになっていて、珍しく真っ青な顔をしていた。
「俺は生クリームが極端にダメなだけ。ブラックコーヒーあれば、わりと他の甘いものは大丈夫なんだよ。…知らなかった?」
「知らなかったよ、そんなの…」
「…俺が食べないから、俺の前で甘いもの我慢してたの?」
二人でコンビニに行ったりすることがたまにあったが、俺が冷蔵棚の甘いもののコーナーで立ち止まって見ていると、「どれか、カゴに入れなよ」と言ってくれたが首を振ってやめていた。
「…そんなつもり無いけど、ユキは甘いの苦手なのわかってたから匂いとかも嫌だろうなって…、気は……少し使ってた…。ユキのいないときにコンビニの小さいカップのパフェ一人で食べた事あって、そのあと部屋中換気したり、とかはした。でもそんくらい」
「…凄い気を使ってるじゃん、それ。だって、一人でパフェ食べてたなんて、今初めて知ったよ。ゴミもなかったじゃない」
「ゴミは、袋に入れて縛って、バイクのシートの下に隠して、次の日バイト先で捨ててた」
そう白状して、薬をまとめて一気飲みする。
「徹底してたんだね。…でももう、こういう隠し事はこれから無しね、お互い。全然俺の前で生クリーム食べたっていいし、片方が苦手だから、目の前で食べないとか気にしないで。…俺だって実は言ってなかったけど、フルーツタルト好きなんだから」
雪也のその言葉を聞いて、俺は薬を飲み込むための水でむせ返った。ゴホゴホと咳をしたあと、グリン!と音がするのではという勢いで顔を雪也に向けて目を見開いた。
「ええ!?そんっ…そんなの聞いてない!」
思わず吃りながら大きな声が出た。
「…しかも、あの……フルーツタルトだけはホントに好きで、まだ盟が来る前の話だけど……ボーナス出たときに、銀座千疋屋のフルーツタルト、ホールで買って一人で食べるくらいには…」
ちょっと恥ずかしいのか、ポツポツ喋った内容がとんでもなかった。千疋屋のフルーツタルトなんてとんでもない金額するし、たしかドーム状になっていてフルーツがもりもりに盛られていて大きいし、それをワンホール一人きりで食べていたのか。
(……そんなん…めちゃくちゃフルーツタルト好きじゃん!)
んんんっ…!と予定外知ってしまった雪也の意外な一面に軽く唸りそうになる。意外すぎる。
自分が雪也のことを『好き』と知ってから、天原曰く看護師さんに嫉妬していたり、雪也の意外な一面に悶てしまいそうになったり、感情が忙しすぎて目眩がしそうだ。
(…今までは世界が灰色で、いつもいっぱいいっぱいで、こんなことを思う事なんて無かったのに。ずっと人の顔色を伺ってはビクビク生活していたのに……今は、世界が鮮やかに色付いて、一個一個に酔いそう…。)
────コン コン
天原のノックだった。
入ってきた天原に俺達は顔を向ける。その手には書類をまとめたクリアファイルがあって、雪也をソファーとテーブルのところに呼ぶ。
「百舌君、そこのソファーに。書類の話するから。あ、食べ終わってるなら、話してる間に盟君は私服に着替えちゃって?」
「…はい」
雪也が俺の服が入ってるであろう紙袋を渡してきた。大きめの紙袋をがさりと開くといつもの白のジャージ上下と黒いTシャツ…黒いTシャツは見たことがないからこれは買ったのだろう。あとは靴下と、俺の私物には無かった赤いバンズのスニーカー…これも買ったっぽい。あとはなにか縦長の箱が入っていた。
この箱何?と聞こうと思って顔を上げたら、もう何か天原が説明し始めていて、雪也は真面目に頷いている。
ひとまず着替えるか、とパジャマを脱いで洋服に着替えた。膝が曲がりにくいので右足の靴下を履くのは一苦労したが、なんとか両足の靴下を履いてスニーカーに足を通した。…サイズはピッタリだ。
Tシャツから髪を引っ張りだす時に、鏡を見て気付いたときからまた少し伸びたロングヘアになった髪を引き抜きながら「やっぱり長いな…」と思ったので、雪也の家に帰ったら首筋くらいまで切ってしまおう、と心に決めた。そんな邪魔な髪はとりあえずポニーテールにしておこうと軽く後頭部で結っておく。
パジャマを一通り畳んで、ボストンバッグに詰めると、居住まいを正して両手で箱を持って、暫くそれを見つめた。
意を決して縦長の箱を開けたら、折り畳まれた棒のようなものが入っていた。取っ手みたいなのがあって、T字になってる。棒はゴムで繋がっているらしく、その棒同士をかちゃ、かちゃと繋げたら、それは杖だった。おじいちゃんおばあちゃんが使うようなやつだが、グリップの形が少しお洒落で、黒の棒部分と、赤茶色の木のグリップのコントラストがカッコイイ。しかも、すこしグリップがウェーブしていて握りやすそうだ。
それをついてベッドから立ち上がってみた。杖の長さは、俺の身長に合わせたのか体重が掛けやすい長さで、杖も思ってたほど重くない。そのまま、丸椅子に腰掛けて、また立ち上がって部屋の中を少し歩いて、また丸椅子に戻って腰掛けた。
天原と雪也の様子を少し眺めていたら、話が終わったらしく、雪也は杖を握った俺を見てこちらを見て微笑んでいたし、もう杖を握っている俺に天原は仰天していた。
「えっ!杖の話って盟君には昨日したよね?…えっ、杖…なんでもう持ってるの?百舌君に杖の説明したの、今だし…」
「ふ、袋に箱入ってて…」
俺が慌てて説明しようとしたら、雪也が、ふふ、と笑って口を開いた。
「俺が必要になりそうだと思ったから、事前にオーダーしといた」
にこりと笑って涼しい声で雪也が言うと、天原が素っ頓狂な声を上げた。
「オーダーメイドぉ!?」
「うん。仕事で俺のデザインをいつも気に入ってくれて個人指名してくれる他社の社長さんがいるんだけど、確かかっこいい杖持ってたな…、と思ったから、どこで買ったか教えてもらったんだ。オーダーメイドの工房だって言うから、すぐに行って、オーダーして。一昨日出来上がったんだけどね。退院にぎりぎり間に合ったよ」
「あ、そうですかあ…」
雪也の行動力に天原は敬語で返した。びっくりというか、呆れてるというか。そんな感じだろう。
「で、歩いてみた?どうかな?」
「うん。体重掛けやすくて、歩きやすい。松葉杖より安定するかな」
「良かった」
ふふ、と微笑んだ雪也は俺の前に片膝をついてかがんで手を差し伸べた。ん?と思いながら杖を持っていない左手を差し出す。立ち上がるのを手伝ってくれるのかと思っていたら、ポケットから出した銀色の何かを俺の薬指に通した。そして、それに口付ける。
「……これも、渡さなきゃって思ってたんだ」
「…あ……え…」
手を顔の前に持ってきて、指輪を眺める。
いきなり左手の薬指に通された指輪の意味を理解できないほど俺だって馬鹿じゃない。思考が停止した俺に、天原は一連の様子を横から見ていて「ふふ…百舌君、キザぁ」と茶化した。
その天原の声を聞いた瞬間、思考停止から現実に帰ってきた俺は、ボワワッと顔だけでなく耳も首筋まで真っ赤に染めた。
そして少し考えた瞬間、更に現実を思い出し途端に顔色がサーッと真っ青になる。
「お、俺、こんな身体だし、これから迷惑いっぱいかけるのに……俺、なんのお返しもできないのに…っ!!金だって無いし…、なんのお返しもできない!も、貰えない!すごく嬉しいけど…、すごく嬉しいけど、でもっ…こんな高そうなの貰えない!!」
俺が首が捥げるほど頭を左右に振ると、俺の肩をポンポンと叩いた天原はゆっくり口を開いた。その手には、佛斑とお揃いの指輪がある。
「…いいんじゃない?こう言うのは、お返しとか考えないで、黙ってもらっておくんだよ。『好き』が形になった、って思っておけばいいの。……二人は無いだろうけど、別れたり要らなくなったら、容赦なく換金しちゃえばいいんだから」
天原は笑顔でそう言ってきた。……最後の方、言ってることが怖かったが。俺が「うう…」と何も言えないでいると、天原は腰に手を当て、いつもの調子で話しだした。
「僕のときなんて、家で洗濯物洗おうとしたら、ホトケのスラックスのポケットから指輪出てきて、問い詰めたら、『教授や同期から早く結婚しろ、が煩かったから付けてただけ』って言われて、『そんなの僕も同じこと言われてるけど』って返したら、『だと思って、そこの引き出しの中にお前のもある』って言われて引き出しまで取りに行かされたからね?雰囲気もクソもなかったよ。嬉しさ半減した」
「それは、ホトケさんらしいや。そういう雰囲気作るタイプじゃないもんねぇ。逆にモモさんは、雰囲気とかムードとかそういうの好きなタイプだし、モモさん落ち込んだだろうな」
雪也は、あは、と笑って天原に同意して同情した。
「そうなんだよねぇ。『雰囲気』って言葉が辞書にない男だからなぁ、あの人。……結局これがお互いビジネスで付けてるのか、パートナーとして付けてるのか、分からないや。ずっと聞きはぐってるし」
もはや夫婦の愚痴みたいである。よく知ってるからこそ、そういう関係で居られて、そういう指輪の渡し方になったんだろうな、と思うところもある。
よく考えれば、引き出しに天原の分が入っているということは、指輪のサイズを分かっていたのだから、佛斑が真面目に選んだのだと分かるし、佛斑がどれだけ『本気』でいたか分かる。理由は、年齢を考えると、確かに話していたのもあっただろうが、しっかり天原にパートナーとしての『証』を渡す気だったのだろう。
雪也と天原から散々言われている、ここに居ない佛斑を、心の中で「頑張れ」と思ってしまった。
「じゃあ、荷物まとめて総合受付行こう。ついにお外出られるよ、盟君。今、秋も中頃だから気候もいいしね、真夏の退院じゃなくて良かった」
そう言われてみると、春の頭に入院して、それからは一度も外に出ていなかった。だいたいこの部屋で過ごし、検査室に行き、たまに廊下を歩く日常だった。
規則正しく生活して、消灯時間の夜21時には寝て、朝は何時かわからないが回診の前にはほとんど必ず起きていた。回診に寝坊をしたのは今日だけだ。
「あ、ボストンバッグ持たないと…」
「いいよ、俺が持つ」
「ありがと…」
俺と雪也がそんな会話をしてると、天原が「忘れ物しないでね」と言ってきた。
「眼鏡と本は大丈夫?大事だよね?」
「あっ。バッグに入れてない、棚に置きっぱなしだ…」
天原に言われ、俺が焦って引き返そうとすると、頭をポンとやって俺を止めた雪也が、棚まで取りに行って、ボストンバッグに入れた。
「大丈夫、持ったからね、盟」
「ありがと…」
エレベーターで一階まで降りて、検査棟を抜けてロビーにたどり着く。平日の午前だからか、外来患者が多く行き来する。
天原を先頭に俺達が総合受付に着くと、その前のソファー席に「座ってて」と言って、俺の隣にボストンバッグを置くと、天原と雪也は受付に行った。
ガヤガヤしている病院ホールで、ボーッとその後ろを眺めて、30分程しただろうか。雪也と天原は帰ってきた。天原は歩きながらスマホを取り出して、一つ電話をしたが、「仕方ないね、頑張れ」と言って通話を切った。
「ホトケも退院の見送りに来る予定だったんだけど、緊急手術入ったって。『退院おめでとう、と伝えてくれ』って言われた。……そうだ。今度、オフの時にみんなでご飯しよう。まだまだ話したいこと沢山あるよ、盟君」
白衣のポケットに手を入れてそう言うと、一つ紙を取り出した。
「…僕とホトケのラインと電話番号。いつでも連絡して。困ってても困ってなくても。連絡遅いときもあるかもしれないけど、ちゃんと返すから。あと、何か身体に異変があったらすぐ電話して。絶対ね。」
微笑んだ天原から、紙を受け取りお礼を言った。
それを見て嬉しそうな雪也はボストンバッグを持ちながら、「じゃあ」と提案する。
「4人でグループラインでも作っちゃう?」
「それいいね、楽しいかも」
雪也と天原はいたずら仲間……みたいなものか。二人で佛斑をイジったりもするし、同じくらいの酒の強さの様だし、一番気が合うんだろうな、と感じた。だが、俺も天原のことは優しいお兄さんかお姉さんみたいな気分で接っしているし、この二人の仲の良さに嫉妬とかはない。
「────じゃあ。行こうか、盟。モモさん、盟のこと本当にありがとうね。感謝してる」
「はいはい、もう二度と無いように。…退院おめでとう盟君。気をつけて帰ってね」
俺が杖を付いて歩く速さに雪也は歩調を合わせてくれる。杖を付いていない左手は手を繋いでくれている。…雪也と手を繋いだのは施設にいた時の俺が小学生だった時以来だ。
病院のロータリーで「車まわしてくる」と言って一旦離れたが、その間、ずっと太陽の光に輝く指輪を眺めた。
いつものダークブルーのSUVの車が目の前に来る。運転席から助手席を開けた雪也が「乗れる?」と聞いてきた。助手席のドアを左手でおさえた俺は、左足で踏ん張って「んっ」と言いながら右足を車にかけて乗り込もうとする。だが、左足で踏ん張っても、今度は車の中で右足を踏ん張らせないといけない。…暫く頑張ったが、背の高いSUVになかなか入れない。
見兼ねた雪也が、運転レバーをパーキングに入れて、サイドブレーキを踏むと、車を降りて助手席に回った。ドアを大きく開けると、俺の両脇を持ってヒョイと車に乗せる。ドアを閉めて、また運転席に戻ってきた。俺がシートベルトをしているのを確認すると、自分もシートベルトをして、パーキングからドライブに切り替えてサイドブレーキを下ろすと、ゆっくり発進した。
「…んー」
「どうした?」
唸った雪也に、俺は首を傾げた。
「いや、盟が車乗るの大変そうだし、車買い換えようかなーって」
「っいや!!そんなことしなくていいから…!」
「じゃあ、車高調つけて、車高落とそうか…」
「は?何言ってるかわからないけど、俺が車乗れないだけで、そんなお金使わなくていいから!」
「だって、大事なことじゃない?これからは俺の車乗って移動するんだよ?盟、車の免許持ってないんだから。俺の車乗れないのはダメでしょう」
「乗れるようになるから!コツ掴んだら絶対乗れるようになるから!多分、尻から乗ったらあまり踏ん張らないで乗れるから!次からそうするから!」
俺は必死だった。車買うっていくらかかると思ってるんだ。長期入院の高い病院費だって出してもらったのに、更に高い買い物をさらっとしようとしてるのを聞いて、背筋が凍る。雪也の収入は聞いたことがないが、まあ、俺がバイトしてた頃の何倍かあるだろうけれど、それにしてもそんなポンポン買えるようなものじゃないだろう。
「……じゃあ、次それやって乗れなかったら、俺、車買い換えるからね?」
「何その脅し…だって、車のローンとかだってあるだろ…」
「だって俺、この車一括購入だし。ローン無いよ」
「はぁ!?」
「だからローンとか、気にしないで車の買い替えできちゃうわけ」
こちらをチラ、と見て微笑んだ雪也が少し怖くなった。…次、乗れなかったら本気で車を買い換える気だ。
(……これは、次…マジで自力で乗らないと…)
そうしていたら、コンビニの駐車場に入っていった。
「…飲み物買おうか」
車を駐車場に駐めてレバーをパーキングに入れ、サイドブレーキを踏むとシート横に置いていたカバンを掴んだ。
「飲み物?」
「うん、このあと行きたいところがあるんだ。付き合ってほしいから、飲み物あった方がいいかなって」
どこ行くんだろう。首を傾げながら車から杖を付いて降りる。
俺はペットボトルのオレンジジュースと雪也はブラックコーヒーを買って、車に戻ってきた。宣言通り、尻を車のシートに乗せてから身体をひねる様に車内に入って座り直すと、ちゃんと乗り込むことができた。足の間に杖を置いてドアを自力で閉めると、雪也を振り返った。
「…ほら、乗れた!」
「なんだ、乗れちゃったか。買い替えのいい機会だと思ったのに」
「なにそれ」
「…ちょっと一本電話する」
「………分かった」
