禁断の果汁:限界おしがま百合日記【全年齢版】

肴ァ

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Chapter 5: 時の錠

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※ この作品はフィクションです。実際の過度な排泄の我慢を推奨するものではありません。

 小鳥たちの遊ぶ声が、白んだ街に軽やかに響いている。
 朝の湿度を、渇いた北風が吹き流す。
 静かな、朝日が包んだ。

 アイボリーの、ちょっと大きめのモヘアニット。ベージュのショートダッフルを重ねて、ボトムスはグレージュのワイドパンツ。そしてお気に入り、彼女と色違いの、淡いピンクのもこもこマフラー。
 クローゼットから引っ張り出したそれらを着込んで、しずくはぽさりと、机に座った。

「ふんふん、ふふん……」

 前髪に付けていたカーラーをくるくる外して、横髪にちょんとヘアピンをつける。卓上鏡を高く持ち上げて、しずくは自身の横顔に、高めに上げた目尻のまつげに、満足そうに鼻を鳴らした。

「しずくー、準備でき……っわ、かわい……」
「えっ、あっ、えっ……んわっ!」

 しずくは不意に聞こえたなみの声に、どたばたとテーブルミラーを手から滑らせて、おでこにコツンとぶつけてしまった。

「っあ、しずく、大丈夫?」
「……っててぇ、えへへ、へーきへーき……ちょっと、なみちゃんが綺麗すぎて……」

 なみはそんなしずくの気の抜ける可愛さに、目を細めふふっと笑うのだった。元気ににへっと笑いながら、ちょこんと座る小さな彼女の目一杯の健気なおしゃれ姿に、なみの心は見事に奪われたのだった。
 
「……ふっふふ。可愛い……しずくは、ほんとに可愛いんだから……」
「えへ、えへへへぇ……なみちゃんも、今日は一段と、美人さんってかんじ!」

 しずくはせっかく整えた前髪を崩さないように、そっとおでこに手を当てて笑う。なみはそんな彼女に、肩をすくめ笑った。
 黒のタートルネックの上に、グレーのウールのベストを羽織っている。さらさらとしたロングスカートを広げながら、なみはしずくの隣に、腰を下ろした。その腕には、更に重ね着する紺色のロングコートと、しずくのとそっくりな淡い青色のマフラーが提げられている。
 しずくの目には、なみの目尻にささやかに添えられた青っぽいアイシャドウが、彼女の切れ目がちな目を美しく彩っているように感じられた。
 二人は寄り添うように、隣り合い座り指を重ねて、互いの姿に見惚れ合う。
 触れ合う指は、絡み合い、貝殻繋ぎになっていく。
 ……数瞬の沈黙ののち、二人ははっとしたように、照れくさそうに笑い合った。

「ん、っふふふ……このままじゃ、いつの間にか夜になっちゃうね」
「えへへ……まだまだ、ぜんぜん朝だよ?」
「もうすぐ九時、でしょ? 日が沈むまで、あと八時間……そんなの、しずくといたら、あっという間だよ」
「え、えへへへぇ……それも、そっか」

 ルージュは、塗ってない。いつでもキスを、できるように。だから二人は、キスをした。できるんだから、そのままに。肩を抱き合い、腰を寄せ合い、優しく丁寧に。
 鼻と鼻がふれあい、息が混じる。二人は静かに唇を離して、そのままの距離で見つめ合った。

「……じゃ、お出かけ前の最後のおトイレ、いっちゃおっか」
「うん……」

 なみはゆっくりと立ち上がり、しずくの小さい手を持ち上げる。しずくはその手に、導かれるままに立ち上がった。
 手をつなぎ、一緒に入って、トイレのドアをパタリと閉める。その必要は、本当はない。しかし、狭いトイレに二人で入る、それが二人には、特別だった。




「わあ、懐かしい……」

 二人の暮らす大学生街から、片道だいたい、三十分。そこは、二人の通っていた高校の最寄り駅であった。

「そっか、なみちゃん、この街来るの高校生ぶり?」
「そう、だね……もう、一年半も、経ったのか……」

 駅から数歩、出たっきりである。二人は凍える指先を結び合い、鼻の奥に焦げ付くような寒さを転がしながら、かつて見慣れた街並みを見つめた。

「……なつかし?」
「……うん。しずくはいつもこの景色、見てるんだよね」
「まあ、そうだね……バイトの日、だけだけど」

 まだ白くなりきらない息を、なみはマフラーからわずかに出した口元に吐きだした。出口から、僅かな傾斜をもって真っ直ぐに伸びる太い街道。それを見上げるなみの表情は、どこか愁いを帯びて、透き通っていた。
 その目には、かつて過ごし、置き去りにしてきた日々があった。幼い日に、持て余すほど眺めた街並み。落ち着かないような、しかしどこか整然とした石タイルの足元。バス停を携えたロータリーから遠く聞こえる喧騒までもが、どうしようもなく情景であった。
 なみはその、仔細全てに、瞳が震えた。手のひらから取りこぼした砂時計の砂粒が、そこに確かに転がっていたのだった。
 
「……ねえ、なみちゃん」
「……うん?」

 しずくはなみと繋いだのと反対の手で、小さく街道の先を指さした。

「よかったらさ……見に行かない? 私たちの、高校、さ……」
「……いいね、いこ」

 見上げる角度に、なみの目元のアイシャドウには、微かなラメが煌めいた。しずくはその瞳に、彼女の胸元に固く住み着いた、愁嘆を見た。
 しずくも、また、そうであった。今が幸せであるというほどに、過ぎた時間を目の当たりにしては、これから先にどれだけ幸せが続くのかと不安な算用を繰り返す。そのくるしさを、しずくもまた、痛いほどに理解できたのだった。
 そしてその思いを、なみも抱いてしまっている。それがしずくには、痛いほどに苦しいのだった。
 しずくは、にこっと笑みを浮かべて、なみの手を自分の胸に引っ張った。なみは、その透明な眼差しのまま、ふわりとしずくに笑みを返した。溶け消えそうな、その青白色の眼差しは、しずくに掴みどころのない、幸せのような寂しさのような、ふわふわとした感情を湧きあがらせた。
 しずくは先導するように、そして引っ張るように、駆けだした。その息の詰まりを振り払うように、笑って。