スマホをスワイプして通話ボタンを押すと、すぐに相手が出たのか、「もしもし」と話し始めた。
「俺。うん、百舌。呉、今からカットとカラーできる?…俺じゃないよ……それは知ってるって。頼むよ、大切な人なんだ……うん、ありがとう、……え?…ほんとに?……じゃあお言葉に甘えて。…今から30分くらいで行ける。はい、はーい、じゃ。」
ずっと黙って聞いていたが、ちんぷんかんぷんだった。でも話してる感じ、仲がいい人なんだろう。通話を切って、カバンにスマホを仕舞うと、「じゃあ行こうか」と発進した。
「…どこ行くの?」
「ん?盟、髪の毛プリンだから整えてもらおうと思って。気にしてたでしょ?」
「…気にしてないって言ったら嘘になるけど、そんなに…。…染める金だって無いからプリンのままでいいかって思ってたし、伸びた髪も、帰ったら台所バサミかなんかで切っちゃう予定だったし。」
「…まさかとは思うんだけど、今まで染めるの自力?切るのも自分で?」
「え、うん。美容室とか行ったことない…」
「……ちょっと後で呉に注文追加しよ…。髪質改善トリートメントは必須で追加だな…」
「なに、かみしつかいぜん?なにそれ。」
「やってもらったら分かるから」
そう言って車を駅方面に走らせる。
病院入る前は桜も咲いてなかったのに、気が付いたら紅葉も終わる頃だ。ハラハラと落ちていくイチョウ並木の葉を眺めながら、景色をぼーっと見つめる。左太腿に置いていた手に目をやると、指輪。…夢じゃない。
さっきの指輪を貰ったときの状況を思い出して少し顔が赤くなる。手を取られ指輪を嵌められ、そこに口付けられた。しかも、天原の目の前で。恥ずかしい。嬉しいけど、俺はそういうのに免疫が全くないから恥ずかしい。二人きりだったとしても恥ずかしかったのに、天原がいたから、余計に恥ずかしい。
現実として思い出しただけで、だんだん真っ赤になっていく顔をチラ、と見た雪也は、フフ、と笑って声をかけた。
「何を思い出して、そんな真っ赤になってるの?えっち」
「違っ!ユキが指輪渡すときにあんなことするから!」
「あんなこと?」
「~~ッ言わせんな!」
「…指輪にキスしたことでしょう?そんな真っ赤になることかな?」
「俺がそういうのに免疫ないの知ってるくせに…!」
「知ってるよ?でも、それしたら絶対反応可愛いから、したくなっちゃった」
「な、なんだよそれ……訳わかんない…」
右手の甲で顔を隠して下を向く。
「……でも、指輪……ありがと…。………嬉しい」
ぼそ、とお礼を言うと、運転しているはずの雪也の左手が俺の頭を撫でた。
「うん。嬉しいって言ってくれて、よかった」
「ッ手!ハンドル、両手で握って!」
その手を払って、雪也を見ると、雪也は笑って前を指差した。
「ご心配なく、赤信号です」
ハッと前を見るとたしかに赤信号だった。
そして、青に変わってから右折レーンから右折すると駅前独特の狭い道に入っていく。コインパーキングにキレイに車を駐車すると、二人で車を降りた。
「あ、盟は飲み物持ってって」
「なんで?」
俺は首を傾げた。
「あのお店、コーヒーか紅茶か緑茶しか出ないから…。飲めないでしょ?」
「…美容室って、飲み物飲んでいいんだ…」
「場所によるだろうけど、今から行くところはオッケーなところだから」
「わかった」
そう言って車を閉める前にオレンジジュースを手に取った。
結構歩くかと思ったら、美容室の場所はコインパーキングの隣りだった。
岩が貼られたゴツゴツした外壁にカッコイイ黒い文字で[HIDEOUT]と書かれていた。
「これ、外装と文字デザインは俺がやったんだ。あまりエクステリアデザインとかは専門外だからやらないけど、友達に頼まれたから、個人的に」
「へぇ…」
そんな話をしながら、木製の扉の横のお洒落な呼び鈴を押す。ブーッと音がしたあと、ガチャッと鍵を開けて扉が開くと、黒のTシャツをダメージジーンズにインして、ゴツめのベルト、ウォレットチェーン、革のブーツ姿の雑誌に出てきそうなお洒落な男性が俺達を迎え入れた。
「やーっと来た。んでぇ?この子が百舌の大切な人?……ウチ、男性限定美容室なんだけど、女の子お断りよ?」
「男の子だよ、可愛いけど。」
…たしかに俺は今ロングヘアのポニーテール。女に見えないこともないか。
「まじぃ!?こんなに女顔の男初めて見たけど。つーか、お前何。ショタコンだったっけ?」
「盟は年下だけど、3つ下なだけ。二十歳は当然超えてるし、俺はショタコンじゃないから…。…とりあえず入れて。盟は足が悪いんだ、座らせてあげたい」
「おお、悪い悪い。ほら、入って入って~」
俺の杖を見た男性は、扉を大きく開けて迎え入れてくれた。
店内は中央にペンダントライトが3つがあって、間接照明と天井からぶら下がったコウモリランが数個、流木を板にして壁に貼ってあるお洒落な空間だった。落ち着いた洋楽も流れている。
奥の茶色の革張りソファーに案内され、腰を落ち着けると、バックルームに入っていった男性に「何飲むー?」と言われた。
「俺はコーヒー。盟は飲み物持ってきてる」
そう聞いた男性がひょっこり顔を出し「なんで?」と聞いてきた。
「……盟は甘いのしか飲めないから、持ってきた」
言いにくそうに言葉を選んでそう言うと、男性から意外な言葉が出てきた。
「ふーん?リンゴジュースなら冷蔵庫にあるぞ?」
「…いつから置くようになったの…。ここのお客さん、そんなの飲む人居ないじゃん」
「俺がここで事務作業するときに飲む用。たまにあんのよ、甘いの飲みたい時」
「あそう。……だって、飲む?リンゴジュース」
俺に振り返った雪也はそう尋ねてきたので、一つ頷いた。
「…もらえるなら……」
「ほいよー」
それを聞いた男性はそう言ってまたバックルームに引っ込む。
ソーサーに乗ったコーヒーカップと、氷とリンゴジュースが入ったお洒落なグラスをお盆に乗せて持ってきた。お盆をよく見るとコルクのコースターとストローもあった。雪也にコーヒーを、俺にコースターを置いてその上にリンゴジュースを置く。そしてストローを差し出した。
「んでぇ?百舌、紹介してよ、その子」
ドカッと向かいのソファーに腰掛けた男性に手のひらを俺の方に向けられ、俺が指さされたのに気付いた。指を刺さないのは、さすが接客業してるだけあるな、と思っていた。
「…俺が施設にいたの知ってるでしょう。…その時施設で一緒だった子。今は俺の恋人だよ。名前は一ノ瀬盟。…言っとくけど、いくら可愛いからって、手出さないでよね」
「流石に可愛くても男は無理ぃ」
雪也が牽制を入れると、ソファーに寄りかかり頭の上で手を組んだ男性が言った。
「…まあ、女大好きヤリチンの呉はそうだよね」
フフ、と雪也は言う。そう言われた呉と呼ばれた男性は前のめりになって膝の上で指を組んだ。
「お前だって今までノーマルだったじゃん、いきなりどうしたの?」
「再会しちゃったから、盟と。だから、それまでの女遊びは全部やめた」
ニッコリとそう言い切ると、俺の頭を撫でた。
「ほお、俺から女盗っといてソレ言うか、お前」
「あれは…俺は悪くないし、女の子から寄ってきたからね?あの後少し付き合って面倒くさくなったから振ったら、ストーカーされて大変だったんだから。あれ、呉は盗られて正解。俺が被害被ってあげたんだからさ」
なんつー会話なんだ。というか、雪也が女遊びをしてたのは知らなかった。…まあ、顔はいいし、引く手数多だっただろうし、笑顔の裏で実は人嫌いだから、告白されても断るのも面倒臭くて適当に遊んでいたんだろう。
「なにそれ、ユカコちゃんそんなヤバイ子だったん?」
「結構最近までヒステリーなイタ電とかあったからねぇ。盟に聞かせないように寝室に逃げて受け無言電話してたけど」
あれか。雪也の家に住むようになってすぐの頃、ヒステリーな電話が確かにあった。
「…ごめん、それ、…聞くつもり無かったけど……リビングまで聞こえてた…」
「えっ」
今まで黙っていた俺がボソッとリンゴジュースを飲みながら言うと、雪也の顔が固まった。
「やーい、バレてやんの」
「でも、そう言うの…もうやめてるなら、別にいい」
ズッとリンゴジュースを少し飲んで言うと呉は「えーっ」と声を上げた。
「めっちゃ好きじゃーん。心が広いんだねえ、盟ちゃーん」
そう言って呉が俺の頭を撫でようとした瞬間、俺は瞬間的に怖くなって首はシュッと引っ込み、呉の手首を雪也が掴んだ。
「…ダメ。…呉は男、無理なんでしょう?」
「ダメだけど。俺、盟ちゃんならイケるかも」
手首を強く掴まれたまま、ニヤニヤしながら飄々と言う呉に、今までいつもの笑顔だった雪也が真顔になった。声のトーンも低くなる。
「絶対だめ。……はー、呉のところに連れてきたの、間違えたかも…」
「間違えじゃねえわ。ぜってぇ盟ちゃん可愛くすっから見とけよな。行くぞ盟ちゃん、まずは髪洗おう」
そう言って俺の手を取ると引っ張るように連れて行くのを「あっ」と言いながら咄嗟に杖が取れず、ほぼ引きずられるように連れてかれる。足がもつれてほぼ歩けていなかったので、俺が足が悪いのを思い出した呉は「あ!わりぃ!」と言って俺を抱え上げた。いきなりお姫様抱っこで抱えられて「ぅわぁっ!」と声が上がる。
シャンプー台に連れて行かれ、タオルを巻いてケープをすると、寝かされる。初めてのシャンプー台でドキドキしていると、頭上でシャワーの音がする。そして、髪を濡らして、頭皮にも心地よいお湯が掛かる。真面目な表情で呉がシャワーを掛ける姿と、俺が横になって頭を洗われてるのが恥ずかしくて、身を固くしてギュッと目を閉じる。
「身体の力抜いて。やり辛い」
「っえ、…は、い…っ」
「…もしかしてだけど、美容室初めて?」
「……はい」
「そか。気ィ使えなくて悪かったな。じゃ、フェイスシートかけるか。」
そう言うと、タオルか何かで手を拭く音の後に棚から何かを取り出し、顔に紙のシートを掛けられた。
視界が遮断され、身体の力がやっと抜けた。シャワーを止めた呉はシャンプーを俺の髪に付け、泡立てていく。
人に髪を洗ってもらったことがなかったので、こんなに気持ちいいものだと思わなかった。凄く良い匂いがする。
「痒いとこある?」
「…ぇ、あ。……ない、です…」
話し掛けられて、カチコチで答えると、呉は鼻で笑ってシャンプーを馴染ませるように髪を手で梳く。
「いちいち緊張すんなって。どこの美容室行っても聞かれる言葉だから。…んじゃ、無いなら流すぞー。シャワー冷たかったり熱かったら言えよ」
ジャブジャブと音を鳴らしながら毛先を洗い、そのうち頭皮の方に上がってきてシャンプーを洗い流す。
洗い終わったのか、「ほい、椅子起こすぞ」と言われた。座った体制のままケープを取られ髪をタオルで拭かれる。指圧が気持ちよかった。
「ほんじゃ、次カット台ね」
そう言われてまた抱え上げられる。雪也の前で他の人に抱え上げられるのが罪悪感と恥ずかしくて死にそうだった。
1席しかないカット台に降ろされ、白のケープを俺につける。少し呉が席を外すと、さっきまで飲んでいたリンゴジュースを持ってきた。
そして、キャスター付きの椅子に座ると、腰につけたポーチからコームを取り出して俺の髪を梳かす。
「ねえ、百舌ー。俺さー、百舌と盟ちゃんの好み聞いて切ってこうと思ってたんだけどさぁ。ちょっとこれ、髪さ、真面目にやばいから俺の好きにしていい?今回、マジ代金要らねえから。」
「俺は呉の腕を買ってるから構わないけど、その盟の髪がやばいって言うのは?」
「いや、ブリーチとカラーで傷んでるのは見てて思ってたんだけどさあ。盟ちゃん、体調不良か栄養不良かなんかだろ。お前、盟ちゃんに食わせてる?髪に出てんだよね~。ダブルで傷んでてヤバイってこと。」
「…そんなこと、髪で分かるんですか…?」
俺が口を挟む。
「分かるよ。髪はタンパク質だから、栄養足らないとか体調不良とかメンタル不調とかだと、ダイレクトに出るんだよね。同じ理由で爪もそう。正直なんだよ、髪の毛と爪ってさ。女の子だと生理中は髪染まりにくいとかもあるし。そーいうの、分かるんだよね」
ちゃらんぽらんな美容師さんだと思ったら、結構ちゃんとした美容師さんだった。…美容室行ったことないけど。
「あ…あの、髪型とか何でもいいんで、俺…」
「いいの?じゃ、やっちゃうよ?…ま、でも、カラーの好みは聞いとくか。なんかこうしたいとかある?…因みにブリーチはもうオススメしないな。やらんほうがいい」
「地毛に近い感じで…もうプリン、面倒くさいし」
「ほーん?見た感じ茶色いよね、地毛。これでいいの?」
「……はい」
「オッケ。んじゃあ、やってきまーす。」
宣言すると伸びたロングヘアにハサミが入った。首の下辺りでジャキジャキと切られていく。あっという間にぱっつんのオカッパヘアになった。
「永野芽郁みたいな切りっぱなしボブも可愛いか…。イヤ、でも後ろもーちょっと切らんとダメよな…。」
そう独り言を言って、ヘアクリップで左半分持ち上げた。同じように右半分も持ち上げる。ハサミを取り替えて、コームとハサミで器用に襟足を切り始めた。
何度も何度もヘアクリップの位置を変え、どんどん切り進めていく。魔法みたいな技術を鏡の前で見つめ続けた。
「なあ盟ちゃん。なんでブリーチしちゃったの?美容室行ったことないってことは、自分でしたんでしょ?」
「童顔で女顔なの、嫌で…髪白くすれば少しまともな歳に見られるかな、って。」
「それ効果あった?」
「あんま…元々染めた時には短めのセミロングだったし、ずっとポニーテールだったから、結構変な人に絡まれたり、しました」
「だろーなあ。んで、何でこんなになるまで伸ばしっぱ?プリンだし、結構ロングよね」
「さっき、病院から退院したんです。長期入院で、入院してる間にこんなに伸びて。邪魔だな、とは思ってたんです。退院して家帰ったら台所バサミで切っちゃおうって思ってて…」
「台所バサミ…まじかよ、ありえねぇ。…あー。んで、百舌が俺んとこ連れてきたってわけね?理解理解」
うんうん、と頷いた呉はヘアクリップをすべて外して、今度は両サイドにヘアクリップを止めると前髪を作り始めた。
「ちょい、顔動かさないでな。前髪つくっから」
「はい」
繊細な手つきで前髪を作る。聞きたいことがあって、俺は口を開いた。
「あの…。」
「なーに?」
「美容室ってもっと席があるイメージだったんですけど……ここは一つだけなんですね」
「あー、それね。ここは俺と意気投合したお客しか来ない、一見さんお断りの店舗だからだよ。俺、ここ以外にも店舗三つ経営してて、そこは普通の美容室だから席いっぱいあるんだけど、ここだけは男性専用でプライベートの客だけ入れてる。あと、書類整理するための事務所も兼ねてるな。普通に遊びに来るだけの客もいたりもするよ。そこのテレビの下にゲームあるから、ゲームだけして帰ったり。遊び対戦とマリカとスマブラしかないけど。」
三店舗経営してるって、実はすごくやり手の美容師さんなのか…どおりでさっきの髪の毛傷んでる話もすごく詳しかったわけだ。お客さんから仲間になって、溜まり場みたいになっているんだ。
「百舌は、中学以降連絡取ってなかったんだけど、イギリスから帰ってきてデザイン事務所入ったって聞いた瞬間、連絡取った。その頃、ここ建てる計画してたから、デザイン頼みこんだんだよ。入り口にあるここの店舗の看板見た?『HIDEOUT』は隠れ家って意味で、百舌が字体もデザインした百舌オリジナル。あれカッコイイっしょ。俺のお気に入り」
そうしていたら、前髪作りが終わったのか、両サイドのヘアクリップを取られ、「どう?」と両開きの鏡を後ろから当てて、一旦見せてくれた。かなり短くなって、上は丸みがあって襟足が首に沿って少しある感じ。
「大人しめなマッシュウルフなんだけど。ねー!ちょっとぉ、百舌も見てー」
呼ばれた雪也も「今行く」と言ってこちらに来た。
「あ、すごく新鮮。可愛いね、盟。……でも、まだやることあるんでしょ、呉?」
「あったりまえよ。これからもっと盟ちゃんに魔法をかけまーす。更に可愛くすっから。腰抜かすなよ、百舌」
にひひ、と笑った呉に雪也も笑い返す。
「楽しみにしてる。…もう少し頑張ってね、盟」
そう言って俺の頭をひと撫でして、雪也は元いたソファーに戻っていった。
「んじゃ、とうとうカラーリングに入りますかねぇ。カラー剤作ってくっからまっててな、盟ちゃん。あ、雑誌とか読む?持ってこようか」
あまり雑誌は読んでこなかったが、読んでみたかったのでコクコクと頷く。
ちょっとバックルームに入った呉はタブレット端末を持ってきた。受け取って、初めて扱うタブレットにモタモタしていたら、「え、使ったことねえ?もしかして」と言われ、頷いた。スマホでやっとの人間がタブレットを扱ったことがあるわけ無い。
「これ電源、このアプリが雑誌だから、ここからスワイプして好きな雑誌読んでいいよ。所謂電子書籍ってやつだから。雑誌から、このメニューに戻るときは、この辺タップするとタブが出るから、ここから戻る。オケ?」
「はい」と返事をしたら、「よーし、今度こそカラー剤作ってくるわ」と言ってカウンターのようなところに行ってしまった。
とはいえ、どんな雑誌がどんなものかよく解っていない。悩みながらひとつ男性ファッション雑誌を開く。お洒落な洋服の雑誌に目を奪われて暫く読みすすめていると、アクセサリーの特集があって、夢中で読んでいた。
「へえ、やっぱアクセは好きなんだ。髪切ってて思ったけど、ピアスすごいもんな盟ちゃん。俺の仲間にこんなバチバチな奴いないからちょいビックリしたわ。でもなんか話してるかんじ大人しいのにギャップみたいな?ちょっと萌えるよね、そーいうの。ま、今回ピアス含めてこの髪型なんだけどな?耳掛けできる長さにして、耳掛けするとピアス見えるっつー感じ。隠さなきゃいけないとこでは髪おろして、普段は耳掛けするっつーのいいんじゃね、って。」
かちゃかちゃと小さいボールの中身を回しながら、呉は話しかけてきた。
「…ギャップ……萌……?…よく分からないですけど…俺のピアス見てそんな事も考えるんですね…」
「まーね、俺プロだから」
そう話していたら、キャスター付きの棚にカラー剤を置いた呉は俺にイヤーカバーをかけた。なんかボワボワして変な感じがする。ケープを変えると、茶色のゴム手袋を膨らまして、パチンと手に嵌めた呉は、俺の髪を掬った。
「じゃ、カラーしてくな?」
霧吹きで髪を濡らしたあと、刷毛みたいなもので俺の髪に泥のようなものを塗っていく。丁寧に、塗り残しがないように、髪の根本からどんどん塗る。
「切ってて思ったけど、毛量少ねーのな…髪柔らかいし。めっちゃ傷んでるのさえなけりゃ、最高の髪なんだけどなー。俺的に理想の髪つーか。頭もちっちぇーし、マジ女の子みたい。……ま、これから天使の輪ができるくらいツヤツヤキラキラにしてやるから、安心しろな」
「……はい」
俺の毛量が少ないからか、頭が小さいからか、案外早く塗り終わったようで、手袋を外してラップを頭に掛けていく。いきなりの事に「っ!?」と肩をビクッとさせたら、呉は鼻で笑って呆れている。
「だーかーら、一個一個ビビんなって。ラップしてるだけだろ。これで、カラー剤馴染んで浸透するまで待機な。…雑誌読んでたり、飲み物飲んだりしてていいから。暇だろ?」
「はい…」
と言ってキャスター付きの棚の上に置いてあったタイマーをセットすると、キャッシャーの方へ行って、何かをやり始めた。落ち着いた洋楽の中、ガサッガサッと音が聞こえる。雪也はここから姿が見えないので何をしているか分からない。忙しなく呉はキャッシャーにいたと思ったら今度はバックルームに姿を消し、何か箱を2つ持ってきてまたガサガサと入れている。
俺は先程のタブレットに視線を落とし、雑誌をゆっくり読むことにした。普段、ドンキで買った白いジャージか黒のジャージばかり着ていたので、こういうオシャレはしたことが無い。金が無いのもあったが、興味が無いというよりは『知らなかった』というのが正しい。知識が全く無かった。…ファッション雑誌って面白い。
いつぞやに居酒屋バイトのクルーの男の子────弓削が「俺、彼女からネックレス貰ったんだけど、正直要らないんだよね。よかったら貰って?」と言われて貰ったネックレスがシンプルでカッコよかったので、付けていたくらいだ。その弓削は割とアクセサリーを何でも譲ってくれる奴で、同じ理由で彼女から貰ったブレスレットや指輪2つも貰った。「指輪のプレゼントとか重すぎ、ありえん」と言っていた。しかも、居酒屋まで彼女さんが渡しに来たやつを、彼女さんが帰った瞬間、俺に流したのだ。最初は「彼女さんに貰ったなら、付けなくても大事にしなよ」と言ったが、「いや、要らないもんは要らないから」と押し付けられた。クルーのギャルの子────阿井には「お前マジクソ野郎じゃん」とシバかれていた。
指輪を付けたら、他の指はスカスカで人差し指しか入らなかったので、少し遊びはあったが人差し指につけてみた。それを見ていた居酒屋クルーの皆が「お前、指細好ぎ!!」となぜか悲鳴が上がった。
思い出した俺は、ケープから右手を出して指を広げた。枝みたいな指。関節が目立つ、キレイとは呼べない指だ。
「…なにしてんの、盟ちゃん」
「ぇ…」
「自分の手、じっと見ちゃって。……何それ、ほっせぇ指、折れそうだわ」
「俺、アクセサリー好きではあるんですけど、ピアス以外買ったことないんです。ネックレスも、ブレスレットも、リングも持ってるけど、バイト仲間が『彼女に貰ったけど要らないからあげる』って貰ったものばかりで。バイト仲間の前でリング付けてみたら皆から『お前指細すぎ!』って絶叫されて。…そんな細いのかなぁ、って、今更思い出して。」
「ほーん?百舌からアクセサリー貰ったことないの?」
「っえ!!!……あ、…あります…」
声が萎んで少し顔の赤くなった俺を見て、「ははーん?」と呉がニヤリとした。
「百舌やったな。あいつ、婚約指輪渡したろ?…ん?でもゲイ同士だと婚約指輪って言い方であってんのか?パートナーリング?…わっかんねえけど、そういう系だろ」
ニヤニヤした呉は雪也に声を掛ける。
「なあ、百舌ー。盟ちゃんに渡した婚約指輪、何号なん?」
「……それ聞いて呉はどうするの…」
話が聞こえていた雪也は溜め息を吐いた。多分ソファー席で片手で頭を抱えてるだろう。
「いや、二人の幸せにニヤけたいだけ」
「趣味悪。……7号だよ」
正直に答えた雪也に呉は素っ頓狂な声を上げ、俺は絶句した。…というか、いつ俺の指輪のサイズ調べたのだろう。俺すら薬指のサイズなんて知らなかったのに。…たしかに、7号は細い。でもこの指輪、関節までの間で遊びがあるんだよな…と思った。
「7号!?そのへんの女より細いじゃん!!」
「おかげで男性同士だと気付かれずに買えたけどね…」
「すげー!」
そんな話をしていたら、タイマーがけたたましく鳴った。
────PPPPPP
「おっと。鳴った鳴った。盟ちゃん、ラップ取るぞー」
「はい…」
カラー剤を少し避けるようにして髪の染まり具合見ると、「おし」と声を上げた。細く丸めたタオルで俺の頭を一周すると、ケープを取り、また抱え上げた。「うぁっ」と毎回悲鳴を上げる俺もどうかと思うが、せめて、いきなり持ち上げないで声を掛けてほしい。
シャワー台に連れて行かれ、シャワー用のケープをし椅子を倒された。顔にはフェイスシートが掛けられる。
さっきよりシャワーは少し慣れた。またいい匂いのするシャンプーをされて、それを流す。その後、何かドロッとしたものを髪につけられ、全体的に馴染ませると「ちょいそのまま待機な」と言われた。
フェイスシートで顔が隠れているし、フェイスシートのおかげで視界は真っ白だ。ボーッとしていたら、「ほい、流すぞー」と言われ、また頭上でシャワーの音がした。流しているときに呉は指を通していたが、先よりもかなり指通りがいいのが分かる。一旦シャワーを止め、また何かを付ける。テクスチャー的にはさっきよりサラサラしている。髪全体に馴染ませると、これは待たずに流した。最後にもう一度何かを付けて、髪全体に馴染ませて流すと、シャワーを止めて横になったまま軽くタオルドライされた。
「椅子起こすぞー」
そう言って椅子を起こすと、またタオルドライの続きをされる。さっきより念入りにだ。「よーし」と声をかけた呉はまた俺を持ち上げた。
カット台に着いて、降ろされると、少しコームで梳かした。
「うんうん、いーかんじ。あれね、盟ちゃんの髪は旋毛も素直だし、癖のないストレートだし、こういう王道の髪型のほうが似合うよ」
そう言うとドライヤーでブォーンと俺の髪を乾かし始めた。
暫く乾かすと、俺の髪はストンと何も梳かしていないのに形が出来上がってきた。満足そうな呉は「おーさすが俺様だわ」と満足げだった。俺の髪の毛に見た事のないキューティクルがある。…これが天使の輪とか言うやつだろうか。
完全に乾くと、ヘアオイルを手に出し、それを髪になじませていく。花束みたいな、いい匂いのするヘアオイルだ。
最後に少し前髪を指先で整えて、「はいオッケー」と言った。
あまりの自分の変わりように、これは本当に自分なのか、と目を瞬く。
「なに、ビックリしちゃった?ほら、百舌んとこ行くぞ」と言って、俺をまた抱え上げて、雪也の元へ運んだ。
俺を雪也のソファーの隣りに座らせると、呉は向かいの席に座った。
「百舌、どーよ。マッシュウルフだけど、顔周りに少しシャギーを入れて軽くして、ピアス凄かったから耳掛けできるようにした。襟足は今流行りのクラゲヘアみたいなのを目指した…とはいえ、首筋に沿うような感じで鎖骨までは無いし、邪魔にもならん。そんでもって首筋がキレイだったから少しラインをキレイにしてセクシーに。髪の色は焦げ茶に少しブルーとシルバーを混ぜてある。配合はデータ化してあるから、また来たときに同じ色に出来るようにしてある。……やっぱ、ブリーチよりこっちの王道な髪のほうが少し大人っぽく見えんだよね、実は」
うんうん、と聞いていた雪也は満足そうに微笑んで俺の頭を撫でた。
「良かったね、盟。すごく綺麗。…やっぱり呉に任せて良かった。最初電話したときは、まあ、信頼してるのはあったけど、フットワーク軽くてすぐやってくれそう、って頼んだけど…思ってた以上に応えてくれて良かった。流石だよ、呉。やっぱ、頼んでよかった」
「中学ん頃からのダチがさあ、『大切な人の髪を切ってほしい』なんて男連れてくんだよ?最初はビビったけど、盟ちゃんいい子だし、俺はあの時の件でちょっと負い目あるし、お前には一生掛かっても逆らえんて」
「…あの時の件…?」
俺が首を傾げると、「それはね」と雪也は半笑いだ。その言葉を繋いだのは呉だった。
「中学ん時のこいつの身体の火傷とアザ、見つけたの俺なの。何も知んなかった俺はセンコーにチクっちゃって、それでこいつんちに児相が家に入って、こいつは施設行き。マジでその後、俺は『悪いことした気』がして、こいつと何話したらいいか分からなかった。…したら、それからはやたら楽しそうに『メイが』『メイが』って始まって。────あの時の『メイ』って、盟ちゃんの事だったんだな。まあ、こんなに可愛きゃ、『盟が~』ってなるよな。納得だよ。………ホント、おめでとな、お前ら」
そう言うと、ソファーから立ち上がってキャッシャーに行くと、紙袋を持ってきて、それを渡してきた。
「…お祝い。ウチで使ってる最高級ヘアケアセット。2個ずつ入ってるから、暫く持つだろ。盟ちゃんに使ってやって。…あと盟ちゃん、これあげる。」
紙袋は雪也が受け取り、俺は名刺を受け取った。
『株式会社【Glorious】 代表取締役社長 呉 真希人 (Makihito Kure)』────肩書が代表取締役社長で、そんな人に髪を切ってもらってたのかと、名刺を手放しそうになると同時に、雪也と同い年で社長なのも驚愕だった。名刺には個人の電話番号と、ラインIDが書かれていた。
「俺、普段色んな店舗回ってて、常にここ居るわけじゃねえから、個人番号か、個人ラインでここの受付してんのよ。だから、髪切りたかったら、ここ連絡して。盟ちゃん、多分緊張で普通の店舗入れなさそうだし、ココおいでよ。もちろん、二人でさ。…待ってるよ」
ニッと笑った呉は扉を開けて、俺達は案内されるまま退店した。
扉の前で手を上げた呉に、俺は雪也の車の前でペコリと頭を下げた。コインパーキングの精算をした雪也も「じゃあ、ありがとう」と言って車を開けて乗り込んだ。
ちゃんと車に乗り込めた俺は、雪也の家へ向かっている道中、暫くツヤツヤになった髪の毛を触っていたが、いつの間にか寝てしまっていた。
いろんな検査もした。胃カメラ、大腸検査は異物感が強くて辛かったが、なぜか検査担当の医師や看護師さんに「上手、上手」と褒められまくった。なぜかと天原に聞いたら、「そうやって褒めないと、辛い検査すぎて患者さんが挫けちゃうから」と答えが返ってきた。「たまにどこで習ったんだか、本当に胃カメラ飲むの上手な患者さんもいるけどね」と笑っていたが。どちらにせよ「上手、上手」と言われるわけだ。胃カメラの看護師さんって上げマンだと思ってしまった。
足の筋力回復のリハビリでは、最初に車椅子から立ち上がるときにバランスを崩しベシャリと倒れた。どうやら右足だけ力が入らないことが判明し、新たに検査項目が追加されて、検査をした。高熱による神経麻痺だったので天原が頭を抱えていたが、外科の佛斑や整形外科の医師と相談して詳しく診察をした結果、膝は多少曲がるし、足首も動く。ただ、力が入らなくて踏ん張れないと言うことで、足の切断までは行かなかった。ホッとした天原が病室で俺と二人きりになったときに「本当に良かった」と泣きそうになりながら抱きついてきたのはびっくりした。…あれから、天原は距離がやけに近くなって、かなり甘やかされている気がするが、なんだか嬉しいようなこそばゆいような感じだった。
(……もし、俺にお兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかな…)
もちろん、足の件の説明は後日お見舞いにきた雪也にも伝えられて、雪也は申し訳なさそうな顔をしてまた俺に謝っていた。同席していた天原や佛斑はもう責めることも怒鳴ることもなく、「足の切断がなかっただけ良かったよ」と励ましてくれた。
ようやく車椅子生活も終わり、なんとか右足を引きずりながら、点滴を連れて院内を歩くこともできるようになった。たまに点滴交換の時間を忘れて散歩をしていると、看護師さんが連れ戻しにやって来たが、「歩く練習も必要ですから、まあ、戻る時間を守らないのは大目に見ます」と言ってくれるようになっていた。この言葉を言ってくれたのは、初日の夜、俺が自分にいっぱいいっぱいで無関心な態度を取ってしまった佐田という看護師さんだった。
相変わらず味覚は甘いものしか感じられなかったので、ほぼ毎食ゼリーやプリンが出た。あとは睡眠薬と精神安定剤とは別に、普通の食事が取れないので、栄養剤の薬も増えたが、特に苦には感じなかった。ただ、薬の量が多くて、ゼリーを食べて薬を飲むだけでお腹が一杯になってしまうのがなかなか大変だったが。
トイレに行ったときに鏡を見て、自分の真っ白に染めていた髪が付け根からだいぶ地毛の焦げ茶髪が生えて伸びてきてることに気がついた。いわゆる、プリン頭。
「…髪、だいぶ伸びたな…」