「そうときまれば、レッツゴー!」
「わ! っんふふ、まってー、あはは!」
「えっへへへ!」

 しずくはその手を、強く握った。なみもまた、その合わせた掌を、絡ませた指を、確かめるように握り返した。

 ……白く、朝霧と呼ぶには遅い霞みを帯びた街。
 行き交うのは、はつらつとした若さ溢れる街の香り。それは幼さともいえるほどに、どこか不器用で、純粋だった。
 しずくは、冷たい空気に澄んだ頭の真ん中で、彼女との時を思い返していた。この街で、彼女と出会った。彼女と出会って、すべてが変わった。勉強が出来なかった自分に、一から十まで教えてくれた。責任感ばかりで空回りっぱなしの自分を、彼女はいつも、そっと支えてくれた。
 あの日、そしてこの変な自分の趣味だって、彼女はずっと、受け入れてくれてる。それどころか、私まで丸ごと、愛してくれてる。ここは、そんなすべてが、始まった街だ。
 それが、その街が……いつしか私にとって、そして彼女にとっても……懐かしいものと、なってしまったんだ。
 しずくはふっと、振り返った。寂しいような嬉しいような、切ない相貌を浮かべたなみは、しずくの視線に気づいた途端に取り繕うように笑って見せた。
 唇が、震えた。しずくは、また前を向いて、駆けるのだった。
 目元が熱かった。喉が焼け付くようだった。それを、寒いからだと、息が切れているせいなのだと、自分を騙して駆け続けた。

「はあ、はあ……つ、着いたぁ!」
「……ええ、着いたね」

 幸ノ沢、高等学校。通称、ユッ高。
 私たちのいた頃から変わらない、そのくたびれたアスファルトの校舎は、いまだに静かにくたびれた様子で佇んでいた。
 幼いころから引きこもってばかりのしずくは、そのたった数分の駆け足に、肩で息をするほどにくたびれ果てた。それに対して、かつて運動部で第一線を張っていたなみの表情は、まるで何もなかったかのように涼しいものであった。
 なみは、膝に手をつくしずくの背中を、優しく撫でて落ち着かせる。その目は、かつて焼き付くほどに目にしていた、あの時のままの思い出を見ていた。しずくはそんななみの表情を見上げて、にっこりと笑い、問いかけた。

「……どう? なみ、ちゃん……?」
「……変わんない。変わんないね、景色も、においも……何もかも……」

 しずくは体を起こし、なみの隣に並んで立って、辺りを見回した。なみは彼女の背中に触れた手をそのままにして、しずくという存在を確かめ続けた。

「……うん。ほんとに……まるで、その……ここだけ時間が、止まってるみたい」
「……ええ、本当に……」
「なんでかな。なんで、そう思うんだろう……寒いからかな。寒くて、人がいないから、なんにも変わってない気がするのかな……」
「……そう、かもね……でも、私の中ではまだ、本当に……ここであったすべてのことが現実なんだって、飲み込み切れて、ないからなのかも……」

 しずくは、自身の背に置かれたなみの手を取り、その腕をぎゅっと胸に抱きしめる。なみの腕を抱き、彼女の体にぴったりとくっついて、上目遣いになみを見上げた。

「ふぅん、そう……例えば?」

 しずくのその言葉に、なみはふっと、しずくを見て笑った。

「……しずくに、出会えたこと、とか……」

 しずくは、その眼差しと言葉に、ふわっと笑みを投げ返した。
 二人は数瞬見つめ合い、沈黙した。

「……私に、出会えて……よかった……?」

 しずくは、なみの肩に頭を擦りつけ、呟くようになみに訊ねた。

「ええ……出会えなかった世界が、想像できないくらいに……ね」

 なみは、しずくの髪をそっと撫でるように囁き返した。しずくは、なみの胸に頭をくっつけたまま、微動だにしない。

「……えへ……」
「……うん? どうかしたの、しずく?」
「……え、えへ、えへへへ……ううん、なんでも。なんでもないよ。大丈夫……」

 しずくは俯き、その表情を隠すようにそっぽを向いて、鼻を啜った。しばらく静かに俯いた後、しずくは再び鼻をすすって、空を仰ぎ見た。かぶりを振って、にっこりと笑い、しずくはなみに振り返った。

「……私も、なみちゃんに会えて、よかった!」

 しずくはなみを、飛びつくように抱きしめた。顔を彼女の胸に飛び込ませ、彼女のお腹をぎゅっと、包んで。

「……よかった」
「……なみちゃん、大好き!」

 しずくはなみの胸に顔をうずめたまま、籠った声で叫ぶのだった。

「ええ、私も。大好きだよ、しずく」

 なみもまた、しずくの愛しい頭をなでながら、優しく熱い、本心を返すのだった。
 しずくは顔をあげ、二っと笑う。その腕を、なみの首にギュッと回して、しずくはなみにキスをした。
 不意打ちに、目を丸くしながら、なみはそのキスを受け入れた。腰を曲げ、背伸びした彼女の唇に高さを合わせて、優しく触れるように。

「……えへへ、じゃあ、そろそろ……」
「……うん、いこっか」

 しずくは手を放し、再びなみと手を繋いだ。

「では、いざ……私のバ先、喫茶店街へ……!」

 先ほどまでの湿っぽい空気はいずこやら、しずくはとぼけた拍子で、再びなみの手を引くのだった。
 なみはそんなしずくの背中に、ぽわっと胸が暖かくなった。頑張り屋さんで、本当は誰より繊細で敏感なくせに、心配かけまいと張り切り過ぎちゃう健気な彼女。そんな彼女が、今は自分ただ一人を幸せにするために、快活な彼女をしてくれてるんだ。
 こんなに愛しい、可愛い、彼女が。

「んっふふ、ええ、れっつごー……! だね?」

 振り返り、ニコッと笑って、恋人つなぎを硬くするしずく。
 そうだ。しずくは、私の彼女なんだ。そして、私はそんな彼女の、彼女で良いんだ。
 なみは、しずくの手をぎゅっと握り返した。握り返して、跳ねるようにして、歩を進めた。
 彼女に置いて行かれないように。過ぎて行く時間に、置き去りにされないように。