そう独りごちて、髪の先をつまんだ。たしかにセミロングくらいだった髪は今は胸が被るくらいまで伸びていた。雪也がヘアゴムを持ってきてくれていたので、枕に頭をつけたときに邪魔にならないように首の後ろの低いところで緩く結んでいたから、今まで気が付かなかった。
俺の白く染めていたホワイトブリーチは自分で染めていたもので、ドラッグストアで同じブリーチ剤を3つ買ってきて日を分けて三回やって染めたものだ。毛先の色を入れたのも、カラー剤で自分でやったものだし、髪はいつも自分で切っていた。美容室とかは行ったことがない。白髪にしていたのは、派手髪にすれば自分の童顔を隠せたからだ。ストレートヘアの焦げ茶髪は余計に俺の童顔で女顔なのを助長していた。今時はブリーチやカラーリングはやってる人も多いから、俺が派手髪でもそんなに存在が浮くことも無かったのも助かった。
もう、仕事も辞めてしまったから、これからは倹約のためブリーチ剤を買うつもりもないと思っていたので、暫くプリン頭で過ごすか。とトイレを出た。
病院に入院してから季節が2つ過ぎた頃、いつものノックとともに入ってきた天原が「もう退院しても大丈夫だよ」と笑顔で言ってくれた。
「盟君、すごく頑張ったから、予定より早く百舌君のところに帰れるよ。良かったね」
そう言って、また俺を抱きしめた天原は、繰り返し「頑張ったね」と言ってくれた。
「天原さん、本当にありがとうございました。」
俺がそう言うと、抱きしめていた身体を離して上体を起こすと、天原は白衣のポケットに手を入れて、笑った。
「…これからは、担当医と患者じゃなくなるんだから、僕のこと、そろそろ名前で呼んでよ。盟君はちゃんと百舌君の恋人になったんだし、僕とももう友達じゃない。これからも仲良くしたいし、いっぱい話したいよ」
「え、と…名前で?………その…ももの…さん…?」
…確か本名は天原桃野だったはず。名前でって、突然言われても…と恐る恐るさん付けで呼んでみた。
「んー、それでもいいけど、『モモ』でいいよ。みんなそう呼ぶし。ホトケも百舌君も。」
「……モモ…さん…?」
俺が天原の言葉を反芻するように名前を呼び直すと、2回頷いた。
「うん。そう呼んで。盟君なら敬語なしが嬉しいけど、多分盟君の性格上、それは遠慮するでしょう?」
「それは…まあ……。俺、一番年下ですし…」
それはそうだ。佛斑は36歳だと聞いたし、天原も入院初日に34歳だと言っていた。雪也は27歳だから、戸籍上24歳の俺が断然一番下になる。
「まあ、それはおいおい慣れてくれればいいよ。……でもいいなぁ。盟君、24でしょ?若くて羨ましいよ。だって、僕は34だから、君と10個違うんだよ?僕が24の時なんて、大学の研究室でエナドリ握って気絶しそうになりながら論文ばっか書いてた。」
「…やっぱり、医者になるのって大変なんですね…」
「僕は特別大変だったというか…。もう本当に研究室でも劣等生で、成績最悪だったからね。実地見学では開腹の時のリアルな内臓や血が見れなくて気持ち悪くなっちゃってたし、実技練習でやる採血は、ドの付く下手くそで。医者向いてないのかな、って挫折しかけたよ。…大学の先輩だったホトケが研修医で忙しい合間をぬって腕を貸してくれて、ずっと採血の練習台になってくれてたんだ。おかげで今は、採血は人並にできるようになったけど……やっぱり今でも内臓や血を見るのが苦手で、結果的にホトケと同じ外科に進めなくて、少なくとも内臓を見なくて済む内科に逃げたんだよ」
今まで診察していた姿からは想像が付かなかった。
あんなにテキパキと色々こなしたり、俺の味覚についてもすぐに症例を見つけたり、患者に寄り添ったり、診断を正しく下したりしてた優等生のような天原が、まさか学生時代は劣等生だったなんて。
「…それは、内科に逃げたんじゃなくて、天原さ……モモさんがそっちの方が天職だったんですよ。モモさん、看護師さんにも患者さんにも優しいし、すごく寄り添ってくれるから、そう言うのも医者のスキルだと思うんです。俺も、コンビニと居酒屋のバイトやってたとき、無愛想で接客業向いてないって思ってましたけど、声色変えるだけで、案外クレームもなくてなんてことなかったですし。パートのおばちゃんとか、居酒屋のクルーも沢山助けてくれたし。………退院したら、『突然辞めてごめんなさい』って言わなきゃ…。…もうこの足じゃ働けないし。…何か座ってできる仕事探します」
俺は何か、この病院に入院して最初こそ心の糸が切れるほどドン底にあったメンタルだが、なんとか回復して、入院前より前向きになった気がする。
「なんか、強くなったね。盟君は。すごくいい傾向。これからの生活は大変かもしれないけど、負けないでね。いつでも相談して。僕とホトケは盟君の味方なんだから」
「…はい…っ」
その日の夕食の病院食は柔らかいプリンだった。大量の薬も用意され、流石に半年の入院で慣れて、それを胃に流し込む。
お盆を下げに来た天原が、丸椅子に腰掛け俺に話しかける。
「明日、百舌君が車で迎えに来るって。洋服持ってくるように頼んであるから、朝ご飯食べて、百舌君来たら着替えて帰れる。ちょっと総合受付で手続きあるけど、その辺は百舌君がやるから、盟君は待合ロビーで待ってること。…いいね?」
「…?はい。」
「あと、これから生活するのに、いつまでも松葉杖は大変だから、杖を買ったほうがいいね。…分かるかな、おじいちゃんおばあちゃんが持ってるアレ。あれが軽量だから松葉杖より取り回しがいいと思う。百均とか雑貨屋さんで売ってるから。……あーあとは…あ、そうだ。持ってると何かと便利だから身体障害者手帳とヘルプマークを取ろう。これからは足が不自由だからね。仕事がしたいって言ってたから、手帳を持ってれば障害者雇用とかそういうのもあるから、選択肢になると思うよ。手帳を取るのに必要な診断書は、確認したらホトケが今書いてくれてるって言ってたから、明日の退院までには出来上がってると思う。ヘルプマークは市役所の福祉課に行ったら無料でもらえるから、貰っておくといいよ。…まあ、これだけ一気に言われたら、盟君パニクっちゃうから、百舌君にも伝えておくけれど。」
確かに、瞬間記憶の許容量の少ない俺は脳みそがパンク寸前だ。とりあえず、明日退院で、杖を買うことと、ナントカ手帳っていうのを取るって言うことだけ頭に入れた。
とりあえず要点だけ頭に入れたことを示すように、首振り人形のようにコクコクと首を縦に振ると、「んー。盟君のこの反応のときは、あまり理解追いついないときだからなぁ…」と苦笑いをされた。…半年の入院で天原は俺の知らない俺のことまでだいぶ理解してるらしい。医者というのはよく人を観察しているようだ。
「…うーん、まあいいよ。朝ごはんのあと、百舌君がお迎え来てくれて帰れるよ。これだけ覚えればいいや」
めちゃくちゃ要点を短くされた。…ちょっと馬鹿にされた気分だったがまあいいかと流した。実際問題、頭は良くないし、俺。
「じゃあ、明日に備えて今日は早めに寝ること。……あまり本読んでちゃダメだよ」
「…はい」
パタン、と部屋を後にした天原を見送って、雪也がお見舞いの時に持ってきてくれていた眼鏡と文庫本の小説に手を伸ばす。家では本を読むときだけ眼鏡をかけてるのを知ってる雪也が、本とセットで眼鏡を持ってきてくれていたのはとても嬉しかった。丸メガネで、銀の薄いフレームのそれは、目つきの悪い俺の印象を少し緩和するらしく、眼鏡屋の店員がニコニコしながら選んでくれた。
俺の視力は0.8くらいで、普通の生活をするくらいなら眼鏡はいらないが、本や細かい文字を読むときは必要になる。だから、読書とバイトのときだけするのだ。居酒屋でオーダーを取りに行ったときに客からメニューを指さされても見えなかったのが始まりで、「これは掛けなきゃ駄目かも」と翌日のバイトから掛け始めたら、その日同じシフトだったクルーのギャルの女の子から「えーっ!マジエロ可愛い!!」とほっぺたをグリグリされて頭を撫で繰り回されるわ、時たま酔っぱらいにセクハラをかけられるようになったが、「クルーの女の子がセクハラにあうよりマシか」と、なんだか周りの反応も変わった。コンビニではパートのおばちゃんたちから「あら、眼鏡いいじゃない。ホントは真面目なのに見た目で損してたから、眼鏡のほうが真面目に見えるわよぉ」と言われた。…そんなもんなのか、と思ったほどだ。
…もう少しでこれも読了する。パラパラと栞までめくって、物語の海に潜った。本は楽しい。知らない世界をたくさん見せてくれる。
暫く物語に夢中になっていたら、看護師が「消灯時間ですよ」と言いに来てくれて、礼を言って、本に栞を挟んで眼鏡を眼鏡ケースに戻すと、看護師がベッドを倒してくれて、部屋の電気を消して出ていった。
(…退院、うれしい…。やっとユキのとこに帰れるんだ…)
目を閉じて、力を抜くと、嬉しさで浮足立って眠れないのではと思っていたが、いつも通りスッと眠りに入った。
翌日、何故か普段より起きるのが遅くて、特徴的なドアのノック音で目が覚めた。
寝起きの声で「……んはい…」と声を掛けて起き上がると、天原が入ってきた。俺は入院して薬を服用してから、人が変わったかと思うほど、ものすごく朝に弱くなったのだ。それでも回診の始まる時間より前には必ず起きていたのだが。
「ん?あれ、おはよう。…起こしちゃった?」
「…いや、…だいじょぶ、です…」
ゆっくり、舌の回らない声で返事をしながら、目をパチパチと瞬いて頭を起こそうとする。
「今日は起きるのゆっくりだね。昨日の晩、退院楽しみで寝れなかった?……一応今、もう回診時間だから、点滴抜きに来たんだけど。朝ご飯食べる前に抜いたほうが、管がなくて楽にご飯食べれるでしょう?」
ベッドを起こしながらそう言う天原を見ながら、俺は弁解する。
「いや、別に…ちゃんと消灯時間には寝たんですけど…今の今までぐっすりで…。自分でもびっくりなんです…。あ、そっか。コレないとたしかに食べるの楽ですね…」
そう言いながら天原に点滴の刺さった腕を差し出すと、点滴を止めて、点滴の上から被っていたネットを腕から抜くと、点滴を固定するテープを剥がす。少し肌がひきつれて痛みを覚えたが、そんなことを思っているうちに、針もス、ス、と抜いて、点滴から解放された。
腕がものすごく軽くなった気がして、「こんなに変わるのか」とびっくりした。半年の入院で点滴に慣れすぎていた。
テープを剥がしたところに、天原は白衣のポケットから取り出した缶の中の白いクリームを塗ってくれて、俺は頭を傾げた。
「このクリームなんですか?」
「盟君、肌弱そうだし、長く点滴してたからテープかぶれしてそうだなって思って、皮膚かぶれ用の軟膏。そんな特殊な薬じゃないよ。退院してもまだ痒かったら、ドラッグストアで皮膚かぶれ用の軟膏買って、痒みが治まるまで塗ってね。掻いたら、傷になってさらにひどくなるから、絶対に掻いちゃだめだから。」
「あ、はい」
クリームをよく塗り込むと、「はい終わり」と言って蓋を閉めてまたポケットに戻した。
部屋のカーテンを開けてくれたので、窓を見ると、外は青空に指し色をするように木々が赤と黄色に紅葉していた。
「じゃあ、最後の病院食、持ってくるね」
天原は部屋を後にしたのを見送って、俺は暫く窓の外を眺めていた。
部屋の外を出歩くようになってわかったのは、俺のいる部屋は5階の一番奥の部屋で、最初散歩したときは帰り道がわからなくなって、近くのナースステーションの看護師に聞いてしまったほどだ。
すぐに俺が『特患』だと分かったらしく、ナースステーション内がアリの巣を突いたようにわちゃわちゃしたあと、一人の看護師がすぐに持ってきた車椅子に乗せられ、部屋に送られた。「特患ってなんですか?」と道すがらに聞いたら「特別看護患者と言って、医師や病院が決めた特別扱いの患者さんのことです」と言われ、言葉を失ってしまった。そんな大事な患者として扱われてたのか、と恐縮していると、「でも、一ノ瀬さんは今までの特患さんと違って、何も問題を起こさない、稀に見るちゃんとした患者さんなんで、ナースステーションは戦々恐々もせず、楽ですけどね~」なんてニコニコしながらあっけらかんと話していた。たしかに、言われてみるとほとんどナースコールも押したことがなかった。
「…そういえば天原先生は担当医だから分かるんですけど、たまに佛斑先生も来るじゃないですか。…一瞬誰かわからなかったけど、私服の佛斑先生が一ノ瀬さんの部屋に入っていくのも見たことあるんですよね。……お知り合いですか?」
「あ。はい…まあ」
「えっ!あの佛斑先生ですよ!?…こんなこと言ったら失礼かもですけど…こ、怖くないんですか?!」
「いえ…全然。むしろ優しいですね…」
「や、優しい!?あの『鬼のホトケ』が!?」
これは…俺はどう回答したらいいのか。佛斑に営業妨害をしてしまったか?『鬼のホトケ』は笑いながら天原が言っていたのを聞いていたが、…とはいえ、ここで「優しいです」と返し続けるのも違う気がする…と苦笑いするしかなかった。
かなりこの看護師さんは明け透けに話すタイプなんだな、と思っていたら、もう一つ看護師から質問が飛んできた。
「よくお見舞いにいらっしゃる背の高いイケメンのお兄さんはご友人さんですか?」
「っぅえっ!?………あ、まあ…」
恋人です、とは言えないし、同居人です、もなんか違う気がした。俺はこの看護師に全て話す必要はないし、義務もない。有耶無耶に返したら、次に看護師から出てきた言葉に反応せざるを得なかった。
「私、一目惚れしちゃって、お近づきになりたくて…、連絡先渡したんですよー。ラインIDと電話番号。」
「…っえっ!!!」
「返されちゃいましたー。玉砕です。イケメンだからもうお相手居るのかなー…」
まさかその相手は自分ですとも言えず、さらに、連絡先を渡されてたなんてそんなの聞いてない、と思いながら、早く部屋に着いてくれ、と心の中で悲鳴を上げていた。この看護師さんは踏み込んで話すし聞いてきすぎて怖すぎる…。居酒屋クルーのギャルの女の子もこの手の明け透けなタイプだったが、こんなに酷くなかった────というのも、俺が当事者や関係者に該当しなかったから、そんなに気にしてなかっただけかもしれないが。
とにかくこの看護師さんは言うこと聞くことが全て心臓に悪いので本当にやめてほしかった。そんなことを言えるはずもなく、部屋にやっとついて、ベッドに戻ったのだった。もちろんほぼ毎日顔を合わせる天原にこの事を告げ口するようなこともできず、一人で悶々と暫くしていた事があった。それ以来、あまり遠くに行かないようにしていたし、ナースステーションの前を通るときは、できるだけ早く歩いて通り過ぎるのを努めた。
それを思い出していたら、天原がゼリーの乗ったお盆を持ってきた。
「…ごめんお待たせ。朝ご飯…なんだけど…なんか変な顔してるけどどうしたの?どこか痛いとかある?」
退院当日でなにかあっては、と天原は真面目な医者の顔をして尋ねてきた。
「え、あ、いや…。何でもないです。ちょっと思い出してただけで…」
自分の両頬をパンっと叩いて普段の顔に戻ろうとするが、頭の隅にチラついてしまう。
天原は疑問に思ったのか、ちゃんと尋ねてきた。
「何を?」
「えっ…い、言えないです…」
俺は首を振ると、天原は首を傾げ、お盆を机に置いて、それを寄せてくれた。
「?…そう?…はいゼリー。今日珍しくパイナップルなんだけど、大丈夫?アレルギーなかったよね?」
「パイナップル、好きです」
「良かった。」
そう言って丸椅子に腰掛ける天原の顔をちら、と見る。
「……やっぱり言う?」
「あ、ぅ。……モモさん。…ユキ、看護師さん達に『イケメン』って呼ばれてるんですか?」
俺はこわごわと天原に尋ねてみる。
「え?…あ、うん。ナースステーションではそんなふうに盛り上がってるけど、誰から聞いたの?」
「…その…看護師さん…。」
天原の肯定に小さな声で噂した看護師のことを言うと、軽く握った手を口元に当てた天原が小声で笑った。
「あはは。なるほど?気になっちゃうんだね」
「そんなことは…!」
俺の顔が、ぼっ、と赤くなって首を振る。
「だって、僕に言うってことはそういう事でしょう?かわいい嫉妬じゃない。いいなぁ、そういう話は聞いててにこにこしちゃう」
大人の余裕なのか、人生経験の量なのか、恋愛経験の量なのか分からないが、そんなふうに茶化されて、俺は眉根を寄せて、持っていた紙のスプーンをぎゅっと握った。
「だって、連絡先渡した看護師さんがいたって!…そんなの…」
「あれ、ちゃんと断って返してたから大丈夫。僕も見てたし。これで受け取ってたら張り倒してたから、百舌君を」
「あ、いや、渡した看護師さん本人から聞いたんで…俺も知ってるんですけど…。あとあの、暴力はやめてください…」
「まだしてないから。まあ、僕もナースステーションに用事あって行くことがあるんだけど、もし盟君の耳に入ったら、盟君嫌だろうなって、行くたびに咳払いで牽制はしてたんだけどねえ。女性のそういう口は塞げないから、仕方ない。まあ、男性アイドルを見るような目で見てる感じだったし、そんなに気にしないで」
「あ、はい…」
そう返事をして、「あと」と繋げた。
「佛斑さんとがよく面会に来てくれたのも見てたのか、『知り合いなんですか?』って聞かれて、はい、って答えたんですけど…」
「うん。そしたら?」
もう天原の顔がにやにやしている。
「『怖くないんですか!?』って返されました。『鬼のホトケですよ!』って…一応、優しいですって言ったんですけど…返しがあってたか…って」
俺がそう言うと、天原は身体を折り曲げ膝を叩いて笑った。
「アッハハハハ!!!傑作!ついに内科にも広がってたか!『鬼のホトケ』!しかも、盟君、ホトケのこと優しいって返しちゃったんだ!くくく、どうしよう、これ笑い止まらないよ。はーもう、なんの為に盟君の面会の度に私服を変装にしてたか、バレるの時間の問題だね。」
「……あれ、変装だったんですか?」
「そう。ノンフレームしか持ってなかったのに、縁付きの眼鏡をわざわざ買ってきて、前髪だって下ろして、普段のホトケじゃ着ないような服着てさ。…たぶん、僕の普段着真似したんだろうなって一発で分かったんだけど。…最初僕は見たときから吹き出して笑いそうだったけど、あの時は耐えたんだよ…そんな場合じゃなかったから」
たしかにあの時はそんな場合じゃなかったが、あの時、天原はそんなことも思っていたのか。
「…あれ、変装だったら、看護師さん達にバレてます…」
「でしょうね!!ホトケは姿勢いいし歩き方キレイだからそれだけでバレるよ!何で変装してきたかすごく謎だったもんなあ。…未だに聞けてないけど…クククッ……えー、ちょっと今日はシフトも同じだし、今夜辺り聞いとくかあ……。…ついでに看護師たちにバレてるって言お。どんな顔するか楽しみだなあ、大体予想つくけど…」
大笑いしたあとの余韻でまだ口元が笑っている天原は非常に楽しそうである。この二人の関係は、恋人やパートナーというより、夫婦みたいなのが近い印象だ。やり取りが時折、夫婦漫才みたいになっている。天原がイジって、佛斑が嫌がる、みたいな会話を何回か見かけて、「いいな」と思ったりもした。俺と雪也じゃこうなることは無いだろう。
「ホトケ、真面目ちゃん過ぎて融通効かないし、変なところ天然だからなぁ」
未だにいたずらっ子のようにニヤニヤしている天原がボソリとそう言うと、俺は仰天した。
「…っえ!天…然…?え?そうなんですか!?」
「え、うん。見ててわかんないかな。これ、百舌君でも一緒に飲んで二回目のときには同じ事言ってたよ」
天原は、足を組んで膝に肘を置いて、高くなった手のひらを上にむけて、そこに顎を乗せる。
「…というか、ずっと聞こうか迷ってたんですけど、三人の出会いって…?」
俺がおずおず聞くと、ポカンとした天原は思わず手のひらに乗せてた顔が離れた。
「あれ?話してなかったか。…えっとね…最初、行きつけのバーが一緒だったの。その時は僕はホトケと、百舌君は一人で飲んでたんだよね。そのうち、まあいつもの事なんだけどホトケが先に潰れちゃって。僕に寄りかかったまでは良かったんだけど、あまりに全体重乗せるもんで、僕が耐えきれなくなって椅子から落ちた挙句押しつぶされてさ。ホトケってあの見た目で鍛えてるから重たくて重たくて。動けなくなってバタバタしてたら割と近い席で飲んでた百舌君が見かねて助けてくれて。なんとか二人でタクシーに押し込んで、うちに運ぶの手伝ってくれたんだよ。しかも、ホトケをベッドに放り投げるまで手伝ってくれて。それで、まだ僕も百舌君も飲みたりなかったから、二人でそのままうちで飲み直して。それが結構楽しかったから、連絡先交換して…それからかな、仲良いの。」
バーで知り合ったとは聞いてなかった。しかも、雪也の酒の量に着いて行けるって何者なんだ、と天原が末恐ろしくなる。
(ユキのお酒の量っていつもすごいもんな…たまにワイン2瓶開けてケロッとしてるし…俺も少し酒一緒に飲んだことあったけど、俺はあのときはたしか、ユキのペースにのまれて自分のペース守れなくて、ハイボール2杯飲んでダイニングで俺潰れたしな……起きたらいつの間にかベッドだったけど)
「もしかして、モモさん、めちゃくちゃ酒強いですか?」
「あ、うん。一般的にはそう言われる方かもしれない。実家帰ると家族とか親戚に必ず潰されるから、そんな認識はあまり無かったけど……。東京来てからはわりと無敵かも。大学の時も、酒が弱そうに見えたらしくて、カモにしたかった先輩達に『一番酒雑魚は居酒屋奢り』っていうゲームで居酒屋に連れてかれてやってたんだけど、僕一円も払ったことないんだよね」
ニッコリとした笑顔でそういった天原に、俺は引いていた。大学に行ったことがない俺は「大学って怖いところだ」と思ってしまった。そんな奢りルールの中、ずっと無敵だった天原は凄い。
「…ちなみにその奢りのゲーム、何かお酒の指定はあったんですか。…多分そういう指定ないと成り立ちませんよね、そのゲーム。」
「あ、詳しいね。僕の時は日本酒だったよ。自分の土俵だったから喜んじゃった。どんなお酒より得意だからね、日本酒」
「俺、居酒屋でバイトしてたんで、たまに大学生のグループが似たようなゲームしてるの見かけてたんです。モモさんもそういうのやってた人だとは思いませんでしたけど…。…ていうか日本酒…!?日本酒得意なんですか!」
「出身が秋田の田舎だから。米どころは日本酒美味しいからね。実家や親戚の家行くと、ビールなんか出てこなくて日本酒しか出てこないし。うちの叔父さんたちなんか、日本酒はお猪口で飲まないよ。ジョッキ。」
「じ、ジョッキで…?え、日本酒を、ジョッキ?」
「イカれてるよねー。日本酒を効率良く飲むのにキンキンに冷やしたサーモスのジョッキだよ?しかもめちゃくちゃおかわりするし。隣で飲んでる僕は確実に潰されてたなぁ。気が付いたら飲んでた居間の隣の和室に、邪魔だから、って転がされてるし」
あまりにも、天原の実家や親戚の方がヤバすぎるのは分かった。
「一回だけ百舌君に聞いたことあるんだけど、たしか盟君もお酒飲めるよね?」
「…え…でも、普通か、それより弱いくらいです。ハイボールとかラムコークとかのほうが飲むんですけど、日本酒は…それこそ全く駄目で、意識はあるのに腰砕けになって立てなくなりますね…這いつくばってジタバタしてました」
あまりに苦い思い出だ。日本酒の取扱が多かった居酒屋でバイトしていた関係で「日本酒の味を覚えないとお客さんに説明できないよね」という話になって、閉店後に店長の奢りで試飲会が行われたのだ。ちょっとずつ飲んでいたはずだったが、日本酒の種類が多かった故に、結果的に量飲んでるのと同じになってしまい、腰砕けになって全く動けなくなり、かなり酔っていたが俺よりマシだったクルーの男の子が、俺のスマホを勝手に弄って通話履歴の一番上だった雪也に電話をかけた。そして、いつもの笑顔で迎えに来た雪也に担がれて帰ったのだ。あのときはしばらく雪也の家のトイレから動けなかった。そこで言われたのが「もう盟は日本酒禁止ね」だ。
「何それ、かわいいー。うちの妹に聞かせたいよ。去年かな、ホトケとホテルディナー行ったときに、偶然双子の妹がいてさ。向こうは仕事の接待っぽかったんだけど、席が近かったから話聞こえちゃったんだよ。『お酒強くないんですぅ、もう飲めませんよぉ』って聞いたことない可愛こぶりっこしてて、こっちは食べてたご飯吹き出しそうになったんだから。僕より酒強いくせに何言ってんだ、って。それは流石にうちの実家に来たことあるホトケも肩を震わせて笑い堪えてた。その場ですぐに『ぶりっ子してんじゃないよ』ってラインしたら、『女の営業マンなんて水商売と同じなんだから、これくらいやらなきゃだめなの。邪魔すんなバカ』って返ってきた。あっちも僕らに気付いてたらしい」
ちょっと待って、情報量が多い。天原に双子の妹がいて、天原より酒が強い?しかも、天原より少し口悪いし………それで、佛斑はもう天原の実家に行ったことがあるのか?というか、これに関しては突っ込みづらい。ご実家に挨拶…ということなのか?俺の頭は少しグルグルした。
「……ん?双子の妹さん?モモさん、双子なんですか!」
「うん。妹、綾野っていうんだけど。…まあ本当は、僕が綾野になる予定で、妹が桃野になる予定だったんだけど、焦って出生届出した父が間違えて。…だから僕の名前は女の子の名前なんだ」
なるほど、ずっと引っかかっていた天原の女性名が解決した。女、女の双子や男、男の双子なら大したダメージは無かっただろうが、男女の双子だとたしかにこれは大変だっただろう。
まあ、そうじゃなくても、初対面で男か女か分からなかったくらいの女顔の天原なら『桃野』の名前でもしっくり来てしまうけれど。俺も身長も相まって大概童顔女顔だが、天原には負ける。…まあ、勝とうとは露ほども思わないが。俺は男っぽくありたい。
「…なるほど…で、妹さんの方がお酒強いんですか…?」
「大学が二人とも東京だったから二人で上京して、ひとり暮らしのお金浮かせるために、最初は狭いアパートに二人で住んでたんだ。最初の時はよく二人で家で飲んでたんだけど、家で飲むと必ず僕のほうが先に潰れてたね。妹はそれ眺めながら朝までマイペースに飲んでた……もしかしたら親族で一番お酒強いの、妹かも」
「その…ホテルディナーは妹さん、仕事だったんですよね?なんの仕事なんですか?やっぱりモモさんと同じ医療系?」
「当たらずとも遠からずかな。新薬の営業してるよ。一応、本人も薬剤師免許は持ってる。営業は病院回りが多いから、うちの病院に来たりとかもあるよ。僕は忙しくてわざわざ挨拶したりとかないけど」
ほお、と思っていたら、ドアが3回ノックされた。
ガラ、と開けて入ってきた雪也はポカンとしていた。
「…あれ。来るの早すぎた?…指定された時間通りのはずなんだけど」
俺は目の前のゼリーと薬の山を見て、しまった、と思った。
紙スプーンを握ったまま天原と話に夢中になりすぎた。雪也が来たということは、もちろん今は面会時間で、明らかに朝食の時間が終わっていると言う事だ。
「…え、あ、ホントだ。面会時間になってる。盟君と話すのに夢中になっちゃった…。盟君ご飯食べてて。僕は百舌君と話あるから」
腕時計を見て丸椅子から立ち上がった天原は、「ちょっと必要書類取ってくる」とパタパタと出ていった。
それを俺と雪也は見送ったあと、雪也はさっきまで天原が座っていた丸椅子に腰掛ける。
「ゆっくりゼリー食べてて。…それにしても薬の量凄いね、こんな量初めて見た」
たしかに、朝食が終わってから面会なので、雪也はこの量の薬を俺が飲むところは見たことがない。もちろん処方箋も天原が俺に渡してくるので、雪也は薬の内容も知らないのだ。
「半年飲んでたら、慣れたよ。…そうだ。俺、この前もうすぐ退院だからって、摂食障害の治療効果を最終確認するために体重計乗ったんだ。そしたら、途中経過で乗った3ヶ月前から2キロ増えたんだよ。凄いでしょ」
ゼリーを口に運びながら、雪也に報告したかった話をする。
雪也は仕事もしてるし、毎日来れるわけではないから、いつも面会の度にこんな話から始まる。
「良かったね。今までは減るばかりで全然増えなかったもんね。」
「だな。少し増えてよかった。まだまだ体重足らないけど…」
俺はすこしはにかんでしまい、恥ずかしくなって、それがバレないようにゼリーに口をつける。
「…そのゼリー何味?みかん?」
「ん?これ、パイナップル。半年入院してたけど、初めて出たよ、パイナップル味は」
「良かったじゃない。好きだもんね、パイナップル」
「うん、好き」
雪也が、俺がパイナップル好きなのを覚えていたのが嬉しかった。絶対言わないけれど。
「…いつか甘みも感じられなくなるって言われてるけど……。なら、今はめいいっぱい、甘いもの食べようね。盟、元々甘いの好きだったし。俺、色んなスイーツのお店とか調べたんだ。これからは沢山食べに行こう。どこでも連れて行くよ」
「……でも、ユキはあまり甘いの得意じゃないじゃん」
ゼリーを食べ終わり、薬をプチプチとシートから出しながら、俺は雪也に言う。
施設にいた頃、雪也はクリスマスで出た小さなショートケーキに一切手を付けなかった。それを俺にこっそりスライドし、「あげる」と言ってきたのだ。手で鼻と口を覆って吐きそうになっていて、珍しく真っ青な顔をしていた。
「俺は生クリームが極端にダメなだけ。ブラックコーヒーあれば、わりと他の甘いものは大丈夫なんだよ。…知らなかった?」
「知らなかったよ、そんなの…」
「…俺が食べないから、俺の前で甘いもの我慢してたの?」
二人でコンビニに行ったりすることがたまにあったが、俺が冷蔵棚の甘いもののコーナーで立ち止まって見ていると、「どれか、カゴに入れなよ」と言ってくれたが首を振ってやめていた。
「…そんなつもり無いけど、ユキは甘いの苦手なのわかってたから匂いとかも嫌だろうなって…、気は……少し使ってた…。ユキのいないときにコンビニの小さいカップのパフェ一人で食べた事あって、そのあと部屋中換気したり、とかはした。でもそんくらい」
「…凄い気を使ってるじゃん、それ。だって、一人でパフェ食べてたなんて、今初めて知ったよ。ゴミもなかったじゃない」
「ゴミは、袋に入れて縛って、バイクのシートの下に隠して、次の日バイト先で捨ててた」
そう白状して、薬をまとめて一気飲みする。
「徹底してたんだね。…でももう、こういう隠し事はこれから無しね、お互い。全然俺の前で生クリーム食べたっていいし、片方が苦手だから、目の前で食べないとか気にしないで。…俺だって実は言ってなかったけど、フルーツタルト好きなんだから」
雪也のその言葉を聞いて、俺は薬を飲み込むための水でむせ返った。ゴホゴホと咳をしたあと、グリン!と音がするのではという勢いで顔を雪也に向けて目を見開いた。
「ええ!?そんっ…そんなの聞いてない!」
思わず吃りながら大きな声が出た。
「…しかも、あの……フルーツタルトだけはホントに好きで、まだ盟が来る前の話だけど……ボーナス出たときに、銀座千疋屋のフルーツタルト、ホールで買って一人で食べるくらいには…」
ちょっと恥ずかしいのか、ポツポツ喋った内容がとんでもなかった。千疋屋のフルーツタルトなんてとんでもない金額するし、たしかドーム状になっていてフルーツがもりもりに盛られていて大きいし、それをワンホール一人きりで食べていたのか。
(……そんなん…めちゃくちゃフルーツタルト好きじゃん!)