 時刻は十時の手前頃。二人は小さなベルの揺れるドアを押し、真空管ラジオの割れたジャズの響くカフェに入った。緩慢と回る換気扇と、昼前にしては暗すぎる白熱電球の照明たち。
 そこはしずくのバイト先のカフェであった。

「んちわー!」

 しずくは、頭のさっぱりとした壮齢の男性に手を振り、控えめな大声で挨拶をした。その男性は、目尻にしわを寄せ、ぺこりと会釈をして笑う。細く小さい目をいっぱいに丸くして、男性は二人を交互に指さした。しずくはそれに、照れくさそうに頭を掻く。

「えへへぇ……はい、彼女でーす」

 しずくはなみの腕を抱き寄せて、口角をあげてくっついて見せた。なみはびっくりしてピョンと跳ね、男性はそれに優しく微笑んだ。
 男性の視線が自分に向いているのに気が付いて、なみは真っ赤になって、口をパクパクした。

「あ、え、あ……は、はい、彼女……です……」

 しずくは満足げな表情で、なみの手を引き、カフェの奥の方へと歩き出す。なみは熱暴走を起こした思考のまま、男性の傍を通り抜け、しずくに導かれるままに個室スペースへと足を踏み入れた。
 長椅子、四人席のテーブルに、隣り合うように二人は座る。いつも以上にべったりとくっつくしずくに、なみはどぎまぎとしながら訊ねるのだった。

「ねえ、もしかして……あの人がココの、店長さん……?」
「うん、そ。お昼は店長、夜はバーのマスターだよ。私はお昼でもマスターって呼んでるけど。……思ってたより、静かな人でしょ?」
「うん……そう、だね……」

 慣れた手つきで、毛羽立った布カバーの電子メニューを手に取り、スイスイと遅めのモーニングを選ぶしずく。自身の胸に頭を預けた彼女を、なみは抱きかかえるように支えた。よく知る場所であるといえ、バ先でこんなにくつろげるんだ、しずくは。よほどあの店長が優しい……甘い人なんだと見えた。

「基本はマスター一人で回してんだよね、このお店。バイトも私が第一号だったらしいし、私が休みの日も、割と一人でなんとかなってるっぽいし」
「ふぅん……じゃあなんでバイトなんか雇ってるんだろ。やっぱり休日とかは混むのかな」
「ううん? 全然、閑古鳥。いま入ってきたときも、お客さん全然いなかったでしょ? ……じつはマスター、実はどっかの社長でさ、しぬほどお金持ちっぽくてね。ココはその税金対策だったり、あと単純にヒマつぶしでやってるっぽくて……だから、単純に寂しすぎるから人を呼んだってかんじじゃないかな。マスター、独身だし」

 しずくは語らいながらも、タブレットにパンケーキの注文画面を映して、なみに見せた。なみはコクコクと頷き、追加で甘さ控えめのミルクティーをポチポチと加えた。そのサイズはLの、氷は抜きでたっぷりの量。それを、一人一杯である。

「へえぇ……リアルに居るんだ、そういう人。にしては相当、若く見えたけど……」
「ああ、別にファイアしたって意味じゃなくて、趣味としてやってるってこと。だから、木曜と日曜しかやってないよ」
「んー、なるほどね。余計に遠い存在だなあ……そういえば、やけにお店の中にお客さんいないのも、そういうのが理由なのかな」
「うん、たぶん。それとあとは、両隣がゴリゴリのチェーン店だからじゃない? 喫茶店街自体がさ、客層の大半が高校生とかだから。チェーンのほうが、むしろ気楽に溜まりやすくて、流れてくんじゃない?」
「ふぅん……私はこういう雰囲気のお店のが、好きだけどなあ……」

 しずくは鼻を鳴らして、ウンウンと深くうなずいた。

「マスターも、不器用だけど、良い人だよ。パンケーキ焼くの、すっごい上手だし」

 二人はベッドの上に座っているような体勢で、くっつきながら駄弁る。もうすでに半壊したしずくの髪型がこれ以上崩れるのを気にして、なみは彼女の頭の代わりに、こぢんまりした腰の周りを優しく撫でた。
 しずくはその手の感触に、そわそわと腰をよじらせた。


 ……しばらくして、例のマスターが二人のテーブルにパンケーキ 1 皿と、ミルクティー 2 杯を持ってやってきた。
 いちゃついた姿勢でくっついていた二人は、マスターの来訪に慌てて姿勢を正し、誤魔化すように何度も会釈をした。マスターは聞こえるか聞こえないかという声で、ごゆっくり、とだけ言い残し、表へと戻っていった。
 再び二人っきりになったしずくとなみは、照れ照れとして、はにかみ合った。
 なみは視線を、パンケーキに移す。

「わあ……たしかにこれは、上手だね」

 焦げ一つなく、絵に描いたような薄めのパンケーキが二枚、クリームとホイップを抱えて佇んでいる。

「でしょー? 私、ココのパンケーキ、好きなんだ。柔らかくって、でもパサつかなくってさ。食べやすいんだよ。それに見たかんじほどは甘くないから、賄い代わりにもらったりもしてる」
「へえぇ、いいなあ……」

 なみはフォークとナイフを手に取って、パンケーキを切り、フォークに取る。しずくにちらっと目を移し、彼女のコクっという促しのままに、一口にそれを頬張った。ふっと息を吐き、目を細め、つづけざまにもう一切れを切り分ける。

「はい、しずく、あーん……」
「えへ、あーん……!」

 しずくはぱくっと飛びつくように頬張り、んん~っと頬鼓を打った。

「……改めて味わってみると、やっぱおいし~……」
「ね。本体は甘すぎなくて、シロップとかで甘さを補ってるから、メリハリがあって疲れないと言うか……」

 なみはさらに一口口に含み、くたびれたコースターに置かれた二杯のミルクティーに、細いストローをそれぞれ挿した。じゅっと吸い、口の中のパンケーキを流す。テキパキとパンケーキを切ってはフォークに取り、自身と、二の腕に甘えるしずくの口に放り込んだ。
 もくもくと食べ進める、なみ。なみは、食べながらしゃべるのが苦手なタイプだった。そしてそれは、一緒に暮らすしずくが一番知っている。だから、彼女が口の中をいっぱいにしている間、しずくはボディーランゲージでベタベタに甘えて、その表情を静かに見上げているのだった。
 たまに「あー」とパンケーキをせがんでは、彼女の柔らかい体の上でまったりと流れる時間に浸る。そういう風に、しずくはなみとのデートというのを、独り占めにするのだった。
 なみもまた、たまに手を止めては、もぐもぐしながらしずくの髪を撫でおろした。膝の上にもたれる、小動物みたいな彼女の笑顔。もちもちとしたその感触を、壊さないように優しく愛でるのだった。
 言葉は、そんなに、必要なかった。そばにいるだけで、きっと同じ気持ちだから。それが、どうしようもなく嬉しかった。

 生ぬるく、時間は二人を包んで流れ続けた。
 しずくは、彼女のアオリ角度の横顔越しに、天井近くにかけられた丸い時計の針を見た。

「……もうすぐ、11時かぁ……ほんと、あっという間だね。幸せな、時間って……」
「うん……そうらね……」

 なみはいっぱいにした口を手で押さえ、ぽそぽそとしゃべった。よほどパンケーキが彼女の口に合ったのか、頬を膨らませたなみの姿に、しずくはなぜだか鼻高々な気分になるのだった。
 しずくはにっこりと笑って、自分のグラスを取り、ストローを吸った。結構頑張って吸ったにもかかわらず、その水面は期待の半分も下がらなかった。しずくは甘くゆっくりと流れる時間の中で、こっそりと膀胱への不安を浮かばせた。そうだった、このカフェ、グラスがすっごいデカいんだった……!

 なみははじめ、ストローでちまちまとミルクティーを吸い込んでいたが、結局邪魔くさくなって直接フチから飲み始めた。飲む量が多いからと言うのもあるが、どちらかと言うと、しずくと早くしゃべりたくて仕方がなかったから。お皿の上と口の中を空っぽにして、なみはふぅっと一息つく。

「……ん、しずく、どうする? このまま、ここでランチも食べていく?」
「えー? うーん、そーだなぁ……まだちょっと、早くない?」

 小首を傾げたしずくに、なみは耳元に顔を近づける。

「……ココ、お客さん、少ないんでしょ?」
「え? う、うん……」
「ゆっくり、しようよ。お茶とか飲みながら、ゆっくり、さ」

 なみはそう言って、しずくの腰をぐっと自分にくっ付けるように抱き寄せる。しずくのグラスを彼女に手渡し、自身のグラスもまた手に取った。ふっと笑いかけ、ストローを吸う。しずくもまた、それに倣ってミルクティーを飲んだ。なみの手は、腰から横腹、鼠径部のあたりをそっと撫でる。その手に、しずくの意識は自然とお腹の下の方へと傾けられるのだった。



「マスター、ごちそうさまでしたー」
「ごちそうさまでした」

 振り返り、手を振るしずくと、会釈するなみ。カフェの重い扉に手をかけた二人に、カフェの店長は静かに小さなお辞儀を返した。
 ベルが鳴り、冷たい風が、温い店内に温まった二人の体に絡みつく。その寒に震えないように、もちもちとした小さい手で、しずくはなみの手を取った。

「ふうぅ、食べたねえ」
「うん、もう腹八分目ってかんじだよ」

 時計の針は、十二時半。あれからも、来客はなく、二人だけの時間を過ごした。遅いモーニングのパンケーキと、早めのランチのスパゲッティ。なみの注文のままに、二人はそれぞれ二杯ずつの紅茶と、お冷を数杯お腹に入れた。
 しずくは足を踏み出した街道の冷たさに、その水分がまさに今、お腹の下の方へと落ちて行っているのを感じるのだった。

「じゃあ……どうしよっか、しずく。どっか、おすすめの場所とかある?」
「うん、勿論! この日のために、バイトのあとに歩きまくって、いい店探してたんだから」

 繋いだ手を、しずくはそっと引っ張り、先導する。その指に、手のひらに、なみは柔らかく目を細めた。

「そう……ありがと、しずく。うれしいよ」
「えへへぇ、任してよ。あの頃にはなかった良い店、連れてってあげる!」
「んっふふ、新しいお店? どんなの?」
「……着いてからの、お楽しみ、だよ!」

 吐く息が白く曇るほどの、鼻腔の奥にチクチクとさえ感じるほどに渇いた、冷たい空気。柔らかく注ぐ日の光さえもが、道端の窓や看板に淡くひっそりとした色合いを反射させている。
 タイル張りの街道には、高校の制服を身にまとい、並んで歩いたあの頃と同じ匂いの風が吹いていた。見回す店構えや看板は、半分くらいが昔のまんまで、残り半分は、真新しいピカピカのチェーン店とか、若い店。あずかり知らぬところで回るこの街の目まぐるしい新陳代謝が、指の隙間から零れ落ちていった時間の存在を、心の奥底により深く刻み込むのだった。
 落ちた枯れ葉が、奥まった路地や看板の隙間に渦を巻き、かさかさとなった。二人はその音を、閑々とした眼差しで見下ろしながら歩くのだった。

「……冬、だね」
「……うん」

 繋いだ手が、それでも冷たくなっていた。しずくはそれを、短いコートのポケットに突っ込んで、なみの指に絡みついた冷たさを解くのだった。なみは引っ張り寄せられた手に従うように、しずくの隣を歩む距離を、ぐっと近づけて、くっついた。
 長いスカートの、それでも膝は、寒かった。鼻先が冷たくなって、水っぽくなる。なみはそれを内袖に拭っては、おなじく鼻と耳を赤くするしずくの相貌を、そっと見下ろし見つめるのだった。
 丸い輪郭に、赤い頬と、こごえた肌。それは彼女の幼さとも形容すべき可憐さを、いつも以上に強調しているように感じられた。体温を分け合うように、なみはしずくに体をくっつけ、ゆっくりと歩いた。

 しずくは、春が好きだった。暖かくって、いっぱいおでかけできるから。なみは、冬が好きだった。いつも以上に、彼女に沢山、近づけるから。いくじなしな自分でも、エッチなことしてないシラフのときでも、冬にだけは、寒さを言い訳に彼女にたくさん、触れられるから。

 ……やがて、珈琲豆を炒る香り、甘い生地の焼ける匂いが、二人の鼻孔をくすぐった。
 しずくは目を細め、確かに目的地の目印である、チョークで書かれた立て黒板を見つけた。