んんんっ…!と予定外知ってしまった雪也の意外な一面に軽く唸りそうになる。意外すぎる。
自分が雪也のことを『好き』と知ってから、天原曰く看護師さんに嫉妬していたり、雪也の意外な一面に悶てしまいそうになったり、感情が忙しすぎて目眩がしそうだ。
(…今までは世界が灰色で、いつもいっぱいいっぱいで、こんなことを思う事なんて無かったのに。ずっと人の顔色を伺ってはビクビク生活していたのに……今は、世界が鮮やかに色付いて、一個一個に酔いそう…。)
────コン コン
天原のノックだった。
入ってきた天原に俺達は顔を向ける。その手には書類をまとめたクリアファイルがあって、雪也をソファーとテーブルのところに呼ぶ。
「百舌君、そこのソファーに。書類の話するから。あ、食べ終わってるなら、話してる間に盟君は私服に着替えちゃって?」
「…はい」
雪也が俺の服が入ってるであろう紙袋を渡してきた。大きめの紙袋をがさりと開くといつもの白のジャージ上下と黒いTシャツ…黒いTシャツは見たことがないからこれは買ったのだろう。あとは靴下と、俺の私物には無かった赤いバンズのスニーカー…これも買ったっぽい。あとはなにか縦長の箱が入っていた。
この箱何?と聞こうと思って顔を上げたら、もう何か天原が説明し始めていて、雪也は真面目に頷いている。
ひとまず着替えるか、とパジャマを脱いで洋服に着替えた。膝が曲がりにくいので右足の靴下を履くのは一苦労したが、なんとか両足の靴下を履いてスニーカーに足を通した。…サイズはピッタリだ。
Tシャツから髪を引っ張りだす時に、鏡を見て気付いたときからまた少し伸びたロングヘアになった髪を引き抜きながら「やっぱり長いな…」と思ったので、雪也の家に帰ったら首筋くらいまで切ってしまおう、と心に決めた。そんな邪魔な髪はとりあえずポニーテールにしておこうと軽く後頭部で結っておく。
パジャマを一通り畳んで、ボストンバッグに詰めると、居住まいを正して両手で箱を持って、暫くそれを見つめた。
意を決して縦長の箱を開けたら、折り畳まれた棒のようなものが入っていた。取っ手みたいなのがあって、T字になってる。棒はゴムで繋がっているらしく、その棒同士をかちゃ、かちゃと繋げたら、それは杖だった。おじいちゃんおばあちゃんが使うようなやつだが、グリップの形が少しお洒落で、黒の棒部分と、赤茶色の木のグリップのコントラストがカッコイイ。しかも、すこしグリップがウェーブしていて握りやすそうだ。
それをついてベッドから立ち上がってみた。杖の長さは、俺の身長に合わせたのか体重が掛けやすい長さで、杖も思ってたほど重くない。そのまま、丸椅子に腰掛けて、また立ち上がって部屋の中を少し歩いて、また丸椅子に戻って腰掛けた。
天原と雪也の様子を少し眺めていたら、話が終わったらしく、雪也は杖を握った俺を見てこちらを見て微笑んでいたし、もう杖を握っている俺に天原は仰天していた。
「えっ!杖の話って盟君には昨日したよね?…えっ、杖…なんでもう持ってるの?百舌君に杖の説明したの、今だし…」
「ふ、袋に箱入ってて…」
俺が慌てて説明しようとしたら、雪也が、ふふ、と笑って口を開いた。
「俺が必要になりそうだと思ったから、事前にオーダーしといた」
にこりと笑って涼しい声で雪也が言うと、天原が素っ頓狂な声を上げた。
「オーダーメイドぉ!?」
「うん。仕事で俺のデザインをいつも気に入ってくれて個人指名してくれる他社の社長さんがいるんだけど、確かかっこいい杖持ってたな…、と思ったから、どこで買ったか教えてもらったんだ。オーダーメイドの工房だって言うから、すぐに行って、オーダーして。一昨日出来上がったんだけどね。退院にぎりぎり間に合ったよ」
「あ、そうですかあ…」
雪也の行動力に天原は敬語で返した。びっくりというか、呆れてるというか。そんな感じだろう。
「で、歩いてみた?どうかな?」
「うん。体重掛けやすくて、歩きやすい。松葉杖より安定するかな」
「良かった」
ふふ、と微笑んだ雪也は俺の前に片膝をついてかがんで手を差し伸べた。ん?と思いながら杖を持っていない左手を差し出す。立ち上がるのを手伝ってくれるのかと思っていたら、ポケットから出した銀色の何かを俺の薬指に通した。そして、それに口付ける。
「……これも、渡さなきゃって思ってたんだ」
「…あ……え…」
手を顔の前に持ってきて、指輪を眺める。
いきなり左手の薬指に通された指輪の意味を理解できないほど俺だって馬鹿じゃない。思考が停止した俺に、天原は一連の様子を横から見ていて「ふふ…百舌君、キザぁ」と茶化した。
その天原の声を聞いた瞬間、思考停止から現実に帰ってきた俺は、ボワワッと顔だけでなく耳も首筋まで真っ赤に染めた。
そして少し考えた瞬間、更に現実を思い出し途端に顔色がサーッと真っ青になる。
「お、俺、こんな身体だし、これから迷惑いっぱいかけるのに……俺、なんのお返しもできないのに…っ!!金だって無いし…、なんのお返しもできない!も、貰えない!すごく嬉しいけど…、すごく嬉しいけど、でもっ…こんな高そうなの貰えない!!」
俺が首が捥げるほど頭を左右に振ると、俺の肩をポンポンと叩いた天原はゆっくり口を開いた。その手には、佛斑とお揃いの指輪がある。
「…いいんじゃない?こう言うのは、お返しとか考えないで、黙ってもらっておくんだよ。『好き』が形になった、って思っておけばいいの。……二人は無いだろうけど、別れたり要らなくなったら、容赦なく換金しちゃえばいいんだから」
天原は笑顔でそう言ってきた。……最後の方、言ってることが怖かったが。俺が「うう…」と何も言えないでいると、天原は腰に手を当て、いつもの調子で話しだした。
「僕のときなんて、家で洗濯物洗おうとしたら、ホトケのスラックスのポケットから指輪出てきて、問い詰めたら、『教授や同期から早く結婚しろ、が煩かったから付けてただけ』って言われて、『そんなの僕も同じこと言われてるけど』って返したら、『だと思って、そこの引き出しの中にお前のもある』って言われて引き出しまで取りに行かされたからね?雰囲気もクソもなかったよ。嬉しさ半減した」
「それは、ホトケさんらしいや。そういう雰囲気作るタイプじゃないもんねぇ。逆にモモさんは、雰囲気とかムードとかそういうの好きなタイプだし、モモさん落ち込んだだろうな」
雪也は、あは、と笑って天原に同意して同情した。
「そうなんだよねぇ。『雰囲気』って言葉が辞書にない男だからなぁ、あの人。……結局これがお互いビジネスで付けてるのか、パートナーとして付けてるのか、分からないや。ずっと聞きはぐってるし」
もはや夫婦の愚痴みたいである。よく知ってるからこそ、そういう関係で居られて、そういう指輪の渡し方になったんだろうな、と思うところもある。
よく考えれば、引き出しに天原の分が入っているということは、指輪のサイズを分かっていたのだから、佛斑が真面目に選んだのだと分かるし、佛斑がどれだけ『本気』でいたか分かる。理由は、年齢を考えると、確かに話していたのもあっただろうが、しっかり天原にパートナーとしての『証』を渡す気だったのだろう。
雪也と天原から散々言われている、ここに居ない佛斑を、心の中で「頑張れ」と思ってしまった。
「じゃあ、荷物まとめて総合受付行こう。ついにお外出られるよ、盟君。今、秋も中頃だから気候もいいしね、真夏の退院じゃなくて良かった」
そう言われてみると、春の頭に入院して、それからは一度も外に出ていなかった。だいたいこの部屋で過ごし、検査室に行き、たまに廊下を歩く日常だった。
規則正しく生活して、消灯時間の夜21時には寝て、朝は何時かわからないが回診の前にはほとんど必ず起きていた。回診に寝坊をしたのは今日だけだ。
「あ、ボストンバッグ持たないと…」
「いいよ、俺が持つ」
「ありがと…」
俺と雪也がそんな会話をしてると、天原が「忘れ物しないでね」と言ってきた。
「眼鏡と本は大丈夫?大事だよね?」
「あっ。バッグに入れてない、棚に置きっぱなしだ…」
天原に言われ、俺が焦って引き返そうとすると、頭をポンとやって俺を止めた雪也が、棚まで取りに行って、ボストンバッグに入れた。
「大丈夫、持ったからね、盟」
「ありがと…」
エレベーターで一階まで降りて、検査棟を抜けてロビーにたどり着く。平日の午前だからか、外来患者が多く行き来する。
天原を先頭に俺達が総合受付に着くと、その前のソファー席に「座ってて」と言って、俺の隣にボストンバッグを置くと、天原と雪也は受付に行った。
ガヤガヤしている病院ホールで、ボーッとその後ろを眺めて、30分程しただろうか。雪也と天原は帰ってきた。天原は歩きながらスマホを取り出して、一つ電話をしたが、「仕方ないね、頑張れ」と言って通話を切った。
「ホトケも退院の見送りに来る予定だったんだけど、緊急手術入ったって。『退院おめでとう、と伝えてくれ』って言われた。……そうだ。今度、オフの時にみんなでご飯しよう。まだまだ話したいこと沢山あるよ、盟君」
白衣のポケットに手を入れてそう言うと、一つ紙を取り出した。
「…僕とホトケのラインと電話番号。いつでも連絡して。困ってても困ってなくても。連絡遅いときもあるかもしれないけど、ちゃんと返すから。あと、何か身体に異変があったらすぐ電話して。絶対ね。」
微笑んだ天原から、紙を受け取りお礼を言った。
それを見て嬉しそうな雪也はボストンバッグを持ちながら、「じゃあ」と提案する。
「4人でグループラインでも作っちゃう?」
「それいいね、楽しいかも」
雪也と天原はいたずら仲間……みたいなものか。二人で佛斑をイジったりもするし、同じくらいの酒の強さの様だし、一番気が合うんだろうな、と感じた。だが、俺も天原のことは優しいお兄さんかお姉さんみたいな気分で接っしているし、この二人の仲の良さに嫉妬とかはない。
「────じゃあ。行こうか、盟。モモさん、盟のこと本当にありがとうね。感謝してる」
「はいはい、もう二度と無いように。…退院おめでとう盟君。気をつけて帰ってね」
俺が杖を付いて歩く速さに雪也は歩調を合わせてくれる。杖を付いていない左手は手を繋いでくれている。…雪也と手を繋いだのは施設にいた時の俺が小学生だった時以来だ。
病院のロータリーで「車まわしてくる」と言って一旦離れたが、その間、ずっと太陽の光に輝く指輪を眺めた。
いつものダークブルーのSUVの車が目の前に来る。運転席から助手席を開けた雪也が「乗れる?」と聞いてきた。助手席のドアを左手でおさえた俺は、左足で踏ん張って「んっ」と言いながら右足を車にかけて乗り込もうとする。だが、左足で踏ん張っても、今度は車の中で右足を踏ん張らせないといけない。…暫く頑張ったが、背の高いSUVになかなか入れない。
見兼ねた雪也が、運転レバーをパーキングに入れて、サイドブレーキを踏むと、車を降りて助手席に回った。ドアを大きく開けると、俺の両脇を持ってヒョイと車に乗せる。ドアを閉めて、また運転席に戻ってきた。俺がシートベルトをしているのを確認すると、自分もシートベルトをして、パーキングからドライブに切り替えてサイドブレーキを下ろすと、ゆっくり発進した。
「…んー」
「どうした?」
唸った雪也に、俺は首を傾げた。
「いや、盟が車乗るの大変そうだし、車買い換えようかなーって」
「っいや!!そんなことしなくていいから…!」
「じゃあ、車高調つけて、車高落とそうか…」
「は?何言ってるかわからないけど、俺が車乗れないだけで、そんなお金使わなくていいから!」
「だって、大事なことじゃない?これからは俺の車乗って移動するんだよ?盟、車の免許持ってないんだから。俺の車乗れないのはダメでしょう」
「乗れるようになるから!コツ掴んだら絶対乗れるようになるから!多分、尻から乗ったらあまり踏ん張らないで乗れるから!次からそうするから!」
俺は必死だった。車買うっていくらかかると思ってるんだ。長期入院の高い病院費だって出してもらったのに、更に高い買い物をさらっとしようとしてるのを聞いて、背筋が凍る。雪也の収入は聞いたことがないが、まあ、俺がバイトしてた頃の何倍かあるだろうけれど、それにしてもそんなポンポン買えるようなものじゃないだろう。
「……じゃあ、次それやって乗れなかったら、俺、車買い換えるからね?」
「何その脅し…だって、車のローンとかだってあるだろ…」
「だって俺、この車一括購入だし。ローン無いよ」
「はぁ!?」
「だからローンとか、気にしないで車の買い替えできちゃうわけ」
こちらをチラ、と見て微笑んだ雪也が少し怖くなった。…次、乗れなかったら本気で車を買い換える気だ。
(……これは、次…マジで自力で乗らないと…)
そうしていたら、コンビニの駐車場に入っていった。
「…飲み物買おうか」
車を駐車場に駐めてレバーをパーキングに入れ、サイドブレーキを踏むとシート横に置いていたカバンを掴んだ。
「飲み物?」
「うん、このあと行きたいところがあるんだ。付き合ってほしいから、飲み物あった方がいいかなって」
どこ行くんだろう。首を傾げながら車から杖を付いて降りる。
俺はペットボトルのオレンジジュースと雪也はブラックコーヒーを買って、車に戻ってきた。宣言通り、尻を車のシートに乗せてから身体をひねる様に車内に入って座り直すと、ちゃんと乗り込むことができた。足の間に杖を置いてドアを自力で閉めると、雪也を振り返った。
「…ほら、乗れた!」
「なんだ、乗れちゃったか。買い替えのいい機会だと思ったのに」
「なにそれ」
「…ちょっと一本電話する」
「………分かった」
スマホをスワイプして通話ボタンを押すと、すぐに相手が出たのか、「もしもし」と話し始めた。
「俺。うん、百舌。呉、今からカットとカラーできる?…俺じゃないよ……それは知ってるって。頼むよ、大切な人なんだ……うん、ありがとう、……え?…ほんとに?……じゃあお言葉に甘えて。…今から30分くらいで行ける。はい、はーい、じゃ。」
ずっと黙って聞いていたが、ちんぷんかんぷんだった。でも話してる感じ、仲がいい人なんだろう。通話を切って、カバンにスマホを仕舞うと、「じゃあ行こうか」と発進した。