「あった、あそこあそこ!」

 しずくはなみににこっと笑って、ぴょんぴょんと跳ねるように足を速めた。黒板の“MENU”の文字の下には、チョークの色で最大限に鮮やかに描かれたドーナツのイラストと、コーヒーカップが見て取れた。

「へえぇ、ドーナツ屋さん……いいじゃん、好きな雰囲気だなあ……」

 木組みらしさを漂わせる外装、手書きのメニューや洋灯のぬくもり。

「えっへへぇ、なみちゃんこういう雰囲気、好きだと思ってたんだよねえ。それにここのコーヒー、結構おいしいって噂だよ」

 しずくはにへっと笑い、看板に書かれたコーヒーカップのイラストを指さす。

「ん? しずくは飲んだことあるの?」
「……ナイデス……」
「だよねー……」

 しずくは口をへにゃっとして、肩をすくめた。
 苦いのが、苦手なのだ。だから、しずくはいつもなみの嗜むコーヒーの香りだけを、彼女の隣で味わうのだった。それがしずくにとってのコーヒーというものだった。
 それでもしずくは、デートの場所に珈琲屋さんを選んでくれた。なみは、それが好きだったから。それが、なみにはとても嬉しかった。

「……ありがと」
「え?」
「……ううん、なんでも。寒いし、入ろ?」
「……うん!」

 なみは目線にドアを指し示して、しずくの冷たい手を引いた。しずくはなみにぶら下がるように、彼女の腕にぴったりとくっついて、一緒にドアを開くのだった。
 チリンチリンと、軽やかなベルが鳴る。若いバイトの店員さんの、いらっしゃいませー! が、聞こえてきた。二人は明るくせわしないその空間に、なんだかいつも以上に若々しくなった心持ちで、えいっと一緒に飛び込むのだった。

 ガラスケースに並んだドーナツの色彩が、響き渡る高校生や家族の生きた会話の音が、二人の心を躍らせた。
 二人はその甘くにぎやかな空間に、いつしか“可愛い二人”になっていた。昔を思って、目を伏したままじゃもったいない。人の流れに抗わぬように、二人はケースをなぞる注文の列の一番お尻に混じるのだった。誰にも気づかれないように、しずくはなみの指に指を、絡ませた。その表情を見上げてそっと、小首を傾げた。

「ね……! いいお店でしょ……!」
「……うん、最高……!」

 なみはしずくの顔に角度を合わせるように首を傾け、微笑みを返した。
 こもって響く、エスプレッソマシンの熱い水滴。炒られた豆の、砕かれる音。一歩一歩と前に進む度、それはゆっくり心地よく、二人を包み込んでいった。
 悴んだ指で拾い上げたトレーを胸に抱えながら、二人はメニューを眺めて、笑い合うのだった。



 腕時計の針は、もうすぐ三時を指し示す。ドーナツ屋さんに入ってから、かれこれ 2 時間ほどが、経ったらしい。
 あんなに溢れかえっていたお客さんは数を減らして、一つ飛ばしのテーブルに、まちまちのグループが静かな談笑を奏でている。店内の BGM は控えめに、流行りの曲のピアノアレンジが、合板机に共鳴するように温く、垂れ流されていた。

「……しずく、お腹いっぱい?」
「……うん、もう、入らない……」

 向かい合う形で座った丸い板張りの机に、しずくの半分食べた、オールドファッションが鎮座する。その隣には、半分まで飲まれた、ホットの甘くないレモンティー。なみを見つめるしずくはなんだか、そわそわと肩を揺らしている。

「パスタの後じゃ、大きかったかもね」
「うん……ここのドーナツ、おっきすぎ。ほんと、学生の味方ーって、かんじだよね……」

 目を逸らし、店内をきょろきょろと見渡しては、なみに視線を戻すしずく。そんなしずくの落ち着かない様子を、なみは小さなコーヒーカップを口元に添えて、目を細くして眺めるのだった。
 小さい子みたいだ。落ち着かなくって、体を揺らして、唇にたまに力をこめたり。無意識にそれをしてしまわないために机の上に置いた両手の、指をいじいいじと動かし続けたり。

「雰囲気もいいよねー、こんなお店が駅の近くにあったら、そりゃあ高校生はいっぱい来るよね」
「……うん……」

 床に視線を落としたまま、しずくはコクっと頷いた。肩を縮めて、両手の指をすりすりとせわしなく動かす。たまに残ったレモンティーに手を伸ばしては、その縁を口に当てる前に、机に置き直してしまう。
 いじらしくって、しかたがない。そんなしずくに、なみはどうしようもなく、悪戯心が湧くのだった。ずっと、見つめていたかった。彼女のこういう姿もまた、なみは心の底から、好きだった。

 ぎゅっとつぐんだ唇を開いて、しずくは横目にちらっと、なみの目を見上げた。

「……あ、あの……なみ、ちゃん……?」
「うん? どうしたの?」

 嬉しさをまったく隠さないままの、なみの声色。カップの中身をスッと空にして、なみはしずくに目線の高さを合わせるように、首を傾げた。
 しずくは小さく開いた唇を改めて舌で湿らせて、言いづらそうに、呟いた。

「そ、その……そろそろ、帰らない?」

 小動物のように、丸い瞳で、なみを見つめる。上目遣いと、これは無意識の、縮めた肩。おねだりをするしずくになみは、しかし静かに微笑んで、細めた眼で見つめ返すのだった。
 テーブルの上に置かれたしずくの手。なみはその手をそっと持ち上げて、紅茶の残ったグラスを優しく、握らせる。もの言いたげなしずくの瞳に、なみは視線で、それを飲むよう促した。それにしずくは、抗うことはできなかった。
 両手で、グラスを包むように持つ。そのままゆっくり、お腹の中に温くほろ甘いそれを流し込んだ。お腹の中の、一番下で、ちゃぽちゃぽとそれが、主張する。太ももに勝手に、きゅっと力がこもるのだった。
 なみはしずくが紅茶を飲み干すその隙に、彼女の残したドーナツの欠片を綺麗に食べて、テーブルティッシュで指を掃除した。自身の食べたドーナツの紙と、しずくのそれを重ねて丸めて、結んでまとめる。それをテーブルの真ん中において、なみは椅子から立ち上がった。
 ふうっと息をついたしずくは、隣に歩み寄った彼女の差し出した手に、手を乗せて立ち上がった。なみは彼女の手を引いて、そそくさと店内のトイレへと向かうのだった。



 ドーナツ屋さんの多目的トイレに、二人は入った。扉の鍵を閉めるや否や、しずくは壁の手すりに手をついて、小さく足踏みをしながら腰をくねらせた。

「ね、ねえ……出そう、だよ……」
「うん、明らかに、そうっぽいね」

 上目遣いに声を震わせるしずくに、なみはわざとそっけなく、なんでもないように言葉を返した。しずくに歩み寄り、ふとももにぎゅっと握った手をよけて、なみはしずくのニットをぺらっとめくった。
 そこにあったのは、タイマー付きの南京錠。その画面には残り二時間弱の表示があった。あと二時間足らず、しずくはパンツを、脱ぐことはできない。それは、腕時計の時刻と朝のトイレを照らし合わせれば、見るまでもない事実であった。しかしその事実に、なみは思わず、ダメな心を躍らせるのだった。

「……ほんとに、したい?」
「……うん、ほんとに……」
「うぅん……でもしずく、まだ、三時だよ?」
「……で、でも、その……おしっこ……」

 しずくは見つめられたままの下腹部と腰回りに、無意識に神経を傾けてしまう。立ったまま、そしてじっとしたままのこの体勢で、しずくは膀胱におしっこが注がれていくのを感じた。
 膝を内股に、すりすりと擦る。手すりに体重を出来るだけ逃がして、膀胱に掛かる重さを少しでも減らす。それが、今のしずくにできる、精一杯だった。

「……ねえ、しずく。ちょっと、壁に背中、つけてくれない? 手すりに手、置いててもいいからさ」
「……はい」

 しずくはなみのその言葉に、下腹部の下から上に、キュンキュンと嫌な予感を走らせた。言われたままに、腰を肩とを壁にくっ付けて、手すりになるべく、重さを逃がした体勢をとる。なみはその細い体を壁に追いやるようにして、彼女の前にしゃがみこんだ。

「しずく、お股に力、しっかり入れてね。息は止めないで、脚はぎゅっと、閉じててね」

 なみはそう言うと、しずくのお腹をシャツの上から、両手でそっと押し込んだ。

「……っあぁ……! も、もれるぅっ……!」

 両手の人差し指と中指で、膀胱の真ん中を、ぐっと押し込んでいく。その指は、しずくの膀胱に、わずか 0.5 関節ぶんだけ沈み込んで、止まってしまった。その指を、なみは数回上下に揺らして、パッと放した。

「……偉いよ、しずく。おちびりもしてない。ほんとに偉いよ」
「んっ……ううぅ、ほんとに、でちゃう……」

 なみはしずくの背中を抱き寄せて、彼女の頭を優しく撫ぜた。しずくは背中を丸めて、なみの胸に額を預ける。その手は、なみの背中をそっと抱き寄せて、自分の股に行かないようにきゅっと指と指とを握っている。

「うんうん……でも、押し込んでみて、まだちょっと凹んだよ? ってことは、もうちょっとだけ、我慢できるよね……?」
「……んうぅ……」
「……まだ、がんばれる? しずく、がんばってくれる……?」
「……うん、がんば、る……」

 しずくは呻くように、なみの胸に顔をうずめながら、答える。

「タイマー鳴るまで、出さないでくれる?」
「……出さない、出さない……です……」

 なみは、しずくの頭をよしよしと撫でた。
 残り時間も、伝えてないのに。漠然と、ただまだまだ先であるというだけのタイムリミットで、しかし彼女は我慢を宣言してくれている。ああ、なんていじらしくって、可愛いんだろう。
 なみはしずくのお腹をそっとシャツ越しに触れて、確かに丸く膨らんだその膀胱を、確かめた。彼女の小さな吐息が漏れて、それにすらなみは、悪戯心を燃やすのであった。

 扉を開き、トイレを出る。しずくのおしっこは、パンパンのまま。前かがみになみの腕に引っ付くように、しずくはトコトコと小さな歩みを進めるのだった。
 ドーナツ屋さんから出た二人をまた、冬の冷たさが包むのだった。寒さがしずくの膀胱を、きゅうっと締め上げるのだった。
 しずくは股の前側全体を持ち上げるように、力を込め続けるのに神経を傾けながら、なみに手を引かれ歩くのだった。



 喫茶店街を、二人は歩いた。
 脚に心地いい石畳と、白くさえ見える硬い風。なみはそんな情景を、しずくのふんわりとした体重を手に支えながら吸い込んだ。こんな時間が、こんな景色が、このままずっと続いてほしいと切に思った。しずくの小さくなった歩幅にあわせて、なみはゆっくりと、しずくの浅く早くなる吐息と景色を楽しむのだった。
 しずくは、前傾姿勢で、両手でなみの手を握った。心の中で謝りながら、彼女の差し出す長い手に、どうにか体の重さを逃がし続ける。早く、早く、帰りたくて仕方がない。それかせめて、早く出して、彼女との時間をもっと心から味わいたいと思った。

 もっと自分が我慢できたなら、彼女のように涼しい顔をして、この街の小麦色に輝く暖かみを胸いっぱいに吸い込めたのに。しずくは、とにかく、寒かった。そして何より、出したいということで、頭の中がいっぱいだった。出口の引っ張り上げるその筋肉を一瞬でも油断させると、たちまちピリッと警告のような痺れが走った。そのたびしずくは、一瞬だけ立ち止まっては、だんだんと疲れてきた股の力を入れ直すのだった。
 平謝りをして、またしずくはなみについて行く。あと、どれだけ我慢すれば、出せるんだろう。その思考すらもどこか尿意を誘う気がして、しずくはただなみの足取りに従うことだけ、考えるのだった。膀胱の感覚をどうにか忘れながら、しかしお股にだけ、ぐうっと力を入れ続けるのだった。

「……ねえ、しずく?」
「……うん?」
「……寒いね」
「……う、うん……」

 なみは足を出すのをほんの少しだけゆっくりにして、しずくに振り返る。自身の腕にぎゅっと掴まるしずくの姿に、なみは何度でも、心奪われるのだった。
 しずくの前髪を、そっと除けて、彼女の表情を覗き見る。きゅっと結んだ唇と、ハの字に寄せた幼い眉。前かがみの姿勢で自然と上目遣いになった眼差しで、しずくはなみを見つめ返した。