「…どこ行くの?」
「ん?盟、髪の毛プリンだから整えてもらおうと思って。気にしてたでしょ?」
「…気にしてないって言ったら嘘になるけど、そんなに…。…染める金だって無いからプリンのままでいいかって思ってたし、伸びた髪も、帰ったら台所バサミかなんかで切っちゃう予定だったし。」
「…まさかとは思うんだけど、今まで染めるの自力?切るのも自分で?」
「え、うん。美容室とか行ったことない…」
「……ちょっと後で呉に注文追加しよ…。髪質改善トリートメントは必須で追加だな…」
「なに、かみしつかいぜん?なにそれ。」
「やってもらったら分かるから」
そう言って車を駅方面に走らせる。
病院入る前は桜も咲いてなかったのに、気が付いたら紅葉も終わる頃だ。ハラハラと落ちていくイチョウ並木の葉を眺めながら、景色をぼーっと見つめる。左太腿に置いていた手に目をやると、指輪。…夢じゃない。
さっきの指輪を貰ったときの状況を思い出して少し顔が赤くなる。手を取られ指輪を嵌められ、そこに口付けられた。しかも、天原の目の前で。恥ずかしい。嬉しいけど、俺はそういうのに免疫が全くないから恥ずかしい。二人きりだったとしても恥ずかしかったのに、天原がいたから、余計に恥ずかしい。
現実として思い出しただけで、だんだん真っ赤になっていく顔をチラ、と見た雪也は、フフ、と笑って声をかけた。
「何を思い出して、そんな真っ赤になってるの?えっち」
「違っ!ユキが指輪渡すときにあんなことするから!」
「あんなこと?」
「~~ッ言わせんな!」
「…指輪にキスしたことでしょう?そんな真っ赤になることかな?」
「俺がそういうのに免疫ないの知ってるくせに…!」
「知ってるよ?でも、それしたら絶対反応可愛いから、したくなっちゃった」
「な、なんだよそれ……訳わかんない…」
右手の甲で顔を隠して下を向く。
「……でも、指輪……ありがと…。………嬉しい」
ぼそ、とお礼を言うと、運転しているはずの雪也の左手が俺の頭を撫でた。
「うん。嬉しいって言ってくれて、よかった」
「ッ手!ハンドル、両手で握って!」
その手を払って、雪也を見ると、雪也は笑って前を指差した。
「ご心配なく、赤信号です」
ハッと前を見るとたしかに赤信号だった。
そして、青に変わってから右折レーンから右折すると駅前独特の狭い道に入っていく。コインパーキングにキレイに車を駐車すると、二人で車を降りた。
「あ、盟は飲み物持ってって」
「なんで?」
俺は首を傾げた。
「あのお店、コーヒーか紅茶か緑茶しか出ないから…。飲めないでしょ?」
「…美容室って、飲み物飲んでいいんだ…」
「場所によるだろうけど、今から行くところはオッケーなところだから」
「わかった」
そう言って車を閉める前にオレンジジュースを手に取った。
結構歩くかと思ったら、美容室の場所はコインパーキングの隣りだった。
岩が貼られたゴツゴツした外壁にカッコイイ黒い文字で[HIDEOUT]と書かれていた。
「これ、外装と文字デザインは俺がやったんだ。あまりエクステリアデザインとかは専門外だからやらないけど、友達に頼まれたから、個人的に」
「へぇ…」
そんな話をしながら、木製の扉の横のお洒落な呼び鈴を押す。ブーッと音がしたあと、ガチャッと鍵を開けて扉が開くと、黒のTシャツをダメージジーンズにインして、ゴツめのベルト、ウォレットチェーン、革のブーツ姿の雑誌に出てきそうなお洒落な男性が俺達を迎え入れた。
「やーっと来た。んでぇ?この子が百舌の大切な人?……ウチ、男性限定美容室なんだけど、女の子お断りよ?」
「男の子だよ、可愛いけど。」
…たしかに俺は今ロングヘアのポニーテール。女に見えないこともないか。
「まじぃ!?こんなに女顔の男初めて見たけど。つーか、お前何。ショタコンだったっけ?」
「盟は年下だけど、3つ下なだけ。二十歳は当然超えてるし、俺はショタコンじゃないから…。…とりあえず入れて。盟は足が悪いんだ、座らせてあげたい」
「おお、悪い悪い。ほら、入って入って~」
俺の杖を見た男性は、扉を大きく開けて迎え入れてくれた。
店内は中央にペンダントライトが3つがあって、間接照明と天井からぶら下がったコウモリランが数個、流木を板にして壁に貼ってあるお洒落な空間だった。落ち着いた洋楽も流れている。
奥の茶色の革張りソファーに案内され、腰を落ち着けると、バックルームに入っていった男性に「何飲むー?」と言われた。
「俺はコーヒー。盟は飲み物持ってきてる」
そう聞いた男性がひょっこり顔を出し「なんで?」と聞いてきた。
「……盟は甘いのしか飲めないから、持ってきた」
言いにくそうに言葉を選んでそう言うと、男性から意外な言葉が出てきた。
「ふーん?リンゴジュースなら冷蔵庫にあるぞ?」
「…いつから置くようになったの…。ここのお客さん、そんなの飲む人居ないじゃん」
「俺がここで事務作業するときに飲む用。たまにあんのよ、甘いの飲みたい時」
「あそう。……だって、飲む?リンゴジュース」
俺に振り返った雪也はそう尋ねてきたので、一つ頷いた。
「…もらえるなら……」
「ほいよー」
それを聞いた男性はそう言ってまたバックルームに引っ込む。
ソーサーに乗ったコーヒーカップと、氷とリンゴジュースが入ったお洒落なグラスをお盆に乗せて持ってきた。お盆をよく見るとコルクのコースターとストローもあった。雪也にコーヒーを、俺にコースターを置いてその上にリンゴジュースを置く。そしてストローを差し出した。
「んでぇ?百舌、紹介してよ、その子」
ドカッと向かいのソファーに腰掛けた男性に手のひらを俺の方に向けられ、俺が指さされたのに気付いた。指を刺さないのは、さすが接客業してるだけあるな、と思っていた。
「…俺が施設にいたの知ってるでしょう。…その時施設で一緒だった子。今は俺の恋人だよ。名前は一ノ瀬盟。…言っとくけど、いくら可愛いからって、手出さないでよね」
「流石に可愛くても男は無理ぃ」
雪也が牽制を入れると、ソファーに寄りかかり頭の上で手を組んだ男性が言った。
「…まあ、女大好きヤリチンの呉はそうだよね」
フフ、と雪也は言う。そう言われた呉と呼ばれた男性は前のめりになって膝の上で指を組んだ。
「お前だって今までノーマルだったじゃん、いきなりどうしたの?」
「再会しちゃったから、盟と。だから、それまでの女遊びは全部やめた」
ニッコリとそう言い切ると、俺の頭を撫でた。
「ほお、俺から女盗っといてソレ言うか、お前」
「あれは…俺は悪くないし、女の子から寄ってきたからね?あの後少し付き合って面倒くさくなったから振ったら、ストーカーされて大変だったんだから。あれ、呉は盗られて正解。俺が被害被ってあげたんだからさ」
なんつー会話なんだ。というか、雪也が女遊びをしてたのは知らなかった。…まあ、顔はいいし、引く手数多だっただろうし、笑顔の裏で実は人嫌いだから、告白されても断るのも面倒臭くて適当に遊んでいたんだろう。
「なにそれ、ユカコちゃんそんなヤバイ子だったん?」
「結構最近までヒステリーなイタ電とかあったからねぇ。盟に聞かせないように寝室に逃げて受け無言電話してたけど」
あれか。雪也の家に住むようになってすぐの頃、ヒステリーな電話が確かにあった。
「…ごめん、それ、…聞くつもり無かったけど……リビングまで聞こえてた…」
「えっ」
今まで黙っていた俺がボソッとリンゴジュースを飲みながら言うと、雪也の顔が固まった。
「やーい、バレてやんの」
「でも、そう言うの…もうやめてるなら、別にいい」
ズッとリンゴジュースを少し飲んで言うと呉は「えーっ」と声を上げた。
「めっちゃ好きじゃーん。心が広いんだねえ、盟ちゃーん」
そう言って呉が俺の頭を撫でようとした瞬間、俺は瞬間的に怖くなって首はシュッと引っ込み、呉の手首を雪也が掴んだ。
「…ダメ。…呉は男、無理なんでしょう?」
「ダメだけど。俺、盟ちゃんならイケるかも」
手首を強く掴まれたまま、ニヤニヤしながら飄々と言う呉に、今までいつもの笑顔だった雪也が真顔になった。声のトーンも低くなる。
「絶対だめ。……はー、呉のところに連れてきたの、間違えたかも…」
「間違えじゃねえわ。ぜってぇ盟ちゃん可愛くすっから見とけよな。行くぞ盟ちゃん、まずは髪洗おう」
そう言って俺の手を取ると引っ張るように連れて行くのを「あっ」と言いながら咄嗟に杖が取れず、ほぼ引きずられるように連れてかれる。足がもつれてほぼ歩けていなかったので、俺が足が悪いのを思い出した呉は「あ!わりぃ!」と言って俺を抱え上げた。いきなりお姫様抱っこで抱えられて「ぅわぁっ!」と声が上がる。
シャンプー台に連れて行かれ、タオルを巻いてケープをすると、寝かされる。初めてのシャンプー台でドキドキしていると、頭上でシャワーの音がする。そして、髪を濡らして、頭皮にも心地よいお湯が掛かる。真面目な表情で呉がシャワーを掛ける姿と、俺が横になって頭を洗われてるのが恥ずかしくて、身を固くしてギュッと目を閉じる。
「身体の力抜いて。やり辛い」
「っえ、…は、い…っ」
「…もしかしてだけど、美容室初めて?」
「……はい」
「そか。気ィ使えなくて悪かったな。じゃ、フェイスシートかけるか。」
そう言うと、タオルか何かで手を拭く音の後に棚から何かを取り出し、顔に紙のシートを掛けられた。
視界が遮断され、身体の力がやっと抜けた。シャワーを止めた呉はシャンプーを俺の髪に付け、泡立てていく。
人に髪を洗ってもらったことがなかったので、こんなに気持ちいいものだと思わなかった。凄く良い匂いがする。
「痒いとこある?」
「…ぇ、あ。……ない、です…」
話し掛けられて、カチコチで答えると、呉は鼻で笑ってシャンプーを馴染ませるように髪を手で梳く。
「いちいち緊張すんなって。どこの美容室行っても聞かれる言葉だから。…んじゃ、無いなら流すぞー。シャワー冷たかったり熱かったら言えよ」
ジャブジャブと音を鳴らしながら毛先を洗い、そのうち頭皮の方に上がってきてシャンプーを洗い流す。
洗い終わったのか、「ほい、椅子起こすぞ」と言われた。座った体制のままケープを取られ髪をタオルで拭かれる。指圧が気持ちよかった。
「ほんじゃ、次カット台ね」
そう言われてまた抱え上げられる。雪也の前で他の人に抱え上げられるのが罪悪感と恥ずかしくて死にそうだった。
1席しかないカット台に降ろされ、白のケープを俺につける。少し呉が席を外すと、さっきまで飲んでいたリンゴジュースを持ってきた。
そして、キャスター付きの椅子に座ると、腰につけたポーチからコームを取り出して俺の髪を梳かす。
「ねえ、百舌ー。俺さー、百舌と盟ちゃんの好み聞いて切ってこうと思ってたんだけどさぁ。ちょっとこれ、髪さ、真面目にやばいから俺の好きにしていい?今回、マジ代金要らねえから。」
「俺は呉の腕を買ってるから構わないけど、その盟の髪がやばいって言うのは?」
「いや、ブリーチとカラーで傷んでるのは見てて思ってたんだけどさあ。盟ちゃん、体調不良か栄養不良かなんかだろ。お前、盟ちゃんに食わせてる?髪に出てんだよね~。ダブルで傷んでてヤバイってこと。」
「…そんなこと、髪で分かるんですか…?」
俺が口を挟む。
「分かるよ。髪はタンパク質だから、栄養足らないとか体調不良とかメンタル不調とかだと、ダイレクトに出るんだよね。同じ理由で爪もそう。正直なんだよ、髪の毛と爪ってさ。女の子だと生理中は髪染まりにくいとかもあるし。そーいうの、分かるんだよね」
ちゃらんぽらんな美容師さんだと思ったら、結構ちゃんとした美容師さんだった。…美容室行ったことないけど。
「あ…あの、髪型とか何でもいいんで、俺…」
「いいの?じゃ、やっちゃうよ?…ま、でも、カラーの好みは聞いとくか。なんかこうしたいとかある?…因みにブリーチはもうオススメしないな。やらんほうがいい」
「地毛に近い感じで…もうプリン、面倒くさいし」
「ほーん?見た感じ茶色いよね、地毛。これでいいの?」
「……はい」
「オッケ。んじゃあ、やってきまーす。」
宣言すると伸びたロングヘアにハサミが入った。首の下辺りでジャキジャキと切られていく。あっという間にぱっつんのオカッパヘアになった。
「永野芽郁みたいな切りっぱなしボブも可愛いか…。イヤ、でも後ろもーちょっと切らんとダメよな…。」
そう独り言を言って、ヘアクリップで左半分持ち上げた。同じように右半分も持ち上げる。ハサミを取り替えて、コームとハサミで器用に襟足を切り始めた。
何度も何度もヘアクリップの位置を変え、どんどん切り進めていく。魔法みたいな技術を鏡の前で見つめ続けた。
「なあ盟ちゃん。なんでブリーチしちゃったの?美容室行ったことないってことは、自分でしたんでしょ?」
「童顔で女顔なの、嫌で…髪白くすれば少しまともな歳に見られるかな、って。」
「それ効果あった?」
「あんま…元々染めた時には短めのセミロングだったし、ずっとポニーテールだったから、結構変な人に絡まれたり、しました」
「だろーなあ。んで、何でこんなになるまで伸ばしっぱ?プリンだし、結構ロングよね」
「さっき、病院から退院したんです。長期入院で、入院してる間にこんなに伸びて。邪魔だな、とは思ってたんです。退院して家帰ったら台所バサミで切っちゃおうって思ってて…」
「台所バサミ…まじかよ、ありえねぇ。…あー。んで、百舌が俺んとこ連れてきたってわけね?理解理解」
うんうん、と頷いた呉はヘアクリップをすべて外して、今度は両サイドにヘアクリップを止めると前髪を作り始めた。
「ちょい、顔動かさないでな。前髪つくっから」
「はい」
繊細な手つきで前髪を作る。聞きたいことがあって、俺は口を開いた。
「あの…。」
「なーに?」
「美容室ってもっと席があるイメージだったんですけど……ここは一つだけなんですね」
「あー、それね。ここは俺と意気投合したお客しか来ない、一見さんお断りの店舗だからだよ。俺、ここ以外にも店舗三つ経営してて、そこは普通の美容室だから席いっぱいあるんだけど、ここだけは男性専用でプライベートの客だけ入れてる。あと、書類整理するための事務所も兼ねてるな。普通に遊びに来るだけの客もいたりもするよ。そこのテレビの下にゲームあるから、ゲームだけして帰ったり。遊び対戦とマリカとスマブラしかないけど。」