 立ち止まったのは、喫茶店街に隣り合う、けっこう広めの市民公園の入り口だった。なみはしずくの手を引いて、その入ってすぐにある、プラスチックのひんやりとしたベンチの上に彼女を座らせた。金属の手すりの付いた、何のクッションもない、隙間の空いた硬いベンチ。しずくはズボンを貫通して突き刺さってくるその冷たさに、脚をぎゅっと閉じ、体をひねってなみを見上げた。

「……あったかいもの、買ってきてあげる。ちょっとの間だけ、ここで待ってて?」
「え……わ、私も、行くよ……?」
「んっふふ、ありがと……でも、今のしずくじゃ、そんなに早く歩けないでしょ? 大丈夫、ぜんぜん 5 分も、かかんないからさ」
「う、うん……わかった、待ってる……」

 しずくはベンチの端っこに小さくなって、膝の上に握った手を置き、小さくコクリと頷いた。なみはそんな彼女の頭を、ふふっと笑って、優しく撫でた。
 すっと背筋を伸ばし、喫茶店街の薄まりつつある人ごみに、なみはスタスタと溶けてしまった。公園の柵代わりにある木々の隙間から見えたその背中に、しずくは孤独と寒さを実感するのだった。

 ……ひとりになっちゃった。
 寒い、開けた公園で。人気のないのが、かえってどこかから見られてるんじゃないかという感覚を呼び起こした。どうにもそれがこそばゆくて、満足に我慢の姿勢もとれないまま、バレないように小さくお尻をベンチにこすった。冷たい手すりに肘をついて、寝そべるくらいに体を傾け、お腹に掛かる体重を逃がした。
 膀胱の中に静かにたたずむ存在感が、どうしても姿勢を決めてしまう。ピリピリとしてきた凍えるお腹の伸ばされた皮膚を、しずくは無意識にニットの上からさするのだった。静かな公園の、静かな風。遠く聞こえる賑やかな笑い声。この街の、ほんの少しだけ隠れたところで、静謐だけが流れている。

 立ち並ぶ木に曲げられて、渦を巻く風に落ち葉が鳴った。
 かさかさと、渇いた音。くすぐるような、これが最後の秋の色だった。白く微かに青色を見せる淡い空は、もうまぎれもなく冬だった。冬の揺らめく北風に、しずくはひとり、凍えるのだった。
 ああ、あの入り組んだ木々の隙間に、出してしまいたい。落ち葉がきっと、すぐにも隠してくれるだろう。あるいはどこか、この公園にだって、トイレはあるはずだ。出したい。しかし、動けない。体の真ん中に鎮座する確かな丸い異物感に、無闇矢鱈と立ち上がる気はもう、起こらなかった。

 待っているだけでいい。こうしてじっと動かない限りは、まだ少しだけ、耐えられるはずだ。いままでだって、もっと限界まで、我慢してきたし。指の一本動かすのだって億劫な我慢を、何度だってやってきた。
 だから、我慢できる。
 ううん、まだまだ、余裕だよ。
 余裕、余裕……。

「……おまたせー」
「っわ!」

 浅く目を瞑り、かぶりを振るしずくにはもう、世界がベンチ一つしか見えていなかった。不意に後ろから聞こえた声に、しずくはぴょんと振り返り、そのはずみにほんのわずかに尿道に滲むおしっこの感触を覚える。即座に足をぎゅっと閉じ、しずくは全力でそれを、食い止めた。
 なみが居た。両手に大きな紙コップを携え、その片方を、しずくに差し出す。しずくは一瞬躊躇を見せたが、すぐにふっと笑って、それを受け取った。
 ホットのタピオカミルクティー。厚手の紙コップに、プラスチックの蓋とストロー。悴んだ手に、それは痛いくらいに染み入るのだった。そして同時に、その手に感じたカップの存在感は、想像していたよりももう一回り、重く大きいものだった。

「ごめん、しずく、びっくりさせちゃった?」
「……ううん、全然……ありがとう……」

 なみはしずくの隣に、ぴったりとくっついて座った。しずくは手すりに預けていた体を反対側に傾けて、今度はなみにもたれかかる。その柔らかさと体温が、芯まで冷えたしずくを抱きしめるように包むのだった。
 なみの飲むのを追いかけるように、しずくは両手で抱えたその紅茶を飲んだ。一緒に入ってくる、もちょもちょとしたタピオカを噛む。あったかいミルクティーの出来立ての温度が、しずくの体を内側から広げ、温めるようだった。
 なみに、ぴったり体をくっつける。そうしているだけで、しずくはどこか暖かくて、安らぐような気持ちになった。彼女の手を取り、自身のコートのポケットに入れて、指の冷たさを分かち合う。少なくとも、こうしている間だけは、彼女は自分のことを考えてくれている。それがしずくには、他の何よりも安らぎだった。
 こうして彼女の存在を強く感じていればいるほど、なぜだか膀胱も、ほんのちょっとだけ軽くなるように感じるのだった。……ただしそれは、ほんのわずかに、ちょっとだけ。

 なみはスイスイと、太いストローを明滅させて、カップの中身を減らしていった。しずくもまた、それを必死に追いかけるように、飲み続けた。吸い込む度に、ふんふんと鼻を鳴らして、腰をよじらせる。一口飲む度に、体の中でそれのある位置が、持ちあがるような錯覚を覚えた。

「温まるねぇ……ねえ、しずく?」
「うん……」
 
 しずくには、正直それどころではなかった。膀胱が苦しい。本音を言うなら、飲みたくはない。が、これのほかに、しかし暖の取りようもないのだった。
 くっついてないと、耐えられない。なぜか、そういう気がしたのだった。
 おしっこがしたい。本当に、したくて仕方がないくらい。
 でも、こうやってくっつきあって、ゆっくりとした時間を過ごす。そんな今という瞬間は、たしかに終わってほしくはなかった。幸せだった。こんな、時間が。
 ずっともじもじ、しずくはなみに体を擦った。腰をよじらせ、ベンチの座面にお尻をなんども置き直しながら、必死になってコップの中身を啜るのだった。
 冷たい風が、二人の脚の隙間を縫った。震える太ももを、二人はくっつけ合って、温め合った。