三店舗経営してるって、実はすごくやり手の美容師さんなのか…どおりでさっきの髪の毛傷んでる話もすごく詳しかったわけだ。お客さんから仲間になって、溜まり場みたいになっているんだ。
「百舌は、中学以降連絡取ってなかったんだけど、イギリスから帰ってきてデザイン事務所入ったって聞いた瞬間、連絡取った。その頃、ここ建てる計画してたから、デザイン頼みこんだんだよ。入り口にあるここの店舗の看板見た?『HIDEOUT』は隠れ家って意味で、百舌が字体もデザインした百舌オリジナル。あれカッコイイっしょ。俺のお気に入り」
そうしていたら、前髪作りが終わったのか、両サイドのヘアクリップを取られ、「どう?」と両開きの鏡を後ろから当てて、一旦見せてくれた。かなり短くなって、上は丸みがあって襟足が首に沿って少しある感じ。
「大人しめなマッシュウルフなんだけど。ねー!ちょっとぉ、百舌も見てー」
呼ばれた雪也も「今行く」と言ってこちらに来た。
「あ、すごく新鮮。可愛いね、盟。……でも、まだやることあるんでしょ、呉?」
「あったりまえよ。これからもっと盟ちゃんに魔法をかけまーす。更に可愛くすっから。腰抜かすなよ、百舌」
にひひ、と笑った呉に雪也も笑い返す。
「楽しみにしてる。…もう少し頑張ってね、盟」
そう言って俺の頭をひと撫でして、雪也は元いたソファーに戻っていった。
「んじゃ、とうとうカラーリングに入りますかねぇ。カラー剤作ってくっからまっててな、盟ちゃん。あ、雑誌とか読む?持ってこようか」
あまり雑誌は読んでこなかったが、読んでみたかったのでコクコクと頷く。
ちょっとバックルームに入った呉はタブレット端末を持ってきた。受け取って、初めて扱うタブレットにモタモタしていたら、「え、使ったことねえ?もしかして」と言われ、頷いた。スマホでやっとの人間がタブレットを扱ったことがあるわけ無い。
「これ電源、このアプリが雑誌だから、ここからスワイプして好きな雑誌読んでいいよ。所謂電子書籍ってやつだから。雑誌から、このメニューに戻るときは、この辺タップするとタブが出るから、ここから戻る。オケ?」
「はい」と返事をしたら、「よーし、今度こそカラー剤作ってくるわ」と言ってカウンターのようなところに行ってしまった。
とはいえ、どんな雑誌がどんなものかよく解っていない。悩みながらひとつ男性ファッション雑誌を開く。お洒落な洋服の雑誌に目を奪われて暫く読みすすめていると、アクセサリーの特集があって、夢中で読んでいた。
「へえ、やっぱアクセは好きなんだ。髪切ってて思ったけど、ピアスすごいもんな盟ちゃん。俺の仲間にこんなバチバチな奴いないからちょいビックリしたわ。でもなんか話してるかんじ大人しいのにギャップみたいな?ちょっと萌えるよね、そーいうの。ま、今回ピアス含めてこの髪型なんだけどな?耳掛けできる長さにして、耳掛けするとピアス見えるっつー感じ。隠さなきゃいけないとこでは髪おろして、普段は耳掛けするっつーのいいんじゃね、って。」
かちゃかちゃと小さいボールの中身を回しながら、呉は話しかけてきた。
「…ギャップ……萌……?…よく分からないですけど…俺のピアス見てそんな事も考えるんですね…」
「まーね、俺プロだから」
そう話していたら、キャスター付きの棚にカラー剤を置いた呉は俺にイヤーカバーをかけた。なんかボワボワして変な感じがする。ケープを変えると、茶色のゴム手袋を膨らまして、パチンと手に嵌めた呉は、俺の髪を掬った。
「じゃ、カラーしてくな?」
霧吹きで髪を濡らしたあと、刷毛みたいなもので俺の髪に泥のようなものを塗っていく。丁寧に、塗り残しがないように、髪の根本からどんどん塗る。
「切ってて思ったけど、毛量少ねーのな…髪柔らかいし。めっちゃ傷んでるのさえなけりゃ、最高の髪なんだけどなー。俺的に理想の髪つーか。頭もちっちぇーし、マジ女の子みたい。……ま、これから天使の輪ができるくらいツヤツヤキラキラにしてやるから、安心しろな」
「……はい」
俺の毛量が少ないからか、頭が小さいからか、案外早く塗り終わったようで、手袋を外してラップを頭に掛けていく。いきなりの事に「っ!?」と肩をビクッとさせたら、呉は鼻で笑って呆れている。
「だーかーら、一個一個ビビんなって。ラップしてるだけだろ。これで、カラー剤馴染んで浸透するまで待機な。…雑誌読んでたり、飲み物飲んだりしてていいから。暇だろ?」
「はい…」
と言ってキャスター付きの棚の上に置いてあったタイマーをセットすると、キャッシャーの方へ行って、何かをやり始めた。落ち着いた洋楽の中、ガサッガサッと音が聞こえる。雪也はここから姿が見えないので何をしているか分からない。忙しなく呉はキャッシャーにいたと思ったら今度はバックルームに姿を消し、何か箱を2つ持ってきてまたガサガサと入れている。
俺は先程のタブレットに視線を落とし、雑誌をゆっくり読むことにした。普段、ドンキで買った白いジャージか黒のジャージばかり着ていたので、こういうオシャレはしたことが無い。金が無いのもあったが、興味が無いというよりは『知らなかった』というのが正しい。知識が全く無かった。…ファッション雑誌って面白い。
いつぞやに居酒屋バイトのクルーの男の子────弓削が「俺、彼女からネックレス貰ったんだけど、正直要らないんだよね。よかったら貰って?」と言われて貰ったネックレスがシンプルでカッコよかったので、付けていたくらいだ。その弓削は割とアクセサリーを何でも譲ってくれる奴で、同じ理由で彼女から貰ったブレスレットや指輪2つも貰った。「指輪のプレゼントとか重すぎ、ありえん」と言っていた。しかも、居酒屋まで彼女さんが渡しに来たやつを、彼女さんが帰った瞬間、俺に流したのだ。最初は「彼女さんに貰ったなら、付けなくても大事にしなよ」と言ったが、「いや、要らないもんは要らないから」と押し付けられた。クルーのギャルの子────阿井には「お前マジクソ野郎じゃん」とシバかれていた。
指輪を付けたら、他の指はスカスカで人差し指しか入らなかったので、少し遊びはあったが人差し指につけてみた。それを見ていた居酒屋クルーの皆が「お前、指細好ぎ!!」となぜか悲鳴が上がった。
思い出した俺は、ケープから右手を出して指を広げた。枝みたいな指。関節が目立つ、キレイとは呼べない指だ。
「…なにしてんの、盟ちゃん」
「ぇ…」
「自分の手、じっと見ちゃって。……何それ、ほっせぇ指、折れそうだわ」
「俺、アクセサリー好きではあるんですけど、ピアス以外買ったことないんです。ネックレスも、ブレスレットも、リングも持ってるけど、バイト仲間が『彼女に貰ったけど要らないからあげる』って貰ったものばかりで。バイト仲間の前でリング付けてみたら皆から『お前指細すぎ!』って絶叫されて。…そんな細いのかなぁ、って、今更思い出して。」
「ほーん?百舌からアクセサリー貰ったことないの?」
「っえ!!!……あ、…あります…」
声が萎んで少し顔の赤くなった俺を見て、「ははーん?」と呉がニヤリとした。
「百舌やったな。あいつ、婚約指輪渡したろ?…ん?でもゲイ同士だと婚約指輪って言い方であってんのか?パートナーリング?…わっかんねえけど、そういう系だろ」
ニヤニヤした呉は雪也に声を掛ける。
「なあ、百舌ー。盟ちゃんに渡した婚約指輪、何号なん?」
「……それ聞いて呉はどうするの…」
話が聞こえていた雪也は溜め息を吐いた。多分ソファー席で片手で頭を抱えてるだろう。
「いや、二人の幸せにニヤけたいだけ」
「趣味悪。……7号だよ」
正直に答えた雪也に呉は素っ頓狂な声を上げ、俺は絶句した。…というか、いつ俺の指輪のサイズ調べたのだろう。俺すら薬指のサイズなんて知らなかったのに。…たしかに、7号は細い。でもこの指輪、関節までの間で遊びがあるんだよな…と思った。
「7号!?そのへんの女より細いじゃん!!」
「おかげで男性同士だと気付かれずに買えたけどね…」
「すげー!」
そんな話をしていたら、タイマーがけたたましく鳴った。
────PPPPPP
「おっと。鳴った鳴った。盟ちゃん、ラップ取るぞー」
「はい…」
カラー剤を少し避けるようにして髪の染まり具合見ると、「おし」と声を上げた。細く丸めたタオルで俺の頭を一周すると、ケープを取り、また抱え上げた。「うぁっ」と毎回悲鳴を上げる俺もどうかと思うが、せめて、いきなり持ち上げないで声を掛けてほしい。
シャワー台に連れて行かれ、シャワー用のケープをし椅子を倒された。顔にはフェイスシートが掛けられる。
さっきよりシャワーは少し慣れた。またいい匂いのするシャンプーをされて、それを流す。その後、何かドロッとしたものを髪につけられ、全体的に馴染ませると「ちょいそのまま待機な」と言われた。
フェイスシートで顔が隠れているし、フェイスシートのおかげで視界は真っ白だ。ボーッとしていたら、「ほい、流すぞー」と言われ、また頭上でシャワーの音がした。流しているときに呉は指を通していたが、先よりもかなり指通りがいいのが分かる。一旦シャワーを止め、また何かを付ける。テクスチャー的にはさっきよりサラサラしている。髪全体に馴染ませると、これは待たずに流した。最後にもう一度何かを付けて、髪全体に馴染ませて流すと、シャワーを止めて横になったまま軽くタオルドライされた。
「椅子起こすぞー」
そう言って椅子を起こすと、またタオルドライの続きをされる。さっきより念入りにだ。「よーし」と声をかけた呉はまた俺を持ち上げた。
カット台に着いて、降ろされると、少しコームで梳かした。
「うんうん、いーかんじ。あれね、盟ちゃんの髪は旋毛も素直だし、癖のないストレートだし、こういう王道の髪型のほうが似合うよ」
そう言うとドライヤーでブォーンと俺の髪を乾かし始めた。
暫く乾かすと、俺の髪はストンと何も梳かしていないのに形が出来上がってきた。満足そうな呉は「おーさすが俺様だわ」と満足げだった。俺の髪の毛に見た事のないキューティクルがある。…これが天使の輪とか言うやつだろうか。
完全に乾くと、ヘアオイルを手に出し、それを髪になじませていく。花束みたいな、いい匂いのするヘアオイルだ。
最後に少し前髪を指先で整えて、「はいオッケー」と言った。
あまりの自分の変わりように、これは本当に自分なのか、と目を瞬く。
「なに、ビックリしちゃった?ほら、百舌んとこ行くぞ」と言って、俺をまた抱え上げて、雪也の元へ運んだ。
俺を雪也のソファーの隣りに座らせると、呉は向かいの席に座った。
「百舌、どーよ。マッシュウルフだけど、顔周りに少しシャギーを入れて軽くして、ピアス凄かったから耳掛けできるようにした。襟足は今流行りのクラゲヘアみたいなのを目指した…とはいえ、首筋に沿うような感じで鎖骨までは無いし、邪魔にもならん。そんでもって首筋がキレイだったから少しラインをキレイにしてセクシーに。髪の色は焦げ茶に少しブルーとシルバーを混ぜてある。配合はデータ化してあるから、また来たときに同じ色に出来るようにしてある。……やっぱ、ブリーチよりこっちの王道な髪のほうが少し大人っぽく見えんだよね、実は」
うんうん、と聞いていた雪也は満足そうに微笑んで俺の頭を撫でた。
「良かったね、盟。すごく綺麗。…やっぱり呉に任せて良かった。最初電話したときは、まあ、信頼してるのはあったけど、フットワーク軽くてすぐやってくれそう、って頼んだけど…思ってた以上に応えてくれて良かった。流石だよ、呉。やっぱ、頼んでよかった」
「中学ん頃からのダチがさあ、『大切な人の髪を切ってほしい』なんて男連れてくんだよ?最初はビビったけど、盟ちゃんいい子だし、俺はあの時の件でちょっと負い目あるし、お前には一生掛かっても逆らえんて」
「…あの時の件…?」
俺が首を傾げると、「それはね」と雪也は半笑いだ。その言葉を繋いだのは呉だった。
「中学ん時のこいつの身体の火傷とアザ、見つけたの俺なの。何も知んなかった俺はセンコーにチクっちゃって、それでこいつんちに児相が家に入って、こいつは施設行き。マジでその後、俺は『悪いことした気』がして、こいつと何話したらいいか分からなかった。…したら、それからはやたら楽しそうに『メイが』『メイが』って始まって。────あの時の『メイ』って、盟ちゃんの事だったんだな。まあ、こんなに可愛きゃ、『盟が~』ってなるよな。納得だよ。………ホント、おめでとな、お前ら」
そう言うと、ソファーから立ち上がってキャッシャーに行くと、紙袋を持ってきて、それを渡してきた。
「…お祝い。ウチで使ってる最高級ヘアケアセット。2個ずつ入ってるから、暫く持つだろ。盟ちゃんに使ってやって。…あと盟ちゃん、これあげる。」
紙袋は雪也が受け取り、俺は名刺を受け取った。
『株式会社【Glorious】 代表取締役社長 呉 真希人 (Makihito Kure)』────肩書が代表取締役社長で、そんな人に髪を切ってもらってたのかと、名刺を手放しそうになると同時に、雪也と同い年で社長なのも驚愕だった。名刺には個人の電話番号と、ラインIDが書かれていた。
「俺、普段色んな店舗回ってて、常にここ居るわけじゃねえから、個人番号か、個人ラインでここの受付してんのよ。だから、髪切りたかったら、ここ連絡して。盟ちゃん、多分緊張で普通の店舗入れなさそうだし、ココおいでよ。もちろん、二人でさ。…待ってるよ」
ニッと笑った呉は扉を開けて、俺達は案内されるまま退店した。
扉の前で手を上げた呉に、俺は雪也の車の前でペコリと頭を下げた。コインパーキングの精算をした雪也も「じゃあ、ありがとう」と言って車を開けて乗り込んだ。
ちゃんと車に乗り込めた俺は、雪也の家へ向かっている道中、暫くツヤツヤになった髪の毛を触っていたが、いつの間にか寝てしまっていた。
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