 なみの吸い込むストローが、ガラガラという空回りを鳴らした。蓋を取り中身に何も残ってないのを確認すると、なみは指先でしずくのカップをひょいっと持ち上げてみた。まだ、半分くらい、残っている。
 ぼーっとした、自分の中だけの時間を過ごしていたしずくは、その指先にやっと状況を把握した。あわててズズズとストローを吸うしずくの頭をそっと撫でながら、なみは冷えてきた脚を組み直す。

「……ねえ、しずく?」
「……う、うん……」

 ミルクティーを飲むのと、我慢するのに必死になりすぎて、なみの言葉にいくらか反応が遅れた。しずくはどんどん激しくなっていくそわそわを、もはや隠さなくなってきている。上目遣いで、なみを見上げる。ストローを咥えて、減っているのかも見えづらいそれを、ちょみちょみと吸い続けるのだった。

「……そろそろ、駅に向かおっか」
「……ん!? うん!」

 その言葉に、しずくは嬉しそうに目を丸くする。そっと立ち上がるなみの表情を、ちゅうちゅうとストローを吸いながら目で追った。なみはしずくに手を差し出して、彼女の立ち上がるのを手伝った。
 体を持ち上げ一気に膀胱に注ぎ込まれるおしっこの圧迫感も、もうすぐ帰って出せると分かれば、しずくはなぜだかむしろ嬉しいように感じるのだった。そうと決まれば、もたもたとしてはいられない。しずくはふうっと覚悟を決めて、なみの隣を出来るだけ早足に歩くのだった。
 うきうきとした彼女の表情に、なみはいくらか、更なる悪戯心が湧いた。しずくの張り切りが、その歩調から見え透くのだった。ほんのちょっとだけ、焦らしたくなった。こんなに彼女が、急いでるんだから。……その歩みは、なみにはそれでも、まったりとしたスピードであったが。



「電車までちょっと時間あるね……そうだ、ちょっとコンビニ、寄ってっても良い?」
「え? ……う、うん……いいよ……」

 石タイルの上、駅の前。なみはしずくの手を引いて、駅にくっ付いたコンビニの中に足を踏み入れた。自動ドアをくぐるや否や、あふれ出してくる暖気とメロディー、人だかり。その隙間を縫って、なみは飲み物売り場に足を運んだ。
 整然と並ぶ、色とりどりのボトルパッケージ。その棚をがばりと開いて、なみは 500 mLのレモンティーを 2 本、手に取った。

「ふーん……やっぱネットじゃないと、1.5 リットルまでしか売ってないよねー。コンビニだと、なんならこんなかんじで 500 mLまでとかさ」

 なみは平気な顔をして、それを携えレジの列に並ぶ。

「ちょ、ちょっとまって……わ、わたし、もう……のめないよ……?」
「ふふふ、うんうん、分かってるよ。だから今日は、これだけ……」

 不安げなしずくの表情をしっかりと見届けながら、なみはその二つのボトルを、ビニール袋に詰めてもらうのだった。しずくはそれが、何を意味するかはっきりと分かった。顔を青ざめさせ、微かな抵抗と言わんばかりになみの腕を強く抱きしめた。その重さと体温に、かえってなみは、しずくに微笑み返すのだった。
 ごった返した店内を抜けて、少し開けた場所でなみは、腕時計の針をわざとらしく眺めて見せる。

「ちょっと早いけど……そろそろ、帰ろっか?」
「うん……もぅ、むり……」

 飛び出かかったおしっこを股の力でぐっと持ち上げて、しずくは必死にホームをまたがる階段を上り下りした。なみはそんなしずくの丸めた背中を支えながら、彼女の手を取り、エスコートした。
 二人は、電車に乗り込んだ。大きな駅舎にひっそり併設された、ローカル線の、昼とも夕とも言えぬ時間帯。故に幸い、同じ車両には誰も乗客はいなかった。

 なみはしずくが電車のシートで漏らさないように、しっかりと彼女の股を押さえて、そっと揉む。その手に、指にしずくはぴくぴくと肩を震わせながら体を預けた。
 余った手に、なみは器用に片手でレモンティーのボトルのキャップを外して、しずくに手渡した。

「しずく、飲んで……今、全部……」
「っん……んぅ……」

 逃げ場なく、必死に腰をゆすりながら、しずくは口にボトルを付けた。必死の思いで、その冷たい水面を吸い込んでいく。荒い息遣いで、ほんの少しずつ、ちびちびと。
 ガタゴトと揺れる緩慢な周期が、お腹の中身をちゃぷちゃぷと揺らした。そのありもしない水面に、さらなる紅茶を、注ぎ足していく。コク、コク、と少しずつ。飛んでいく景色と揺れるつり革、静かな車内にうるさいくらいのアナウンスが響く。

「もうすぐ、着くよ……」
「っん……っん……」

 しずくは必死に、ボトルの中身を飲み込んでいく。ふん、ふんと息を荒くして、ついにしずくはそれを飲み干した。
 甘ったるい後味と一気に詰め込まれた胃袋の感覚に、しずくはぶるるっと背中を震わす。その震えと力みに、また膀胱が、ぽちゃりと震える感覚がした。

 止まりかかった車体の中で、なみは立ち上がり、つり革を掴んだ。体を丸めたしずくを拾い上げ、ゆっくりゆっくりと、ドアの前に移動した。スライドドアの開くと同時に、二人はそっとホームに降りた。
 なみに手を引かれ、平静を全く装えないまま、しずくは彼女の腕にぶら下がる。二人の体の間で隠しながら、なみはしっかりとしずくの股を押さえ続けた。
 駅舎をつなぐ階段すらも、つらかった。もう、急いで歩く、余裕もない。

「……なみ、ちゃん……帰ったらその、さ……?」
「……うん、わかってる。だから、あとで、ね……?」

 ゆっくりと歩を進めるなみに手を引かれるままに、よたよたと膝を震わせながら、しずくは一歩一歩と足を出す。牛歩の如きスピードで、千鳥足に前に進むしずく。
 冷たい風を互いの体で守り合いながら、二人はゆっくりと、暮らすアパートへと向かうのだった。
 空がわずかに、赤く染まり始めていた。
 夜風のにおいが、吹き抜けた。
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